つれづれ

思いつくままに

ゆりかごの海

2015-12-12 16:59:34 | 
ベタ凪とは、こういう海のことを言うのだろう。
天草上島の南、御所浦島の烏峠(からすとうげ)から見た、不知火海のことである。
不知火海は、このベタ凪のような穏やかな内海から、ゆりかごの海とも表現される。

天草を訪ねる たいがいの旅人は、宇土半島から 天草五橋の天草パールラインを抜け、天草上島北海岸の‘ありあけタコ街道’を通り、下島の西海岸をめぐる。
東シナ海の百万ドルの夕陽が眺められる、天草西海岸サンセットラインだ。
帰路はサザンカロードを利用し、余裕のある旅ならば、本渡(ほんど)から 天草上島の南海岸線(国道266号線)を通るルートだろう。

御所浦島は、この国道沿いにある棚底港からフェリーで半時間足らずのところに位置する。
本渡からもフェリーが出ているが、わざわざフェリーで御所浦島へ渡る旅人は、よほどの旅好きに違いない。

2007年、本渡から御所浦経由水俣行きフェリー・水俣航路が廃止された。
不知火海の向こう、水俣へは、予約制の海上タクシーに頼るしかない。

水俣を震源地とした‘水俣病大人災’は、このゆりかごの海を「死の海」へと変えた。
水俣に日本最大の化学工場を保持していた国策企業チッソが、1932年から1966年までの34年間 ほぼ無処理のまま水俣湾に流し続けた 有機水銀が原因である。

2011年3月に起こった福島第一原子力発電所事故を思うとき、水俣病大人災が どうしても頭から離れない。


水俣病裁判は 一見、壮絶だった。
黒地に白字で太く「怨」と書かれた幟を何本も押したて、同じく「怨」と書かれた菅笠を被り、背中にも「怨」の文字の白法被に身を固めた、原告団の姿。
しかし、報道が伝えるその異様な姿に隠された真実を、当時のわたしは 何一つ理解していなかった。
1969年、水俣病第一次訴訟と言われる訴訟のころ、大学紛争で荒れていた時期である。

1956年の水俣病公式確認から半世紀以上を経た2012年7月末、水俣病特別措置法(2009年成立)における未認定患者の申請が締め切られた。
水俣病問題の、形式上の幕引きである。

1956年から2012年、遅きに失した公式確認と納得のいかない幕引きだとしても、その間、実に56年である。
この半世紀以上に及ぶ葛藤を、十分ではないにしても ほぼ検証された現代日本史の汚点として、重く再考されなければならない。
福島第一原子力発電所事故の行方を見定めるためにも・・・

個人にとって国家とは?、行政に個人はどこまで期待していいのか?、不徳のリーダーが導く大企業のエゴ、そして何よりも、窮地の人の心の醜さと暖かさ。
一体「怨」は、何から発するのか、そして「怨」は、どこへ向かうのか?
これらを、前代未聞の‘人災’水俣病事件から汲み取らなければ・・・


水俣病の真実の一端に触れたのは、雑誌『ライフ』に載っていたユージン・スミスの写真だった。
社会人になってまもなく、羽田から福岡への機中で スチュワーデスさんが渡してくれた雑誌の内の一冊だった。
その ほんとうのおののきを知ったのは、石牟礼道子著『苦海浄土-わが水俣病』を読んでからである。
単行本『苦海浄土・・・』を買ったのは、新居浜の登道商店街にあった明屋書店、と記憶する。


いま、藤崎童士著『のさり-水俣漁師、杉本家の記憶より』(新日本出版社刊)を読み終えた。
杉本家三代の人々の苦悩を、俄か勉強のわたしに理解できようもない。
ただ、想像力を逞しくして、彼らの苦悩に寄り添うしかない。

熊本県水俣市の南端、鹿児島県との県境に、茂道(もどう)という昔ながらの小さな漁師村がある。
杉本雄(たけし)は、息子二人とともに、チリメンやイリコ漁をしながら半農半漁の生活をしている。

雄の妻・栄子は、肝っ玉母ちゃんのような 優しくて頼りになる漁師で、5人の男の子を産んだ。
栄子は、2008年に水俣病で亡くなった。
栄子の母・トシは、茂道における水俣病患者第一号であった。
栄子の父・杉本進も、水俣病に罹って亡くなっている。

進が、生前 うわごとのように繰り返していたという言葉がある。

  病気に罹ってきつか 死んでも死にきれんほど辛か
  いいか、水俣病は<のさり>と思え 人のいじめは海の時化(しけ)と思え
  こん時化は長かねえ だけど人は恨むなぞ 時代ば恨め
  わらは網元になるとじゃっで人を好きになれ そして漁師は木と水を大事にせんばんぞ
  ばってん、人にはしてはならんこつのあっと それは、こげんしたこつぞ
  病んで身を絞るほど辛いかこつば知っとるからこそ、こげんしたこつはしてはならんとぞ
  ・・・
  人をのろうてん、会社(チッソ)の悪口いうてん、なんもならん
  人に騙されてん、人を騙さんごつ・・・

人に騙されても、人を騙すことはするな、と進は言い残した。
人を恨むな、時代を恨め、と。

むかしは家族のように親しかった村の人々に、チッソと闘う杉本家の人々が、虫けらどころか 紙切れ同然に扱われたとき。
怒った栄子の胸中に、亡き父・進が言い残した言葉が去来する。

  悔しかったら、そん人がどげん気持ちで言わすっか目ば離すな 心の中まで見抜け 見通すくらいの人になれ
  そげんすれば生き残らるっぞ
  言われても言われても その人を殺そうとか刺そうとかしとらんとだから、言うたしこ全部自分に返る
  全部その人が言うたしこ持って帰ってもらえ
  それで一丁前の人間ぞ

著者の藤崎氏は、彼ら杉本家の人々が生死の崖っぷちから見出した、救いの境地がある、と言う。
それを、<のさり>と言うのだ、と。

  自分が求めなくても天の恵みを授かった という、熊本の漁師言葉であるが、現在でも、杉本家では大漁不漁という言葉は滅多矢鱈に使わない。
  海に行き、運よく大漁に恵まれれば「のさった」と言う。
  不漁のときには「のさらんかった」と言う。
  そして「明日はもっとのさろう」と己の心を奮い立たせる。
  今日は運よく大漁だとしよう。
  自分たちが大声で大漁と喜んでみせれば、次に不漁をした者が落ち込んでいるかもしれない。
  明日は自分たちが不漁かもしれない。
  本当の不漁の怖さを知っている雄と栄子は、不治の病である水俣病すらも、天から授かった<のさり>と受け入れることで、日々繰り返される痛苦を前向きに捉まえ、憎しみも悲しみも心の底に収めてきたのだ。
  ・・・
  数々の呪縛から解き放たれ、全てを受け入れようと前を向き立ち上がったとき、求めずとも内奥に染みこんでくる微かな響きがある。
  それが、<のさり>だ。
  自分を救いたいと願う心の響きだ。


わたしは想像する。
戦後70年、この日本に住むわれわれは、ことに現在の日本に住むわれわれは、しあわせな国民であった。
それは、この70年間に起こった世界の数知れない不幸を思えば、明白である。
このしあわせは、過去の理不尽な‘ふしあわせ’を礎にしている。
戦争孤児、中国残留孤児、胎児性水俣病患者、イタイイタイ病罹病者、原発事故離散家族・・・
これら、理不尽な‘人災’で ふしあわせを強いられた彼らの、声なき<のさり>を踏み台にして 成り立っている。

「死の海」が「ゆりかごの海」に還ろうとも、このことを、決して忘れてはならない。

新聞投稿記事のやり取りから

2015-12-04 16:11:23 | 
以前「じじいのふきげんを直せば世界平和は訪れる」と題したブログを、このサイトに投稿したことがあります。
13年も前のことです。
今や、「ふきげん」どころじゃぁありません。
じじいの「言葉の暴力」「態度の暴力」としか 言いようがない状態です。

朝日新聞の投稿欄から、転記します。
少し長くなりますが、勘弁ください。

席譲ったのに「ふざけるな」
中学生 三尾 遊彦(東京都 14歳)
「人助けはするほうです」「お年寄りが立っていたら、席を譲ります」というあなた。
僕も同じタイプです。
この間、いつものように席を譲ると、理解を超えた言葉が返ってきたのです。
聞いて下さい。
下校のためバスに乗っていました。
どの席も誰かが座っている状況でした。
そこへバッグを背負ったおじいさんが乗ってきました。
60代ぐらいでした。
「この席、よければ座ってください」と僕は話しかけました。
返答は「ふざけるな」。
え? どういうこと?
「近頃の子は学校のマニュアルのとーりに動かされて悲しいな。
座りたいはずなのにヘコヘコ席を渡してぇ。
嫌々なことぐらい、これくらい年とったら分かるのっ‼」
笑顔で話しかけたのに「嫌々」とは…。
何も言えませんでした。
おじいさんが特別にプライドが高いのか。
他の人もそう思っているけど表に出さなかったのか。
後者だと僕は今まで不幸を振りまいていたことになります。
本音で困惑。
人は難しい。

この記事が載ってから一月ほどして、この投稿をどう思いますか という欄が設けられました。
111通の反響記事があったそうです。
そのうちの4通が、紹介されていました。
その一通を転記します。

ごめんなさいね 恥かしい
パート 小林 トモ子(神奈川県 71歳)
三尾君、ごめんなさいね。
同じ老人として、本当に恥ずかしい。
私も混んだバスで、似た場面に出会いました。
80歳前後の女性が、席を譲った若い女性に「結構です。
絶対に座りません」と断り、気まずい空気が流れました。
まずはお礼を言い、座らない理由を言えばいいのにと思いました。
高齢者に比べ、若い人のさわやかなマナーによく接します。
先生に引率された遠足帰りの小学生と、電車で出会いました。
女の子がすっくと立ち「どうぞ」と言ってくれました。
これなら日本も大丈夫だと思いました。
三尾君、あなたも素晴らしい少年ね。
あのね、老人の10人のうち9人は、あなたの優しさに心を温められたと思いますよ。
たまたま、例外の1人に出会ってしまったのです。
めげないでね。
投稿、ありがとう。

小林トモ子さん、よくぞ投稿してくださいました。
ただ、三尾君を困惑させたおじいさんは、例外ではないのが現実です。

朝 門を履いていますと、西京高校生でしょうか、「おはようございます」とにっこり笑って、箒の邪魔にならないように 避けて通って行きます。
こういう朝は、気持ちのいいものです。
ところが「どけどけ!」と叫びながら、せっかく集めた落ち葉を蹴散らかすように通ってゆく老人がいます。
たいてい、60歳代後半のじいさんです。
同じくらいの年のジジイとして、意見をしてやろうと、何度思ったかしれません。
でも、ダメです。
意見をしてやらにゃぁと思った自分自身も、もうすでに こずらにくいジジイになっていることに気づきました。

気をつけたいものです。
三尾君を悩ませたおじいさんを反面教師として…。