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つれづれ

思いつくままに

てにをは

2011-08-30 14:51:27 | Weblog
山のあなたの空遠く
「幸(さいはひ)」住むと人のいふ。

噫(ああ)、われひとゝ尋(と)めゆきて、
涙さしぐみ、かへりきぬ。
山のあなたになほ遠く
「幸(さいはひ)」住むと人のいふ。


上田敏の訳になる、カール・ブッセの詩です。
中学の国語の教科書で知った、と記憶します。
長いあいだ、忘れていました。

京都市出身の英文学者、厨川白村のことを調べていて、京都帝国大学英文科教授であった白村の前任者、上田敏に行きつき、この詩を思い出しました。

名訳の詩だと思います。
ただ、ぼくがこの訳詩に思いをいたすのは、当時の中学の先生(たしか藤田先生だったと思う)から、助詞の使い方をこの詩で教わったことです。

出だし「山のあなたの空遠く」の「の」、結び「山のあなたになほ遠く」の「に」。
たった一文字で、思いがガラリと変わる。
助詞の意味深さを、教えてもらったのです。


気功太極拳教室に、中国のかたが習いにきてられます。
15年日本に住んでおられ、日本語がとてもお上手です。
日本語を習うとき、いちばん苦労したのは 助詞でした、とおっしゃってました。
助詞をちゃんと使えるようになって、日本語がうまくなったと言ってもらえるようになった、とのことです。

彼女のおっしゃる日本語の「助詞」は、広い意味での「てにをは」、つまり接続助詞や終助詞 さらに助動詞をも含んでいるのでしょう。
日本語の特徴は「てにをは」にある ということを、彼女と話していて 気づきました。

逆に、中国のかたは、どうやって「てにをは」のニュアンスを伝えてられるのか、と不思議です。
こんどお会いしたとき、尋ねてみようと思っています。


もともと「てにをは」は、漢文を訓読みするときの補助として用いられた‘博士家点’のことだそうです。
平安時代、先進国であった中国の漢文を、いかに効率よく且つわかりやすく 日本語に読み解くか、大学寮の博士の職を与えられた 菅原家や清原家の学者たちの、努力のたまものだったのでしょう。

ひらがなやカタカナは、その源を空海の書に見出せるそうです。
文字を持たなかった日本人が、漢字からひらがな・カタカナを生み出し、漢字と「てにをは」をうまく組み合わせて、日本人独自の表現方法を得たのです。


何か、日本語がいとおしく感じられます。
言葉、そしてその表現方法としての文字。
人間の生きる根幹をなす、そう確信します。
言語は、民族の尊厳です。

ある時期、日本は朝鮮半島に進出しました。
そして、最もしてはならないことを、朝鮮半島の人々に強要しました。
言葉を奪ってはならなかった。


外国のかたと日本語で会話をしていて 思うことですが、自分がもっとちゃんと 日本語をしゃべらないといけません。
ことに「てにをは」を正確に言わなきゃ、そう半分恥じながら 思います。

外国のかたと日本語で会話をしていると、日本語の表現力の豊かさを 強く感じます。
そして、ますます日本語が好きになります。

もっと、日本語を大切にしなければ。
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たねやの心

2011-08-29 18:21:36 | Weblog
いま 世は、エネルギー問題で もちきりです。
いいチャンスと思います。
いままで ぼくたちは、あまりにもエネルギーの恩恵に無頓着すぎました。
福島第一原発事故は、代償のおおきなおおきな教材です。
これを無にしたら、それこそ‘日本沈没’です。
いまこそ エネルギーに対して、生活スタイルを含めて 根本から考え直さないといけないときです。

ただ、エネルギー問題が大きくクローズアップされて、もう一つの大きな課題が、置き去りにされている気がします。
考え直さないといけない もうひとつの課題とは、食料問題です。

休耕田を有効利用せよ とか、農業就労者の年齢層を下げる施策を講じよ とか、これまでも言われ続けてきました。
そういう、食料自給率を含め 食料資源的な問題は、もちろん 議論をつくさなければなりません。
ぼくがつねづね考え直さないといけないと感じている食料問題とは、食べものに対する人間としての姿勢です。


近江八幡を拠点として 躍進を続ける菓子舗‘たねや’グループを率いる 山本徳次氏が、ステキな本を著されています。
『たねやの心』(毎日新聞社刊)という単行本です。
山本氏は、和菓子づくりを通じて、近江商人のセンスで、‘食’に真剣勝負を挑んでいます。

この本には、‘食’に関わる仕事に携わるものとして、一人の消費者として、いや いち人間として、膝を打ちたくなること、耳の痛いこと、目指すべき灯り・・・が詰まっています。
山本徳次という人間の、魅力に溢れています。

ぼくが‘食’に関してつねづね感じているのに うまく言い表せないことを、山本氏はこの本の中で、的確に表現されています。
ほんとうに感じ考えた人の言葉は、重みが違います。
‘食’に真剣に取り組んでこられたからこそ、あふれ出る言葉です。

思わず膝を打った言葉を、引用させてもらいます。

(相次いだ食品偽装不祥事件を歎いて・・・)
ズバリ、商売人が正直さを失うてしもうてる。
商いをやっていく過程で、してはならん、というハードルが低くなってしもたんや。
ましてや、人さまの命をあずかっているに等しい食品を扱う商売人が、まあとんでもないことや。
普通なら自責の念で夜も眠れんようなことを臆面もなくやってのけるんやからな。
(中略)
消費者はもう商売人を信じてない。
信じてるのは商品の前にあるポップ(標識)だけや。
○○産とか△△産とかいう表示を信じてるだけや。
それによって商品そのものはある程度信じていても、もはや商売人という「人」を信じてないということや。
これは人と人との対話が ポップひとつで さえぎられているということやないやろか。
淋しい話やな、考えてみると。
それでのうても、生産者と消費者との距離が遠いのに、そこに壁までできてしもうてるんやからな。
食というのは人間が生きていく上で、もっとも重要な要素や。
その最前線でこんなありさまというのは ほんまに淋しいわな。
ということは一歩踏み込んで頭をめぐらせてみると、何やら社会全体が淋しいなっていってるんやないやろか、とさえ思えてくるんや。

(「消費期限」より大切なのは自分の舌で安全を確認する能力、との一文から)
ちょっと横道にそれることになるやもしれんが、シール越しの売り買いでは、まあその食の責任は生産者や加工業者、すなわち売り手ということになる。
それはそれでええとしても、食というのはまず自分の舌を信じるところから始まるんやないかと思うのや。
本来そなわっている人間の感覚的能力やな。
昔は、いや、つい最近まではそういう食の期限もすべて最終的には、消費者である各個人が半ばは判断してたもんや。
戦後まもなくの食料難の時代、ご飯が少しねばっこく、汗くさいというか、関西弁では「いたんでる」と言うていたが、腐り始めたものを一度お湯で洗ってから食べさせられたもんや。
まだこれはお湯で洗えば食べられるという 繊細で微妙な判断をする生理的能力が健在やったということやないやろか。
何かにつけて「食」という最も大切な行為には いつの時代でも多少なりとも危険な要素がつきまとっていたに違いなく、ならばその危険を避ける、あるいは予防する味の感覚がそなわっていたはずや。
安全、安心ということを最近つとに言われるのやが、それはそれで結構なこととしても、こういうことは食べる本人というか、食べる主体が最も気をつけんとあかんことやないかと思うのや。


節電を余儀なくされて初めて エネルギーの無駄遣いに気づくように、ぼくたち現代人は もう一度あの這いずりまわるような飢餓感を経験しないと、飽食の愚を悟れないのかも知れません。
同時に、エネルギー生産者の奢りと怠慢が 福島原発事故を経験しないと ぼくたちに見えてこなかったと同じように、食品偽装不祥事件が発覚して初めて 一部心ない食品製造者の自覚を促せたのかも知れません。

飽食とは、贅沢な食品を摂取することにとどまりません。
その陰で、十分人間の栄養源になる姿のままで、食品がどんどん捨てられているのです。


エネルギー問題と同じく 食料問題は、それを作り出す仕組みを、根本から見直すときが来ました。
同時に ぼくたちの生活そのものも問われていることを、忘れてはなりません。

『たねやの心』を読んで、このことを改めて考えさせられました。
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テレビドラマは脚本次第?

2011-08-26 18:16:36 | Weblog
テレビっ子の嘆きは、最近おもろいドラマが少なくなったこと。
その歎きのテレビっ子が いま、しがみついているテレビドラマが、ふたつ あります。


そのひとつは、NHK総合火曜よる10時からの、向田邦子ドラマ『胡桃の部屋』。

向田さんは、放映されたテレビドラマの脚本を、どんどん捨てちゃったそうです。
山田太一さんは、その逆。
山田さんが惚れこんで、向田さんに「とっとかなきゃいけない」と嘆願したヒット作『寺内貫太郎一家』の脚本も、向田さんは「いいの、私は」と、取り合わなかったといいます。
この話を 文庫本『眠る盃』の解説で読んでいたから、そう感じたのかも知れません。
『胡桃の部屋』の桃子が 向田邦子自身に重なって、ぐいぐいドラマにのめり込んでしまいます。

家出して「死んだものと思ってくれ」と桃子に宣言した父、忠(蟹江敬三)が、母の綾乃(竹下景子)とラブホテルに入ろうとするところを、目撃する桃子。
家内と声を揃えて、「これは あかんわぁ」と、大ブーイング。
「桃子がかわいそうや」
「竹下景子が せめて若いツバメとラブホテル入りなら、まだ許せるのにぃ・・・」
好き勝手な批評が、噴出です。

向田邦子の描く世界は、たしかに一昔前の、古めかしい匂いに満ちています。
ぼくたちより上の世代にしか、理解できない世界かも知れません。
でも きっと、彼女の‘キリリとした色気’は、いまの世に置いても、燦然と輝くことでしょう。
なによりも 向田邦子の作品は、嘘っぽくないのがいい。
それは、どのセリフひとつも、その時々をいきいきと生きた彼女自身が感じ考えたことだから、だと思います。
だから どのセリフも、気持ちが古くならない。
時を超えて共有できるのです。


もうひとつのドラマは、フジ系木曜日よる10時からの、『それでも、生きてゆく』。

ぼくがいま いちばん注目している若手の女優さん、満島ひかりが出演している、という理由もあります。
主役の瑛太はじめ、脇を固める俳優さんたちは、みんな超一流。
ことに、瑛太の母親役を演じる 大竹しのぶの迫力演技に、乾杯です。

脚本は、坂元裕二。
『東京ラブストーリー』以来のファンです。
去年放映された『チェイス〜国税査察官〜』(NHK)で、久々に惚れなおしました。

このドラマ『それでも、生きてゆく』は、扱っている題材がすごく重い。
殺人被害者の家族の気持ちに同化したり、加害者家族の気持ちに寄り添ってみたり、見てる方も苦しくて・・・
でも、苦しいだけじゃなく、ほわぁっと救われる気持ちになれる瞬間があります。
その心洗われる瞬間を見たくて、必死になってテレビにしがみついているのです。

坂元裕二の脚本のなせるわざでしょう。
演出も秀でているに違いありません。
そういえば、このドラマの演出家のひとり 宮本理江子さんは、山田太一さんのお嬢さんなんですね。
やはり、蛙の子は蛙なんやなぁ。


向田邦子、早坂暁、山田太一、倉本聰・・・
夢中になれたテレビドラマを、創り出してくれた脚本家たちに感謝。
そして、岡田惠和、北川悦吏子、井上由美子、坂元裕二・・・
これからも きっと、夢中になれるテレビドラマを、創りだしてくれる脚本家たち。
熱い声援を送ります、もっともっと夢中になれるテレビドラマを。

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弥勒の微笑み

2011-08-17 17:35:21 | Weblog
目は半眼、あごを少し引いて、舌の先を上の歯の裏側に軽く当てて・・・
これは、気功太極拳の最初に行う‘立禅’での、イントロです。
これを、西村加代先生に教わったままを いま、教室で伝えています。

「舌の先を上の歯の裏側に軽く当てる」と、顔が和みます。
口を開けると、普通なら間抜けな表情になりますよね。
でも こうしていると、上唇と下唇に適度な空間が生まれます。
歯を食いしばる、ということから、解放されます。
両頬にえくぼが自然にできたように、穏やかな気持ちになれます。
まるで、ほんのちょっと、中宮寺弥勒菩薩の微笑みみたいになれるのです。


中宮寺の半跏思惟像。
究極の理想のほほ笑みを求めて、この弥勒菩薩像に会いに、幾多の人々が 奈良斑鳩の里を訪れます。
この像の口辺に浮かんでいる微笑を前にすれば、何ぴとたりとも どんなに荒んでいても、穏やかになれそうだからでしょう。
畏敬というよりも むしろ、親愛の情が湧きあがってきます。
格調高く かつ、一抹の憂いを含んで、微笑みかけています。
安寧、まさしく、日本のマドンナです。


歯を食いしばらねばならないときも、ときにはあるでしょう。
でも そういうときこそ、「舌の先を上の歯の裏側に軽く当て」て、力を抜くのです。
これは、私自身に言っている言葉です。
もう少し早く、この‘わざ’を身につけておれば、と悔やまれます。
もう二度と、無意味に歯を食いしばることはすまい、今はしかとそう言えます。


中宮寺の弥勒のほほ笑みは、決して到達できないけれども、そうありたいと思う、あこがれの表情です。
舌の先を上の歯の裏側に軽く当て、ちょっとでも あの微笑みに近づきたい、と。
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真夏の或る風景

2011-08-14 12:16:13 | Weblog
近江八幡の水郷めぐりの舟に、先日初めて乗りました。

葭やガマの衝立で、現代社会景色が遮られた水郷空間。
聞こえるのは、メジロに似た小鳥のチーチーという鳴き声と、船頭さんが漕ぐ櫓のきしむ音だけです。
真夏の真昼間の、静寂そのもの。
水面を渡るそよ風は、自然クーラーです。

入道雲が、真っ青な空のキャンパスを わがもの顔に白く塗りたくっていました。


(追記)
孫が撮った写真です。
孫の絵日記に刺激されて、ブログに・・・。
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自然エネルギー発電への期待

2011-08-04 16:39:40 | Weblog
夢のある話をしたいのです。

ノヴァエネルギーという、小さな でもやろうとしていることはドデカい 会社が、神戸にあります。
海流・潮流・河川流の持つ膨大なエネルギーで タービンを回して、発電することを考えている会社です。
(http://www.nova-ene.co.jp/about-us/index.html)

明石海峡大橋の橋脚に マグロのような形をした流線形のタービンを吊るし、潮流エネルギーを利用した発電で 明石海峡大橋をライトアップさせる、そんな計画を着々と実行しているのです。

鳴門の渦潮の凄まじさにビックりした記憶は、あのエネルギーで発電するという空想を、掻き立たせたものです。
やっぱり同じ思いを抱いて、想うだけでなく それを形にして夢を追っている人がいたことに、はしゃぎたいほど うれしい気持ちです。

ノヴァエネルギーの社長・鈴木清美さんの目標は、巨大で速い流れを持つ黒潮本流が流れる東シナ海で、原発二基分の発電能力を持つ“黒潮発電所”を建設することなのだそうです。
気持ちだけは、私も無償で、なにかお役に立てたらいいなぁ。

誰か、5000億円を鈴木清美さんに、先行投資しませんか。
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原発は、やはり廃止すべきだと、思う。

2011-08-02 11:34:01 | Weblog
内田樹(たつる)氏の著した『日本辺境論』から、気づかされたことがあります。
第二次世界大戦のドイツにおける主導者は、ヒットラーでした。
太平洋戦争の日本における主導者は、一体誰だったのでしょうか。
ドイツの方の問いには はっきりと答えられるのに、日本の方の問いに 断定的に名指しすることができないのです。

3月11日以降の、新聞の切り抜きファイルが 膨らんできました。
その内容は、いまではほとんど 原発に関する記事です。
日本が原発大国になっていった姿が、おぼろげながら 見えてきました。


福島原発事故の前 私は、日本に原子力平和利用を導入した主導者は、正力松太郎氏と中曽根康弘氏だと思っていました。
そうだから ばかりではありませんが、個人的には両者とも 好きなタイプではありません。
私がアンチ巨人軍の理由の半分以上は、正力松太郎氏のせいです。

そんな個人的嗜好は さておき、正力松太郎氏と中曽根康弘氏が 日本の原子力平和利用に主導的な役割を果たしたことは、間違いなさそうです。
ただ、「第二次世界大戦のドイツにおける主導者は ヒットラーだ」的に名指しできるか となると、根拠はどうも弱い。
正力松太郎氏も中曽根康弘氏も、原子力の平和利用の真実をちゃんと理解して その主導者的な行動をとったとは、考え難いのです。
つまり、確信犯ではなさそうだ、ということです。

正力松太郎氏は、政界へ躍り出る足掛かりとして、「原子力の平和利用」を利用しただけではないのか。
中曽根康弘氏は、アイゼンハワーに象徴されるアメリカに対するコンプレックスから、日本の「原子力平和利用」の道を選んだのではないか。
まったく正しいとは思いませんが、かなり当っているはずです。
つまり、原子力と人類平和の共存を、両人とも 強く信じていたとは考えられないのです。

内田樹氏の表現を借りると、私たち日本人は いつも周りをキョロキョロうかがっています。
「和を以て尊い」、語弊を怖れずに言えば「空気を読むこと」を第一義とする性格を持っています。
風見鶏という不名誉なニックネームを有する中曽根康弘氏は、非常に優れた見識を持つ政治家である一方で、やはり 日本人のこういう性格を持った代表的な人だといえます。


福島原発事故を契機に、多くの日本人が「原子力の平和利用」について、深く思いをめぐらされたことでしょう。
私も、その一人です。
そして たぶん多くの人たちが、原子力と人類平和の共存は不可能だ、と認識されたのではないでしょうか。
私も、その一人です。

ここで もう一度、「空気を読むこと」を第一義とする性格を 反省しなければなりません。
この性格は、短所でもあり長所にもなりうると信じていますが、いまは、この性格の優劣や善し悪しを問題にしません。
ただ、原発に関する‘いまどき’の風潮に流されることだけは、避けねばなりません。
いま この問題を見誤ったら、取り返しのつかないことになることが、明らかだからです。

福島原発事故の責任を、正力松太郎氏や中曽根康弘氏に負わせたいところですが、その責任はやはり、私たちひとりひとりが負わねばならない。
広島と長崎の原爆、第五福竜丸の水爆実験ビキニの灰被曝、スリーマイル島原発事故、チュルノブイリ原発事故、もんじゅナトリウム洩れ事故、東海村JCO臨界事故・・・
放射能の恐ろしさを認識すべきチャンスは、いくらでもありました。
その恐ろしさを発信してくれる、多くの人々がいたのです。
それに耳を傾けなかったのは、私たちの責任です。
だから 「原子力と人類平和の共存は不可能だ」と、いまどきの空気に流されて、早計に決めつける愚だけは、犯してはならない。


それでも やはり、原子力と人類平和の共存は不可能だと、私は判断しました。
アトムズ・フォー・ピースを、アメリカの圧力で受け入れざるを得なかった 当時の社会情勢に理解を持てても、その後の原発推進は、天に誓って正当だったとは、どうしても思えない。
同時に、原子力を タービンを回す力に利用するには、その力の大きさの魅力以上に、リスクが余りにも大きすぎる。
少なくとも、この震災の多い日本の地には、原発は向いていない。

原発は、やはり廃止すべきだと、思います。
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