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つれづれ

思いつくままに

見上げてごらん夜の星を

2008-04-20 21:42:52 | Weblog
父母の位牌の前に、滋耕童子位と書かれた小さな位牌が 寄り添っている。
昭和20年10月15日、俗名 山田耕滋、四才。
私の 兄である。
両親が他界したいま、幼くして亡くなった兄を思い出すものは、朝夕に仏壇に向かうときのわずかなあいだ 記憶すらない兄のことをしばし考えるわたし以外に、もう誰もいない。

いしだあゆみが歌ってヒットした「ブルーライトヨコハマ」は、母のお気に入りの曲だった。
当時、母の年齢からして そんなハイカラな母の好みが意外だったが、この曲に聴き入る母の姿は 決して嫌いではなかった。
先日、NHKラジオの“昼の憩い”を聞いていたら この曲がかかっていて、母の好ましい一面をふっと思い出した。いま聴いても、ほんのりとした ほんとにいい曲である。
ところで、「見上げてごらん夜の星を」が 父の好きだった曲ということではない。
ずいぶん昔のことになるが、祖母が障子の滑りが悪いので困っていたのを 思い出して 敷居にろうそくを擦りつけていたとき、少し酒が入っていた父が 普段は涙なんか見せたことがないのに、そのときは 目を潤ませてわたしに話しかけてきた。
耕滋は 汽車が好きでなあ。マッチ箱をそこの敷居に走らせて よく一人で遊んどった。おもちゃらしいもんが なんにもなかった時代やったから かわいそうなことをした。
こう 父が独り言のように話しかけた そのすぐ後ろのテレビで、坂本九が「見上げてごらん夜の星を」を歌っていたのである。
そのことがあってから、この曲を聴くと 父を通して想像する兄を思うようになった。
かぞえどし4歳といえば、上の孫の陸玖と同じ年頃である。あまり肉親に感情を表さない父の目から見ても、どんなにかわいく思われたことか。
兄は、赤痢に罹って 公立の病院で亡くなった。
当時 法定伝染病である赤痢に罹ったものは 隔離病棟で病魔のなすがままだったと、祖母が涙ながらに話していたのを思い出す。
幼い兄は 両親から離され どんなに心細かったことか、祖母の嘆きがよくわかる。
ペニシリンさえあったら・・・これが 酒で乱れた父の決まり文句だった。
ヤミでペニシリンを手に入れることができる開業医を知っていた父は、あんな公立の病院へ入れたばっかりに 兄を死なせてしまったと、悔やんだ。
この開業医のおかげで、死にかけのわたしは ペニシリンに助けられて 生き延びた。
酒が入ると、父は ときどき思い出したように 兄が死んだ病院をなじった、それを まるで母の責任のように。
母が一番つらいに違いないのに・・・子供心に母の心情が理解できたから、母を責める父を憎んだものである。
映画 『第三の男』 のなかで、オーソン・ウェルズ演ずるハリー・ライムが ペニシリンを水増しして 金を不当に稼いでいたが、そのことで、役者としてのオーソン・ウェルズには好感を持ちながらも ハリーをどうしても許すことができなかった。
心理的なペニシリンアレルギーなのかも知れない。

小さな兄の位牌を、袖の端で拭く。
ここまで生き延び得たのも、この小さな兄の命をもらったからのように思えてならない。
見たこともない、写真すらないのだから 孫の陸玖の顔をダブらせて想像するしかない兄の顔。
「見上げてごらん夜の星を」を口ずさむしか 近づくことができない、でも この曲を口ずさむと、父がこよなく愛した兄の姿が はっきりと浮かんでくる。
わたしは、この曲を 大切で 宝物のようにいとおしいと思う。

見上げてごらん 夜の星を 小さな星の 小さな光が
ささやかな幸せを歌ってる
見上げてごらん 夜の星を ぼくらのように 名もない星が
ささやかな幸せを祈ってる

手をつなごう ぼくと 追いかけよう 夢を
二人なら苦しくなんかないさ

見上げてごらん 夜の星を 小さな星の 小さな光が
ささやかな幸せを歌ってる

見上げてごらん 夜の星を ぼくらのように 名もない星が
ささやかな幸せを祈ってる
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チャールトン・ヘストンの死

2008-04-11 09:38:20 | Weblog
手元に、私が大切に保管してきた パンフレットがある。
パラマウント映画「十戒」の、薄っぺらい宗教画の絵本のような 手引き書である。
登場人物の写真までが、肖像画のように描かれている。
モーゼ:チャールトン・ヘストン
ネフレテリ:アン・バクスター
ラメシス二世:ユル・ブリンナー
・・・
セシル・B・デミル監督の、私が見る初めての シネマスコープだった。
無造作に挟まれていた半券、京都・祇園会館、税共入場料210円、い-6、指定席御観覧券。
この映画を観て 度肝を抜かれたのは、わたしだけではあるまい。
映画が最大の娯楽だった時代に、チャールトン・ヘストン→十戒→シネマスコープ→ハリウッド映画→アメリカ という回路が、少年のわたしの頭に 固定されたのである。
チャールトン・ヘストンが 即、モーゼであり、十戒という 凄い‘訓え’であり、行き着くところ アメリカだったのだ。
チャールトン・ヘストンという 背が高く胸板の厚いエイリアンを通して、アメリカ人と そのエイリアンの住む大国 アメリカを、一種の恐れを持って 憧れた。
幼児期のかすかな記憶にある エイリアン、進駐軍の黒人兵の 大きな白い手のひらと 真っ白い歯 そしてあの独特のにおい、それを品格ある巨人に仕立てなおして、チャールトン・ヘストンは 少年のわたしの 抜き差しならない存在となった。

その チャールトン・ヘストンが死んだ。
晩年、認知症を公表しながら 日本のメディアにも出演したり、全米ライフル協会会長の面をたたかれて マイケル・ムーアのドキュメンタリー映画では 彼への敬意を欠いた扱われ方をされたりもした。
でも、そんなチャールトン・ヘストンを見ても、少年の日のわたしを夢中にさせてくれた彼の威光は びくともしなかった。
その彼の死は、わたしにとって アメリカの喪失でもある。

折りしも、ドルの権威は 地に落ちつつある。
アメリカの威光が 翳りだしたのだ。
あの敗戦とともに それまでの威勢をへし折って アメリカ一辺倒で歩んできた日本も、ここへ来て 政治も経済も そして国民の心も おかしくなってきた。
アメリカを上手に見切りをつけるときが来た、ということなのかもしれない。
しかし、わたしは そう上手く立ち回ることは とうてい できそうもない。
三つ子の魂 百までも の喩え通り、チャールトン・ヘストンで代表される アメリカの品位は、いつまでたっても わたしの永遠の憧れに違いないのだから。

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桜吹雪

2008-04-09 21:47:28 | Weblog
折しも、JR湖西線を30分以上も遅れさせるほどの 突風が吹き荒れていた。
山科駅に近づく新快速の車窓を、視界を遮らんばかりに 桜吹雪がかすり流れる。
そよ風に散る桜の花びらに感じる あの詩情あふれる風情とは程遠い、凄味すら漂う桜吹雪である。
疎水べりの桜並木は、花びらをもぎ取られた枝が 突風のあとの横殴りの雨に ひゅうひゅう泣いていることだろう。
どこか 何かが、おかしい。
車内の乗客は、みな疲れた顔をして 押し黙っている。
先日 訪れたベトナム・ホーチミン市の活気との落差に、この日本の未来に対する どうしようもない焦りを覚えてしまう。
年齢からくる焦りというものは、どっちもつかずで 余計に疲れる。
と 言うのは、あのホーチミン市の活気には 付いていけず、かと言って 桜の下に憩う心のゆとりはなく、ただただ 無情な春の嵐に 根拠のない怒りを覚えているのである。
それは、あたかも 死に対する心構えの不安定、不確定さを、際立たせている。
結婚式を華々しく挙行してもらって、死から最も遠くにいた 1970年ころ、ベトナムは 死に最も近かった。
あれから 40年近く経って、そのベトナムは 今 死から遠く離れたところを 活気に満ちて突き進んでいる一方、死から最も遠かったはずの「わたし」は、“覚悟して逝った哲学者”須原一秀の著した『自死という生き方』という書物に ぶすっとした乗客に挟まれながら 没頭している。
年をとる ということが どういうことか、そう、こういうことなのである。


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ホーチミン市にて

2008-04-05 11:21:40 | Weblog
ホーチミン市を再訪している。
この街は、生きている。そう、実感する。
だが、疲れる。若さに 疲れる。
人民委員会庁舎前の グエンフエ通りと レロイ通りの角にある カフェから、夥しい数のバイクの流れを 目だけで追いながら、先ほどの商談の緊張からか、どっと疲れがでた。

いいものを作ること、それがものづくり屋の使命だった。
いいものを作っておれば、注文は舞い込んだ。
だが、これからの日本のものづくりは、そんな単純なガンバリだけで 通るものではない。
日本国内の市場は、これから先 急激な膨張は まず ないであろう。
それに、日本のコストは、あまりにも高くつきすぎる。
いくら いいものであっても、中国製や台湾製の2倍や3倍では、外国で太刀打ちできない。
国外で活躍する日本の大企業は、このことにいち早く気付いて 血のにじむ努力を続けているのだろう。
国内で のほほんと「一所懸命」ものづくりして来た 我々零細企業は、コスト競争に 本当の意味で 甘い。
今回の商談で、このことを痛切に実感した。

この街 サイゴンを、商いのターゲットに据えたことは、間違っていないと思う。
これを絶好の機会ととらえて、名実ともに競争力のある商品づくりに 邁進しよう。
そう、心から思う再訪であった。

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