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つれづれ

思いつくままに

人材ということ

2012-08-31 16:49:10 | Weblog
鉱石ラジオというものに、夢中になった時期があった。
小学校高学年のころだったと思う。
ゲルマニウムラジオ、なにか世の中の最先端に寄り添っているようで、得意になっていた。

学校の最寄りの市電停留所の近くに、電気屋さんがあった。
この電気屋のおやじさんは、町の発明家と言わていたが、どんなものを発明したかは知らない。
鉱石ラジオの部品を買いに ときどき寄るので、このおやじさんと顔見知りになっていた。

そのおやじさんは、早川徳次の信奉者だった。
むろん その頃のわたしに、早川徳次が何者かなど、詳しく知るはずもなかった。
喉から手が出るほど欲しかった早川電機のラジオを作っている会社の社長さん。
そして、日本のエジソンといわれるほど、いろんな新商品を発明した人。
電気屋のおやじさんの話から、それくらいは理解できた。


シャープの創始者・早川徳次という人物を意識するようになるのは、いまの会社の社長になって間もない頃である。
経営セミナーみたいな会合での話だった。
社員を解雇することは、社長の不徳と心得よ。
早川徳次の言葉として紹介されたのだが、それまでのシャープという会社のありようから、なるほどと感じたものだ。

わたしが身につまされて感じたのは、実は次の言葉だった。
だからこそ、社員の採用には慎重にも慎重を重ねねばならない。
一旦採用したからには、その社員を一生面倒みる覚悟がなければならない。

当時のわたしには、その覚悟がなかったのである。


人材という言葉がある。
経営資産のひとつで 企業活動上での人的な「材料」との解釈があるが、いまのわたしは、そうは思わない。

苦労に苦労を重ねた早川徳次が、苦労の末に見いだした結論は、会社は社員で成り立っている、ということであったはずだ。
だからこそ、社員を解雇することは 社長の不徳だという言葉が、自然に出てくるのであろう。

シャープの一ファンとして、現状のシャープを哀しく思う。
創業者の思いと大きく乖離した、「人材」を「経営資産のひとつ」だとして大量解雇に至った いまのシャープを、残念に思う。
リーダーの経営ミスが招いた、大きな大きな過ちである。


会社というものは、そこに働く社員そのもの、いまのわたしは、そう思う。

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卑怯を憎む心

2012-08-29 15:12:46 | Weblog
大津市で中学2年の男子生徒が自殺した問題は、多くの親や学校や、なによりも子供たち自身に、大きな衝撃を与えた。
わたしも、その一人である。

この事件について思うところがあるので、ひとつの考え方として書いてみたい。


このたびの事件で、学校関係者や教育委員会への批判が厳しい。
当然だと思う。

ただ ひっかかるのは、子供たちの親は どう考えているのだろう、ということである。
いじめに関わった子も、いじめに気づきながら見て見ぬふりをしていた子も、どんな親に育てられたのだろう。
子の教育の第一歩は、家庭であるはずだ。

わたしの親は、お世辞にも褒められるような育て方をしたとは、決して思っていない。
ガミガミ叱るばかりだったが、しかし、叱り方に通底しているものがあった。
それは、卑怯な真似はするな、と、恥を知れ、であった。

わたしも どちらかと言えば、いじめられる方だった。
でも、いじめられそうになったとき、いつも 誰かが、かばってくれた。

かばってくれた彼らは、決して仲のいい友だちばかりではなかった。
どちらかと言うと、いわゆる‘不良’な子が多かった。

彼らの家庭は、ほとんどが貧しかった。
親父さんも おふくろさんも、愛想の悪い親たちだった。
彼らがひどい叱られ方をしているのに、何度か立ち会った。
その叱り方は、わたしの親とはだいぶ違っていたが、怒鳴っているなかに「卑怯な真似はするな」か「恥を知れ」が入っていたように記憶する。


新渡戸稲造の著した『武士道』という書物がある。
その著作の端緒となるのは、ある外国人との対話であった。

1890年のある日、ベルギー人法学者のド・ラヴレー氏と散策しながら会話をしていた稲造は、質問を受けた。
「あなたがたの学校では宗教教育というものがない、とおっしゃるのですか」
それに対し「ありません」すると、ラヴレー氏は驚いて歩みを止めた。
「宗教がないですと、いったいどうやってあなたがたは子供に道徳教育を授けるのですか」
その質問に対し、稲造は即答できなかった。

いったい、自分自身の道徳心、人の倫(みち)たる教訓はどこから来ているのであろうか。
この問題を考え抜いた稲造は、ひとつの結論に達する。
それが「武士道」である。

日本人は、古来より、固有かつ世界に誇れる道徳体系を持っていた。
大先輩の高橋幹雄氏の一口メモを借用すると、稲造のいう武士道とは、つぎのような、人間として当たり前のことなのである。

  不正、卑怯を憎む心。
  富や金銭より、品位と名誉を重んずる心。
  弱者、敗者をいたわる心。
  命を賭けて、正しさを通す心。


子は親の背中を見て育つ、という。
いじめる子も いじめを見過ごしている子も、そして、あえて言うが、いじめられている子も、親の背中を見て育ったのである。

親は、世の中が悪い 教育委員会が悪い、という前に、まず おのれ自身に「卑怯を憎む心」が残っているのか、を見つめ直すことであろう。
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下町の太陽

2012-08-28 15:29:22 | Weblog
剛力彩芽の出ているコマーシャルがテレビに流れると、「出てるよ!」と家内から声がかかります。
家内も私も、剛力彩芽のファンです。
真っ正直な明るさが、ほほえましいのです。
きっと 暖かい家庭でのびのびと育ったに違いありません。

剛力彩芽を見ると、『下町の太陽』を歌っていたころの倍賞千恵子を思い出します。

目と目の間隔が<ふつう>より開いていて、切れ長の細い目、きれいな長めのうなじ、そのうなじの美しさを際立たせるショートカット、程よい上背と理知的なバスト・・・
以前の剛力彩芽はロングヘアだったということですが、セシルカット(この表現は時代的ですね)がよく似合っています。

剛力彩芽は 若かりし頃の倍賞千恵子に似ている、私にはそう思えます(家内は そうかなあ と同意しませんが)。
剛力彩芽に憂いを強調すれば、下町の太陽を歌っていた頃の倍賞千恵子にそっくりです。


高校時代の友人で、郷里の宮津で父の跡を継いで町医者に徹していた 故・浜見拓哉君のことを、下町の太陽のメロディーと連鎖的に思い出します。
彼の音楽好きは、仲間内では有名でした。
アイ・ジョージが歌ってヒットした『硝子のジョニー』を歌わせれば、ピカ一でした。

高校の修学旅行で、熊本県宇土半島の突端 三角港での思い出です。
島原から乗り込んだ連絡船の船底では、みなが輪になって『高校三年生』を歌っていました。
彼とわたしは、なぜか二人きりで甲板に上がっていました。
三角港の岸壁に船が着く間際、彼は「高校三年生もええけど、ほんまは『下町の太陽』が好きなんや」といって、下町の太陽を アカペラでしんみりと歌いました。

浜見君が歌った下町の太陽が、三角港の物憂げな光景に、記憶の中でぴたっと溶け込んでいます。

『高校三年生』と同時期にヒットした『下町の太陽』は、なのに なぜ私たち仲間内で歌わなかったのだろう。

そういえば、同じ作詞家・横井弘の『あざみの歌』、あんなにきれいな歌なのに あまり歌った記憶がない。
明るさばかりを、追い求めていたのでしょう。

いま ほんとうは、憂いが求められているような気がします。
憂いが醸す落ち着きと静けさが、いま必要なのだと思います。
明かるすぎるのに、少々くたびれてきたのかも知れません。

いまは、しみじみと『下町の太陽』を歌っています。
浜見君のおもかげを、きれぎれに思い浮かべながら。
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アルバム

2012-08-22 17:37:06 | Weblog
2年前、義兄の葬儀に上京した折に、吉祥寺のおうちに立ち寄った。
元気そうにふるまっている姉が、痛々しかった。
応接間の片隅に、義兄が整理しかけていたものであろう、貼っていない写真の挟まったアルバムが、点在していた。
それらのアルバムが、なにか たまらなく、むなしいものに思えた。

こんな記憶が いま、撮り溜めた写真を 日付けを追ってアルバムに貼りながら、ふっと蘇えってきた。

このアルバムを、いったい誰が見るだろう。
わたし自身たぶん 見るとしても数回ぐらいだろうし、子どもたちや まして孫たちは見ることはないだろう。
身辺整理のときに たまったアルバムを全部捨てる、そんな意味のことが、往年の大女優の手記に載っていたなぁ。

それでも、手が勝手に、写真をアルバムに整理していく。

生身の人間とつきあうのは、さまざまな制約がある。
けれども、思い出の人とは、いつでもどこでも、いつまでもつきあえる。
アルバムは、その思い出を引き出す蔓だ。

東日本大震災で津波が引っさらって行った写真を、被災者の人たちは あんなに大切に、仮設住宅の壁に貼っていたではないか。
アルバムに貼られた写真は、その人の生きざまそのものなのだ。

アルバムという品物ではなく、アルバムに宿る思い出が尊いのだと、そう思い直して、もうちょっとで貼り終わりそうなアルバムを、いま整理している。
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百済観音に魅せられて

2012-08-22 10:20:48 | Weblog
顔の表情のけだるい、ヒョロ長い反り曲がった像。
これが、これまで抱いていた、法隆寺の百済観音像に対する わたしの印象です。
このプロポーションが、しかしなぜか 気になっていました。

法隆寺は、近いようで いざ訪ねようと思うと、けっこう一大決心をしなければなりません。
ちょうど1年前(暑いときでした)、法起寺、法輪寺から中宮寺の弥勒菩薩像を尋ねたとき、夢殿だけを拝観して 東大門から向こうには立ち寄りませんでした。
ついでに寄るという横着なことを寄せ付けない威厳が、法隆寺にはあります。

このたび一大決心をして、また暑いさなか、法隆寺を訪ねました。
百済観音像を拝したかった、それが大きな動機です。


日本最初の世界文化遺産の値打ちは、わたしのようなものでも 判る気がします。
中門を潜って 金堂と五重塔を眺めるとき、もう そのまぎれもなく気高い遺産に圧倒されてしまいます。
1400年も前に、よくぞ このような立派な建造物を作ったものです。
そして もっとびっくりなのは、このような建造物が1400年を経て 今に残されていることです。
心から誇りに思います。

百済観音像は、この伽藍の東側、平成10年に落成した大宝蔵院の中殿に、ガラスの中にありました。
初めて見る真新しい大宝蔵院は、法隆寺の客像である百済観音像の安住の場所にふさわしい、厳かな建物です。

さて、百済観音像との対面です。
この像だけのためのお堂は、百済観音像のプロポーションを完璧なまでに、観る者に解放してくれています。

まず、正面から拝して合掌敬祷です。
やはり、普通の意味において釣り合いの悪い、ヒョロ長の頭部過小な像です。
お顔も、ああ美しいとは言い難い。
しかし この異例の権衡は、決して不愉快なものではありません。
解しかねる ほほ笑みには、あったかい親しみを覚えます。
像全体から、一種独特の美を感じます。

御像の右へ。
正面像の垂直感覚とは がらりと変わって、人体のもつ曲線の美しさ、それも不必要な部分をそぎ落としたエッセンス曲線。
水平に差し出された右腕は唐突におもしろく、その先に 美しいとしか言いようのない与願の手です。

ぐるりと回って、御像の左側へ。
左腕がゆるやかな角度をなして 体を斜めに横切り、その指先に壺を提げています。
親指と中指で 壺の口を軽くつまんだ指先の、なんと美しいことか。
まさに「三千大千世界」を、軽やかにつまんでいるのです。

わたしは、その美しく長い手に、心底魅了されてしまいました。

   くだら観音は壺をさげてゐる

   こやつ その壺に何も入れてはゐない
   生の歓喜も 陶酔の酒も入れてはゐないのだ
  
   だが見よ いと軽げに見えるその壺に
   三千大千世界を入れてゐるのを

これは、詩人 高橋新吉の『くだら観音』という詩です。
このたびの拝像で、この詩の心が、心地よいほどに理解できました。


百済観音堂から去りがたく、会津八一の歌そのままの状態で、しばらく佇むばかりでした。

   たなごころ うたた つめたき ガラスど の くだらぼとけ に たち つくす かな
 
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伊丹万作の『戦争責任者の問題』に接して

2012-08-13 09:58:41 | Weblog
朝日新聞8月12日付けの記事‘伊丹万作の伝言’から、ネット図書館「青空文庫」を通して、伊丹万作のエッセイ『戦争責任者の問題』に接した。
このエッセイで わたしは、伊丹万作という人物の正直さに感動するとともに、このたびの原発事故に対する自分の向きあい方を猛烈に問われていることを、はっきりと自覚した。

映画監督 伊丹万作は、代表作「無法松の一生」で知られる脚本家でもある。
故・伊丹十三の父親である。
『戦争責任者の問題』は、肺結核で病床に伏していた伊丹万作が、終戦の翌年 亡くなる直前に『映画春秋』創刊号に寄稿したエッセイである。

このエッセイの中で 伊丹万作が言いたかったことは、あの太平洋戦争の責任は 日本国民みんなにある、ということだと思う。
誤解を招かないように追記するのだが、伊丹万作は、ひめゆり学徒隊も 東京大空襲で黒焦げに死んでいった人たちも 赤紙一枚で出征し他国で失命した一兵士も、同じ重みの戦争責任を負わなければならない などと言っているのではない。
あの戦争は、一部の人間のやらかしたことで 自分はだまされただけだ と言い張るだけでは、なんの解決にもならない、そう主張しているのである。
表現はきついが、「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」と主張しているのだ。
‘あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切を委ねるようになってしまっていた’日本国民の‘無気力、無自覚、無反省、無責任’を、伊丹万作自身をも含め、憤っているのである。


わたしは以前 このブログで、原子力の平和利用について「日本国民ひとりひとり、同じ勘違いをしていたのです」と書いた。
この表現は、穏やかさを装っていた。
露骨に「わたしたちはだまされていた」と言うところを、躊躇したにすぎない。

言い訳を許されるなら、自分は無知であり無関心であったという自虐の念は、少しだけはあった。
しかしそれは、伊丹万作の表現を借りれば、自分の立場の保鞏につとめていたにすぎない。
‘「だまされた」という一語の持つ便利な効果におぼれて、一切の責任から解放された気分’になっていただけである。
自分自身、知らず知らず 原子力の平和利用の推進者の一員になっていた、つまり「だますもの」の立場になっていたということである。


伊丹万作の言葉が、重く響く。
  ・・・「だまされた」といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるであろう。
  いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいないのである。・・・
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遠くて近い国、ロシア

2012-08-07 14:37:17 | Weblog
2010年11月、当時のロシア大統領 メドヴェージェフが、唐突に国後島を訪問した。
北方領土の解決にむかって前向きな姿勢を示していただけに、メドヴェージェフの国後島訪問は不可解に思われた。

あのとき まだ日本の政権が自民党にあり、麻生太郎が首相の地位にいたなら、麻生太郎は自身 国後島を訪れ、メドヴェージェフに面会していたであろうか。
仮定の話を持ち出しても 致し方ないことなのだが、麻生太郎なら ひょっとしたら出かけて行ったかもしれない。

ここで 、自民党や麻生太郎の贔屓記事を書くつもりはない。
ただ あのとき、間髪を入れずに 日本のトップが、メドヴェージェフに会いに国後島へ行くべきだった、そう言いたいだけである。

国のしなければならない仕事のほとんどは、外交にある。


つい最近まで わたしには、ロシアと言うよりは ソ連のほうが呼びやすかった。
ソ連という国は けしからん国だ、これは、わたしの親の世代の口癖である。
日ソ不可侵条約を破って満州に攻めてきよった、終戦になっても占守島(しゅむしゅとう)を攻撃しよった、シベリア抑留でひどい目にあわされた・・・
これが、わたしのロシアに対する国家観の基礎にあった。
稚拙な話だが、ソ連は卑怯な国、この思い込みは 長い間拭えなかった。

この国家観は、ゴルバチョフという人物の登場で 変化する。
それでも、わたし自身 しっかり知ろうとしないロシアという国は、親しみの薄い隣国のままであった。


ここ10年ほどの間の中国の勢いに、いい知れぬ恐怖を感じる。
南方の領土問題で、中国の勢いと真っ向からぶつかっては危ない。
従来からの米国や韓国とのつながりだけでは、心もとない。
ロシアとのつながりを見直すべきではないか。
これは、日本人の多くが抱いているイメージではないだろうか。

それには、もっとロシアについて知らなければならない。
しかし、わたしには 膨大な日露外交史を読破する力など、もちろんない.
最も尊敬する史家であり、あの『坂の上の雲』や『菜の花の沖』の著者である司馬遼太郎に聞くのが、言い方は悪いが 手っ取り早いと考えた。
それも なるべく薄い文庫本であってほしかった。
それが、『ロシアについて~北方の原形』(文春文庫)であった。
この中で わたしは、シベリアが、日露の関係を探るキーワードだと理解した。


ロシアの首都 モスクワは、遠い。
しかし ロシア領であるシベリアは、千島列島のすぐ北向こう カムチャッカを東端とする。
ロシアは、隣国なのだ。

ペルーが黒船を仕立てて浦賀沖に現れたのは、クジラ漁船の水と食料の補給地として、日本が欲しかったからである。
同様にロシアも、パリ貴婦人が大枚をはたいてでも欲しがった テンやラッコの毛皮を求めて、シベリヤやカムチャッカへ向かう狩猟隊の食料補給地として、シベリアの東端に位置する日本と交わりたかったのである。
どちらも 欲の皮から発した外交であるが、幕末の徳川幕府は 押しの強い米国に靡いてしまった。

かって ロシアが、日本という、見たこともない国に関心をもったのは、あくまでもシベリアという大きな陸地の維持と開発のためであった。
アジアとヨーロッパにまたがる広大なシベリアは、ロシアにとってお荷物との一面がある。
それを いちばん憂えていたのは、ロシアのノーベル賞作家 ソルジェニツィンだった。

このことは、現在にも通じる。
メドヴェージェフが国後島に現れたのも、シベリアの開発と維持のために、その先にある日本に関心を向けた証拠と考えられないか。

プーチン大統領の最近の言説には、北方領土問題の解決に、前向きな気配が伺える。
南方での中国との領土問題に 落ち着いて対応するには、北方領土問題を解決して、北の憂いを取り去ることが大切だ。
天然ガスの共同開発がきっかけでもいい、いまが、北方領土問題を一気に解決するチャンスではないか。


北方領土問題で、どうしても外せない歴史上の事実がある。
それは、ヤルタ協定である。

第二次大戦の戦局がほぼ確定した1945年2月、クリミア半島南岸にあるソ連要人の保養地ヤルタで、連合国首脳があつまった。
目的は、最終段階の戦争遂行方針と、戦後処理について、であった。
集まったのは、英国のチャーチル、米国のルーズベルト、そしてソ連のスターリン。
中国を代表する蒋介石は、この会談によばれなかった。

ルーズベルトはソ連に、日本の武力圏を北方から攻めさせようとし、対日参戦への参加を求めた。
スターリンは、対日戦をやる代償として、いくつかの条件をもちだし、承諾を得た。
いわゆるヤルタ協定である。

ヤルタ協定は、全三項から成っている。
すべて、日本および中国に関係する内容である。
その第三項に、「千島列島が、ソビエト連邦にひきわたされること」とある。

これによって、いわゆる日本の「北方領土」は失われた。
もっとも、協定でいう「千島列島」とは、どの島からどの島までをさすのかという 地理的規定は話し合われていない。

だからソ連が解釈したままに、島という島がごっそり対象にされたかのようであり、事実、ソ連はすべての島々をとりあげ、そこはいわゆる千島ではなく日本の固有領土だとする四つの島までとりあげた。

ヤルタ協定第一項は、「外蒙古(戦後のモンゴル人民共和国、いまのモンゴル国)の現状が維持されること」であった。
現状、つまり、モンゴル高原はソ連の傘下であり続けること、という意味である。

ロシアと中国のあいだには、モンゴルを介して国境紛争が存在し、いまもくすぶっている。
ジンギスカンの大モンゴル帝国の末裔モンゴルは、その後 清国に手ひどく痛めつけられた。
ロシアも気に食わぬが、中国のほうが もっといや。
モンゴル人の漢民族嫌いは やがて、モンゴルが国境を接する二つの大国 ロシアと中国のあいだの火種となる。

日本にとって、ヤルタ協定が厄介なのは、ここにある。
つまり、広大なモンゴル高原と、小さな千島列島とが、それぞれ一条項を立て、等価値であるかのように相並んで記され、アジアにおける第二次大戦後の領域がきめられたことである。

このことは、もし千島列島(たとえそのうちの一部であっても)をソ連が日本に返還するとすれば、ヤルタ協定は崩れ、モンゴル高原もまた、中国側から要求されればその「現状が維持される」ことを、法理的には、やめざるをえなくなるということだ。
つまり、現在のロシアも、四島返還を はいそうですかと聞き入れる訳がない、ということである。

第二次大戦後、南樺太がはっきりとソ連占領地区となったのと異なり、千島列島の帰属がうやむやになったのには、米国の思惑が大きく働いていた。
トルーマンは、沖縄と同じく、千島列島中部の一島に米軍基地を設置させたかったのだ。
もっとも、スターリンの北海道東北部の占領要求を拒否できたのは トルーマンのお陰、とも解釈できる。

戦争の多くは、国境の奪い合いから始まっている。
そして、戦勝国は領土を広げ、敗戦国はかっての領土を奪われるのが常である。
日本は敗戦国であり、このことは戦後67年たったいまも、厳然と歴史上の事実として存在する。

1956年12月、日ソ共同宣言の批准書が交換され、日ソ間の外交関係が回復した。
この時、日ソ平和条約の締結交渉は、北方領土の全面返還を求める日本と、平和条約締結後の二島返還で決着させようとするソ連の妥協点が見出せないまま、不調に終わった。
収穫は、日ソ平和条約締結後に歯舞群島・色丹島をソ連が日本に引き渡す との条文が、共同宣言に盛り込まれたことだった。

その後、日ソ平和条約は忘れられたかの如くであり、交渉はストップしているかにみえる。

ロシアにとって、国後島や択捉島が持つ意味は、米国の太平洋東海域における沖縄基地と同様、オホーツク海上での安全保障にある。
ロシア側の安全保障に配慮しない限り、四島返還は絵に描いた餅である。
その点 安全保障上の重要性が薄い歯舞島や色丹島は、何らかの見返りと引き換えに 日本に帰ってくる可能性はある。

いずれにしても、外交力がものをいう。
毎年2月7日を北方領土の日にする などは、国内世論を掻きまわす火掻き棒に仕立て上げるだけで、無用のことというより、賢い外交を積み重ねる上で むしろ有害であろう。


外交は、相手国の歴史を知ることから始まると言ってよい。
ロシア人によるロシア国は、人類の文明史からみて、きわめて若い。
若いぶんだけ、国家として たけだけしい野性をもっている。
日本がこの若い隣国と、大人の国としてうまくつきあってゆくことが、シベリアの東端に位置する日本の宿命ではなかろうか。
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赤い蝋燭と人魚

2012-08-03 11:33:13 | Weblog
恐怖と悲しみと諦めと・・・
人魚姫は、蝋燭に絵筆をもっていこうとするのですが、彼女を買いに来た香具師(やし)の気配におびえて、表の方を振り向きます。
きっと 絵筆と蝋燭を持った両の手は、恐ろしさで震えているのでしょう。

これは、小川未明の童話『赤い蝋燭と人魚』を、閨秀画家・岩崎ちひろが絵本にした、ワンシーンです。

いわさきちひろの絶筆となったこの絵本を、わたしはとても大切にしています。
絶筆作品だから、というのではありません。
いわさきちひろ という一人の女性画家を、一人の人間として心底 敬愛するきっかけとなったのが、この絵本だからです。

彼女の描いた絵をみて、誰もが愛らしいと感動する。
ことに子どもの絵は、頬ずりしたくなるくらい かわいい。
女性、それも母親でなければ描けない、子どもの心を溢れる愛をもって見つめ抜いた表現だと思います。

ただ かって、わたしの子供たちが手にしていた ちひろの絵本を、正直わたしは しっかりと見ていなかった。
きれいな絵だな、その程度にしか 認識していませんでした。

2年前です。
孫に適当な絵本を と思い、本屋さんの絵本コーナーで探していたら、『赤い蝋燭と人魚』を見つけました。
むかし 子どもたちが読んでいた ちひろ絵本だと、思いだしたのです。

まず わたしは、見開きに描かれた 空と海に、はっとしました。
押し殺して 今にも荒々しい雷雨が襲ってくるような どす黒い空、それを それ以上の豪胆さで待ち迎える大海原。
これは ほんとうに、あのかわいげな子どもの絵を描いていた 岩崎ちひろの絵本なのだろうか。

パラパラとめくったら、冒頭に紹介した人魚の娘の絵に出合ったのです。

走った線描の、未完ともみてとれる人魚姫の姿。
こんな悲しげな感動を、絵で感じ取った記憶がありません。
まことに美しく哀しく、そのつぶらな瞳は、懸命になにかを訴えています。

正直 申します。
この絵本を手に取るまでは、岩崎ちひろという童話画家を 左翼政党員という理由だけで、あまり好ましく思っていませんでした。

この絵本との出会いをきっかけに、いわさきちひろを もっと知ろうと努めました。
安曇野ちひろ美術館を 尋ねました。
兵庫県立美術館で開催された「母のまなざし~子どもたちへのメッセージ」という いわさきちひろ展へも出かけました。

それらから、また岩崎ちひろに関する書物から、そして何よりも 家内のアドバイスから、わたしも 岩崎ちひろのファンになったのです。

3・11以降 とくにそう思うようになったのですが、その人の信条のみでもって その人の全体を推量するのは、大きな間違いをおこしかねません。
なぜ 岩崎ちひろが左翼政党にたどり着いたのか、戦争という異常な世情と ちひろの心情を理解しようとすべきだったのです。

またまた原発の話になってしまうのですが、かって わたしが岩崎ちひろに抱いていた偏見と同類の感情を、反原発を唱える人たちに抱いている人がいたとするなら、それは大きな不幸です。
ムードで反原発を叫んでいるだけなのか、反原発の意志のほんとうの姿を見誤っては、今を生きる人間として 取り返しのつかない過ちを犯すことになるのです。

話が逸れてしまいました。
絵本『赤い蝋燭と人魚』に戻ります。

この人魚の娘を育てた 欲深いじいさんばあさんを、ちひろは決して醜い人間に描いていません。
どこにでもいる その時々の喜怒哀楽に右往左往しながら生きる、普通の愛すべき年寄りと 見て取れます。
小川未明の文章を借りれば、小さな漁村の鎮守の森の宮前の 小さな蝋燭屋の老夫婦が 捨て子の人魚姫を拾い上げたとき、「それは、まさしく神様のお授け子だから、だいじに育てなければ罰があたる」と話していたのです。

それが‘欲に目がくらみ’、香具師に娘を売ろうとするのです。
人間の醜い、けれど真実の一面です。

小川未明の名作を ちひろの絵の力が、不朽のものにしました。
繰り返しになりますが、冒頭に掲げた人魚姫の絵をみて、こんなに美しく哀しい姿を描ける作者を わたしは、直感的に敬愛せずにはおれませんでした。

ドキュメンタリー映画『いわさきちひろ~27歳の旅立ち』が、近く上映されます。
もっと 岩崎ちひろを知りたい、だからきっと、この映画を見に行きます。
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トッカン

2012-08-02 14:23:56 | Weblog
テレビはいま、オリンピック オリンピックですね。
一時的にでも 閉塞な世情から抜け出したいから、テレビにしがみついているのかなぁ。
そんな自分に気づいて、一生懸命の選手たちに ゴメンしています。


オリンピック放送で、7月スタートの連続テレビドラマは 中休み。
その7月スタート連ドラについてのお話です。

袋たたき気味だった公務員にも 人間味のある眼差しが、7月スタート連ドラには 随所に見られるようになりました。
久々にのめり込んでいます。
なかでも 日テレ系水曜夜10時の『トッカン』がいい。

いままでの『マルサの女』や『ナサケの女』とは 一味違う税務署もの。
井上真央演じる 税務署特別国税徴収官‘ぐー子’が、罵倒され迷いながらも、数奇な人生を送る脱税者と 人間味あふれる対応をしていきます。
税金を通して、市井の人々の機微がよく描けています。
やはりこれも、原作(ライトノベル作家 高殿円著<トッカン -特別国税徴収官>)が しっかりしているからでしょう、話の展開に 嫌なたるみがありません。

ドラマのキャッチコピーは、「私の仕事は嫌われている」、「お金になんて殺されないで」、そして「人生は納税だ」。

税務署の非情をなじる滞納者に返す言葉を「ぐっ」と詰まらせる‘ぐー子’の、ぐっとくるセリフのひとつ、「あなただって、救急車のお世話になることがあるかもしれないんです。救急車は税金で走れてるんです」


生前 父がよく口にした言葉に、「四つの署にだけは お世話になるな」があります。
四つの署とは、消防署、警察署、労働基準監督署 そして 税務署。
平たく言えば、「火事の火元にだけはなるな。戸締りをしっかりしろ。人さまに怪我を負わすような交通事故をおこすな。仕事中の怪我は恥と思え。納税をごまかすな。」ということです。
細く長く生きる、ささやかな智慧です。

中小企業の経営者に限らず、庶民にとって税金は憎らしいものです。
私の40歳からの生活は、税金に縛られた一生みたいなものです。
なんでこんなに、税金ばかり払わなきゃならないのか。
税務署と聞くだけで、虫唾が走りました。

年齢ということもあるのでしょうが、会社経営の一線を離れ 世の中の動きがある程度冷静に見えるようになって、税金に対する感情に変化が出てきました。
納税は立派な義務行為、そう 素直に思えるようになってきたのです。

働けるうちは働いて 小額でも納税者でい続けよう、いまは そう思っています。


仕事でヘマをやらかした‘ぐー子’は、退職願を提出して郷里の神戸に帰ります。
和菓子屋の経営に失敗して 税務署にさんざん叩かれた‘ぐー子’の父親は、税務署員であるというだけで‘ぐー子’との仲は険悪です。
親子が言い争っていると、‘ぐー子’の上司である鏡雅愛(俳優:北村有起哉)から電話がかかってきます。
電話口に出た父親の角立ったもの言いを被せるように、鏡はこう伝えます。
「税務署に痛い仕打ちにあったお父さんのような親の子だからこそ、ぐー子は取り立てにも相手の立場が理解できるんです。滞納者は気持ちの上だけでも、ぐー子に救われてるんです。」

滞納者には、税金を払えるのに払わない者と 税金を払いたくても払えない者があります。
両者の区別はグレーですが、その区別に目をつぶって 差し押さえなどの滞納処分権を振りかざしてくるから、税務署員は嫌われるのです。
少なくとも、税金を払えるのに払わない者を見抜く眼力と 税金を払いたくても払えない者への理解力が、税務署員の必須資質のはずです。

脱税者に居丈高に正義を振りかざす徴収官ではなく、ぐー子のような、弱者への心をもちながら納税を働きかける徴収官に、テレビドラマとは知りつつも 共感してしまいます。
それは、人生の大半を税金に縛られてきた者だからこそ、「人生は納税だ」というコピーの意味を ある程度理解しているからだと思います。


テレビドラマ『トッカン』を、心から応援します。
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