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つれづれ

思いつくままに

Pass away

2012-09-28 09:57:02 | Weblog
メガネがないと、めくら(おっと これは禁句でしたネ)同然になりました。
その大事なメガネを探している、あぁあ いやになってしまいます。

演出家の故・久世光彦氏が遺した著書『触れもせで~向田邦子との二十年』に、つぎのような文章があります。
   
   向田さんが老眼鏡をかけていたのは、
   晩年何度か見かけたことがある。
   別に言い訳するでもなく、照れるでもなく、
   いかにも生活に必要な道具を使うという感じだった。

   ・・・老眼鏡は、人生で出会うはじめての<老>である。
   自分の持ち物の中に<老>の字が紛れ込む最初である。
   そして、それは一つ増え、二つ増え、
   やがて私たちの周りは<老>でいっぱいになる。
   そうなる前にいなくなった向田さんを羨ましく思うことが、
   このごろときどきある。

惜しまれるうちに この世から去る、それやぁ理想です。
死は、人生最後の大仕事。
でも この人生最後の大仕事ばかりは、どんなに努力しようが どんなに善行を積もうが、どうなるか知れたものじゃない。
まさに 神のみぞ知る、ですよね。

‘Fade out’という言葉を知ったとき、あぁこういうサヨナラって いいなぁ、そう思いました。
でも‘Pass away’という言葉を知って、この方がずっといいと考えるようになりました。

「そういえば、いつの間にか いなくなったねぇ」、‘Pass away’には そういうニュアンスを感じます。
乱れることなく、大袈裟な歎きなく、未練がましくなく・・・

メガネを苛立ちながら探している時、ふっと‘Pass away’の言葉を思い出して、苛立つことがバカらしくなりました。
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あなたへ

2012-09-18 17:13:04 | Weblog
無口であることが 男らしさの条件のひとつ、若いうちは そう思いこんでいました。
高倉健の影響です。
ところがこのごろ「しゃべり過ぎヨ」と、家内から小言をいわれるようになりました。

9月8日、10日の二回にわたって放映されたNHKプロフェッショナル『高倉健スペシャル』を見て、ほっとしました。
健さんも、けっこう おしゃべりなんやと判ったからです。
だからといって、健さんへの憧憬度に 変化はありません。

映画『あなたへ』を観ました。
こんなこと言うと 高倉健ファンからバッシングを受けそうですが、健さんの映画は これが最後なのでは、と思っています。
変な覚悟を決めて、この映画を観ました。

「大人の日本映画を作りたい」、この健さんの思い通りの出来栄え、観終えてしばらくしてジワーッと そう実感しました。
人生とは切ないもの、けれど 嫌悪感などはありません。
いとおしいものとして、訴えてくるのです。

富山にある刑務所の技官・倉島英二(高倉健)は、亡き妻(田中裕子)から届いた二通の手紙に導かれて、妻の故郷・平戸島へ旅立ちます。
妻の遺骨を、彼女の希望する生まれ故郷の海に散骨するために・・・

「人生は老境に至って初めて成熟する」、この映画の高倉健を見て、しみじみとそう感じられました。
歳を重ねるのも、わるくないなぁと・・・
健さん、ありがとう。
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合歓の木陰

2012-09-10 11:33:12 | Weblog
合歓の花、ことしは二度咲きました。
6月と8月。
いまは、その亡骸を 歩道に晒しています。



この 無茶苦茶暑かった夏、合歓の木は 一服の涼しげな陰を、道行く人に こさえてくれました。
遠くからも、合歓のやわらかな葉っぱが 風に揺れている光景は、わずかながら涼しい気持ちを おこさせてくれました。

花や葉っぱの亡骸は、ご近所にも 掃除の手間を おかけしています。
還るべき土が ここには乏しく、こんなところに植えたあるじが、ほんとうはそれを葬る責をおっています。

毎朝の掃除くらいが、ささやかな供養です。
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義仲寺

2012-09-07 18:53:52 | Weblog
大津プリンスホテルから琵琶湖文化館にかけての「におの浜」一帯は、一面の松原であった。
粟津の松原といった。
旭将軍・木曽義仲の、討ち死にの地である。

平家物語「木曽最期」のくだりは、戦記物好きにとって ハイライトのひとつ。
その末尾は、義仲の死を ひときわ儚く哀れにさせる。
  「さてこそ粟津のいくさは なかりけれ」
  (それで結局、粟津の合戦と名づけるような はなばなしいものは なかったのである)

木曽殿最期からよほど経て、この地を 見目麗しい尼僧が訪れる。
義仲の墓所のほとりに草庵を結び、日々墓供養を怠らない。
里人がいぶかって問うと、われは名も無き女性(にょしょう)と答えるのみである。
この尼こそ、義仲の側室・巴御前の後身であった。

都を追われ たった主従五騎になっても、粟津ケ原まで義仲公につき従ってきた巴御前であった。
「木曽殿の最後のいくさに、女を具せられたりけりなんど いはれん事も然るべからず」との義仲の思いで、やむなく戦列を離れ、落ち延びたのであった。

尼の没後、この庵は「無名庵(むにょうあん)」と となえられた。
この木曽塚・巴寺が、義仲寺である。


義仲寺は、東海道線膳所駅あるいは京阪膳所から琵琶湖側へ 西武大津のある湖岸道路「におの浜二丁目」の手前にある。
繁華街に囲まれて 小さくて目立たない ひっそりとした、しかし、落ち着いた いつまでも去りがたい寺院である。
訪ねたのは、猛暑日のさなか 盆の8月12日であった。

ここを訪ねたかったのは、源平の武将のなかで いちばん好きな木曽義仲の墓がある、ということのほかに もうひとつ、俳聖・松尾芭蕉の墓があるという理由からであった。
なぜ芭蕉は、大坂の旅窓において 死の病の床から「骸(から)は木曽塚に送るべし」と遺言したのか、義仲寺を訪ねたら その謎が解けるような、そんな たわいない願いもあった。

想像をたくましくして、その謎を解く手がかりを探る。

無骨で粗野な田舎者との先入観が強い義仲は 実は、人懐っこい人情家だったと想像する。
男女を問わず、人を惹きつける人間的魅力の持ち主であったらしい。
人を疑って遠ざけるのではなく、信じて受け容れるタイプだったのではなかろうか。
従兄の源頼朝と この点で、まるで正反対の性格の持ち主だった。

芭蕉が義仲に惹かれた理由のひとつが、この義仲の人柄にあるのは まちがいないと思う。
それにしても、義仲びいきという理由だけで 自分の骸を木曽殿の墓のほとりに葬ってほしい、となるだろうか。

松尾芭蕉は、伊賀上野の生まれ。
30歳ころまで 地元で仕官し、その後 江戸へ出て職業的な俳諧師となる。
しばしば旅に出て、『奥の細道』などの紀行文を残している。
無名庵をしばしば訪れた芭蕉は、奥の細道の旅ののちも、この地に長逗留している。
その間、弟子である膳所藩士・菅沼曲翠の勧めで、石山寺近くの幻住庵に4ヶ月ほど滞在。
また、京都・嵯峨野に入って落柿舎に滞在し、弟子たちと『猿蓑』を編纂している。
その最期も旅の途中であり、大坂御堂筋の旅宿で「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」の句を残して客死する。
享年51歳、元禄7年11月28日(旧暦10月12日)のことである。

芭蕉のこの生涯をみて、もし自分なら どの地に骨を埋めたいか、と。

普通なら やはり、故郷の伊賀上野であろう。
芭蕉忍者説など謎が多いのだが、芭蕉には故郷に骨を埋められない訳があったのかもしれない。

嵯峨野の落柿舎も、芭蕉は気に入っていたに違いない。
しかし、嵯峨野は陰気だ。
孤独を愛する若いときなら 嵯峨野はうってつけであろうが、死後に見たい風景は もっと明るい場所がいい。

芭蕉は、琵琶湖の明るい風景を 最も愛したのではなかろうか。
粟津の松原を望む木曽塚のほとりなら、旭将軍・義仲の生きざまにも寄り添える。
だから、無名庵、義仲寺だったのだと思う。


義仲寺は、旧東海道に沿っている。
元禄のころは、風光明媚で なおかつ 大いに賑々しいところであったことだろう。
琵琶湖はすぐそこなのに、いまは建物で埋まって、粟津の松原は想像しづらい。

それでも、義仲寺の翁堂のまえの小さな池に たくさんの小亀が遊ぶのを眺めていると、松原を渡ってくる琵琶湖の風が 耳を掠める気がした。
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