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つれづれ

思いつくままに

残心

2011-06-28 11:23:11 | Weblog
残心。
武道用語としてのこの言葉「残心」を、なさけないことですが、ぼくは識りませんでした。
芸事でも 頻繁に使われるらしいのですが、太極拳教室で 使ったことはありませんでした。
日本の武道や芸道に独特の用語なのか と、勝手に判断しています。


先週のNHKトーク番組<ディープピープル>、『時代劇をいろどる殺陣』でのことです。
大河ドラマの殺陣集団「若駒」を率いる林邦史朗、長寿人気テレビ番組「水戸黄門」の殺陣師を務める清家三彦、そして 俳優の松方弘樹の鼎談で、フムフムとうなずけることを語っていました。

アイドルタレントが時代劇を演じると、たいていは 歩き方が侍になっていないとのこと。
重心が高くて 上半身が左右に揺れている。
侍らしい歩き方というのは、こちらへ向かってくるとき 正中線がまっすぐでブレないこと、だというのです。
これは、太極拳教室で 耳にタコのことです。

トークが盛り上がってきたころ、残心の話になりました。
残心とは なかなか奥深いんやなぁ と、興味が湧きました。
でも このときは、残心というのは 見得や余韻みたいなものなのか、くらいに考えていました。

ところが ちょっと調べただけですが、これはすごい言葉だぞ と気づきました。
日本の武道における残心は、きわめて重要な所作なんですね。
だらしなくない、気を抜かない、卑怯でない・・・
古き良き日本人の、魂そのものです。

剣道で、一本とったあとの 心が途切れない所作。
ガッツポーズなんぞ、とんでもない。
弓道で、矢を放ったあと じっと的を見据える所作。
心身ともに美しい姿勢での、静のひととき。

芸道においても、特に茶道において 残心は、じっくり噛みしめるべき作法 と知りました。
武道での 反撃に備えた「美しい所作」の継続 という意味合いを、余韻余情の「芸気」にまで高めたものでしょう。

日本舞踊における残心に、強く興味を持ちました。
太極拳に通底する気づきを、感じたからです。
踊りのお師匠さんが、お弟子さんに こう言って指導しています。
「それじぁ 仕舞いができてないじゃないの」
手先足先まで神経をゆきわたらせて、区切りのお仕舞いまで 踊りきることを、教えているのだと思います。
仕舞いという言葉も、味わい深い いい言葉ですね。


ふりかえって それでは、太極拳教室で「残心」を どう生かせばいいのか。
いや 生かすもなにも、ぼくたちが演武している気功太極拳二十四式は、すべて 残心そのものだと思います。
あえて言うなら、二十四式それぞれの型の終わりが、残心でしょう。
身体的には一見静止しているように見える それぞれの型の終わりは、次の型へ移る前わざと心得て、気持ちは継続しているのです。

気功太極拳二十四式は、まさしく 美しい所作の継続「残心」なのです。
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乙女峠

2011-06-27 10:51:25 | Weblog
昨夜まで激しく降り続いた雨はあがったものの、乙女峠への山道は ぬかるんで、手すりに縋って歩かないと 足をすくわれそうです。
膝を少し痛めている家内には、少々きつかったかも知れません。
乙女峠マリア堂を 津和野の最後の訪問地に選んだことを、ちょっと後悔していました。

足元を、かなり急なせせらぎが流れています。
山の上の方の涼しい空気が、透き徹ったせせらぎの水に運ばれて、汗ばむ首筋を心地よくかすめていきます。
さっき この山道に至る手前の踏切で出会ったC57蒸気機関車の汽笛が、裾のほうから 吹き上がるように聞こえてきました。

木漏れ日が 深い谷に射して、ぬかるんだ山道を きらきら輝かせています。
上から降りてくる一組の初老の男女が、「ごくろうさまです」と 挨拶してくれました。
そのあとは、名も判らない 甲高い鳥の鳴き声と、せせらぎの 岩にはじける音が、聞こえるばかりです。
乙女峠マリア堂へ至る浄化道やなぁ と、遅れて登ってくる家内に 話しかけるともなく、つぶやいていました。



「どちらからお越しなさいました?」
マリア堂の周りを掃除しておられたシスターが、声をかけてくれました。
「京都からです」
そう 家内が答えると、
「そりゃ ようお越しなさいました。京都から小京都へようこそ」
そのとき訪れていたのが わたしたちだけだったからでしょう、親しげに話しかけてくれたシスターは、作業の手を止めて マリア堂の中を案内してくれました。

10畳くらいの小さな聖堂のなかは、きわめて質素でした。
正面がマリア像の祭壇です。
両側の素朴なステンドグラスに描かれた絵を、シスターはひとつひとつ指し示しながら、この キリシタン殉教地「乙女峠」の哀しい出来事を語ってくれました。

そのお話は、胸に染みました。
聖霊に満ちたこの場の雰囲気が、シスターのお話を一層、体中で受け入れられたのかもしれません。

ただ 信仰を持たない私には、ここにそのお話の記述を なし得るところではありません。
永井隆博士の絶筆の書『乙女峠』(サンパウロ刊)に、託します。

マリア堂を出て、梢を抜けて射しこむ陽の光で そこだけが明るいマリア堂山側の平地を、ゆっくり歩きました。
三尺牢に閉じ込められた安太郎が、聖母マリアの幻影に慰められる場面を表した等身大の肖像。
真冬の池に氷を割って裸にして投げ込み、息絶えだえの者を引きあげて 火あぶりの拷問で責めつづけたという、池の跡。
おいしそうなお菓子にも‘ころばなかった’5歳の女の子モリちゃんら、36名の殉教者たちが、聖母を慕う姿を刻んだ碑・・・

小一時間ほどが経っていたでしょうか、帰路を急がねばと、暇を乞うべく マリア堂にシスターをさがしたのですが みつからず、谷川沿いの道を引き返しかけたときでした。
「どうぞお気をつけてお帰りください」
マリア堂を支える小さな石垣のうえに立ったシスターは、そう 別れを告げてくださいました。
家内は、離れた位置のシスターに届くほど大きな声で、暇乞いの言葉を返していました。
私は ただ、深々と頭を下げるだけでした。
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聖林寺十一面観音立像

2011-06-21 09:43:20 | Weblog
遷都1300年祭を去年終えた奈良は いま、心なしか 訪れる人が少なくなったようです。
ことにここ 聖林寺は、桜井の町の南、多武峯(とうのみね)街道を山のふもとまで辿った 辺鄙な場所にあるから余計、そう感じるのでしょう。

この聖林寺に、どうしても もう一度、拝してみたかった仏像があります。
天平仏の十一面観音立像です。
4月下旬の晴れた日に、それを見に 多武峯へ遠足しました。


天平仏には、推したい像がたくさんあります。
おととしあたりから超有名になった「阿修羅像」、三月堂にところ狭しと立つ「不空羂索観音像」やその脇侍の「日光・月光菩薩像」、「唐招提寺・鑑真和上像」、「東大寺戒壇院・四天王像」・・・
枚挙にいとまがありません。

錚々たるこれら天平像のなかで、どれがいちばん好きかとの難問を投げられたら、ぼくは 迷いながらも、聖林寺十一面観音立像と答えます。
その理由が、このたび この立像に再会して、はっきりわかりました。

信仰心の薄いぼくが言う資格はないのですが、信仰の対象としての仏像は、それにふさわしいお堂にあらねばなりません。
お堂だけではありません。
お堂を含め その置かれた環境、風景や匂いや湿気など いろんな要素を包括した環境が、その像をみる者に その者だけが抱く感情を湧き立たせるのです。

国の貴重な宝を無事に保存するという 相反する条件を超えて、このシチュエーションは、仏像に対峙する ぼくのわがままです。
だから ぼくは、博物館で仏像を観るのを 好みません。

聖林寺十一面観音立像は、このぼくのわがままを すっぽり満たしてくれるのです。


花桃とはちょっと違うなぁと、紅紫色の花に気を取られながら なだらかな石段をあがると、山門に「大界外相」と書かれた結界石が構えます。
この、清浄域と娑婆を区別する標識に気おくれて ちょっと佇むと、勝手に右手遠景が目に飛び込んできます。

さっき尋ねた大神(おおみわ)神社の大鳥居が、三輪山のなだらかな裾に 目立っています。
そこは、古代大和のふるさとです。
その古代大和を北に遠望できる山里の寺、ここが聖林寺です。

子安地蔵さまの本堂を左に、朱い敷物に導かれて階段を登ると、大悲殿の額がかかった鉄筋コンクリート造りの、十一面観音立像のためだけに造られた観音堂。
少し お堂の中で、外のまぶしさから 目を薄明かりに慣れさせないといけません。
目がお堂のなかの明るさに慣れてくると、ガラス仕切りの向こうに、大人の背丈よりかなり大きな 八頭身の観音像が、際立ってきます。
まことに美しい。

この観音さまは、写真うつりが悪いのです。
だから、こうやって直に拝さないと、この美しさが伝わってこない。

野暮な言葉では とうてい表現できないけれど、安らぐんです。
大きな立像なのに、ぜんぜん威圧感がありません。
光背もなく、脇侍もいないからかも 知れません。

前面の それも見上げる格好のお姿しか見えませんが、とても立体感が感じられます。
健康的な胸や腕の肉付き、少しくねらせた 天平仏独特の腰のひねり。
官能的なしな、ではありません。
清純な繊細さ、とも違う。
ひとことで言うなら、人なつかしいお姿なのです。

仏像の神髄は 目と手にある、といわれます。
この立像の目と手は、その神髄そのものです。
ことに、手の美しいこと。
そして、天衣の、得も言われぬ流れ曲線。


たぶん もう拝顔できるのは、これが最後だろう。
死を宣告された人間の言うことのような自分のつぶやきに、自分で苦笑い。
でも きっとこれが最後だろうから、しっかりこの目に焼き付けておかないと・・・

長い間、いや 長い間とも意識せずに、十一面観音立像の前に突っ立っていました。
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無事で申し訳ありません

2011-06-20 14:10:59 | Weblog
16年前の あのときも、そうだった。

神戸の山の手側では、被害の少なかった地域が かなりあった。
でも そのことがかえって、心に重くのしかかる傷となった。
うしろめたさ、という、はけ口のない傷。


6月14日付けの朝日新聞「社会」欄に載った 小さな記事、『南三陸日記』。
その題名は、「無事で申し訳ありません」であった。

南三陸の駐在記者の取材に、Wさん(35歳女性)は、頭を下げて こう答えている。
「申し訳ありません。家も家族も無事なんです」

Wさん一家は、家が高台にあったため、津波の被害を免れた。
しかし、断水が続き、スーパーも雑貨店も流され、この町では生活できそうもない。
「何よりもね、町を歩いていると、周囲に『あんたはいいちゃね、家も車も無事で』と言われている気がして、ときどき胸が張り裂けそうになるんです」
彼女は、先日 少年野球の練習にユニフォームを持って行こうとした息子を きつく叱ったことを、後悔している。
「ほかの子は着ないでしょ。もっと考えなさい」、そう言ったあと、涙が出そうになって、息子を抱きしめたのだという。
<ごめん、何も悪くないのにね>と、心で叫びながら・・・

取材の翌朝、Wさん一家は、隣町に引っ越して行った。
2トントラックを家財道具で満載にして、がれきだらけの町を 何度も振り返りながら・・・


想像するしか、ない。
その痛みは、想像してあげるしかない。

許されるなら、こう言ってあげたい。
「無事で申し訳ありません」、そのお気持ちだけで、十分です。


数字に現れる惨状だけが、報道写真に写る惨状だけが、災害ではない。
そのことを、そのことも、決して忘れてはならない。

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おひさま

2011-06-17 14:30:27 | Weblog
NHK連続テレビ小説「おひさま」の第8週『それぞれの朝』をみているときでした。
たまたま 一緒に、息子も見ていました。

“陽子・・・俺は星になる・・・お前は太陽になれ”と、出征間ぢかの茂樹兄さんが うわごとを言っている場面でした。

「これは、声高やないけど、上質な反戦ドラマやなぁ」
そう、テレビの方を見ながら 話しかけるでもなく話しかけると、息子から 意外な答えが かえってきました。

「いや、単なる反戦やぁない・・・」
「戦争自体を肯定してるわけやないけど、弱音ひとつ吐かず気丈に振る舞った茂樹兄ちゃんを 誇りに思う、そう言うてるやん」

言葉足らずだけれど、そのとき わたしは、息子の言わんとしていることが、十分に理解できました。
そして、まいった、と思いました。

<俺みたいな後ろ向きの暗さは、もう古臭いんゃ・・・>
<いやな時代やと 文句ばっかり言うてても、なんにもええことないわなぁ>
わたしは、声にはしませんでしたが、そう 息子に話しかけていました。

息子の、親の欲目でいうところの、成長した姿を垣間見たようで、とてもうれしい気持ちになったのでした。
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鯨法会

2011-06-16 00:18:19 | Weblog
18年前、朝日新聞の<天声人語>で はじめて目にした、短い詩。
金子みすゞの『大漁』という詩から受けた 湧きあがるような清い興奮は、いまでも忘れることができません。

あの優しさは、いったいどこから来るんだろう。
金子みすゞのふるさと・仙崎に行けば、なにか わかるんじゃぁないだろうか。
ずーっと そう思ってきました。


金子みすゞさんは、26年の短い命の間に、たくさんの詩を残しました。
どの詩を読んでも、どの詩を口ずさんでも、溢れる優しさ。

鯨を詠んだ詩があります。
『鯨法会』という詩です。

   鯨法会は春のくれ、
   海に飛魚採れるころ。
  
   浜のお寺で鳴る鐘が、
   ゆれて水面をわたるとき、

   村の漁師が羽織着て、
   浜のお寺へいそぐとき、
   
   沖で鯨の子がひとり、
   その鳴る鐘をききながら、
   
   死んだ父さま、母さまを、
   こいし、こいしと泣いてます。

   海のおもてを、鐘の音は、
   海のどこまで、ひびくやら。

みすゞと仙崎、仙崎と鯨、鯨とみすゞ・・・
そのことを、堂々巡りで考えていました。

そんなとき、ネットで「長門くじら資料館長ブログ」というウェブサイトを知りました。
そこには、鯨とみすゞの詩が、鯨とみすゞさんを心から愛してやまない館長の言葉で、綴られていました。
みすゞと仙崎、仙崎と鯨、鯨とみすゞ・・・
この堂々巡りが、長門くじら資料館長の暖かい文章から、徐々に確信ある思いに変わっていきました。

長門くじら資料館は、仙崎の北に浮かぶ青海島の東部、通浦(かよいうら)にあります。
その近くには、鯨墓や鯨位牌、鯨鯢過去帖を祀った向岸寺もあります。
みすゞの詩の原点を知りたいなら、通浦を訪ねなければ・・・

ということで、おもいきって 山口県長門市仙崎をたずねました。


仙崎は、鯨の町でした。
近代捕鯨は、ここから発祥しています。
日本遠洋漁業株式会社、のちに東洋漁業株式会社となり、捕鯨王国日本を担いました。
捕鯨は廃れましたが、ニッスイに合併されて 今日まで続いています。

でも 仙崎の人たちの心根は、同じ捕鯨でも ノルウェー式砲殺捕鯨ではなく、古式捕鯨に対してであった、と思います。

近代捕鯨を牽引したノルウェー式砲殺捕鯨法は、古式捕鯨法とは 捕獲数で比べものにならないくらい大量の鯨を 捕獲しました。
乱獲と言っていいでしょう。
古式捕鯨では、「鯨一頭捕れば七浦うるおう」、そういう時代でした。
少なくとも 通浦の捕鯨は、最後まで古式捕鯨をつらぬき、浦人たちは、海によって生かされ、鯨に感謝して生きていたのです。

もともと仙崎湾は、流れ鯨や寄り鯨で 恵みを受けていました。
鯨は、冬期の日本海を、出産と育児のために南下します。
だから仙崎では、捕鯨の漁期は、冬場でした。
そして 仙崎湾に迷い込む鯨には、受胎した母鯨も多くいたのです。

ふところ深い仙崎湾に迷い込んだ鯨は、時計回りに湾を旋回して、青海島東端の通浦に達します。
鯨の進路上に張られた網に 鯨を追い込み、網を絡ませて動きが鈍くなったところを 銛(もり)で突く、そういう「網掛け突き捕り法」は、まさに人間と鯨の死闘でした。

残酷という見方もできます。
その代表が、シーシェパードでしょう。
和歌山県太地町のイルカ漁を盗撮して アカデミー長編ドキュメンタリー映画賞をとった「ザ・コーヴ」に共感する自分が、どこかにありました。
「鯨上ると七浦枯れる」ということも、事実だったと思います。
鯨解体による地面海面の汚染、鯨骨や内臓が解体事業場から海に投棄され、海藻や貝に付着して 鯨漁以外の漁業に与えた悪影響もあったでしょう。

でも 長門くじら資料館を訪ねたいま、残酷という見方は、もっと大きなものに飲み込まれて 消えました。

通(かよい)という地名から想像できるように、通浦へ行くには 仙崎から船で通うしかありませんでした。
いまは 青海大橋があり、青海島を横断して 舗装された道が、通浦へ通じています。
くじら資料館のうしろ、小高い山手に 鯨墓があります。
墓地には、七十数体の鯨の胎児が葬られています。

墓碑の正面に「南無阿弥陀仏」、その下に「業尽有情(ごうつきし うじょう)雖放不生(はなつといえども しょうせず)故宿人天同証仏果(ゆえに にんてんやどし ぶっかをしょうせしめん)」と刻まれています。

“前世の因縁で宿業の尽きたために、捕えられた野生の鳥獣たちよ。おまえたち野生動物は 放して天然のままにおいても、どうせ長くは生きられず、野たれ死にする運命にある。だから 人間すなわち成仏できる肉体の中に取り入れられ、それによって人と同化して 成仏するのがよろしかろう”

一見、人間に都合のよい きわめて勝手な言い分、のようにも思えます。
しかし、人間も いかなる動物も、‘他’の生を犠牲にしてしか 生きられない。
このことを 真剣につきつめれば、犠牲になってもらう‘他’に、「かんにんしておくれ」と手を合わすしかない。
だから その本意は、「我々の目的は 本来、おまえたち胎児を捕るつもりではなく、むしろ 海中に逃がしてやりたいのだ。しかし おまえ独りを海へ放ってやっても、とても生き得ないだろう。どうか憐れな子等よ、念仏回向の功徳を受け、諸行無常の悟りを開いておくれ」、そういうことなのです。


通浦からの帰り道、大日比(おおひび)の西円寺(さいえんじ)に立ち寄りました。
意匠を凝らした禅宗風の山門をくぐると、簡素ではあるが 堅実な造りの本堂が、大日比の海に面して 堂々と構えています。
向かって左が 男用入口、右が女用入口の、念仏道場。
世界最初の日曜学校、小児念仏会(こどもねんぶつえ)を始めたお寺です。

毎月 子どもを寺に集め、法話や昔話を語り、仏前に供えた菓子を与え、共に念仏を唱えさせたといいます。
みすゞさんも、この日曜学校に参加したに ちがいありません。


金子みすゞが生きた時代、すでに古式捕鯨は終わっていました。
古式捕鯨の状況をリアルに生々しく表現した『鯨捕り』という みすゞの詩の一節に、「いまは鯨はもう寄らぬ、浦は貧乏になりました。」とあります。
その発端は、ペリーの浦賀来航にあるのです。
その辺の事情は、川澄哲夫氏の著書『黒船異聞』に詳しいのですが、みすゞさんへの思いには むしろ要らぬ知識かもしれません。

金子みすゞの詩には、鯨によってもたらされた恵みへの感謝や憐憫の情が強く働いている、そのことが知りたかっただけです。


青海島から仙崎の町へ 橋を渡る手前に、こんもりとした丘があります。
王子山です。
この丘の上に立つと、仙崎の町が、まさしく みすゞの詩『王子山』に描かれた風景として 広がります。

左に仙崎湾、右に深川(ふかわ)湾、挟まれてくびれた仙崎の町並み。
512編の詩に描かれた、この小さな町のなかの、いたるところに、みすゞさんの明るく、美しい思いでが詰まっています。
みすゞさんにとって、この景色は まさに竜宮でした。
そして いま、こうして見下ろしているぼくにとっても・・・
金子みすゞを取り囲んでいた すべてのもの、風景や人情や習慣、そして もう捕れなくなった鯨への思いが、あの詩からあふれ出る優しさの原点でした。

王子山から仙崎の町を見下ろしながら、そのことを強く感じ取っていました。
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攬雀尾

2011-06-08 10:34:08 | Weblog
太極拳二十四式に、攬雀尾(ラン チュエ ウェイ)という型があります。
それも 左攬雀尾と右攬雀尾の二つが入っています。
二十四式に同じ型が左右二度現れるのは、この攬雀尾を含めて 三つしかありません。
二十四式の創始者は、攬雀尾という型を重要視したのでしょう。

攬雀尾の「攬」は、「せき止める」の意であり、「雀」はクジャクを表します。
つまり、「クジャクの尾で相手の攻撃をせき止める」と解せます。

クジャクの尾といえば、雄クジャクの あの見事な飾り羽を思い起こします。
クジャクの見事な飾り羽で 敵の攻撃をせき止める とは、なんとも優雅な発想です。
しかし、飾り羽で 攻撃してくる相手を、どうしてせき止めることができるのか。
そんな どうでもよさそうな疑問が、太極拳二十四式を演武しながら、ふっと湧いてきました。


あの飾り羽は 雌にアピールするための羽、との解釈が一般的です。
異性間淘汰、つまり 異性による選り好みの産物ということでしょうか。
そんなもので、攻撃者を防げるのだろうか。
疑問が興味を呼び、すると クジャクという生き物について、ほとんどなにも知らない自分に気付きます。

美しい鳥としてのイメージは、クジャクを凝視することで覆る、と聞きました。
その啼き声は、‘人間を脅かすほどの声量’で、その頸は、‘毒々しい青色の光’を放っています。
毒蛇や毒蜘蛛までも容赦なく食らって、その大きな体のための蛋白源とする、というのです。
美しい飾り羽からイメージするクジャクとは程遠い、気味悪さを秘めています。

クジャクで連想されるのは、高松塚古墳に描かれた朱雀であり、宇治平等院の屋根を飾る鳳凰であり、キリンビールのラベルに描かれた麒麟です。
いづれも 実在するクジャクからの発想でしょう。
ただ姿かたちが美しいという理由だけでなく、クジャクという生き物の持つ生命力に、空想力豊かなそれぞれの作者は、こころ惹かれたのでしょう。


太極拳は、防御の拳法です。
太極拳の先覚は、動物の動きを詳細に調べて その技をあみだしたのだそうです。
鴨しかり、鶴しかり、蛇しかり、です。
ならば クジャクの動きにも、その技の源を見出したはずです。
太極拳の先覚は、クジャクの見事な飾り羽が 防御手段となっていた現場に、立ち会ったのではないか。
そんな空想が湧いてきます。


では、クジャクの飾り羽が 戦闘の防御手段に、どういう風に役立っているのでしょうか。

調べてみると エスカレートして、「進化生物学」なるものにまで 至ってしまいます。
この進化生物学という分野は 実におもしろそうなのですが、ダーウィンの絵本程度の ぼくの基礎知識では、あと20年かかってもまともに理解できそうもありません。

ちょっと わかったことがあります。

雄クジャクがあの美しい羽を広げるのを、ディスプレイ行為といいます。
この行為は、繁殖期に雌の前で行うことが多いのですが、繁殖行動とはまったく関係のない場面でも行うらしいのです。

雄クジャクの華美な羽は、実は尾の羽ではなく、上尾筒(じょうびとう)という尾羽の付け根の上側を覆う羽、いわば腰の羽だそうです。
腰の羽がこんなに長いことは、捕食されやすいという ハンディキャップに他なりません。

そんなハンディを負う羽を、雌の前でどうだ美しいだろうと広げるのは、自分は寄生虫などに冒されていない健全な個体だぞ と、アピールしているのでしょう。
このディスプレイ行為を、意中の雌に対してだけでなく、縄張りを狙う他の雄や 外敵に対してもする、というのです。

ということは、戦闘を行う前に ハンディを負う羽を 堂々と相手に示して、むやみな争いを避ける狙いがある、と解釈できます。
誰とでもむやみに戦う戦略が、「進化的に安定な戦略」ではないからです。


太極拳の先覚は、こんなことまで理解していたとは思えませんが、クジャクの飾り羽の威力を 動物的嗅覚で感じ取っていたに違いありません。

攬雀尾という、太極拳二十四式のひとつの型から、こんな空想をしていました。

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職場と住居

2011-06-07 17:50:22 | Weblog
わが家に、ひとつ、家内と二人だけで大切にしている‘宝もの’があります。
河井寛次郎の《白地草花絵扁壺》。
ミラノ・トリエンナーレ・グランプリ受賞作の、あの扁壺の、一回り小ぶりな作品。
義母が生前、だぶんこれは 寛次郎のもんやろ と、家内に譲ったものです。

ぼくは、正直言って、焼きものに興味がありませんでした。
本音は、焼きものの良さが よくわからなかったのです。
でも この扁壺には、惹きつけられるものがありました。

河井寛次郎は、ごく初期の作品以外、自分の名を 作品に刻みませんでした。
だから これが寛次郎作かどうか、定かではありません。
でも そんなことは、どうでもいいのです。
ぼくたち二人とも、この扁壺を たいへん気に入っている、焼きものに疎いぼくにも、それが美しいと感じられる。
だた、それだけでいいのです。

河井寛次郎については、彼の書いた書物『火の誓い』を読んで以来、その真摯なものづくり姿勢に 好感を持っていました。
その感性の表現力に、魅了されていました。
だから ぼくの場合、陶芸家・河井寛次郎よりもさきに、文筆家として惹かれる 随筆家・河井寛次郎がありました。


一度 訪ねてみたい、かねがねそう思いつつ 果たせなかった地が、京都にあります。
「河井寛次郎記念館」です。
先日、この、寛次郎自宅であり 仕事場でもあった記念館を、たずねることができました。
東山五条の一筋西の筋を南へ、渋谷通りへ抜ける手前に、「河井寛次郎記念館」はあります。

玄関を入ると、もうそこは、懐かしい やすらぎの雰囲気に包まれています。
玄関に続く土間を進むと、その右に 囲炉裏のある広々とした和風空間。
まんなかが、吹き抜けです。
吹き抜けの上から、滑車がかかっています。

二階へあがる階段スペースが、とても味わい深いのです。
吹き抜けの三方から階下を覗ける二階の、これまた にくいほど味のある間取り。
二階南寄りの書斎空間の大きな窓からの眺めが、ぼくは好きです。
中庭を挟んで、鉤の手に曲がった渡り廊下から茶室、素焼窯の棟へ連なる、段々流れ屋根の美しいこと。
そして、その奥に、陶房を経て 登り窯があります。

落ち着くのです。
この安心感は、いったいどこから来るのだろう、と考えました。

「有名は無名に勝てない」という寛次郎の言葉で尽くされるように、極めた無名の職人感性が、この家のいたるところに しみ込んでいます。
それら 極上質の職人感性が、この場にいる者に、ほっとする落ち着きを感じさせるのでしょう。

しかし ぼくは、それだけではないように思います。
住居空間であるこの書斎から、職場である窯場を眺めている、そういう状況。
河井寛次郎は きっと、この感覚が好きだったに違いありません。


40歳代半ばのころ、尊敬する得意先社長に「職場と居宅は離さんとあかんで」と言われました。
「あんたはええやろが、奥さんや家族が辛い思いするさかいなぁ」。
この社長の言う通りでした。
それは、自分でもよくわかっていました。
でも、休日の電話応対や 夜遅く出先から戻る社員のことを考えると、職場と居宅がひっついている方が なにかと便利です。
いや それは言い訳で、職場が近くに感じられないと 落ち着かなかったのが、本音です。
ずるずると、職場と居宅がひっついたまま、この歳まで きてしまいました。

河井寛次郎記念館の二階書斎の窓から、仕事場の南棟を眺めていて、そのことを考えていました。
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エデンの園

2011-06-01 13:41:56 | Weblog
すべてを預け切ったとき ああいう愛しい眼差しの顔になる女性が 絵のなかにでもいた、ということが、ものすごい大きな発見のように思えて、なんだか うれしくなりました。

その絵というのは、リヴィエール作の『エデンの園』。
ロンドンのギルドホール・アート・ギャラリーが所蔵する、雨上がりの公園を歩く若い男女の絵です。
と 言っても、かの地で 実物の絵をみたわけでは もちろんありません。
徳島県鳴門にある大塚国際美術館に展示された陶板複製画で、彼女を知ったのです。


宝くじどころか、町内の地蔵盆景品くじ引きでも いつもはずれ籤を引いている家内が、フルハップの招待抽選申し込みに当りました。
大塚国際美術館の入場券2枚です。
ささやかな当選かも知れませんが、こういうものに運がまったくなかったから余計、大喜び。
大きな儲けでもした気分で、さっそく日帰り鳴門旅行となりました。

大塚国際美術館のうわさは かねがね聞いていましたが、立派なものですね。
陶板美術の良さは、壁画などの建築がらみにある、と知りました。
ただ 額の絵は、陶板画ではどうしても 絵具の凹凸による味わいをだすことはできません。
それにしても、複製画の大きさ、その精緻さ、数の多さには 圧倒されました。

広い館内を歩きまわって だいぶ疲れが出だしたころ、あの『エデンの園』に出会ったのです。


上目で恋人らしき男性を見つめる 幸せいっぱいの表情をした彼女は、ツバのないロシア帽風のキャップを 浅めに被り、暖かそうなコートにロングスカート。
自分の左手を握っている恋人の右手の上から、革手袋の右てのひらを そっと添えています。
少し前歯を見せてほほ笑む口元の、愛らしいこと。

山高帽をかぶった男性は、左手に、自分のと たぶん彼女のとの傘を 二本持っています。
表情は、彼女側を向いていて よくわかりません。

公園の木々は 裸の枝を張り、霧で霞んだ向こうの道路には 馬車が止まっています。
地面は濡れて、薄日に翳る二人の影を映しています。



題名『エデンの園』を、どういう意図で命名したのか、この絵の前にしばらく立ち止まっていて、ふと そんな疑問がおきました。
「一度は追放された2人が、罪をあがなって、エデンの園に帰ることを許された、現代のアダムとイヴ。」
この解説には、どうも しっくりときません。
作者リヴィエールという人について 全く無知ですが、彼の理想の女性像という意味で エデンの園なのか、とも想像します。

まぁ、そんなことは どうでもいいこと。

ともあれ、なんだか変な気分ですが、絵のなかの彼女に、惚れてしまいました。
自慢の恋人を だれかれとなく紹介したくなるのと同じ気分で、紹介させていただきます。

コメント (4)
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