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つれづれ

思いつくままに

抑制T細胞

2010-06-29 13:59:05 | Weblog
寝不足の目が、しょぼついています。
日本中が けさは、眠い朝を迎えたでしょう。
ワールドカップ日本代表、ほんとによく頑張りました。
残念だけれど、すがすがしさが勝ります。
選手たち、ほんとうにごくろうさまでした。

ところで この感動は、脳の支配を受けているとは思えません。
自然に叫び、自然に悔しがり、自然に手を振り上げる。
これは、脳のイメージによって作り出され 脳に振り回されている‘脳化社会’とは、無縁です。
脳も身体の一部として、日本代表に声援を送っている、そう解釈したい。
脳の支配しない世界は、なんと快感であることか。

免疫学者・多田富雄氏が このパラグァイ戦をご観になっておられたら、ぼくの解釈に賛同してくださる、そんなふうに空想したいです。


「長い闇の向こうに、何か希望が見えます。そこには寛容の世界が広がっています。予言です。」
6月23日のNHKニュースウオッチ9に流れた、多田富雄氏が亡くなる直前のインタビューで語られた言葉です。
宇宙人がしゃべっているような、トーキングマシンの音声で・・・

多田先生は 世に知られた免疫学者ですが、その名が広く知れ渡るようになったのは、5年ほど前に放映されたNHKスペシャル「脳梗塞からの“再生”~免疫学者・多田富雄の闘い~」からではないでしょうか。
このドキュメンタリーには、背筋が震えるほどの感動がありました。

同類の医学分野で活躍され 長い闘病生活を送られている 遺伝学者・柳澤桂子女史との対話集『露の身ながら』(集英社文庫)に、多田富雄氏は 包み隠すことなく、偉大なる凡人ぶりをさらけ出されています。
「体が動かなくても、言葉がしゃべれなくても、私の生命活動は日々創造的である」、免疫学者としてだけでなく、ひとりの高尚な知性の持ち主として、その知性という誇りを武器に、迫りくる病魔に毅然として挑まれた姿は、神聖としか言いようがありません。


ところで、人間の生物としての原初的生理反応である‘免疫’は、専門的知識がなくとも 興味津々の世界です。
誰しも、自分自身の身体の出来事だからです。
免疫は、脳が支配する世界ではないからです。

この免疫という 生命活動維持に欠かせない生理医学用語を、多田先生は、著書や対談を通じて、ご自身の闘病生活をさらけ出す映像を通じて、判りやすく説いてこられました。
それは、医学の狭い領域から大きく広がった 人間の生き方そのものに関わる示唆でした。

免疫反応は、人体の外から襲ってくる病原菌や毒素をやっつけてくれるような善玉作用ばかりでなく、アレルギーやアトピーのような免疫過剰反応として、免疫疾患の原因ともなります。
多田富雄先生が発見された“抑制T細胞”という免疫リンパ球は、こういう免疫過剰反応を抑える働きをしているのだそうです。
ただ 抑制T細胞も、水戸黄門役ばかりとは限らない。
せっかく 外敵をやっつけようとしている善玉活動をも、抑制してしまうことがある。
多田先生は、攻撃も抑制も 善悪の判断はできない、とおっしゃっています。

免疫細胞に、もともと目的性はありません。
敵(非自己)と自分(自己)を適切に区別できなくて、自己を攻撃しはじめることもあります。
曖昧なのです。
この先見性のない免疫細胞が 一揃い温存されると、未知のいかなるものが侵入してきても対処しうる、広い反応性を持つようになる。
これを、免疫系の自己目的化というのだそうです。
多田先生は これを、人間社会、ことに日本の官僚システムに模しておられます。

免疫系は 基本的に、外部からやってくる病原菌や毒素である「抗原」つまり「非自己」には、不寛容です。
その代表が キラーT細胞で、9.11事件以後のブッシュ・アメリカが辿った行動は、まさしく「不寛容行為」そのものでした。
多田先生が強調されているのは、基本的に不寛容な免疫系にも、「寛容」に働くという例外があるということです。

免疫の「寛容」作用。
多田富雄先生は、40年前に自ら発見した‘抑制T細胞’を深く追求され、人間としてのありように思いを至らせるとき、おのずと「寛容」という言葉に行き着かれたのだと、ぼくは勝手に解釈しています。

「長い闇の向こうに、何か希望が見えます。そこには寛容の世界が広がっています。」
この多田富雄最後のメッセージは、寛容を人間の大きな徳の一つとしてきた日本人に、勇気を取り戻してくれます。

6月13日に60億kmの宇宙旅行を終えて帰還した“はやぶさ”、昨夜のサッカーワールドカップでの日本チームの粘り、そして 多田富雄氏の最後のメッセージ・・・
日本の未来に、一条の光が射したようです。
なんだか、元気が湧いてきますね。

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西村加代先生から教わった数々のこと

2010-06-25 01:16:09 | Weblog
「先生、手っ取り早く太極拳がうまくなるコツはありませんか」
15年前、西村加代先生に投げかけた質問です。
いまから思えば、なんと間抜けな質問をしたことか。
先生は、ぼくの目をにっこり見てから、こう一言おっしゃっいました。
「退歩(トゥィブ)を、くり返し、練習してごらんなさい。」
退歩とは、後ずさりするような 太極拳独特の、足の運び方のことです。

あのとき すでに、西村先生は、ぼくの性格を 良いところも悪いところも、ちゃんと見抜いてられたのだと思います。
早くうまくなりたくて、退歩をくり返しくり返し練習し そうしているうちに、腰が据わるという感覚を、ぼんやりながら つかむことができました。
ただ 腰の据わりの感覚をつかむだけなら、退歩でなくて、上歩(シャンブ、前進する足の運び方)でも 側行歩(ツォシンブ、蟹歩きのような横への足の運び方)でも、良かったのかもしれません。

後ずさりする快感を覚えたことが、当時なによりもの収穫だったと、このごろやっと判ってきました。
ぼくには 『退歩』の練習が、太極拳の小手先の上達よりも もっと大切なこと、下がることによって衝突を避けて共存することも、生きていく上で必要だという考え方を学ぶには、いちばん“手っとり早いコツ”だったのです。
譲ること 負けることが大嫌いなぼくの性格を、西村先生はちゃんと見抜いていてくださったのだと・・・。

西村加代先生は 敬虔なクリスチャンで、シスターとして世界各地の僻地で奉仕されてこられました。
どうしてクリスチャンになられたのか、また どうして太極拳の講師になられたのか、それを先生に質問することは、無神経なぼくにもできませんでした。
3年前の年末に 太極拳を教える場で、くも膜下出血で倒れられ、4日間死線をさまよわれたました。
しかし、その一か月後にはリハビリを始められ、長年培われた太極拳をご自身のリハビリに徐々に適用されて、不屈の精神力で奇跡的な回復を遂げられました。
去年の4月からは、太極拳を広く患者さんたちのリハビリに採り入れるべく、リハビリ療養士さんたちに太極拳を指導されています。

ほんの少し剣道を習ったことのあるぼくは、西村先生の太極拳教室へ入るとき、剣道場と同じようにお辞儀をしていました。
先生は褒めてくださったけれど、それは、先生の鼻歌が教室から聞こえてきて、その鼻歌がとても神聖な気がして、自然にそうしていたのです。
教室に少し遅れて行ったときなど、先に来られていた生徒さんたちと談笑されていることが多かったのですが、ぼくはなかなかその輪に入っていけません。
数回そういうことがあってから、「いま、こんなことをお話してたんですよ」と、先生の方からぼくに声をかけてくださるようになりました。
先生のお心づかいのおかげで、人と接することの苦手だったぼくは、1か月も経たないうちに教室に打ち解けていけたのです。

西村先生は、本をたくさんお読みでした。
あるとき、生徒さんたちに「皆さんがいままでお読みになった本のなかで、一番感動された本を、貸していただけませんか」とおっしゃいました。
愛読書を通じて 生徒さんひとりひとりをもっと知りたいというお気持ちもあったでしょうが、ご自身の飽くなき読書欲によるほうが大きかったと思います。
ぼくは、竹山道雄著の『ビルマの竪琴』をお貸ししました。
ぼくにとって、『ビルマの竪琴』は、文字通り座右の書だったからです。
ぼくにとって、水島安彦は、当時 生きる道しるべでした。
よくよく考えれば、クリスチャンの西村先生に『ビルマの竪琴』は、ちょっと変だったのかなぁ、と・・・
でも、先生はちゃんと読んでくださって、「とってもいいお話でした、ありがとう」とおっしゃいました。

先生からたくさんの本をお借りして、お借りした本は全部読みました。
遅読のぼくには、だいぶ努力が要りましたが、自分ではたぶん選びはしない本を、それも感銘を受ける本を数多く読めたのは、西村先生のおかげです。
すぐ思い浮かぶ書名だけでも、次のような本でした。
斎藤孝著『宮沢賢治という身体』
斎藤孝著『教師=身体という技術』
曽野綾子著『中年以後』
斎藤孝著『身体感覚を取り戻す~腰・ハラ文化の再生』
甲野善紀著『古武術からの発想』
佐藤初女著『おむすびの祈り』
斎藤孝著『自然体のつくり方』
曽野綾子著『晩年の美学を求めて』
斎藤孝著『子どもたちはなぜキレるのか』
斎藤孝著『座右のゲーテ』
曽野綾子著『心に迫るパウロの言葉』

斎藤孝氏は いまでは名の知れた知識人ですが、西村先生は 早くから斎藤孝氏の身体に対する深い造詣に、関心を持っておられました。
甲野善紀氏についても、古武術の身体感覚と太極拳の身体感覚との関連性から、早い時期に甲野氏の考え方を、先生から紹介していただきました。
佐藤初女氏 曽野綾子氏 ともに、西村先生の尊敬の念を通じて、彼女らの輝きの一部を知ることができました。
ことに 曽野綾子女史は、同じ信仰者としての親しみを お持ちだったのだと思います。
お借りした本の中で、一番多く読んだ著者であり、ぼく自身 一番強く影響を受けた著者でした。

ぼくは、信仰を持っていません。
しかし、正しい信仰者の強さ、やさしさ、すごさは、理解できます。
いくばくかは、そんな強さ やさしさにあこがれて、信仰を持てたらいいのになぁ とは思います。
でも たぶん、無理だと思います。
それでも 少しでも、近づける努力だけは怠るまい、そう考えています。
まじかに、西村先生のような篤信者に接することができたことは、太極拳に寄り添えたことに劣らず、ぼくにとって 幸いな出来事です。

ぼくは、西村先生の“下姿独立(シァシドゥリ)”の型が大好きです。
リハビリ療養士さんたちを相手に、あの“下姿独立”を披露されている 西村太極拳老師(ラォシー)を、いま鮮やかに 目に浮かべることができます。

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孤高のメス

2010-06-12 15:42:59 | Weblog
NHKハイビジョンテレビの『100年インタビュー』に、陶芸家の14代目酒井田柿右衛門氏が登場しました。
焼物に まったく無知なぼくは、最初 軽く聞き流していました。
一通り工房が紹介されたあと、渋い離れで インタビュアの渡邊あゆみさんが、柿右衛門氏に しだいしだいに突っ込んだ質問をしていきます。
ゆっくりと、にじみ出すように、柿右衛門氏は これに答えていきます。
柿右衛門陶器の特徴は、『濁手(にごしで)』『赤絵』『余白』だと知りました。
ぼくは、『濁手』の話に、とくに強く惹かれました。

濁しとは、佐賀の方言で 米の研ぎ汁のことを言うのだそうです。
米の研ぎ汁のように温かみのある白色の地肌をもつ素地が、濁手です。
柿右衛門氏は、濁手について、興味深い 彼の思いを語ってくれました。

李朝白磁やマイセンは、ピュアーな白、混ざりけのない白を旨とします。
一方 濁手の白、ことに初期柿右衛門の濁手の白は、温かみのある乳白色です。
不純物を完全に除去できない素材の味が、にじみ出ているのです。
日本人の感性は、この不純物が醸す微妙な味を感じ取り、そこに美を見出します。
純粋はきれいだけれども、きれいなだけでは 美しいとは言えません。
濁手の美しさは、不純物の味なのです。

表現は正確ではありませんが、柿右衛門氏がおっしゃった意味は、おおむね上のようなものだったと記憶します。
自分に確かめ確かめ語る柿右衛門氏の言葉は、ひとことひとこと ずしんと心に響きます。
美術評論家では聞けない、ものづくり現場を嘗めつくした達人の言葉に、酔いしれました。

きれいなだけでは 美しいとは言えない。
この言葉は、深い深い意味を蔵しているように思います。

ところで、近頃 街で見かける若い女性は、みんなきれいに見えます。
でも ぼくには、みんな同じようなきれいさに見えてしまいます。
化粧の仕方のせいなのでしょうか。
14代目柿右衛門氏の言葉が、よぎります。


柿右衛門氏の崇高なお話から、ぼくの好きな女優さんの美しさを分析するのは、気が引けるのですが・・・
濁手の美の話から、大原麗子さん、夏目雅子さん、そして夏川結衣さんの美しさの秘密を、連想してしまいます。
彼女たちは もちろんきれいな女優さんですが、単にきれいなだけじゃない。

去年の夏 寂しすぎる去り方であの世へ旅立った大原麗子さんは、ぼくと同世代の女優さんのなかで、いちばんかわいくて いちばん魅力的な人でした。
サントリーレッドのCM<少し愛して・・・なが~く愛して>は、貴重な国民的文化遺産だと 勝手に考えています。
大原麗子さんには、甘えん坊とか、ハスキーボイスとか、天然とぼけとか、そういった ひとつ間違えば欠点と捉えられかねない不純物が 含まれていました。
そういう不純物が、彼女に 抱きしめたくなるほどの魅力を、付与していたのだと思います。

27才という若さで夭逝した夏目雅子さんは、佳人薄命を地で行くような、稀にみる美人でした。
彼女のとろけるような美しさは、どこから来るのでしょう。
ぼくは そのことを考えるとき、決まって 興福寺の阿修羅像を思い浮かべます。
夏目雅子さんの眉や目元と、阿修羅像のそれが重なってしまうのです。
内面的な秘めた苦悩、これ見よがしでない人間臭さが、彼女に怪しげな美しさを与えているように思えます。
これは、完ぺきではない証左としての不純物だと、言えなくもありません。
この 不完全さゆえに共感できる美しさこそ、夏目雅子さんが いつまでもみんなに愛され続けている理由でしょう。

夏川結衣さんは、お日様みたいな女優さんです。
姉御肌と評されていますが、あんなにあったかそうな女優さんを、ぼくは他に知りません。
一緒にいたら 口げんかばかりしていそうな、それでいて いつもそばにいて欲しい、気の置けない美しさに満ちています。
この 屈託のない夏川結衣さんの美しさは、実は 人見知り、孤独性の裏返しのような気もします。
だから、ほっておけない明るさなのです。
これも、除ききれない不純物を持っているが故の いとおしい美しさだと、勝手に解釈しています。


さて、その夏川結衣さんが、彼女自身が出演している映画『孤高のメス』について、ある雑誌に こう語っていました。
「演じていて、私は浪子がすごくうらやましいと思いました。彼女は、自分の一生に関わるほどの影響を与えてくれた人と出会えたのです。一番大事な、生きるヒントをもらったのです。」
命をつなぐとは何かを、観る人それぞれの立場から見ていただけると思います、夏川結衣さんは、自信を持って そう語っていました。

夏川結衣、そしてもうひとり 気になる女優さん、余貴美子も出演しているし、大鐘稔彦(おおがねなるひこ)著の原作(幻冬舎刊)は文庫本でも全6巻で とても読破できそうもないし、これは映画をみるしかない・・・ということで、映画『孤高のメス』を観にいきました。

20年前、まだ脳死肝移植が認められていなかった時代にオペを決断した医師・当麻(とうま)と、その当事者家族の物語です。
夏川結衣さんのコメントに、偽りはありませんでした。
映画『孤高のメス』は、難題の臓器移植を騒ぎ立て過ぎずに正直描写しながら、臓器移植に関わる人間模様のほうを主題にしていて、見ごたえ十分でした。
医療ものの映画やドラマが多作されるなか、この映画は、きわめて良質の出来だと思います。

孤高とは、主人公・当麻鉄彦の生きざまをさした表現でしょうが、孤高という言葉、いいですね。
孤独でも、孤立でも、もちろんありません。
ピュアーでもないと思います。
むしろ ピュアーでは、孤高ではありえない。
清濁併せ持ちながら、己の信ずるところを、超然と貫き通す。
自己の濁りを、俗っぽい「水清ければ魚棲まず」的な濁りとして茶化すのではなく、その濁りを本性と見抜いて、あえてその濁りを忘却した姿が、孤高なのではないか。

当麻医師の姿は、濁手を熱く語る14代目柿右衛門氏に重なり、ともに まさに孤高の人のように思えました。
一生にひとりでいいから、人生に影響を与えてくれる人に出会いたい。
この夏川結衣さんの願いは、きっとこういう孤高の人なんだろう、そう確信できました。

孤高のメス、ほんとうにいい表題です。
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手動の楽しさ

2010-06-03 09:20:46 | Weblog
製麺機械を設計していて、このごろ強く考えさせられることがあります。
それは、「手動」のシンプルさ、親しみやすさ、判りやすさ、無理のなさ、です。

「手動」が持つ利点を 機械側から表現するなら、‘手動は人力以上に無理じいせず、同時に 人間の頭脳という優秀なセンサーでコントロールしてくれる’ということです。
これは、機械にとって とても優しい利点です。
同時に、機械のコストダウンに直結する大きな要素でもあります。

機械は、つらい重労働から人間を解放してくれました。
面倒な仕事、単調なつまらない仕事、ひとりの人手ではとてもできない仕事、そういう‘非人間的’な仕事を、機械が人間に代わってやってくれます。
このことは、すばらしいことであり、人間の英知のたまものです。

でも、行き過ぎた自動化は、決して人間を幸福にしません。
そのひとつが、「手動」の‘人間らしい’楽しみを奪うことです。

本来、‘人間らしい’仕事は、楽しいものです。
指先から感じ取れる微妙な違いを察知して、素早く適正な処置を講ずるときの、動物的な反応の心地よさ。
しくみが理解できる悦びと、ときには自ら修理できる満足感。
これらは、視覚、聴覚、嗅覚、触覚、ときには味覚までも総動員して、機械とのふれあいの楽しさを味わえる醍醐味です。
自動機械、ことに全自動機械では 味わう機会がきわめて少ない 楽しさなのです。

この例えは適切ではありませんが、昔のポンコツ自動車には ボンネットを開ける楽しみがありました。
オーバーヒートの原因が 素人ながらも理解でき、ときには自ら修理することができたのです。
こういう懐古的な楽しみだけではなく、「手動」は、人間本来の本能的な悦びを満足させてくれる要素を、確かに持っています。

これからの機械設計者には、何でもかんでも自動にするのではなく、安全性を最優先しながらも、その機械を扱う人の人間性を尊重する配慮が大きく求められるときに来ている、そう強く思います。
その具体的な手段が、「手動」だと。

手動を最大限取り入れた 自分の設計商品を前に、『使いやすい機械だよ』と褒めていただいたお客様のお顔を、いま思い出しています。

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