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つれづれ

思いつくままに

クスノキの番人

2020-04-28 16:28:51 | 

コロナ騒動で、家にいる時間が多い。
積ん読の本を このときとばかりに読み試みるのだが、2, 3ページ読むだけで  うとうと居眠ってしまう。
ところが この本だけは、「寝る間も惜しんで」読み切った。
東野圭吾著『クスノキの番人』である。

映画やテレビドラマでも、「東野圭吾・原作」なら まず当たりはずれはない と、安心して観劇できる。
その完成度の高さと深い余韻には、いつも感動させられる。

殺人事件とか 救いのない運命を非情に生き抜く人間像とか、そんな路線から離れて、読者がハッピーな気持ちになれる作品を、と書かれた本作は、作者の意図通りに、読む者の心に 安らぎと希望を与えてくれる。
本書では、クスノキを巡る家族愛、そして重要な伏線として 認知症が扱われている。
クスノキの霊気は、家族が死んだ後にも永遠に残る わたしたちの記憶の象徴として描かれている。

巻末であかされる「千舟」の認知症に、なにかしら 救いのような明るさを感じ取って、読者は この本を閉じることができるのではなかろうか。
この明るさが、いま コロナ騒動で滅入る わたしたちの気持ちを、未来への希望みたいな優しさで 満たしてくれる。

タイムリーな良書である。

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尾道

2020-04-27 15:08:46 | 

東尾道駅を過ぎて 山陽本線を西へ、急に視界が開ける。 右の山手に浄土寺の多宝塔が、左の車窓からは「日立造船向島工場」の横看板が 尾道水道のすぐ向こうに見えてくる。 もうすぐ 尾道駅だ。
尾道には これまで、いくたび訪ねただろう。 ちょっと数えられない。 いくど訪ねても 飽きない。 コロナ騒ぎのいま、自宅で想いを馳せるしかないが、いつかまた 必ず訪れたい。

4月10日、大林宣彦監督が亡くなった。 遺作の映画『海辺の映画館』は、上映が延期になっている。 いつ 観られるのだろうか。
彼ほど「非戦の人」の名に ふさわしい人物を知らない。 多彩な作品を通じて、一貫して平和を訴えた人だった。
戦争を知る世代の 大切な人が、また一人 この世から去った。

彼は 晩年「戦争を語り継ぐべき責任があるのに、伝えてこなかった『うかつ世代』だ」と自嘲する。 非戦の人である彼が そう言うのだ。
「戦争について、日常的に話せるようにしましょうよ」と、続ける。「『戦争の時、あんたいくつだった、何してた』『大根食べてた』でもいい。 みなさん、平和についての一行詩をお作りになったらいかがでしょう。 今日の一行、明日の一行を。 『そこのアリンコよ、一緒に生きようね』でもいい。」

大林宣彦監督は こう綴った。「若い人に伝えます。若い人に任せます。未来の平和創りを!」 
若い人だけではない。 残されたものみなに 託された、重い重いメッセージである。

尾道のまちを 歩いてみたい。
千光寺へのロープウェイ下の 艮神社の大楠の幹に触れながら、大林宣彦を偲びたい。

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三たび、優しさ について

2020-04-20 16:04:23 | 

新型コロナウィルス騒ぎで、常時では気づかなかった いろんなことが、分かってくる。
その最たるものが、人の心であろう。
この混乱のなかにあっても なお、自分のことを考えるより先に、他者の身になれる人がいる。
わたしには、天使としか思えない人。

梨木果歩のエッセイ集『やがて満ちてくる光の』のなかで、天使としか思えない人、‘天然に優しい’ 友人が描かれている。
著者が高校生のとき、通学バスの定期券を家に忘れて 登校した。
その朝たまたま 学校へ車で送ってもらったので、忘れものに気付かなかったのだ。
学校でそのことに気付いた著者は、帰りのバス代を仲の良かった友人に借りた。
いいよーと、その友人は即座に著者に バス代を貸してくれた。
その十年後、あのとき友人が自分のバス代を著者に貸し、自分自身は二時間近くかけて歩いて帰った ということを、著者は初めて知る。
なぜ そのことを教えてくれなかったの、と責める著者に、「うーん、まあいいか、と思って」と応える友人。

梨木果歩がこの著書で述懐していると同様、若いころ わたしも、「優しいことは弱いことではない」とか、「(意志の)強さに裏打ちされた優しさ」などと、歯の浮くような言葉を友人と戦わせながら、生きる指針作りに懸命だった。
しかし 人生経験の乏しい あの当時のわたしには、いづれも実体の伴わない机上の空論に過ぎず、梨木果歩の ‘天然に優しい’ 友人のような人に憧れ 追い求め続けた。

後期高齢者の仲間入りを目前にしている わたしは、これまで幾多の「優しくて強い」人たちに会ってきた。
求める わたしの心が、そのような人たちにめぐりあう機会を与えてくれたのだと、自負している。
だが しかし、このわたし自身は、いまだに その求める「優しくて強い」人には 成れていない。
そのことを、この非常時のいま、如実に悟らされている。

梨木果歩の言葉を借りるなら、彼ら彼女ら「優しくて強い」人たちは、決してそのことを求めようと努力していたのではない。
ただ、他人の抱えている事情に対するイマジネーションの力が とてつもなく強い人たちなのだ。
考え込むより先に 他人の身になってしまう、そういう瞬発力が、生まれながらに(天然に)備わっている としか思えない。
その瞬発力は あまりにも早すぎて、ときとして彼ら彼女ら自身の利害を圧倒してしまう。
まず自分の保身を第一に考える生物としては、賢い生き方ではないかも知れない。
けれど それでもなお、わたしは、そういう ‘天然に優しい’ 人たちを、無性に好ましく思う。
ないものねだり と、重々承知しながら。

このコロナ騒ぎは、人間のいろんな顔を、暴露させている。

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