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つれづれ

思いつくままに

歩いても歩いても

2008-08-30 13:05:24 | Weblog
是枝裕和監督の映画 『歩いても歩いても』 を観ました。

15年前に亡くなった長男の盆供養に集まった横山家の、或る夏の一日半を描いています。
成人して家を離れた子供たちと 老いた両親、孫を含めた一家の ありふれたひととき。
特別な悲劇が起こるわけでもなく、ちょっと賑やかに ちょっと悲しく過ぎゆく“普通”の家族の“普通”の出来事。
家族のこと、家の周りのこと、亡くなった身近だった人のこと・・・それら 淡々と流れていくスクリーンの向こうの出来事が、映画の一観客にすぎないわたしの出来事のように 起こり そして過ぎてゆきました。

この静かな感動は、いったい何なのでしょう。
けだるい毎日の連続が当たり前に思っていた自分は こんなにも一生懸命生きていたのか、という気づき。
ひとりぽっちだと思うことの多い自分の毎日の生活は こんなにも気遣ってくれている周りの人たちに囲まれていたんだ、という気づき。
そして、自嘲的クスクス笑いが誘われ出る かずかずの会話や場面。

この映画は、色々な小道具的脇役が 主役たちを引き立たせています。
中でも、満開の百日紅、懐かしのヒット曲「ブルーライトヨコハマ」、そして 紋黄蝶は、それぞれ 引退した開業医の頑固な父親、料理上手で面倒見のいい母親、そして 15年前に海でおぼれている少年を助けて死んだ長男の、名脇役だと思いました。

昭和40年頃に建てられたらしい 医院と住居が繋がった併用住宅、この家を建てたときに植えた薄桃色の百日紅。
孫たちが「おばあちゃんのおうち」というのを「このうちは俺が建てたんだ」と腹を立てる父親(原田芳雄)は、孫たちがこの百日紅の花を棒で払い散らすのを見て 雷を落します。自分の威厳を 払い落とされたとでも 言わんばかりに。
使われなくなった過去の職場の診察室で、父親は ひとり手持ち無沙汰に 専門誌か何かを ぼんやり眺めています。
そこへ 娘(YOU)が入って来て、「みんながいる茶の間へきて 一緒に話したら」と 父親を誘います。
父親は、あわてて仕事をしているふりをします。
切なくなる光景です。

1970年頃に いしだあゆみが歌ってヒットした「ブルーライトヨコハマ」。
わたしの母も、この曲が好きでした。
映画の題名 『歩いても歩いても』 は、この曲の歌詞から採ったとのこと。
是枝監督は、やはり 母親をいちばん描きたかったんですね。
映画の中の母親(樹木希林)は、この曲が夫の浮気にまつわるものであるにも関わらず、ナツメロレコード全集を買って この曲をこっそり聴いていたのです。
家事全般も てきぱきとこなし、一見陽気で、良すぎるくらい面倒見がいい。
でも、たぶん 子どもたちは 小さかった頃 ゆっくり話を聴いて欲しかったし 本を何度も何度もやさしく読んで欲しかったに違いない。
そういうことは、きっと 苦手な母親なんだろう、と思います。
台所で娘が 転がっていたパチンコ玉を拾う場面は、樹木希林の名演技もあって 心に残ります。
陽気そうに見える母親も、たぶん夫が毛嫌いするパチンコで 寂しさを紛らわせていたのです。

午後 陽がだいぶ傾いてきたころ、母親と次男の息子(阿部寛)一家、バツイチの嫁(夏川結衣)とその連れ子の10歳になる男の子 あつし の四人で、海の見える高台へ 亡くなった長男・純平が眠る墓参りに出かけます。
そこへ、一羽の紋黄蝶が ひらひらと飛んできます。
母親が 独り言のように「あれは、去年の紋白蝶が冬を越して生き延びて 黄色くなって現れたのよ」と言うのを受けて、息子は「誰がそんなこと言ったの」と問います。
「誰だったか覚えてないけど、そうなのよ」と答える母親。
その夜、息子と連れ子のあつしが風呂から出ると、居間に迷い込んだ紋黄蝶を「純平かもしれない」と、母親が夢中で追いかけています。
息子が蝶を庭に放したあとも、外を見つめて何かつぶやくおばあちゃんを、じっと見つめる あつし。

ラストシーン、あの夏の日から7年後、父親も母親もこの世から去り、次男一家は海の見える墓地に来ています。
あつしは高校生になり、4歳くらいの女の子も一緒です。
その帰り、遠くに海を眺めながら 四人がかなり急なだらだら坂を降りてくると、一羽の紋黄蝶が ひらひらと飛んできます。
父である次男が 独り言のように「あれは、去年の紋白蝶が冬を越して生き延びて 黄色くなって現われたんだ」と言うのを受けて、女の子は「誰がそんなこと言ったの」と問います。
「誰だったか覚えてないけど、そうなんだ」と答える 父である次男。

何度もスクリーンに映し出される 印象的な場面があります。
“階段好き”で知られる是枝監督が選んだ、海の見える 木漏れ陽の美しい 長い長い階段。
トップシーンで 父親が杖をつきながら ゆっくりと降りて海に向かう階段、次男一家がスイカとシュークリームを提げて親の家へ向かう階段、翌日の朝 老父と義父とあつしの三人で海を見に降りていく階段、そして 次男一家をバス停まで送った老夫婦がゆっくりと登っていく階段。
特に印象深かったのは、なさぬ仲でも孫がいるから 父親と息子が連れ立って海を見に あの階段を三人でゆっくり下りていく場面。
脚が悪い老父は ふたりから遅れがち、息子は父親を気遣い 階段の途中で携帯電話をかける振りをして、老父を先に行かせます。

父親と息子の関係は、ほんとうに複雑です。
父親は、息子が小さかった頃は 嘗めんばかりに可愛がったはずです。
なのに、息子が成長して 自分より背が高くなった頃には、息子がうっとうしい存在になっている。
息子の方でも、父親というものは まったく煙たく煩わしい存在です。
山田洋次監督の「息子」という映画についての 中島みゆきのコメントが、思い出されます。
「とても非難しやすい距離に居て、威厳と隙とをなみなみと湛えて居て、どうしようもなく自分に近い・・・それが息子にとっての父」
オスとオスの、どうしようもない関係なのでしょうか。

わたしは、この映画の初めのほうでは、次男に感情移入していました。
てっきり 自分を次男の立場に置いて、この映画を観ていたのです。
ところが、次第に 自分が老父の位置に近いことに 気づきだしました。
自分の父親とおんなじことを、自分も繰り返しているのです。

孫が覚えているのは 祖父母まででしょうが、あつしにとって、7年前の夏の一日、海に近い家で経験したこと、おばあちゃんが紋黄蝶を必死で追いかける姿や おじいちゃんと義父の三人で砂浜に佇んで海を眺めたことや もっと些細なことなどが、いつまでもいつまでも忘れられない記憶として 残ることでしょう。
一観客のわたしの脳裏にも、映画の中の一つ一つの場面が まるで自分の記憶であるかのように、刻み込まれています。

そんな、今もわたしの脳裏をゆっくり通り過ぎていくような、いい映画でした。







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ユージン・スミスの写真

2008-08-28 14:51:54 | Weblog
「没後30年 W・ユージン・スミスの写真」展が、京都国立近代美術館で開かれている(9月7日まで)。

「ライフ」というグラフ雑誌を、覚えてられるだろうか。
1970年ころまで 開業医の待合室や ちょっと気の利いた床屋の待合席本棚に見かけた、大判の写真週刊誌である。

その写真を見たのは、社会人になって2年目の夏 新日鉄君津製鉄所から小倉にある住商支店へ移動するときだった。
新米社員だったわたしが どうして飛行機での移動が許されたのか 今では全く覚えがないが、羽田から福岡行きの国内線の機内で手にした「ライフ」に載っていた写真は、記憶の奥底に留まっていた。
その写真は、横たわる水俣病患者の 醜く折れ曲がる手であった。
クローズアップされた異様な手の悲しさが、記憶に焼きついたのだと思う。

グラフ雑誌「ライフ」は、文章よりも写真で報道するというスタイルのフォトジャーナルの旗手であり、第二次世界大戦のアメリカの報道機関としての重要な役割を担い 多くの優れたフォトエッセイストを育てたが、テレビの台頭にスポンサーを奪われ、この年 1972年暮れをもって休刊する。

あのときは その写真を誰が撮ったのかなど 気にもとめなかったが、先日 地下鉄構内の京都案内棚で目にとまったチラシに載っていた写真の一枚が、あの国内線の「ライフ」で見たものと同じであり、チラシは「没後30年 W・ユージン・スミスの写真」とあった。

ユージン・スミスは、1978年 59歳で世を去った。
わたしの親の世代である。

第二次世界大戦の米従軍報道カメラマンとして 直ぐに名が浮かぶのは ロバート・キャパだが、キャパの5歳年下のユージン・スミスも、「ライフ」の戦争通信員として戦場に赴き 太平洋戦争の戦況をアメリカ本国へ伝えていた。

サイパン、硫黄島、沖縄の地上戦の絶望的な現実に直面したユージン・スミスは、中立的な写真家の視線を捨て 自分自身を被写体の側に置く立場を選ぶのだが、それは 彼の優しさから そうせざるを得なかったに違いない。
サイパンから 彼の家族に送った手紙に、こうある。
「これら写真の中の人々が、私の家族でありえたから・・・。そして、私の娘が、妻が、母が、息子が・・・苦しめられてゆがむ異なる人種の人々の顔に写しだされるのを見た。生まれの偶然、故郷の偶然・・・戦争へと至る人間の腐敗のいまいましさよ! 血まみれになって死にゆく子供を我が胸に抱くその一刻一刻、その子の生命は漏れ出し、私のシャツを通って、燃え上がる憎悪で私の心を焼き尽くした・・・あの子は私の子供だったのだ・・・。」

展示会場に並ぶ150点の写真を 年代順に観て歩きながら、わたしは ユージン・スミスという親のような写真家に 徐々に近づいていった。
それら写真の一枚一枚から、彼の優しさを感じ取っていった。
他人の不幸にがまんならない彼の心の“救済者コンプレックス”が、じわじわと伝わってくる。
そして、最後のセクション『水俣』で、あの写真と再開する。

水俣病患者の どうしようもない苦しみを わが身の苦しみとして、ユージン・スミスは、彼の信念である“写真家としての二つの責任”すなわち 一つは被写体に対する責任、もう一つは写真を見る人々に対しての責任を果たしながら、写真という媒体を通して 自己主張しているのだ、と思う。
そこには、彼のほんとうの優しさが溢れている。
だからこそ、見るものに“ひとごとではない”と思わせる力を宿しているのだ。

あの写真の 悲しみに歪む異様な手は、そのとき16歳の上村智子ちゃんという 胎内感染で有機水銀に毒された水俣病患者であることを、アイリーン・美緒子・スミスの回想録で知る。
アイリーンは、ユージン・スミスより31歳も年下の妻だった人であり、水俣公害の実態を彼とともに記録し報道してきた取材パートナーでもある。
彼女の回想録に、こうある。
「・・・智子ちゃんのご両親は、長女である智子ちゃんのことを「宝子」と呼んでいました。魚の中に水銀という有毒物質が入っていて、そうとは知らずに食べた人々の体内には水銀がたまっていました。母親にたまった水銀は、胎盤を経て子どもに入っていきます。智子ちゃんが母親から毒を抜いてくれたのです。彼女のおかげで、その後生まれてきた5人の女の子と一人の男の子は、智子ちゃんのように水俣病に冒されませんでした。智子ちゃんは「宝子」です。・・・原因が有機水銀であることが明らかになっていた当時、水俣病に対する偏見は強く、それは依然として続いています。そしてその偏見は家族にまで向けられました。結婚の話を困難にし、時には縁談までだめにしてきました。智子ちゃんはそうした世の中が強いる環境の中、1976年、成人式を迎えて間もなく、妹や弟が大人になる少し前にこの世を去りました。・・・」

この回想録を、わたしは こみ上げる涙をこらえて 読んだ。
その心の震えは、ユージン・スミスの写真を見ていなかったら、こんなにも強くはなかっただろう。

彼の『MINAMATA』写真集が大反響を呼んで1年後、ユージン・スミスは二度目の脳内出血を起こし、死去する。








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夏逝く日

2008-08-25 11:10:04 | Weblog
北京オリンピックも終わり、同時にあの息苦しい暑さの夏が 逝きました。
もう 朝晩は、秋の風です。
宴のあとは 淋しいものですね。
女子ソフトボールの金メダルは、このオリンピックでもっとも輝いていました。
素晴らしい試合を見せてくれて、ありがとう。

晩夏。
一年で いちばん悲しくなる季節です。
古臭い話になりますが、この季節が巡ってくると 決まって思い出すメロディがあります。
舟木一夫が歌っていた「高原のお嬢さん」。
夏が逝けば 恋も終わると あの人は いつも言ってた・・・

白い髪が美しい婦人が、地下鉄の前の席に坐りました。
知らず知らず、そのご婦人の若い頃の姿を 想像してしまいます。
この方も 若かった頃 燃えるような恋をしたんだろうな、余計な空想です。

思い出というものは ときとともに美化されるものですが、こと 恋心の想い出だけは 時を経れば経るほど 苦い感情だけが募るもののようです。
青春は、心に傷を負うことなく 通り過ぎることはできない、と同時に、人を傷つけずに 過ぎ去ることもない。
そうかもしれません。案外、その人はなんとも思っていなかったのかもしれません。

青春のとき、愛唱したワーズワースの詩。
   草原の輝けるとき 花美しく咲きしとき 再びそれは還らずとも 嘆くなかれ その奥に秘めたる力を 見いだすべし
この詩が教えてくれた「奥に秘めたる力」の意味が、40年の歳月を経て やっと少し判りかけてきました。

夏逝く日に 似合う花があります。
純白の むくげの花です。
   白木槿 夏華も末の 一ニ輪 (召波)  






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油嫌い

2008-08-20 11:48:39 | Weblog
幼少時に刻まれた衝撃的な情景や体験は、成人となってからの性向に 強い影を落す。

裏庭の空地に 鶏を飼っていた。
親鶏は 幼いわたしにとって 怖い存在だったが、雛は 格好の遊び相手であった。
工場に隣接していた裏庭は、工場の資材置場も兼ねていたから 鋼材棚や鋳物野晒し場や油倉庫や電気室が点在していて、それらが迷路をつくり 子供にとっては いい隠れ場となっていた。
コールタールは、木材の防腐剤としても使われていたし 工場の何かの製造過程にも必要なものであったらしく、かなり大量が鉄板槽に保管されていた。
そのコールタール槽に、わたしが可愛がっていたひよこが 落ちておぼれ死んだ。
かわいそうで せめて土に埋めて墓場を作ってやろうと 水場で洗ってやるのだが、洗っても洗っても あの柔らかな羽毛は戻らなかった。
べっとりと手についたコールタールの黒いテカりが、あの特有の臭いとともに 幼心に 悪魔の象徴のように思えた。

油嫌いの体質は、歳を重ねるほどに 鮮烈になってくる。
水に流せないもの、腐らないもの、土に還らないもの、その代表選手のような油に対する嫌悪感は、病的なほどである。
生理的にだめなのだ。
金属でも、鉄のように 酸化して腐るものには親近感をもてるが、いわゆるステンレスとよばれる金属は 重宝には思うが好きにはなれない。

小学校の理科で、石炭は 大昔の植物の屍骸であり、石油は 大昔の動物の屍骸だと 習った。
石炭の燃える匂いは 何ともないのに、重油の燃える匂いには 拒絶反応を起こしてしまう。
燃える匂いは、そのもののエッセンスだ とも聞く。
これがほんとうなら、自分は植物であったほうがマシだ とまで思う。

現代社会は、石油なしでは 成り立たない。
身の回りをみわたしても、石油製品に囲まれて生活しているようなものだ。
油嫌いなどと言ったら、罰が当たるかもしれない。
ところが、このところの「第三次石油ショック」で 脱石油が叫ばれだした。
石油離れの予兆である。
石油社会は、行き着くところまで来た と思う。
先祖の屍骸に縋って生きるような生き方は、そろそろ終わりにせねばなるまい。

最近の脱石油動向は、わたしの生理的性癖が まんざら 病的とばかりは言えないことの証しかも知れない。



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「原爆の火」にいただいたコメントから

2008-08-18 09:58:26 | Weblog
7月21日に投稿した「原爆の火」に、ひとひとりら さんから コメントをいただきました。
やはり あの映画『GATE』をみて わたしと同じように 心を揺さぶられた方がおられることを知り、再び感動しています。
公開コメントなので 転載してもご迷惑にならないと考え、その一部を下記します。

・・・見ていて、いっしょに歩いているような気持ちになりました。わらじを通して伝わる熱いアスファルト、灼熱の太陽光線、足の痛さ。一歩一歩が憎しみの連鎖を断ち切る人間の崇高な行動であることを思い、最後まで涙が止まりませんでした。・・・

わたしがこの映画を見たときは 朝10時の 日に一回だけの上映で、観客は わたしを含め たったの3名でした。
見終わったときの感動の大きさに比べ、その感動を共有できる観客の あまりの少なさに 悲しかったです。

ひとひとりら さん、コメント ほんとうにありがとうございました。
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心なしと見ゆるもの

2008-08-13 14:54:18 | Weblog
「心なしと見ゆる者も、よき一言はいふものなり。」
これは、吉田兼好の徒然草に出てくる 有名な言葉です。
長い間 わたしは、これについて 「たいした奴でなくても たまには まっとうなことをいうことがある」 といったニュアンスの捕らえ方をしていました。
「回りには たいした者はいない、だけど ときどき為になることを言う者もいるから 毛嫌いせずに心して耳を傾けなさい。」
傲慢な解釈だったと 恥ずかしくなります。
思い上がりもはなはだしい 鼻持ちならない青年でした。

「心なしと見ゆるものにこそ」
そう考え出したのは、不惑を過ぎた頃でした。
いろんな人々と会い、見た目と異なる相手の魅力を感じ、第一印象では計れない恐さを知りました。
でも、まだ自分の正体を 見破れていませんでした。
心なしと見ゆるものにこそ と思う心根こそ、いまだ自覚のない証しでした。

自信喪失、自己卑下、人間不信、社会性欠落・・・ありとあらゆる自己喪失の醜態を経て、還暦を過ぎ 見た目にも明らかに衰えを露呈しだした頃、やっと気づきだしました。
心なしと見ゆるもの、それは自分本人だ と。

このことについて色々考えさせてくれたのは、児童文学者・灰谷健次郎の「わたしの出会った子どもたち」(新潮文庫)という作品です。
この文庫本は、長い間 本棚の奥で眠っていた 積読の書でした。
詩人としての灰谷健次郎に 好感を持っていたからでしょう、本棚を整理していて 少々色あせた表紙のこの文庫本に 吸い寄せられました。

以前 この欄で、「やさしさについて」と題して 自分の思いを投稿したことがあります。
いまでも その思いに変わりはありませんが、「わたしの出会った子どもたち」を読んで、自分の考えているやさしさのひ弱さを 思い知らされました。同時に、優しさのない人生なんて 生きる価値がない との思いに、力強い勇気を貰うことができました。

   絶望をくぐらないところに、ほんとうの優しさはない。
灰谷のいう この“ほんとうの優しさ”は、彼の『罪意識』から生まれています。
さまざまな底辺の人たちに出会い、その優しさに支えられてきたのに、その意味が理解できなかったことの罪。
   ぼくは、ぼくを育ててくれた優しき人々の孤独と絶望を食べて、生きてきた・・・
人間の犯す罪の中でもっとも大きな罪は、人が人の優しさをや楽天性を土足で踏みにじるということだ、と灰谷は悔恨します。
彼の 身を掻き毟らんばかりの『罪意識』が、わたしには よく理解できるのです。
わたしも、どれだけ多くの“心なしと見ゆるもの”の優しさや楽天性を 足蹴にしてきたことか。

わたしが「わたしの出会った子どもたち」で教わったのは、深刻や絶望をくぐってきた人だけにそなわる ほんとうの優しさには、人間の肌のぬくもりを失うまいとする強いまなざしがある、ということです。
絶望を拒否し、苦渋の中に微笑みを見据える強さ。
優しさが 真の強さだということの確信。
わたしの正体である“心なしと見ゆるもの”、それこそ ほんとうの優しさを秘めているのだよ、と やさしく肩をたたかれたような気がします。

   人間は自分の幸福のために生きるのではない。
   人間が幸福を求めるのは、他人の不幸にがまんがならないからである。
この 灰谷健次郎の身を掻き毟る悔恨が生んだ信念から、萎えかけていた“心なしと見ゆるもの”の心を外に向かって解き放つ力を 貰うことができたのです。

「心なしと見ゆる者こそ、まことの優しさを宿すものなり。」
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男のハンドバッグ

2008-08-11 18:52:03 | Weblog
男も おしゃれなほうがいい、と わたしも思う。
60歳をすぎれば なおのこと、少なくとも 身だしなみはきちんとすべきだと 理解はしている。
身だしなみは、清潔感と言い換えていいのだろう。
白髪の初老の男性が、背筋をピンとして 真っ白なカッターシャツにさわやかな色のスーツ姿で 街を歩いている光景は、見ているだけで 高級石鹸の香りが漂うように すがすがしい。
男も 見られている という意識が薄れると おしゃれからは 次第に遠のくものらしいから、その意味でも 年を重ねるほどに おしゃれの重要性が増すのだろう。
やはり 年齢や性別に関わらず、おしゃれの源泉は 異性への関心にあることは、間違いない。
ちょっと苦々しいのだが、“男が上手に年をとるために”塩野七生が 男たちへアドバイスしている十の中から(塩野七生著「男たちへ」より)、
「戦術その六:恋をすること」。
もう おしゃれなんか どうでもいいか、と 半分そう思いかけてきた。
“所詮、われわれ女は、身だしなみ以外に真剣勝負をするものを持っている男を欲している”(同「男たちへ」より)との言葉を、だらしなくしている言い訳に ついつい使いたくなるから、困ったものである。

ただ一つ、わたしには 若い頃からの ある物欲が抜けない。
気に入ったカバンを見ると 欲しくて欲しくてたまらなくなる性癖。
いまでは、わたしの唯一の物欲だ。
これぞ!というカバンは、なかなか見つからないもの。
男性なら 同じ感想をお持ちだとおもうが、手提げカバンを持って出るほどの荷物があるわけでなく 旅行用のポシェットでは砕けすぎだし 財布と携帯電話と手帳とめがねケースが入ればいい位の入れ物が欲しいとき、適当な大きさの気に入ったカバンというものが なかなか見つからないものである。
いわゆる「セカンドバッグ」という種類のカバンなのだが、どうしても女物のハンドバッグのような感じになってしまって どれもこれも気に食わない。
2,3回使っただけでお蔵入り というのが、もったいないほどある。
結局は、上着の型崩れを覚悟で 手帳とめがねケースを内ポケットへ、尻のあたりのふくらみと腿のあたりのごわつきが気になりながらも 財布はズボンの尻ポケットへ 携帯電話はズボンの脇ポケットへ、というスタイルに落ち着いてしまう。
それでも、わたしは諦めていない。
いつか これだ!と思える「男のハンドバッグ」が現れることを、夢見ている。
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市井のパトロンたち

2008-08-09 17:33:07 | Weblog
パトロンとスポンサーは どう違うのだろう。
これをちゃんと理解すれば、昔の日本には わんさといた まちの職人が、なぜ今の世には かず少ないのか、が判る、と私は考える。

パトロンもスポンサーも「後援者」と訳されるが、似て非なるものである。
いま 民放テレビでもインターネットでも スポンサーで守っているが、カネを出す裏は、それに見合った あるいは それ以上の商いを狙ってのことであろう。
商業主義丸出しの「後援者」、それが スポンサーだ。
だから、予算の許す限り 有名タレントを起用したり 評判の高いコマーシャルディレクターに依頼したりする。あるいは、ちょっと冒険して 成長確度の高い新人を起用する。
そこには スポンサーの好みは入るだろうが、あくまで目的は 投資効果だ。
安全第一の投資に過ぎない。

パトロンも カネを出す。
しかし、まず「好み」だ。
好みでないものに、パトロンは カネは出さない。
もう一点 ダイジなことは、パトロンは 出来上がった「完成品」にも金を出すが、ほとんどは“いまだ成長過程にあるもの”に対してである。
一種の 賭けである。
ちょっとシャレて言えば、スポンサーにはない“粋”が、パトロンには存在するのだ。
パトロンの出すカネは、現金でないといけない。
小切手や まして振込みでは、ありがたみ半減である。
現金が目の前に積まれたときの迫力は、もう 何でもしますーっという気分になってしまうから 恐ろしい。
これで 君の好きなようにやってみたまえ、なんて言われたら、全身全霊 がんばらざるを得ない。

むかし(正確には言えないが、1980年前半のころまで)は、市井にも パトロンが大勢いた。
小金を持っていて 芸術や技に興味をもつ庶民が、自分の眼識を頼りに(というよりも その眼識を確認したいために)、掘り出し物や 気に入った職人芸に“清水の舞台から飛び降りる”勢いで 大枚をはたくのは、珍しいことではなかった。
現に、この私にも、いまだから言えるが たいした技を持っていた訳でないにも関わらず、私の技術力を買って かなりの方々がパトロンになってくれた。
ご贔屓客、顧客となっていただいた方々だ。
わたし側も、怖いもん知らずで 損を覚悟(というよりも損得抜き)で、パトロンの要望に応えようとしたものだ。
お陰で、思い上がりだけの技術力が 飛躍的に高まった と自負している。
結果、借金だけが残った感は ぬぐえないが・・・。

人間は おのれを認めてくれるものに対して 必死で働く、これは 紛れもない真実である。
職人は、自分の成し遂げた作品にほれ込む力だけでは 生きていけない。
パトロンなしでは 生活できない という意味以上に、仕事を遂行する 気持ちの上での原動力にならない ということである。

コンピューターのプログラマーも、職人とはいえないのか。
極めて個人的な意見だが、わたしは「コンピューターのプログラマーは 職人ではない」と 思っている。
理由は 簡単明瞭だ。
わたしは、コンピューターに 『美』を見いだせないからだ。
美を、ファンタジーと置き換えてもいい。
職人から 美 あるいは ファンタジーを取り去ったら、ただの「手作り」の人になってしまう。

いまの日本にある余裕のカネは、個人にではなく 企業にある。それも、ごく一部の大企業。
企業は、スポンサーになれるが、パトロンにはなれない。
なぜなら、領収書を要求するから。
こういう 世知辛い世の中からは、市井のパトロンは生まれにくい。
したがって、いまの日本には 職人は育ちにくい。


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樹木パワー

2008-08-07 10:30:48 | Weblog
「植物には“人間性復元力”があります。」
あしかがフラワーパークの園長をしている 樹木医の塚本こなみさんは、ある雑誌に そう語っていました。

ほんとにささやかな並木なのですが、わが社の御池通りに面する細長い一郭に植えた樹木は、南から射す太陽の力を受けて どんどん大きく育っています。
朝、合歓の木やデイゴや百日紅の 舗装歩道に落ちた 地に還れない花びらや落ち葉を掃いていると、ときどき 通りがかりの人が声を掛けてくれます。
「四季折々の花が咲く木を植えてられるんですね。いつも楽しませてもらっています。」
そう言ってもらえたときの喜びは、純粋です。
「秋には実のなる木も多いので、またみてやって下さい。」
初めての人にも、ためらいもなく こう応えている自分。
誇らしい喜びなのですが、仕事上の栄えや社会的な誉れといった そんな誇らしさの喜びとは別次元のものなのです。
合歓の木の下を通ると、呼吸が おいしい空気をもらって喜びます。
こんなささやかな木々の下で そんな喜びを共有できる人に出会えることが、誇らしいのです。

植物のパワーを感じます。
植物には、“人間性復元力”があることを実感します。

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このごろ思う「生きがいについて」

2008-08-03 16:24:39 | Weblog
思っていても なかなか口に出せないことがる。
例えば、千年紀で話題沸騰の源氏物語である。
人それぞれなのだから、光源氏のような にやけた生きざまは 自分の趣味じゃない と はっきり言ってもいいはずなのだが、源氏物語崇拝者の多いここ京都で そう発言するのは、ちょっと勇気が要る。
勢いで言うのだが、光源氏の生きざまだけでなく、惚れた腫れたのへにゃへにゃ文章自体 わたしの好みではない。

中島義道の「私の嫌いな10の言葉」(新潮文庫)を読んでいたら、痛快な文章に出会った。
村上春樹の「ノルウェーの森」という小説を、わたしは むかし 最初の数十ページを読んで ほっぽりだした。
自信たっぷりの登場人物も気に食わないが、内容が非現実的に過ぎる。
しかし、海外でも高い評価を得ている村上春樹文学をけなすのは、観賞力を問われるようで くだらないとは なかなか言いにくい。
それを、中島義道は この作品を「不快だ」の名言で切り捨てているのだ。
中島義道は わたしより一つ年下の かなりへそ曲がりな哲学者らしいが、彼と わたしが住友重機時代に知己を得た友人、松並壯氏とが わたしの頭の中で重なる。
どちらに失礼になるのか 定かでないが、わたしの中では「へそ曲がり」は誉め言葉に近いから どちらにも許してもらえるだろう。
ただ 一点、両者の書く文章に『閑話休題』というフレーズが頻出することは はっきりした共通点だ。

最近の芥川賞作家は 女性が多くなり、それ自体に問題があるわけではないが、どうもパッとした作品に出合わない。
芥川賞をもらった作品なのだから どこかにいいところがあるのだろう と、淀む文章に耐えて 苦虫を噛む思いで読み進むのだが、いつまでたっても ああっ!と胸に響く文章に行きつかない。
だいたい 小説なんてものは、読む者に努力を強要すべき代物ではないはずだ。
最近の芥川賞作品には、がっかりさせられることが多い。

このホームページを担当してくれている 水野里香さんが、休み時間の雑談で「太宰治の『人間失格』を読んだが 憂鬱な気分になるだけだった」と話していた。
まったく同感だ。
ずっと前に わたしも この小説を読んだが、生気を吸い取られるような いやな気分になったのを 思い出す。
小説は 読む者に元気や感動や勇気や愉快を与えるものでなければならない!が 持論のわたしは、太宰治という作家も 好きになれない。
この太宰治を コテンパーに貶していたのが、三島由紀夫だ。
だいたい 森鴎外の墓の前に太宰治の墓があること自体 気に食わぬ、とまで言っている。

たわいない貶し節は ここまでにして、本題に入ります。

青春時代に受けたショッキングな報道映像を三つ挙げよ と言われれば、躊躇なく次の三つを選ぶ。
アポロ宇宙船の月面着陸、浅間山荘事件 そして 三島由紀夫の割腹自殺。
天才と気違いは 紙一重といわれるが、三島由紀夫も まさに その天才だった。
盾の会などのイメージから 彼は右翼の凝り固まりのように思われがちだが、小説「金閣寺」を著したころは、退廃的ではあるが プロレタリアートの匂いが強かったように わたしは理解している。
川端康成がノーベル文学賞を受けた折、ほんとうなら三島由紀夫が受賞すべきだったところ、彼の左寄り思想が災いして 日本政府の推薦が得られなかったと、当時まことしやかに噂されていた。
現に、海外 ことにフランスでは 彼の評価はダントツだった。
しょうびんな腺病質の肉体をボディービルで改造し、賞を逃した訳の思想を180度転換して 独自の右翼思想を構築してまで、彼は 自分を何ものかに変えようとした。
その本心は、自殺願望だったに違いない。死に場所、死ぬタイミングを捜し求めていたに違いない。
三島由紀夫に関する資料によると、彼は老醜をもっとも嫌っていたらしい。
永井荷風みたいになりたくない、が口癖だったという。
天才の悲劇というものだろう。
1970年11月25日、東京市ヶ谷の自衛隊総監部を襲い 事成らず 割腹自殺。45歳。

三島事件の報道を、わたしは、社会人1年生として 三人の先輩に連れられて住金和歌山製鉄所に出張していた折、和歌山市内の宿のテレビで見た。
この報道に感化されたように、その夜は 先輩たちの「生きがい論」で盛り上がった。
新米のわたしは もっぱら傍聴するだけだったが、思い起こすに 三島の割腹自殺にかなりのショックを受けていたらしい。
直属の上司であるM氏が、三島由紀夫の死に方は 世間騒がせだが 理想の死に方だ と論じた。
この発言に 残る二人の先輩が 内容は忘れたが それぞれの持論を披露し また反論して、酒の余勢も駆って 延々と話は尽きない。
なかなか終わらない夕食の後片付けのタイミングに窮していた仲居さんの顔が、いまでも はっきり目に浮かぶ。
あの時の報道の重みに比して、わたしには 彼らの話が貧弱に思えた。
「生きがい」と言いつつ、彼らは 結局 夢みたいな死に方しか語っていなかった。
三島由紀夫の死に方を美化する発言には 猛烈に反感を抱いた記憶はあるが、黙って聞いていたわたしも、生きがいについての考え方に関しては 実は似たかよったかだったと思う。
死を遠い遠い先のことのように感じている あるいは 夢みたいな死に方に憧れているうちは、「生きがい」など どうでもいいことなのかもしれない。
ただ、あんなに太宰治の自殺を嫌悪していた三島由紀夫も、結局は人間の犯してはならない越権行為で 自らの命を危めたのか、という 落胆に近い空しさは 痛烈に感じた。
どうして 達磨禅師のように 面壁9年で朽ち果ててくれなかったのか。これが、三島文学に傾倒しかけていた当時の わたしの思いだった。
三島由紀夫の自殺は、死を通じて 生きることの意味を考える機会を わたしに芽生えさせたことは事実である。
三島の死から2年後、ノーベル賞作家 川端康成も 自殺した。

その後、「生きがいについて」という類の書物を 読み漁った時期があった。
幽霊のように生きた時期である。
そして、そのどれにも グッとくるものを感じないままだった。

10年ほど前、富山県利賀村で催された「そば祭り」を見に行った。
幽谷の山村ながら、賑やかな催しだった。
そんな祭りの中、なんでマザー・テレサだったのか 彼女が亡くなってすぐの回顧録だったのか、マザー・テレサのコーナーが設けられていた。
そのコーナーで、マザー・テレサの 次のことばに出会った。
  もっとも不幸なことは 貧しいことそれ自体にではなく 
    だれからも必要とされていないと感じる孤独に あるのです
仕事のこと 家庭のこと 健康のこと・・・すべてに押しつぶされそうな毎日だったあの時、この言葉は 深く身にしみた。
当時は 必要とされていないどころか、もうよしてくれ と言いたいくらい すべてのことが自分の肩にかかっていた(ように思い込んでいた)。
マザー・テレサのこの言葉とは、まったく無関係の状態であった(と思い込んでいた)。
それなのに、幽谷の山村で見つけたこの言葉から、はらわたがキューと締め付けられるような 感動を受けたのだ。

あれから10年以上経ついま、改めて このマザー・テレサの言葉に 動かされる。
自分が「だれからも必要とされていないと感じる孤独」を感じる年齢に達したということではなく(いや、遅かれ早かれ そういうときはやがて来るだろうけれど)、人間みんな寂しい存在なのだ という 独り善がりながらの連帯感、だれかの役にたちたい という 自分以外に向かう気持ち、利益とか効率とか納期とか そんなものからは遠い遠い存在の 静かなこころの広がり、マザー・テレサの言葉から そんな ふわーっとした思いがこみ上げてくる。
あの マザー・テレサの言葉に利賀村で初めて出会ったときに受けた感動は、この思いを 漠然とながら 求めていたからに違いない。こういう「生きがい」を切望していたに違いない。

わたしの大好きな 映画評論家・故 淀川長治は、「私はみんな嫌いだったの、初め、人が。でも、映画から三つのスローガンを貰いました。『苦労、来い』『他人歓迎』『私は、いまだかって嫌いな人に会ったことがない』。これを唱えてから、どなたとも仲良くなれるようになりました。」と教えてくれた。

マザー・テレサの言葉にも 淀川長治の言葉にも 滲み溢れているもの、それは「人間賛歌」だと思う。
天才・三島由紀夫は、この「人間賛歌」の素晴らしさを味わうことなく 自らの命を絶った かわいそうな人間なのだと思う。
「生きがいについて」このごろ思う行き着き先は、「人間賛歌」であるらしい。

最後に、いままで観た数多くの感動の名画のなかから、一つだけ。
「ドライビングMissデイジー」から。
Missデイジー(ジェシカ・タンディ)は72歳、ユダヤ人で元教師。ホーク(モーガン・フリーマン)60歳、男やもめの黒人運転手。
やわらかな暖色に包まれた天井の高い部屋で、テーブル越しに彼が差しのべるフォークの先のパイをひと口、含みながらMissデイジーが小さく尋ねる。
「元気なの?」
彼はもうすっかり、愛しげな眼差しで答える。
「何とかやっています」
少し、間をおいて
「何とかやっていくのが、人生ですな」

  





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