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つれづれ

思いつくままに

『半沢直樹』がおもしろい

2013-07-30 17:55:17 | Weblog
テレビドラマ『半沢直樹』が、好調です。
第三話での<裁量臨店(さいりょうりんてん)>場面の終盤では、思わず拍手してしまいました。
フィクションもので 拍手を送ったのは、嵐寛寿郎の『鞍馬天狗』以来・・・かな?


あんたらは、晴れた日に傘を貸し、雨の日にその傘を取りあげるんやないか。
これは、東田が半沢に投げた捨て台詞でしたが、銀行の本質が金貸し業である限り、これは当然と言えば当然の行為なのでしょう。
しかし 銀行と言えども、それを動かしているのは、人間です。

5億円の銀行融資を横領した西大阪スチール社長、東田の行方を知っている小村建設元会長、小村が、今わの際に半沢に宛てた手紙には、こう書かれていました。
小村がもう会えないと思っていた娘と孫を 病院に呼んでくれた半沢への、小村流の感謝の手紙です。

   これは金で買えないものを
   融資してもらった礼や。
   半沢はん、あんたはバカで
   一流のバンカーやった。
   (二枚目の便箋には、東田の隠れ場所が記されていた)

どんな仕事でも、人と人の繋がりが、なによりも大切や。
半沢が、首吊り自殺した町工場おやじの父親から、しょっちゅう聞かされていた言葉です。
清濁併せ飲むバンカー 半沢直樹も、最後の最後には この父親の口癖が思い浮かんでくるのでしょう。

日本資本主義の父と言われた渋沢栄一の孫である、元日本銀行総裁の渋沢敬三は、こう言っています。

 <銀行屋というものは、小学校の先生みたいなものです。(融資先が)いい仕事をしてだんだん成長した姿をみて、うれしく思うのが、本当の銀行屋だと思いますね。えらくなるのは生徒です。先生じゃない>

町工場おやじのわたしには、東田の捨て台詞の心情も理解できるし、半沢が折に触れ覗かせる 渋沢敬三の‘銀行屋’の温もりも知っています。


たいがいのサラリーマンなら、一度は半沢のように「言えるものなら言ってみたい」と思っていることでしょう。
「倍返しじゃ!」と。
社会人なら ほとんどみな、半沢直樹に声援を送りたいはずです。
言えるものなら言ってみたいことを、自分に代わって言ってくれているのですから・・・
フィクションの世界だから、それが許されるのです。

『半沢直樹』の魅力は、ここにあるのでしょう。
これからの展開が 楽しみ、半沢よ、負けるなヨ。
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六角堂の鐘

2013-07-30 10:49:20 | Weblog
烏丸六角の花屋さん「花市」の前で、夕方、時間待ちしているときでした。
グォーン~~~と、近くから鐘の音が聞こえてきました。
時計をみると、きっかり5時。
きっと、六角堂の梵鐘だろう。
また聞こえます。
おんなじ間隔をおいて、また聞こえます。
真面目なお坊さんだなぁ。
見物気分で、六角通りを東に入ってみました。



鐘をひと撞きするごとに 釣鐘に向かって合掌する小坊主さん、を想像していました。
撞木の傍には、だれもいません。
竹ぼうきが立てかけられてあるのみ。

またまた、グヮーン~~~
なんと、撞木がひとりでに梵鐘を突いています。
撞木がシリンダーになっていて、空圧か油圧かで動かしているのでしょう。
それにしても、空気配管あるいは油圧配管らしいものは 見当りません。
撞木の揺れを抑えるためでしょう、天井からバーがぶら下がっていて、その先端のコロが 撞木の上を押えているだけです。

5時の鐘だから、たぶん5回鳴ったのでしょう。
撞木押え用のバーが、自動的に鐘楼の天井へ納まるのを見届けて、花市さんの門へ戻りました。

仕事柄 機械もんに興味があるので、好奇心で‘見学’できましたが、なにか 腹に収まらない後味が残りました。
鐘をひと撞きするごとに、釣鐘に向かって合掌する小坊主さん。
そんな勝手なイメージを、こんな時代に こんな街なかのお寺さんに、期待するほうが間違っているのでしょう。

それでも、梵鐘の音は、待ち時間をイライラ過ごす者にとって、まさしく福音ではありました。
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けったいな電話に触発されて

2013-07-25 15:28:03 | Weblog
先日の夕方、けったいな(失敬な と言うべきか)電話がかかってきました。
あんたところのホームページをみた、なんの進歩もないやないか、他のメーカとどこが違うねん・・・

すぐトサカにくる自分の性格からすれば、「なにぬかしてけつかんねん、失礼にもほどがある!」ガチャン、となるところでした。
それを堪えて、延々1時間の‘罵声’に まずまず冷静に付き合えたのは、その日の昼に訪れた佐川美術館での対談公演で、安野光雅さんのおっとりした人柄に 直に接する機会を持てたお陰だ、と。
いっときの はかない‘度量の大きさ’に、心ひそかに満足したものでした。
亀の甲より年の功、なのかもしれません。


設計技術者と名乗る‘失敬な彼’の言い分は、要約すると こういうことでした。
『これだけの機能と能力をもった製麺機では、もうこれ以上コンパクトにはなりません。』という、当社製品<ミディ麺機セット>のキャッチコピーが気に食わない、というのです。
この技術の進歩した時代に、基本的には100年前と ほとんど変わらない構造で、なにを偉そうに言うてるねん、と。

我ながら 落ち着いて言えた、と少々悦に入っているのですが、こう返しました。
「<ミディ麺機セット>は、きのうきょう オリジナルをコピーしたものではありません。当社には90年という歴史があります。もちろん 最初は、オリジナルの‘大隈式麺機’のコピーから始まりました。大改良とまではいかなくても、その時その時 客先の提案や苦情を踏まえて 改良に改良を重ねて、今日に至っています。あなたの目からみれば、100年前とちっとも変っていないと映るかもしれません。しかし、このスタイルに落ち着くには、ああでもない こうでもない という試行錯誤の、積み重ねがあるのです。いまの形に落ち着いたのは、100点満点ではないけれど、やっぱりこのスタイルがいちばん無難なんだ という、どこか諦観的な苦渋の結論なのです。」

彼の口調が、ちょっと丁寧になったようでした。
電話の向こうから、こんな‘提案’をしてきます。
どんな麺でも、一台の切刃で出来ることを考えよ、と。
高価な切刃を、うどん、和そば、中華そば・・・用に全部そろえて、その都度 面倒な切刃交換するのは、時代遅れも甚だしい、と。
また、いまの日本の技術をもってすれば、ロール幅を自由に変えられる製麺ロールなど、すぐに出来るやないか、と。
麺玉重量の調量は、麺線長さではなく、ロール幅(麺線数)で以ってすべきだ、と。

よくよく考えれば‘彼’は口の悪い技術コンサルタントのようなもの、受話器を持つ手がだるくなり出した頃、そう思いはじめました。
電話料金は 向こう持ちの、技術ボランティアを買って出ているんだ、と。
それに、製麺機設計のことも かなり まぁ、解っているなぁ、と。
そう考えると、立つ腹も 少しは収まってきました。

あまりの長電話に閉口しだして、切り上げ口上に こう伝えました。
「おっしゃることは、的を得ています。あなたのおっしゃるのは、理想の麺機です。ただ、分母にマネーを置いて 考えなければなりません。スポンサーが必要です。あなた、当社のスポンサーになっていただけますか?」


くだらない漫才みたいな、長電話でした。
しかし、バカにしてはならない、そう自戒しています。

メーカーたるもの、常に技術の革新に意を用いなければならない。
いま食えていけるのは、過去の損覚悟の改良努力があったからだ。
いま ゆとりのあるうちに、未来に食っていけるだけの 技術の積み重ねをしておかねば・・・

‘失敬な彼’の唐突な長電話に、ある意味 感謝をこめて、そう思います。
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風立ちぬ

2013-07-24 15:31:43 | Weblog
   風立ちぬ、いざ生きめやも。

高校のとき 古文の先生が、黒板に大きく、こう白墨書された。
助動詞や係助詞の使い方例として、挙げられたのだと思う。
苦手な古文だったが、この詩句は心に残った。

高三の夏休み、受験勉強の追い込み時期に のんきたらしく、図書館から「世界文学全集」「日本文学全集」を抜き打ちに借りて、乱読した。
おかしな感情なのだが、自分自身に対する見栄みたいなものだった。

何を読んだのか、ほとんど忘れてしまった。
スタンダールの「赤と黒」、ドストエフスキイの「罪と罰」、そして「堀辰雄集」は記憶に残っている。
「堀辰雄集」のなかでも、古文の先生が白墨書された あの詩句が序曲に載っていた「風立ちぬ」は、青春という言葉がピッタリの感情を掻き立たせた、忘れがたい小説である。
あの詩句とともに。


永く忘れていた あの感情が、宮崎駿監督作品、映画『風立ちぬ』で蘇えった。
ユーミンの『ひこうき雲』に乗って・・・

「君の10年はどうだったかね。力を尽くしたかね」
映画の終盤近く、残骸と化したゼロ戦の山を前に、堀越二郎は、彼の尊敬するイタリアの飛行機設計者カプローニ伯爵に、こう問われる。
前段で、カプローニは、二郎にこう言っていた。
「想像的人生の持ち時間は10年。君の10年を力を尽くして生きなさい」と。

「はい、終わりはズタズタでした。」
「国を滅ぼしたんだからな。あれだね、君のゼロは」。
これが、カプローニと二郎の最後のやりとりだった。

映画では、ゼロ戦の原型である<九試単戦>の雄飛を描いている。
みな 異口同音にいう、「あんな美しい飛行機はみたことがない」と。
堀越二郎は、あんな美しい飛行機を設計したのだ。
それも驚異的な短期間で。
二郎は‘力を尽くして生きた’のだ。

「大切なのはセンス。技術はあとからついてくる。」
カプローニが語った言葉に、間違いはなかった。
それを、二郎は証明した。
それだけで十分ではないか。


「君の10年はどうだったかね。力を尽くしたかね」
いま、この言葉が、私自身に向いている。
苦し紛れに、こう答えてやろうと思っている。

   風立ちぬ、いざ生きめやも。
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絵のある人生

2013-07-18 13:52:13 | Weblog
「絵のある人生」。
これは、安野光雅さんの著書(岩波新書)の題名です。
表紙はヨレヨレ、中は赤鉛筆や黄色マーカーや汚い字の落書きやらで、まず 古本屋は10円でも引取らないでしょう。
もちろん、売る気などありません。
大切な大切な‘新書’本です。

  絵を描くことは、描かないで過ごした人生にくらべて、どんなに充実しているか知れないのだから・・・。

同書巻末の 安野さんの言葉ですが、自分が絵を描いているわけではありません。
いや、ちょっとは描いています。
でも、人に見てもらうような代物ではありません。
もっぱら、「絵をみる人生」を楽しんでいます。


先日、佐川美術館で催された「安野光雅展 記念対談」に行ってきました。
聞き役は、ノンフィクション作家の 澤地久枝さん。
安野さん、澤地さん共に親交の深かった故・佐藤忠良の ブロンズ作品に囲まれた会場は、安野ファンでいっぱいでした。
安野さんの まじかにみる人柄、澤地さんの 控え目でスマートな相づち。
それはそれは、(澤地さんの言葉をお借りすれば)浄福のひとときでした。

どうしたら 安野さんみたいに うまく 絵がかけるの?
安野さんは 子供たちから、よくこういう質問をうけるそうです。
そこで 安野さんが引き合いに出すのが、「野口英世の母の手紙」だといいます。

度重なるうちに そらんじてしまいました、何べん読んでも 涙が出るんですよ、とおっしゃって、野口英世の母シカさんの手紙を紹介されました。
年老いた母が、幼いころ習った字を一生懸命思い出しながら書いた、誤字混じりの手紙です。

安野さんは、子供たちに こう言います。
いろは48文字で、こんなに心動かされる文章が書けるんだ。
だから、君たちも、スケッチブックと12色の絵具と太筆細筆の2本があれば、誰でも絵は描ける。


絵本を作ってみたい。
上の孫が、こう言いました。
この夏休みの宿題にすれば。
家内が、そう提案しました。
わたしは、安野さんになり済まして、野口英世のお母さんの手紙の話をしました。
横から 家内が、その前に 野口英世の伝記を読ませてあげないと、と。

ほんとうは わたしが、いちど絵本を作ってみたい と、前々から思っていたのです。
わたしの場合は、夏休みという期限がありませんから、きっと孫の方が 先に‘絵本作家’になることでしょう。

絵のある人生、みるほう専門でもいいのですが、たまに へたくそな絵を描くのも、おもしろい人生かも・・・
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祇園祭

2013-07-17 18:05:30 | Weblog
京都の夏に もし、祇園祭がなかったら、蒸し暑いだけの、殺風景な盆地夏だろうな。


ここは、新町通り錦小路上ル百足屋町にある、南観音山。
町内の子供たちの、おろうそく当番です。

  厄除けのお守りは これより出ます
  あすは出ません 今晩かぎり (このフレーズは、16日の宵山に限り 挿入)
  ご信心の御方様(おんかたさま)は 受けてお帰りなされましょう
  ろうそく一丁 献じられましょう
  ろうそく一丁 どうですか



お囃子の音に負けじとばかり、子供たちは、精いっぱい大きな声で、唱えます。

外人の老夫婦が、ニコニコと子供たちを 眺めています。
一緒に「ろうそく一丁 献じられましょう」と唱えながら、若いカップルが ろうそくを献じています。
ろうそく立てに、何本もの赤いろうそくの火が、揺らいでいます。


京都の夏は、祇園祭が、いちばんよく 似合います。
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幼子が泣いている

2013-07-11 15:52:58 | Weblog
女の子が、激しく泣いている。
5歳くらいだろうか、裸足でお母さんを追っている。
その前を かなり離れて、その子の母親らしき若い女性が 振り向きもせず歩いてゆく。

かわいいはずの幼子は、ときにわがままで、小悪魔のようにふるまうことがある。
母親が厳しく叱るのには、それなりの訳があるのだろう。
それは、よくわかる。

それでも わたしは、幼子の全身で泣く姿を見るのがつらい。
なんとか とりなしてやれないものか、そんな おせっかいな感情が吹き出してくる。

ある幼児教育家の言葉だが、ほんとうに恐いとき 幼子は泣かない。
泣いているあいだは、まだ救いがある、と。
それも、よくわかる。


わたしは、我が子に厳しかった。
とくに 男の子には、いまなら虐待通報されてもおかしくないくらい、つらくあたった。
なさけないことに ほんとうは、我が子を叱っている自分に、腹が立っていたのだ。

親は、わが子を叱るとき、冷静にはなれない。
冷静に我が子を叱ることのできるほど、親は そんなに偉くはない。
かっての自分を顧みて、臆面もなく そう思う。

そんな 割に合わない叱られ方をした我が子の心を救ったのは、母親であり、祖母だった。


泣き声が、だいぶ遠くになった。
でも まだ、全身で泣いているのが わかる。
あの裸足の女の子にも、やさしい父親か おばあちゃんがいてくれることを、ひそかに願う。
あの、振り向きもしない母親のためにも・・・
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恐い!このたびの参院選

2013-07-10 15:19:25 | Weblog
けさの新聞で、東京電力福島第一原発の元所長、吉田昌郎(まさお)さんが亡くなられたことを知った。
想像でものをいうのだが、立派な方だったに違いない。

吉田さんは過去に、大津波の試算結果を知りながら、その対策をとらなかった、との批判もあるようだが、それを言うなら、もっともっと責められるべき人間が、政界にも電気業界にも、掃いて捨てるほどいる。

吉田さんの人柄は、震災当時から彼のそばにいて 極限状態の作業に従事した 東電の男性社員の言葉ひとつで、偲ぶことができる。
「あの極限の緊張のなかで、いつも指示は的確でした。現場を知り尽くし、どのような緊迫状態の時も 気丈に立ち振舞う。あの人だから、団結できたのです。」

菅元首相でなくても、もっと、事故のこと、原発のこと、いろんな話が聞きたかった。
心より、お悔み申し上げます。


翻って いまを見るに、電力各社は、原発の再稼働を急ぐ。
理由は、もっぱら経営問題、つまり、金、カネ、金、だ。

不良部品が見つかって、そのリコールを 大損を覚悟で実施する民間企業。
それは、信用を重んじ 企業倫理に立脚して会社経営する企業の、当然の義務であろう。
福島第一原発という 途方もない不良品をだしておいて、その手立てもつかない状態で 経営が成り立ちませんので という理由で、原発再稼働を申請する東電トップの気が知れない。


このたびの参院選挙は、いろんな理由で 恐い選挙だ。
憲法や原発よりも、景気回復、つまりカネ。
それも、年金のような ちょっと遠そうなカネではなく、いまのカネ。
目先のカネに目がくらんで、衆参のネジレがなくなったなら・・・
考えるだけで、ぞっとする。

わたしの知る‘良き頃の’自民党は、党内二大政党制だったように思う。
いわゆる‘タカ派’と‘ハト派’が うまくバランスをとっていて、ときの政府が大きく偏った政策に向かおうとすれば、党内反対派がそれを牽制して、日本はなんとか まっとうな国であり続けられた。

いまの自民党には、自浄作用が効かない。
そんな党に、この国を任せていいのだろうか。
そんな党しか、託せるに値する政党がないのが、恐ろしい。


投票率がいくら低くても、国政選挙は成立する。
投票しない選挙民は、その大半がときの政府に対する不満足票であっても、選挙に関してはネグられる。
つまり、選挙は、投票した者の多数決で決まる。
そして、選挙に当選した候補者は、「日本国民の総意」に基づいて「選ばれた人」となる。

たいていの選挙人は、立候補者を、かりそめにも吉田昌郎さんほどにも知らない。
その立候補者を推す政党の言っていることも、ノラリクラリとつかみどころがない。
選挙人は、いったい何を基準に、一票を投ずればいいのか。


選挙とは、よくよく考えれば、恐いもの。
投票の基準を絞り込んで、馬に賭けるに似た思いで、なけなしの一票を投じなければならない。
とにもかくにも、棄権だけは避けねばならない。
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コロブチカ

2013-07-02 19:42:33 | Weblog
なんでもかんでも懐かしがるようになったら、人生オシマイよと思いながらも、先日 耳から、たまらなく懐かしさがこみあげてきました。
ゼスト御池地下街の広場で、コロブチカの曲が流れているのを耳にしたのです。


中学校でも高校でも、学園祭の催し物のハイライトは、フォークダンスでした。
そして、いまでも覚えている曲目は、オクラホマミキサー、マイムマイム、そしてコロブチカ。

スタートは、たいがいオクラホマミキサーでした。
アメリカ民謡だからでしょうか、ダンスの振り付けがそうなのか、ストレートな感情で異性の肩に手をかけられる雰囲気がありました。
ただ、相手の顔の表情は わかりづらかったように記憶しています。
中央のたき火の明かりが、横顔だけを照らしていたからかも知れません。

オクラホマミキサーでほぐれた気分を、マイムマイムが一気に盛り上げてくれました。
動きがリズミカルで、踊りがヘタクソな自分でも なんかうまくなったような錯覚を与えてくれました。
真ん中のたき火目指して 繋ぎ連ねた手をだんだん上へ祈りあげていく、テンポよく。
盛り上がらざるを得ない動きです。

そして、シメは たいていコロブチカだったような、思いこみかナ・・・
哀愁漂うコロブチカの曲に合わせて、やっと真正面からパートナーの表情を読み取ることが・・・
誰しも味わう苦い経験、だそうですが、目当てのパートナーの手前で曲が終わるのです。


コロブチカは、聞くだけでなく 体が曲を覚えています。
コロブチカを耳にすると、自然と体が動き出します。
コロブチカは、情景と感情とが詰まった青春曲です。
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忘れ得ぬ人

2013-07-02 16:19:53 | Weblog


上の写真は、京都奥嵯峨・直指庵(じきしあん)の庵主だった 故・広瀬喜順尼の、在りし日のお姿です。
もう、半世紀以上前になりました。

いまは どうか存じませんが、広瀬尼のおられたころの直指庵は、京の駆け込み寺として有名でした。
奥嵯峨をさまよった末に訪ねてくる 心の迷い人の相談に気さくに応じられ、長年の尼僧生活から得た豊かな経験と 歯切れのよい話し口で、立ち直りのきっかけを授け続けておられました。

わたしが広瀬尼にお目にかかったのは、そんな有名な駆け込み寺になる前、昭和39年3月のことです。
広瀬尼が得度後 托鉢の厳しい修行を積みつつ寺を転々としながら この直指庵に入られたのが、昭和37年とのことでしたから、その二年後にお会いしたことになります。

あのころ 大学入試は、3月3日から5日の三日間でした。
昭和39年の早春は 京都にしては大雪で、入試会場だった立命館大学広小路学舎(いまはもうありません)への入場に遅刻しそうになってイライラするし、寒さで腹はピーピーだし、当時のわたしの体調は最悪でした。

初日の科目のうち 数学は、自信を持ってゼロ点でした。
あとの科目は 上の空で、なんにも覚えていません。
完全にノックアウト状態でした。

それから数日して、わたしは奥嵯峨をブラついていました。
自分としては それほど落ち込んでいたとは思わないのですが、わたしの姿を見ていてくださった広瀬尼のお目には、危なそうな青二才の足取りだったのでしょう。
「ちょっとお入り」と招き入れてくださったのが、直指庵だったのです。

もちろん当時、直指庵という名も知りませんでした。
ここが かの村岡烈女の余世を送った庵だということも、ずっとのちになって学んだことです。

広瀬尼は、両親から授かったこの身を自らあやめることが いかに親不幸であるかを、この世に生れいずる尊さを、こんこんと説いてくださいました。
のちに判ったことですが、広瀬尼のご出家の動機は、姉上の難産をみて 大きなショックを受けられたことだったそうです。

受験からの解放感をあじわおうと 奥嵯峨あたりをうろついていた自分としては、気恥ずかしく、はっきりものが言えず、それがかえって 広瀬尼の心配を大きくさせたもののようでした。
ほんとうに罰当たりな、でも わたしにはこの上なくラッキーな出会いでした。

そののち 二度、直指庵を訪ねました。
一度目は、入試結果の報告に。
二度目は二年後に、広瀬尼に瑣末な悩みを聞いていただくのが目的で。
広沢池から直指庵を目指して竹藪の嵯峨野を歩いて行くと、庵に着くころには もう、しょうもない悩みなど どっかへいってしまって、広瀬尼の歯に衣着せぬお話に 心底愉快な心持になって、暇乞いするころには「こんどは○×さんと一緒にたずねにきます」などと約束して、お別れしたものでした。

その後 京都を離れたわたしは、すっかり直指庵が頭から消えていました。
日々の忙殺が、時の止まったような直指庵を追いやってしまっていました。

新住職入山で直指庵を出られた広瀬尼は その後、昭和55年に大原野の皎月庵をひらかれ、4年後の3月に胃がんが悪化して入寂されました。
83歳でした。
そのことすら、わたしは ずっとのちになって知った恩知らず者です。

ふっと広瀬喜順尼のことが思いだされました。
わたしにとって広瀬尼は、忘れ得ぬ人です。
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