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つれづれ

思いつくままに

旅立ちの春

2014-03-23 15:23:11 | Weblog
「大石さんという方が見えています」
そう取り次ぎを受けたのだが、どなたなのか 見当がつかない。
「松並さんのご紹介で だいぶ前に 見えられた方だと思います」

取り次ぎの水野さんの記憶力には、いつも助けられている。
松並さん というのは、畏友の松並壯君のことである。
ようやく思い出した。

松並君の故郷の同級生の娘さんを、同級生である父親が亡くなったあと、松並君が父親がわりのように接してきた。
その娘さんのお嬢さんが、京都の大学に入学して、下宿先を探しているので、相談にのってあげて、とのことであった。
4年前のことである。

その娘さんが、お嬢さんを連れて 挨拶に見えたのである。
この春 大学を卒業して、地元の工作機械メーカーに就職が決まり、数日後に故郷に帰ります、という。
短い立ち話であったが、厚意と礼節は 充分に伝わってきた。
ちゃんと下宿先が見つかったかどうかの確認も、あれから4年経っていることも、そういうことがあったことすら、失念している自分が恥ずかしかった。

あれから4年、お嬢さんのこの4年間は きっと、充実した確かな歩みだったにちがいない。
自分のこの4年間は いったい、と考えかけて、この母娘の確実な歩みの喜びと礼節の方に、気が移った。
4年前に、ちょこっと相談にのってあげただけである。
そのわたしを、4年後わざわざ訪ねてきてくれたことが、心からうれしかった。

恩を忘れず 礼を尽くす、この 人間として いちばん大切で 当たり前なことを、わたしは忘れかけていた。
大石さん母娘の後ろ姿を見送っていて、このことに思いが至った。

彼女たちの後ろ姿を追うように、沈丁花の香りが流れてきた。
喜ばしい、旅立ちの春である。

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彼のオートバイ、彼女の島

2014-03-18 16:50:51 | Weblog
ここは、天草西海岸サンセットライン。
東シナ海・天草灘の水平線に沈む夕陽の美しさが売りの、6メートル幅二車線の海岸道路だ。

サンセットラインを南行する観光バスの、ガイドさんの声を遠くに聞きながら、車窓から、曇り空と天草灘の境界あたりを眺めていた。
つぎ 十三仏公園の展望台で止まります と、ガイドさんの声。

バスの右下を、赤いヘルメットが追い越していく。
見ると、カリビアンブルーのカワサキ・エストレヤだ。
こんなところで エストレヤに会うとは・・・

ライダーは、体つきからして女性だ。
RD250に跨るミーヨ、まさしくそのイメージング。
ミーヨとは、片岡義男著『彼のオートバイ、彼女の島』の彼女の愛称である。

十三仏公園は すぐだった。
ちょっと先に着いたのだろう、エストレヤの彼女は、東シナ海に向かって 赤いヘルメットを脱いだ。
その動作と同時に、首を振って髪をなびかせた。
横顔しか見えないが、イメージの中のミーヨそっくり。
かっこ良すぎ。


『彼のオートバイ、彼女の島』は、バイクの師匠の薦めで、ついこの間 一晩で読み終えたところだった。
エストレヤの兄貴分、カワサキW800の先代の、650W3と それに跨るオートバイ狂のコオが主人公の、夏とオートバイと島の‘お伽話’である。

ひとむかし前のわたしなら、書店の優先棚に並んでいたとしても、たぶん見向きもしなかっただろう 小説。
内股から伝わる単気筒エンジンの振動の心地良さを知ってしまった いま、年甲斐もなく その魅力にとりつかれている。

初めての手紙で、ミーヨはコオにたずねる。
「なぜ、オートバイに乗るの?」
なかなか書けない返事に、コオは次のようにだけ こたえた。
「退屈だからにちがいない。
退屈だと、なにをやっても、自分の好きなように、どんなふうにでも適当にごまかせてしまうから。
だけど、オートバイだけは、適当にごまかすことはできない。
ごまかしていると、やがてかならず、しっぺがえしがくる。
厳しいんだ。
だから、乗るのさ、最高の緊張だよ」
シンマイのわたしにも、コオの言うことが、よぉく判る。

蛇足だが、ミーヨのふるさとの島は、おそらく北木島だと思う。
岡山県笠岡市の、瀬戸内海沖に浮かぶ島だ。
良質の花崗岩の産地。
大阪城や 新しい東京駅の屋根にも、北木島の切板石が使われているらしい。

以前 旅先で一緒だった連れのご夫婦が、北木島の方だった。
純朴な同年輩のご夫婦だったので、親しくなった。
ご主人は長く石材業に携わっていて、ようやく暇ができたので家内と泊りがけの旅にでました、とのことだった。

日焼けした小顔のご主人の腕が、ほっそりした体型ながら わたしの脚ほどもある逞しさだったことを、よく覚えている。
奥さまも、日に焼けた やさしい顔つきをなさっていて、聞き上手な とても感じのいいご婦人であった。
ミーヨの両親も、きっとあのご夫婦のようなんだろう、そう 勝手に想像している。


天草の東海岸・不知火海とは まるで別ものの様相を呈した西海岸の海は、それでもいまは 穏やかに目の前に広がっている。
天草の深すぎる悲しみの歴史に思いを馳せるには、いまの天草灘は穏やか過ぎる。
十三仏展望台に渡る風は、カリビアンブルーのエストレヤの彼女の髪をなびかせて、まちがいなく春の風であった。

いつの日か、この天草島を一周するツーリングに出かけたい。
それも、エストレヤの兄貴分のカワサキW800で・・・
85パーセント不可能な夢を、いま ワクワクしながら、ゆめみている。
15パーセントの はかない望みを、日々のライディングの練習で かなえられると信じて。
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2014-03-04 16:21:06 | Weblog
兄が、ひとり いました。
わたしが ゼロ歳のとき、三歳で亡くなりました。
昭和20年10月15日のことです。


母は、兄のことを、ひとことも語りませんでした。
父は、深酔いしたときなど たまに、敷居に目を据えて こう言いました。
カラのマッチ箱を敷居に並べて、よう遊んどった。
そして、決まって こう続けました。
ペニシリンさえ 手に入ってたらなぁ。

終戦直後、進駐軍流れのペニシリンが、目をむくほどの高額ながら、ヤミで手に入ったとのことです。
のちに 祖母から聞いたのですが、兄は腸チフスに罹って 隔離病棟に移され、母にすら看取られずに 死にました。


仏壇に手を合わすとき わたしは、「ねんびかんのんりき」と唱えます。
そのあとに、「じこうどうじ」と、つけ加えます。
滋耕童子、兄の名前「耕滋」をひっくり返して 童子を付けただけの、兄の戒名です。

「ねんびかんのんりき じこうどうじ」
こう 口に出して唱えると、兄のぶんも もらえて、あともうすこし 元気で過ごせる気がいたします。

兄の小さな位牌を、もうちょっと 両親の位牌に近づけてあげました。
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