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つれづれ

思いつくままに

英語が話せるかも!

2010-10-30 23:20:24 | Weblog
いまどき、エスペラント語を知る人は少ないと思います。
でも ぼくたちの学生時代、「これからの国際社会で活躍する若者は、エスペラント語を学ばにゃぁ」と 真剣に考えていた者が、かなりいました。
ぼくも、そのひとりでした。

そのきっかけは、高校の名物教師の授業にありました。
国語の先生でした。
「二葉亭四迷は、尾張藩士の親父さんから 口癖のように、『文学で飯が食えるか!お前のような青臭い文学野郎は くたばってしまえ!』と言われ続けていた。そこで『くたばってしまえ』をもじって、二葉亭四迷というペンネームを思いついたんだ。」
こういう調子の授業でしたから、大学受験には役に立たなかったものの、この先生から教わった授業は、いまだに覚えています。
この先生が しょっちゅう、「これからの国際社会で活躍する若者は、エスペラント語を学ばにゃぁ」と言っていたのです。
ちなみに、エスペラント語を初めて日本に紹介したのは、二葉亭四迷でした。

エスペラント語は もともと、英語を国際共通語として当然視してしまう姿勢への対抗から 人工的に生み出された言語でしたから、その普及には無理がありました。

大学の教養部2年間で エスペラント語をあきらめ、やっぱり英語かぁ ということで、巷の英会話教室なるところへ 通うようになります。
鼻のツンと高い でも目は優しそうな、たぶんアメリカ人の 若い女性英会話教師に、顔と顔が引っ付かんばかりの距離から、<アン、ぶれ(Re)、ら(La)>、<アン、ぶれ(Re)、ら(La)>、、<アン、ぶれ(Re)、ら(La)>・・・
もう、アンブレラで通じひんのかいなぁ、LでもRでも どっちでもええやん。
それでも 3か月分の前払い授業料がもったいないから と、でも 2か月足らずで やめてしまいました。

ここから、ぼくの不毛の英会話教材遍歴が始まります。
まず、NHKラジオ第二放送の「松本亨の英語会話」。
田崎清忠の「NHKテレビ英語会話初級」、國弘正雄の「NHKテレビ英語会話中級」。
オーソン・ウェルズの「English Adventure---Drippy”、“The Chase”」。
東後勝明指導の「NHK英語会話」カセット集。
小島義郎指導の「NHK基礎英語」カセット集・・・
あぁ、不毛の英会話学習!

自分の努力が足りないくせに、教材のせいにしては 恥ずかしいです。
ぼくには、英会話の才能がなかったんや・・・
遠いむかしの 落伍者談です。

英会話など とうに諦めていたんですが、衝撃的な記事を 10月20日付けの朝日新聞に見つけました。
オピニオンインタビュー、立教大教授・鳥飼玖美子さんの「これからの英語」という記事です。
溜飲が下がる内容なので、しつこいようですが、ちょっと長めに抜粋して引用します。

<グローバル化と言われる時代、我々が学ぶべき英語はどういうものでしょう。>
---英語は もはや米英人など母語話者だけの言葉ではありません。
  彼らは4億人程度ですが、インドやシンガポールのように 英語が公用語の国の人たちと英語を外国語として使う人たちを合せると 十数億人。
  みなさんが英語を外国語として使う相手は、後者の確率が はるかに高い。
  英語は、米英人の基準に合わせる必要はない時代に入りました。---
<RとLの違いも たいした問題ではなくなりますか?>
---全く問題ないです。
  様々な国の、英語が母語でない いろいろな人に聞かせて、理解できるかどうか調べてみると、RとLの違いなんて文脈でわかるんですよ。---
<ここまでは英語だけれど、ここから先は英語じゃないという判断は、米英人がするのですか。>
---英語か英語でないかを 母語話者が選ぶなんて、そんな時代は過ぎました。
  自分たちをスタンダードにしろなんて言ったら、それは少数派の身勝手です。
  英語は、申し訳ないけれど 米英人たちの固有財産ではなくなったんです。
  彼らにとっては、変な英語がまかり通って不快でしょう。
  けれど、私たちだって苦労して勉強しているんです。
  彼らも 歩み寄ってもらわなければ。
  共通語なんですから。
<国際共通語として英語は、英語から固有の文化を切り離して考える ということですか。外国語を学ぶには、その言語が話されている国の文化を学ぶ必要があると言われていますが>
---英語には、米英の文化や生活、歴史が埋め込まれています。
  これを全部切り離すことは、現実には無理です。
  教える側の意識の問題だと、考えています。
  余力のある人、米英の文化や言語を専門にする人が 学べばいい。
  少なくとも コミュニケーションのための英語というのなら、無自覚に米英の文化を教えようとしないほうがいい。
  これは、相当批判を浴びるでしょうね。
  でも、これしか『英語支配』を乗り越えるすべはありません。
---国際共通語としての英語に、もう一つ重要な要素があります。
  それは、自分らしさを出したり、自分の文化を引きずったりしてもいい、ということです。
  『アメリカ人はそうは言わない』と言われたら、『アメリカでは言わないでしょうが、日本では言うんですよ』。
  それでいいんです。
  お互いに英語が外国語で、下手な英語を話す者同士が『本当はあなたの母語で話せたらいいんだけれど、ごめんなさいね』 『いやいや私こそ、日本語を話せないのでごめんなさい。しょうがないから 英語で話しましょう』というわけですから。
  日本人は日本人らしい英語を話し、相手は 例えば中国人なら 中国人らしい英語を話し、でも 基本は守っているから英語として通じる、コミュニケーションができる。
  これが、あるべき国際共通語としての英語です。

鳥飼教授の言わんとされていることが、よーく理解できます。

思い出しました。
揚子江の奥に、特殊鋳鉄の提供者を探しに 中国を旅していたときのことです。
北京から同行してくれた年若い技術者と、揚子江を渡るフェリーの上で、お互いカタコトの英語で意思を疎通し合って、お互い相手の言うことが ほぼ理解できて、うれしくて甲板の上で抱き合ったことがありました。
言葉が通じることが どんなにすばらしいことか、あのとき 心から感動したものです。

ネイティヴな英語が しゃべれなくて、いいんですね。
しゃべれないのが、あたりまえなんですね。
京都人が、生粋の江戸っ子のような東京弁をしゃべれないのと、同じなんですね。
アメリカ語も、国際共通語としての英語からみれば、ひとつの方言と考えればいいんですね。
なーんだ、そういうことだったんですか。
それなら 英語も、エスペラント語とおんなじ感覚で 学べばよかったんだ。
だったら、ぼくだって英語が話せたかも。
いや 今からだって、日本英語で話せるかも。

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水尾の里

2010-10-29 13:58:16 | Weblog
愛読しているブログに、「加藤わこ三度笠書簡」(http://sandgasa.exblog.jp/)がある。
すらっと読めて 写真も楽しく、ほのぼのとした読後感を味わえる、すばらしいブログだ。

今年8月13日投稿の同ブログに、彼女のお兄さんが住んでられる三重県熊野市波田須町の 廃校となった「波田須小学校」を、谷川俊太郎の詩に託して 紹介されていた。
廃校や廃坑に漂う空気から感じ取る 消え入りそうなさみしさは、加藤わこさんのおっしゃる通り、「正しい寂しさ」だと思う。
正しい人間の情感だと思う。

友人の木下哲夫氏に介添え(?)してもらいながら、水尾の里から愛宕山にのぼった。
この敢行は、脚が弱ってきたぼくにとって、彼がいなければ成し遂げられなかった快挙と、半分情けない気持で感謝している。

水尾の里は、穏やかだった。
清和天皇が この地を永久の棲みかに定められたお気持ちが、素直に納得できる。

木下氏の先導で、道に迷う心配はない。
小さく細長いグランドを横切る。
右手に 圓覚寺と掲げられた寺らしくない建物、左手は 学校みたいな建物。
「これは水尾小学校の分校跡や」との木下氏の案内で、あぁ、この細長いグランドは 校庭だったんやと合点する。

ちなみに 円覚寺とは、別名「水尾山寺」と言う。
源氏の祖とあおがれる清和天皇は、9歳で天皇に即位され、27歳の若さで 皇子である9歳の陽成天皇に譲位された。
時の権力者であった藤原良房・基経父子を信任しつつも、彼らに心を許せなかったらしい。
幼少より体が弱く、多くの后妃・皇子女に恵まれながらも、生来の信仰心から29歳で出家される。
水尾を隠棲の地と定められて 新たに寺を建立中、左大臣源融の別邸で病を発し、粟田の円覚寺に移されたのち崩御される。
粟田口の円覚寺はのちに焼失、再建されないまま 宝物などを水尾に移し、水尾山寺の名が消えて円覚寺だけが残ったという。
清和天皇を愛したこの村人たちの末裔の里人に、大切に護られている。

水尾小学校のホームページを開いてみた。
廃校になった小学校のホームページは、読む者に不思議な感覚を与える。
そこには、水尾小学校の生徒たちが いまでも生き生きと学校活動を続けているかのよう。

この山里に辿りつく道端にたくさん咲いていた芙蓉の花は、水尾小学校の生徒たちが 植えたものだ。
学校紹介で 岩田三枝子校長は、こう綴られている。
---地域の人々が水尾の自然を守り大切にされている努力に学び、自然保護・環境保全に取り組む子供達の活動は、本校の教育目標「豊かな人間性を持ち、主体的に学習・生活を創造する水尾の子どもの育成」を達成するために大事にして行きたい活動である。いろいろな体験を通して、自然に学び、地域を見つめ、地域に誇りを持つ子どもの育成は、本校の特色ある教育活動と考え取組に力を入れている。---

春には チューリップの花街道、夏には インパチェンスやサルビアの花街道、秋にはコスモス、冬には葉ぼたん、そして訪れた時期の みごとなフヨウ街道。
みんなみんな、水尾小学校の子供たちの作品だ。

ぼくは、廃校となった水尾小学校の校舎やグランドを見て、加藤わこさんの言う「正しい寂しさ」を、深く味わった。

校舎裏の民家の小さな畑跡に、紫色したかわいい花が 土を割って咲いていた。
木下氏が、帰ってから その花の名を調べて、教えてくれた。
その花の名は、「イヌサフラン」という。

水尾の里は、小学校は廃校になっても、生きとし生けるもの皆、静かに生き生きと息づいていた。

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裂き織り

2010-10-28 23:09:30 | Weblog
急に秋が深くなりました。

手袋が欲しいなぁと、上着のチャックを首の上まで締めあげながら、紙屋川沿いに自転車を走らせていると、めずらしく 機の音が聞こえてきました。
無性に懐かしさがこみあげました。

京都・紙屋川沿いの小道は、小さかった頃のほろ苦い思い出で、詰まっています。

叱られて家を飛び出し、遠くに行く勇気もなく、紙屋川沿いを彷徨い、機を織る音に胸をきゅーっと締め付けられて、それでもなお意地を張って北野天神を目指し、だんだん心細くなって、天神さんの北門でUターンしたころには、家々の明かりがぽつりぽつりと灯りだし、紙屋川沿いのおうちの台所から 夕餉の匂いが漂って、ましてや まだ聞こえてくる機の音に、もう意地も糞もなくなって、急ぎ足で舞い戻る。
このパターンの繰り返しでした。

ぼくは、西陣に関係した家で育ったわけでもなく、機を織った経験もないのですが、機織りの醸す雰囲気に惹かれます。
カターンカタ-ンという機の音は、ぼくの聴覚の原風景のような気がします。
一度 自分で機を織ってみたい、そう思ってきました。

先日、こんなんええと思わへんかと、ある雑誌に載っていた記事を、家内が教えてくれました。
「糸一本まで捨てたくない」と題した、裂き織りの記事でした。
ピタッときました。
ネットで調べてみて、裂き織りの魅力にとりつかれた人が 大勢いることに、まず びっくりでした。
ぼくも自分で織ってみたい。

ありがたいことに、京都には この種の手工芸の伝統があります。
体験教室を探すのは、さほど難しくありませんでした。
ぼくたちに裂き織りの初体験を提供してくれたのは、仏光寺通り富小路西入ルの『彼方此方屋』さん(http://www.ochicochiya.com/classroom/texture/)でした。
親切な教え方と 熱心な(?)教わり方の成果に、大満足しています。
初めてにしては 上出来と、勝手に悦に入っています。

捨ててしまうのはもったいない古布を、とことん再利用できる。
まず、布を裂く快感がたまらない。
単純作業ながら、ちょっとした寄せ木の強さ加減や 横糸のはぎれの配合ぐあいで、微妙に風合いが変わってくる。
自分の美的センスが 意外性を伴って、作品に試される。
出来上がった作品は、風呂場のマットや花瓶敷きに 有効に実用出来る。
ぼくの性にぴったりです。

聴覚の原風景である あのカターンカタ-ンという音とは程遠いですが、織っていると 遠い昔に還ったみたいな気分になれます。
夜長の秋に、似合います。

裂き織りに、はまり込みそうです。

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大文字山

2010-10-02 16:24:32 | Weblog
眼下に、京都盆地が横たわっています。
大文字山の大の字のへその火床に腰かけて、長い時間、ぼけーっとしています。

吉田山の東肌に下宿していたぼくは、いたたまれなくなると決まって、大文字山に登っていました。
ひとりで登ることが多かったのですが、同じ下宿人の美大生といっしょに登ることも、しばしばでした。
ぼくは、ちょっとの期間、彼に絵を習っていました。
彼は、ぼくより ひとつ年上でしたが、風格は ぼくより10歳くらい上のようでした。
その受ける印象は、揺るぎない ものの考え方に拠るものでした。

いま 腰かけている火床に、彼と並んで座って、日が暮れかけるまで、ぼくは彼の話に聞き入っていました。
彼は、本気の平和主義者でした。
マハトマ・ガンジーの「七つの社会的大罪」を知ったのも、彼からです。

眼前の風景も、ぼくの頭の中も、あの頃と、何も変わっていません。
変わったことは、あの頃 その存在すら気にとめなかった祠、大の文字のへその火床の すぐ山手にある祠に、いまは、そこに置かれたおりんを鳴らして、手を合わせている自分の姿です。

京都で、一番眺めのいい特等席、そして、ぼくの青春の思考場所、それが、大文字山の この場所です。

   
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微妙な年齢

2010-10-02 16:17:57 | Weblog

久しぶりに、京都市バスに乗りました。

どの席に座ろうか、と迷うくらい、乗ったときは すいていました。
シルバーシートは避けて、一人席を選びました。
しだいに混んできました。
真横に、ぼくより一回りくらい年長の紳士が、手すりにつかまって 立っています。
シルバーシートには、2組の若い男女が座っています。

気持が落ち着きません。
ぼくも もう高齢者に分類される身なんだ と、ちょっと居直って、自分と同様に席を譲ろうとしない シルバーシートの若者たちに、責任を転嫁して、そわそわと座り続けました。

65歳というのは、微妙な年齢なんです。

こんなこともありました。
最近とみに混みだした、JR嵯峨野線でのことです。

満員の京都駅行きの車中で、手すりにしがみついていました。
丹波口からさらに乗り込もうとする圧力で、前に座っている若い女性に 覆いかぶさる格好になりました。
見かねてか、迷惑からか、判然としなかったのですが、彼女が席を譲ろうとしてくれました。
でも 体勢的に、彼女と入れ替わって座るというのも、大変な状態でした。
丁重にお礼を言って、「もうちょっとですから」とかなんとか言って、親切をおことわりしました。

65歳は、譲ることにもためらい、譲られることにも戸惑う、どっちもつかずの 微妙な年齢なんです。

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