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つれづれ

思いつくままに

ふたかみ山

2010-08-21 00:39:45 | Weblog
当麻の里によせて (鳥越ゆり子)
  風が野づらに
  いろは文字を刻む
  タンポポの傘に変幻して
  あるいはセキレイの尾を振りながら
  銀ヤンマの翅を透きとおらせ
  アケビのつるや山藤の鞘となって
  白菜やキャベツをつづり
  黄金色の稲穂をゆする
  ここ 二上山麓
  当麻の里の
  棚田ひろがる
  ゆるやかな裾野に
  いのちはつづいている
  石斧や布目の瓦に
  湧きでる泉や
  草道にうずもれた石棺
  わたしはどこからきたのか
  今あることのまばゆい不思議
  泡立つコスモスの疑問の花びら
  百億光年銀河群の謎
  魂も燃えあがる 夕暮れ
  二上の山の乳房のくぼみに
  金の烏がゆったりと羽根をひろげて
  憩うとき
  サヌカイト琴 鳴れ
  ザクロ石 光れ
  わたしの胸の
  鼓動の故郷に

この夏のはじめ、奈良・五條市にある国宝・八角円堂を訪ねたのですが、その途中、二上山麓を通りました。
首記の詩は、そこで立ち寄った「道の駅ふたかみパーク當麻」の食堂の壁に、描かれていたものです。
素朴な字体で、たぶん、どのような方か存じあげませんが、鳥越ゆり子さんの手になる壁文字でしょう。
近在の詩人だと推察しますが、この詩を読んだだけで、ひとめ お目にかかってみたくなります。

蛇足ですが、サヌカイトとは、金属器の伝来まで石器の材料として幅広く利用されていた火成岩の一種で、二上山の北に、国内最大級のサヌカイト採掘坑群の遺跡が見つかっています。
そして、このサヌカイトの薄板片で作った石琴は、えも言われぬ神秘な音を奏でます。

五條市の八角円堂見学の途中とはいえ、40年ぶりの二上山が懐かしく、當麻寺を散策したりして 午後遅くまで、この地で過ごしました。

當麻寺に魅せられて この地を初めて訪ねたのは、半世紀前になります。
當麻寺の東大門から見る二上山は、鳥越ゆり子さんが詩の中で詠んでられるように、母の乳房のごとく まことにやさしく、寺だけでなく この地が持つ原初的な雰囲気が気に入って、その後いく度となく この地を訪れました。
そして 尋ねるごとに、大津皇子(おおつのみこ)の悲劇に、引き寄せられていきました。

二上山は その名の如く、こんもりとした二つの峯の連なりです。
山の尾根は国境で、こちらが大和、向こうが河内です。
左が女嶽でやや低く、戦時中、軍隊がこの頂に大砲を構えていたと聞きます。
右が男嶽、その頂上に、大津皇子の 小さなお墓があります。

大津皇子は 天武天皇の第三皇子で、母は伯父にあたる天智天皇の娘である太田皇女(おおたのひめみこ)でしたが、幼少のころ 母を亡くします。
天武天皇の死後、天武天皇の皇后であった叔母に当たる持統天皇に、謀反の疑いをかけられます。
そして、皇族同士の血みどろの争いの犠牲者となって果てるのです。

皇位継承は 皇子の年齢と母親の血すじが皇太子になる資格を決めますから、皇太子の候補者はおのずと絞られて、持統天皇の実子・草壁皇子(くさかべのみこ)と大津皇子が、有力候補でした。
草壁皇子は、大津皇子の1歳年上、それに母親が皇后であり、幼くして母を亡くした大津皇子より 外的条件は有利でした。
しかし、悲劇は得てしてそうなのですが、器量・才幹は 大津皇子のほうが優れていたようです。

大津皇子の、英明な資質と堂々たる風貌、それに加えて、一般の人心を惹く人気をもっていたことが、かえって不幸のもとでした。
持統天皇は、自分の子・草壁皇子への執着から 大津皇子が疎ましくなり、ついに「謀反を起こそうとしている」として 大津皇子を死に追いやってしまったのです。

と、まぁこれは、表面上の歴史であり、持統天皇ひとりを悪人に仕立てるのは、いつの世も 陰で暗躍する強欲者たちの常套手段ではあったことでしょう。
賢明な大津皇子は、そんな動きはちゃんと予想していたでしょうし、できれば天皇になって、良きまつりごとを行うことを望んでいたかも知れません。

長い歳月は、この大津皇子の悲劇すら、そんなことがあったのかと、忘れ去らせます。
先の戦争も そんなふうに語られるほど、平和が続くのであれば、どんなにしあわせなことでしょう。

二上山は、鳥越ゆり子さんの詩のように、かけがえのない故郷として、いつまでも仰ぎ見られるのが いちばんふさわしいと、行きずりの旅人ながら そう強く感じます。
二つの峯の、なだらかな稜線を追いながら・・・。
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レンブラントの光

2010-08-18 16:07:07 | Weblog
ベルリン美術館が所有するレンブラントの絵に、<黄金の兜の男>という作品があります。

暗らーい絵です。
黄金色の兜が、不気味に輝いています。
その兜を被った口髭の老人の顔が、ぼんやりと浮かんでいます。
陰鬱そうなその顔は、口を結んで、下の方をうつろに見つめています。
頸甲の右肩に、あたかも兜から垂れる黄金色のしずくが溜まった塊、それが勲章のように小さく輝いています。
ただ それだけで、あとは 漆黒の闇です。

この絵を、ずっとずっと前に見た記憶があります。
中学校の美術の教科書だったか、定かでありません。
こわーい絵の記憶。


分厚い雲の切れ間から差す太陽光を 薄明光線と言うのだそうですが、この薄明光線のことを「レンブラントの光」と呼ぶことを、最近知りました。
別名「天使の梯子」。
先日、紀伊白浜へ孫たちと海水浴に行ったとき、この薄明光線に出会いました。
南の海の 雨雲が垂れこむ空を 恨めしく見上げていると、雲の切れ端から 太陽の光が洩れあふれ、光線の柱が 放射状に地上へ降り注いで見えたのです。
実に美しい光景でした。
天使の梯子という名にぴったりの、昇天の気分みたいでした。

空は刻々と変化します。
見ている間に、厚い雨雲が 光線を消しました。
それでも 雲の一部が、黄金色に輝いています。
その雲の切れ間から、さーっと光が射しました。
あぁ、これが「レンブラントの光」なのかと、その見知らぬ名付け親に 訳のわからない感謝をしていました。
そのとき ふっと、あの<黄金の兜の男>の絵を 思い出していました。


若いころ、ぼくはレンブラントの絵を好みませんでした。
暗いし、描かれた情景が おどろおどろしているし、気が滅入りそうで・・・

レンブラントは、1606年、オランダのライデンで、9人きょうだいの8番目の子として産まれました。
きょうだいは職人として育てられましたが、レンブラントだけは 大学教育を受けさせてもらいました。
しかし 学業をあきらめて、好きな絵の道を選びます。
1631年、アムステルダムに移り住んで以後、終生この地に居住します。
最初 彼は、肖像画家として大層な成功をおさめました。
それとともに聖書の物語や古代史や神話の諸場面を絵にし、さらに風景画も描き始めます。
1642年、有名な<夜警>を完成したころから、レンブラントの没落が始まります。
経済的にも、そして家庭的にも。
各年代に描かれた数多くの自画像は、レンブラントの そのときどきの生きざまを、たぶん意識的に もの語っています。

このごろ ぼくは、レンブラントの絵を、画集などで よく眺めます。
とくに、経済的に豊かでなくなった 晩年の作品に惹かれます。
レンブラントの絵が好きになったのかと言うと、ちょっと違う気がします。

光が満ち溢れていることに、少し疲れたのかも知れません。
少しの光でも、レンブラントの光は、ときに劇的であり、過渡的であり、移ろいゆくものであるがゆえに、日だまりの温みのように、この身にすんなりと寄り添ってくれるのです。


各年代に同じ主題で数点描いた レンブラントの作品の中に、<幼児キリストを讃えるシメオン>という作品があります。
シメオンという老人は、ルカによる福音書に登場する人物で、その目で救世主を見るまでは死ぬことはないと、予言を受けていました。
その成就を予感して シメオンが神殿に籠っていますと、マリアとヨセフが慣習に従って 初子を神殿に捧げようとやってきます。
シメオンは その子をそれと認め、腕に抱きとって 震える声で救済の言葉を述べます。
「主よ、今こそ御言に循(したが)ひて 僕(しもべ)を安らかに逝かしめ給ふなれ。わが目は、はや主の救いを見たり・・・」

レンブラントの光は、暗闇から射す 安らげき陽射しであり、まさしく薄明光線「天使の梯子」であり、それは あたかも シメオンが見た救世主のように、ぼくには感じられるのです。
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おてんとさま

2010-08-10 10:28:05 | Weblog
1か月ほど前の朝日新聞に載っていた「公益財団法人 旭硝子財団」という広告欄に、“地球環境問題を考える懇談会”の最終報告書を 希望者に無料で配布する、と書いてありました。
興味半分で申し込んでおいたのですが、先日 その報告書が届けられてきました。
実は、申し込んでいたことすら 忘れていたのです。

『生存の条件---生命力溢れる 太陽エネルギー社会へ---』と題したA5判260ページ余の、多数カラー写真が装入された本冊と、『生存の条件』を読み解くためのデータ集が、しゃれた合冊外箱に入っています。

まず驚いたのは、大企業とはいえ 一民間企業の下部財団が、一企業の損得をはるかに越えたテーマを深く追求し、うわべの損得抜きで誰かれなく その英知を広報しよう、という姿勢です。
そして さらに驚いたのは、その中身です。
この報告書は、きのうきょう ちょっとの思いつきで出来上ったものでないことは、一目瞭然です。
この報告書の基盤となる懇談会は、2006年から2009年にかけて計8回開催されたということです。
そして その懇談会のメンバー31名の顔ぶれは、いまの日本の英知を代表する方々ばかりです。
顔ぶれがいいから 内容も濃いとは限らないものですが、この報告書に関する限り、彼らの真摯な討議の様子が、この一冊の本の隅々に滲み出ています。

ところで、この報告書は、旭硝子財団のホームページからダウンロードできます。
ぜひ一度、ご覧になってください。
http://www.af-info.or.jp

さて、21世紀が9.11事件で始まったということは、人類にとって、代償の大きい きわめて教訓的夜明けでありました。
9.11事件を起こした側も、起こされて 暴力には暴力で向かおうとした側も、大きな大きな間違いをしていたことを、思い知ったはずです。
その代償は、あまりにも悲惨です。
20世紀前半の二つの世界大戦で、あれほど懲りたのに、また同じ過ちを繰り返している人類という生きものは、なんという種族であることか。
今度こそ目を覚まさなければ・・・

人間の強欲が産む人間同士の戦争は 言わずもがなですが、人間が人間以外の種族である生きものに対して犯してきた過ち、生きものだけでなく、森や川や海や この地球のありとあらゆる存在を ないがしろにしてきた人間の罪は、いま、異常気象という罰となって、現れています。
因果応報には違いないのですが、人間がこの地球上で生存していくには、過去に犯した過ちを深く反省し、いまこそ、人間の英知を結集して、地球にやさしく抱かれる人類の理想像の実現に向かわなければならない時です。
遅すぎるくらいですが、もう待ったなしです。

報告書『生存の条件』は、人間が向かうべき、ひとつの正しい方向を提唱しています。
それは、「太陽エネルギー社会」です。

・・・産業革命前は、私たちは太陽エネルギーの日々の恵みを受けて 自然とともに生きてきました。しかし、産業革命以降、私たちは、太陽の恵みを長年にわたって蓄えてきた財産である「化石燃料」に依存した経済活動を拡大し、毎年膨大な量の化石燃料を浪費し続けてきました。その結果、化石燃料の枯渇、地球温暖化という危機が迫っているのです。また、化石燃料の地域的偏在やそれを利用する技術の差が、生活や経済の格差といった問題も生じさせています。
この危機を乗り越えるためには、太陽によって支えられている地球の自然、生物を尊重するという考えに立ち戻ることが必須です。人間を含む全ての生物が 最終的には太陽エネルギーに由来する諸資源に支えられて生存してきたのですから、長年にわたって蓄えられた これらの財産を使い切るのではなく、日々降り注ぐ太陽エネルギーの恩恵を 効率よく活用する社会を実現することが、危機を乗り越える唯一の道です。・・・

ぼくたちは 小さい頃、おとなが朝日に向かって手を合わす姿を見て 育ちました。
ぼくたちは、こそこそと悪いことをすると、おとなたちから「おてんとさまが見たはるよ」と言って諭されました。
ぼくたちの心には、恐れ多い「おてんとさま」だったのです。

太陽を「おてんとさま」とよぶとき、そこには 知らず知らずのうちに自然に対する畏敬がありました。
それは、ついこのあいだ、半世紀余前のことです。

『生存の条件』が唱える「太陽エネルギー社会」を、ぼくは 敢えて「おてんとさま社会」とよびたい。
そう よぶことで、おのずと人の心に 自然に対する畏敬の念が湧きおこることを望みたい。

『生存の条件』を送っていただいた旭硝子財団に、心から感謝します。

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ピー子の その後

2010-08-09 14:26:13 | Weblog
ピー子は、無事だったようです。

無事を教えてくださったのは、毎朝 工場の前を通って二条城まで、往復散歩されているご夫婦です。
ピー子に右往左往しているときの事情を、ご存じだったのです。

最近このご夫妻に、朝の門掃きでお会いしないなぁと思っていたのですが、この猛暑、朝7時でもきついので、1時間早起きして散歩されていたみたいです。
今朝は眠りが浅く、定刻まで眠れそうもなかったので、ぼくは1時間早起きしました。
朝のリズムが、すべて1時間繰り上がりました。
だから、ご夫妻にお会いできて、ピー子の消息を知ることができました。

ご夫妻が散歩の往きに、工場の前の電話線に、大きいのが2羽、小さいのが2羽、(たぶん)あのヒヨドリがとまっているのが見えたそうです。
もし、ほんとうにピー子たちだったら、2羽のヒナとも無事だったんです。
散歩の復りにも まだ、4羽とも電話線にとまっていたということです。
「きっと、このおうちに お礼に来たんだと思いますよ」
そう、奥さんにおっしゃっていただいて、なにか胸がジーンと熱くなりました。

ピー子も、(おそらく)お兄ちゃんのヒナも、元気だったんだ。
よかった。
ほんとうに、よかった。
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