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つれづれ

思いつくままに

運慶の大日如来像

2009-10-30 22:45:00 | Weblog
<・・・興福寺は淡海公(藤原不比等)の御願、藤氏累代の寺也。東金堂におはします佛法最初の釈迦の像、西金堂にをはします自然湧出の観世音、瑠璃をならべし四面の廊、朱丹をまじへし二階の楼、九輪そらにかゞやきし二基の塔、たちまちに煙となるこそかなしけれ。東大寺は、常在不滅、実報寂光の生身の御佛とおぼしめしなぞらへて、聖武皇帝、手づからみづから磨きたて給ひし金銅十六丈の盧遮那佛、烏瑟(うひつ)たかくあらはれて半天の雲にかくれ、白毫新におがまれ給ひし満月の尊容も、御髪(みぐし)は焼けおちて大地にあり、御身は鎔(わ)き合ひて山の如し。八万四千の相好は、秋の月はやく五重の雲におぼれ、四十一地の瓔珞は、夜の星むなしく十悪の風にたゞよふ。煙は中天にみちみち、ほのをは虚空にひまもなし。・・・>

これは、平家物語のなかの 『奈良炎上』に出てくる一節である。
世に言う“平重衡の南都焼討ち”だ。
治承四年(1180年)、運慶は このとき、弱冠27歳(推定)であった。
南都焼討ちにより、東大寺大仏殿をはじめ 東大寺・興福寺の堂舎・僧房は、ことごとく焼失した。
仏教芸術にとって きわめて深刻な損失であったことは、間違いない。
しかし 運慶にとっては、この大人災は、大仕事に恵まれる 絶好のチャンスであった。
それも、仏師の祖・定朝(じょうちょう)によって がっちり固められた仏像制作技法に捕らわれることなく、運慶憧れの天平彫刻に 彼独自のリアリズムを加えた技法で、のびのびと表現できる好機だったのである。

運慶の父 康慶(こうけい)は、元は興福寺の下級僧であった。
当時、定朝の流れを継ぐ第四代康助(こうじょ)が、奈良仏師として 興福寺で古仏を修理していた。
その康助の弟子となった康慶は、仏師の技術と才能を認められ、第六世を継ぎ、京仏師の円派・院派に対して 慶派を創立した。
その康慶の長男として生まれたのが、運慶である。
運慶が二十歳を少し過ぎた頃、春日大社の奥の院・円成寺(えんじょうじ)の仏像制作を父から許される。
南都焼討ちの 4年前である。
運慶は、思いっきり腕をふるった。
運慶 最初の大仕事であった。
その出来上がった仏像が、円成寺(えんじょうじ)の多宝塔に残る 大日如来坐像である。

秋の日、円成寺を訪れた。
京都から奈良へ行くには、山城路を進む。
今の、旧国道24号線である。
奈良へ差し掛かる奈良坂の峠を越えると 急に、遠望の天空に輝く 東大寺大仏殿の鴟尾(しび)が、目に飛び込んでくる。
あぁ 奈良だ、そう実感する瞬間だ。
峠を下ると、般若寺の標識が目立つ 三叉路に至る。
まっすぐ行けば、東大寺の転害門の前を通って 興福寺だ。
般若寺の三叉路を左折して、東へ進む。
この道、国道369号線の先は、柳生を通って 名阪国道に合流する。
柳生の里の少し手前、いかにも聖地らしい地名、忍辱山(にんにくせん)の地に、円成寺はある。
車で何気なく通れば、見過ごすだろう。

‘忍辱山円成寺’の石碑が立つ国道脇から石段を降りると、そこは 別世界のようだ。
浄土庭園の池には、大きな鯉が ゆうゆうと泳いでいる。
その池の向こうに、こんもりとした森のような木立に囲まれて 楼門が見える。
池畔にある門前茶屋のわらびもちの旗を横目で見ながら 池を回り、楼門左の通用門石段を上がって、境内に入る。

本堂(阿弥陀堂)は、応仁の乱直前に建てられた 室町建築である。
妻の側を正面とする妻入(つまいり)で、寺院建築では珍しい様式だ。
屋根勾配は緩く、軒は両端でわずかに反り上がって 見栄えがよい。
三間の向拝は、中央に階段、左右の柱間が舞台造りとなっている。
正面から この阿弥陀堂を拝して、わたしは とても美しい建築だと思った。

お堂の中に入って、さらに この阿弥陀堂に魅せられた。
六本の柱で支えられた内陣の奥に 本尊である阿弥陀如来像が安置され、その前に配された四本柱には、二十五菩薩の聖衆来迎図が 極彩色で描かれている。
臨終の際に極楽浄土から迎えに来るとされる菩薩集団が、円柱に舞うようにして 描かれているのだ。
色褪せかけた極彩色は、ことのほか 魅力的である。

しばらく お堂内部に動かずにいたが、お目当ての大日如来像を求めて お堂を出た。
運慶の大日如来像は、本堂脇の多宝塔に 安置されていた。
多宝塔の本尊である この大日如来像は、ガラス越しにしか 拝顔することができない。
両手で陽の光を遮りつつ、ガラスに顔を押し付けるようにして 覗き見る。
真正面のお顔、その鼻に吸い寄せられた。
人間臭く親しみ深い、団子鼻。
鼻筋通った飛鳥仏の鼻からみれば、これは仏の鼻ではない。
だいたい、大日如来とは 盧遮那仏であり、盧遮那仏とは 一切の仏がひとかたまりとなった全体の姿、考えようでは 仏界でいちばん偉い仏のはず。
青年運慶は そんな古来の様式を平気で打ち破って、若者の掛け値なしの生命の充実を 仏像という表現対象にぶつけたのであろう。
生気がみなぎっている。
鼻も惹きつけられるが、智拳の印を結んだ両手に、この像の本髄を見る。
この手の形、仏界すべての仏たちがもつ働きを一つに結集した 偉大な法力を発揮する この手の形に、若き運慶は、大きな決意を託したのであろう。
かたく結んだ智拳の印は、藤原時代のよわよわしい彫刻を捨てて、新しい力強い彫刻を生みだそうとする、運慶自身の決意だったに違いない。

さらに 驚かされるのは、運慶は、台座に自分の名を墨書していることである。
それまで 最高の棟梁でも、仏像に作者銘を記入することは、控えめにしていた。
それなのに、一仏師の長男というだけで 運慶は、堂々と墨書しているのだ。
ただものではない。
自信満々のふてぶてしさと取られる恐れ 大いにあるが、厳格な修行に裏打ちされた自信と その自信を心ゆくまで楽しむ本質的な才能から 自然に生まれる、頼もしい若者の気構えと解釈したい。

ただ 運慶については、仏師としての才能以上に、コーディネーターとしての才覚が、日本の彫刻家中 最も有名なものの一人にしている、大きな要因である。
興福寺北円堂の本尊阿弥陀如来像および世親・無着像や、東大寺南大門の仁王像は、運慶のコーディネーターとしての才が産ましめた名品と言えよう。

運慶のもう一つの強みは、優秀な同僚や弟子たちと同時に、六人の子の存在だろう。
そのうちでも 秀でた才能を開花させたのは、湛慶(たんけい)、康弁(こうべん)、康勝(こうしょう)の三人である。
運慶が その基礎を築いた鎌倉彫刻の作風は、これら芸達者な同僚や弟子、子どもたちによって、慶派として 全盛をみることになる。
運慶は、ゴッドファーザーであった。

ともあれ 円成寺の大日如来像は、若き日の運慶の記念すべき作品であり、これこそ世に問う檜舞台の像として 運慶は、彼の情熱を 力一杯彫り込んだに違いない。

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「私の中のあなた」

2009-10-19 10:15:50 | Weblog
アメリカ映画『私の中のあなた』を 観ました。
人に薦めたい度94%という広告も頷ける、とてもいい映画でした。
かってのエリア・カザン作品のような 高質のアメリカ映画に、久々に会えた思いです。

ニック・カサヴェテス監督の前作『きみに読む物語』も そうでしたが、この映画には 悪意をもった人は ひとりも登場しません。
自分で迷って 自分で考えて、こうと思ったことを 精一杯やり抜こうと、みんな懸命に生きています。
人を傷つけることも、多々あります。
でも 誰も、それを非難することはできないのです。

この映画のテーマは、ひとりの子を助けるという目的のために 別の子を産み育て、その子にドナー役を押し付けるという、倫理的に ものすごく重いものです。
でも カサヴェテス監督は、シリアスな描写になり過ぎないよう、繊細に しかも軽妙なタッチで、免れない死を絆とした家族愛として、このテーマを昇華しています。
家族それぞれの想い そのすべては皆んな 大好きな家族のためだった との、最も優しい結末へと導きながら。

母親サラ役のキャメロン・ディアスは、これまで抱いていた彼女のイメージとは 別人のようでした。
あのファニーフェースが、急性白血病という難病の子供を持つ そしてその子を生かすことだけに必死に生きている ひとりの母親の顔に、なりきっています。
『メリーに首ったけ』や『チャーリーズ・エンジェル』から 偏ったイメージを抱いていたわたしには、見事な変身にみえました。

母親役だけでなく 家族それぞれを演じている俳優みんなが、すばらしい演技を見せています。
母親を提訴する次女アナ役の アビゲイル・ブレスリン、白血病の長女ケイト役の ソフィア・ヴァジリーヴァ、ケイトとアナの間の息子ジェシー役の エヴァン・エリングソン、サラの夫ブライアン役の ジェイソン・パトリック、みな ほんとうの家族みたいです。

泣かずにはいられませんが、お涙頂戴の映画では ありません。
サラがすべてを犠牲にして闘っている 決して避けられないもの、死を、正しい諦めの作法をもって 真剣に考えずにはいられません。
この映画の良さは、避けることのできない死を ちゃんと向き合って考えるだけでなく、死と泣きながら向き合った後に 何か温かいものが、確実に生まれることです。

見逃したら、損しますよ。

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うつすとも水は思はず

2009-10-17 13:00:59 | Weblog
      うつすとも
      水は思はず
      うつるとも
      月はおもはず
      さる沢の池

古い書物の整理をしていると、数冊の本の見開きや裏表紙裏に 上の句が、鉛筆や万年筆で書いてあるのを見つけた。
はっきり 自分のだと判る字で。
思い出した。
吉川英治に おそわった句だ。
あのころ、吉川英治の「新・平家物語」や「私本 太平記」を 読みふけっていた。
さっそく 古本をひっくり返して、「吉川英治 わが人生観-われ以外みなわが師」(大和出版)を見つけ出す。

上の句は、柳生家の道祖・石舟斎が子弟に遺した 秘剣の極意歌ということである。
吉川英治が、愛誦していた歌の一つだ。
極意歌ではあるが、剣道以外の心構えにも 多分な示唆をもった歌である。
誰が見ていようと 見ていまいと、映る月も 映す水も、何らの変わりなく 何らの意志も動いておらず、しかも、その あるがままな自然こそ、即、われわれの日常でなければいけない、ということなのだろう。

吉川英治は、そのような講釈よりも まず、ただただ唱誦してみなさい、と教える。
そして、自分のいまの胸にあるところの、ふとした屈託とか、退屈とか、弛緩とか、愚痴とか、心の凝結にふと触れて、それが静夜の水の如く月の如く、自然に解けてあるがままの姿になり得れば、それで充分に この極意歌の真の或る所まで悟ったものと云ってよいのではあるまいか、吉川英治は そう教えてくれるのである。

これまで、自分でもびっくりするくらい、数学や英語や 経済学や機械工学やら、勉強をしてきた。
それらは 確かに、生計をたてるには 必要だった。
でも、人の間で生活をし、人に助けてもらって生きていくのに、ほんとうに必要なのは、どうも そういうたぐいの勉強ではないように思うようになった。

文学でめしが食えるか、と父に詰られた、そういう‘文学’みたいなものが、いまは いちばん大切なものに思えるのだ。

冒頭の句を 百万遍唱えようと、わたしには 吉川英治の言う「或る所」に至るとは思えないが、この句が とてもいい句だということ、そのことは心底そう思う。

吉川英治が教えるように、この句を ただただ唱誦してみようと思う。

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転機

2009-10-16 14:02:00 | Weblog
大学の教養部から学部へ移る、二回生も終わりの頃である。
学部ガイダンスのような説明会が あった。
そのとき聴いた 古橋助教授のお話を、忘れることができない。
それは、工学士とは というような内容の話で、つぎのようなものであった。

君たちは、湯川博士のように とことん学問を究める必要はない。
ものごとの道理を究めるのは、理学士の役目だ。
君たち 工学士を目指すものは、理学士たちが究めた ものごとの道理を正しく理解し、それを 人間に有用なものとして 利用できる能力だ。
君たちが正しく理解したものごとの道理を 判りやすく噛み砕いて、一般の人たちに判りやすいことばで表現できる能力が、君たちには必要だ。
だから 君たちは、半分は理系の頭、半分は文系の頭を 持たねばならない。

当時 わたしは、早世した友人の鈴村繁樹君と ある約束をしていた。
それは、親にも黙って 文学部哲学科へ転部しようという企てだった。
常々 わたしは、自分の理系能力を疑い、ほんとうにやりたいのは哲学だ などと 鈴村君に話していたら、彼も 同じようなことを考えていたらしく、意気投合して そういう密約ができていた。
古橋助教授の このお話を聴いているとき、わたしは、横に座っている鈴村君を チラッと見た。
すると、彼の視線と会った。
鈴村君も、わたしと同じ感動をもって 古橋助教授のお話を聴いていたのだ。
このガイダンスののち、鈴村君も わたしも、転部の話題を交わすことはなかった。

いまどき、理系だの文系だのと区別することが、理に叶っているとは思われない。
また 古橋助教授のお話も、適切な表現だったかどうか 疑問なところもある。
でも あのときのわたしにとって、古橋助教授のお話に触れることができたのは、その後の人生を左右するほど とても重要なことだった。

人生には 大きな転機というものが、少なくとも二回あるという。
あの 古橋助教授のお話は、わたしにとって その大きな転機のひとつだった と、いまになって つくづくそう思う。

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二つのピアノ演奏会から

2009-10-15 17:24:06 | Weblog
最近、二つの小さなピアノ演奏会に でかけることができました。

一つ目は、京都コンサートホール小ホールにおいて「ピアノ詩集~また逢う日まで~」というタイトルで催された 小原孝さんの演奏会。
小原孝さんは、クラシックピアノの奏者として 一流の実績を持つ名手ですが、日本の歌謡曲や童謡を 好んで取り上げて演奏し、とりわけ 日本を代表する名作詞家の手がけた曲を演奏するコンサートを続けています。
異色とも言える活動には当初 厳しい批判もあったようですが、阿久悠さんといっしょの仕事で 彼から「日本語でピアノが弾ける人なんだね」と賞賛され、そのひと言に勇気付けられて 異色の演奏路線を貫けた、ということです。
今回の演奏会では、阿久作品の曲を たくさん聴くことができました。
思秋期や舟唄など、ピアノから流れるメロディーから 自然に歌詞が涌いてきて、同時にそれら一つ一つにまつわる想い出が こみ上げてきます。
わたしたち普通人が 普通に体験する阿久作品の感動を、小原さんの洗練されたセンスで昇華して、クラシックピアノという強力な手段を用いて再び、わたしたち普通人にも理解できる より高尚な感動体験として伝えてくれます。
それは、原形の阿久作品以上に豊かな想像力を、わたしたちに醸し出してくれるのです。
小原孝ピアノの魔術でありましょう。

二つ目は、京都文化博物館別館ホールで催された ピアノと朗読の夕べ。
ソロリサイタルを通して 関西と岩手をつなぐ音楽で活躍している、キョート・ミュージック・プラス主宰の萩原ゆみさんのピアノ&ピアニカと、視聴障害者への朗読ボランティア活動を通じて 身障者にも健常者にも生きる勇気を与え続けている朗読者、庵原(いおはら)万喜子さんの朗読との、コラボレーションです。
会場の文化博物館別館ホールは、旧日本銀行京都支店の建物で、国の重要文化財になっているそうです。
高い天井は 三階に相当し、室内テラスが 装飾的にぐるりとめぐらされています。
板張りの広い床には、グランドピアノと 数十脚の椅子があるだけ。
暗照明の重厚な雰囲気の中を、萩原ゆみさんの弾むピアノ音が 満ち溢れます。
庵原万喜子さんの 突き抜けるような朗読が、冴え渡ります。
萩原ゆみさんの はにかむような人懐っこさと、庵原万喜子さんの 温もりある人間の腹の底から湧き出るような声が、この厳かな雰囲気を とても親しみ深くしてくれているのです。
味わい深い演奏会でした。

これら二つのピアノ演奏会で感じたことは、やはり ピアノの魅力です。
いろんな楽器があるし それぞれ魅力的なのですが、ピアノには どの楽器も及ばない 総合的な魔力が備わっています。
そして 二つの演奏会のピアニストとも、磐石のクラシックピアノ技術の基礎があり、その基礎の上に 彼ら独特のポピュラーなアレンジで、普通人の心を捉える魅力を作り出しているのです。

ピアノって ほんとにいいなぁ、と思いました。
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水、空気 そして 鉄・・・鉄がなければ生きてゆけない・・・

2009-10-14 08:56:22 | Weblog
『・・・不図(ふと)眼を上げると、左手の岡の上に女が二人立ってゐる。女のすぐ下が池で、池の向ふ側が高い崖の木立で、其の後ろが派手な赤煉瓦のゴチック風の建築である。そうして落ちかゝった日が、凡ての向ふから横に光を透してくる。女は此の夕日に向いて立っていた。三四郎のしゃがんでゐる低い陰から見ると岡の上は大変明るい。女は一人はまぼしい(眩しい)と見えて、団扇(うちは)を額の所に翳してゐる。顔はよく分らない。けれども着物の色、帯の色は鮮かに分った。白い足袋の色も眼についた。・・・』

これは、夏目漱石著「三四郎」に出てくる、一場面だ。
三四郎が はじめて、里見美禰子(みねこ)の姿を見た場面である。
池というのは、東京大学本郷キャンパスにある 三四郎池に違いない。
実は わたしは、三四郎池も 安田講堂も、見たことがなかった。
小説「三四郎」を読んだときから、東大本郷キャンパスは 憧れだったのに、である。
中央嫌いというか 権力嫌いというか、訳のわからぬ反発心から、訪問の機会はあったのに 東大を尋ねることを避けた。
いまは もう、そんな理不尽な若気はない。

<鉄、137億年の宇宙誌>という展示会が、東京大学総合研究博物館(東大本郷キャンパス内)で催されている(10月末まで)。
他用のついでもあり、思い切って この展示会を見に行った。
そして、積年気がかりだった 東大本郷キャンパスも。

鉄とわたしの関わりは、宿命っぽい。
幼いころの遊び場は、‘枯らし’を目的に屋外に放置された 鋳物部品の山であった。
油の臭いがプンプンするキリコ(切削鉄屑)の、クルクル巻きやキラキラ粉は、不思議な魅力を持つ芸術品に思われた。
紆余曲折はあったものの、進んだ専門も 鉄に深く関わる機械系だった。
社会に出て 初めて就いた仕事の対象も、製鉄機械だった。
そして なによりも、社会人として生活した時代が、鉄の時代だった。
社会人になった年は、八幡製鉄と富士製鉄が合併して、新日本製鉄が誕生した年だったのである。

<鉄、137億年の宇宙誌>は、宇宙のビッグバンでの鉄形成から 超高純度鉄の持つ近未来のすばらしい可能性まで、物理学や天文学、地球科学、生命科学、材料工学、資源工学、考古学、経済学など さまざまな分野の専門家が集い 練り上げた、「鉄」をキーワードとした 新たな宇宙誌の提示である。
今回の展示会で わたしは、いままで抱いていた 鉄に対する偏ったこだわりから離れて、新鮮な驚きと興味をもって、改めて 鉄を見直すチャンスを与えてもらった。
それは、いままで考えていた 鉄に対する正しい認識を、より強固にするものでもあった。
その‘正しい認識’とは、冒頭のタイトルにした「水、空気 そして 鉄」という認識である。
「鉄がなければ 生きてゆけない」という、認識である。

水や空気が その重要性にも関わらず いままで当たり前とされてきたように、鉄は、可視的な意味で あまりにもありふれた人間社会の風景に溶け込んでしまった。
橋梁やビルや機械や自動車や、そんな 眼に見える鉄の存在すら、水や空気のようになっているのだ。
だが もっと大切な鉄の存在、鉄は、人間が いや生命が、生きていく上で不可欠な存在であるということを、知識としてすら認識している人は 意外と少ない。

鉄は、この地球の重量の 3割を占めている。
地球の中心部は、大量の高熱の鉄が ドロドロしている。
このドロドロの鉄が 強力な磁場を作りだし、わたしたちが住む地球表面を その磁場で覆っているお陰で、生命にとってきわめて危険な宇宙放射線は、地表に届かない。
鉄の存在が、地表を 生命に安全な環境へと変えているのだ。

ミクロな視点から見ても、鉄の重要性に驚かされる。
地球上の生命体は 鉄がなければ生きてゆけないことを、日常生活で実感するのは むずかしい。
むしろ、食品にわずかの鉄錆が混ざっていても、コンタミとか言って 毛嫌いする。
血液が赤いのは 赤血球が赤いからであり、その中に含まれるヘモグロビンという物質がその原因であることは、よく知るところである。
ヘモグロビンは、鉄を中心に構成されており、呼吸を通して取り入れた酸素を 体の隅々まで運ぶという重要な役割を担っている。
ヘモグロビンなる言葉の意味を漠然と知っていても、鉄欠乏症のほんとうの怖さを知らない。

人間だけではない。
例えば イネの生育は、鉄分を吸収しにくいアルカリ土壌では 極端に押えられることが分かっている。
運搬体の鉄分が欠乏すると、土壌の養分を 十分に取り入れることができないのだ。

鉄の考古学的発掘品は、きわめて少ない。
むかし 鉄を作る技術が未熟であったため 鉄製品の数が少ないから、残った鉄製発掘品も少ないということも事実だが、鉄は酸化してボロボロになるので 原形を保った形で残りにくく、また 不要になった鉄製品はもう一度溶かして再利用されたことも、考古学的鉄製遺品が少ない 大きな理由である。
このことは、非常に深い意味を持っている。
つまり 鉄は、自然に還りやすい金属であり、また リサイクルし易い金属であるということを 意味する。
まして 鉄は、チタンやリチウムのような レアメタルと違って、この地球に豊富に存在する金属なのだ。

鉄隕石を細工して鉄製品を作っていた おおむかしの段階から、砂鉄を溶かして鉄製品を作った段階を経て、産業革命時 鉄は飛躍的に大量生産されるようになる。
むしろ 鉄が大量に生産されるようになったから、産業革命が促進された と言うべきかもしれない。
この時期 製鉄技術の発達と同時に、磁性という鉄の特性が理解され 電気エネルギーを利用できるようになった。
有用機械による効率化と電気文明の発展は、産業革命以後の世界を 大きく変えたが、その起爆剤となったのは まぎれもなく 鉄である。

話が少し専門的になるが、製鉄過程(高炉)で鉄は、純鉄が冶金されるのではなく、炭素との合金である銑鉄(せんてつ、ズクともいう)として 製造される。
銑鉄は、鋳型に流し込んで 鋳物製品となるが、他方 銑鉄は、転炉に移して 余分な炭素を酸化除去して 鋼(はがね)に作り変えられる。
炭素が2%以下になった鉄と炭素の合金を、鋼と呼んで、鋳鉄と区別している。
鋼は、ねばくて 疲れ強さが大きく、展延性に富む。
しかし 鋼は、鋳鉄のように 鋳型に流し込んで所要の形状にすることは、通常はできない。
わたしたちの生活を支える鉄製品は、そのほとんどが 鋼である。
鉄といえば、鋼なのである。

もう少し 詳しく説明する。
鉄が固体の状態で炭素を完全に溶かし込むことができる量は、1150℃での2.0%が最大で、これより温度が上がっても下がっても、鉄に溶ける炭素の量は減少する。
2.0%以上の炭素は、1150℃の温度以下では、セメンタイト(鉄と炭素の化合物)という 非常に硬くてもろい性質の組織となって析出する。
鉄が固体の状態で炭素を完全に溶かし込むことができる量は、温度によって異なり、上記のように 1150℃では2.0%だが、常温では0.03%で、これ以上の炭素は セメンタイトとして析出する。
炭素が鉄に完全に溶け込んだ状態の組織を、フェライトと呼ぶ。
フェライト組織は、柔らかで きわめて展延性が高い。
鉄に溶け切れない炭素は、セメンタイトとして析出するが、炭素が2.0%以下では 常温でも、セメンタイトがフェライトとベニヤ板のようにお互いに層状に並んで存在する(これを「共析」という)。
この「共析」状態の組織を、パーライトという。
0.03%以上に炭素を含む鉄と炭素の合金は、炭素量が0.03%から0.8%の間では フェライトとパーライトの交じり合った組織になり、炭素量が増すにしたがって フェライトとパーライトの面積の割合が パーライトの多い組織になる。
そして 炭素量が0.8%になると、全部がパーライトのみとなる。
顕微鏡組織を共析の状態で区別して、炭素量0.03%から0.8%までを「亜共析」と呼び、炭素量0.8%から2.0%までを「過共析」と呼ぶ。

長々と 鉄と炭素の合金の話をしたが、それは 鉄の特性を基本的に決定付けるポイントだからである。
このように 鋼が、温度と炭素量によって 性質の異なる状態に変化することを、「変態」と呼んでいる。
変態を深く追求したからこそ、日本の鉄鋼業が世界のトップクラスに君臨できたのであって、日本の優れた熱処理技術も、この変態の研究の 輝かしい成果なのである。
極論すれば、鉄は 変態するからこそ、他の金属の追随を許さない地位を築いた、とも言える。

鉄にも 不利な点が、いくつかある。
その一つに、錆びるということを挙げる人が多い。
わたしは、錆びるということを 決定的な欠点だとは思わない。
むしろ鉄は、錆びるからこそ 自然循環の一員になり得ると、解釈する。
錆びにくくするには、ニッケルやクロムとの合金を作ることで その目的を立派に果たしている。
ステンレス鋼という、特殊合金鋼だ。
しかし、ニッケルもクロムも、レアメタルに近い。
なるべく 使いたくない金属である。
優れた表面処理技術や熱処理技術で、所要の防錆効果は 十分に得られる場合が多い。

鉄の不利な点の最たるものは、製鉄過程で生ずる二酸化炭素の多さであろう。
鉄は、融点が高い(1535℃)。
しかも、鉄鉱石からの鉄冶金は 還元作用であり、この化学反応は 多量の熱量を要する。
したがって 鉄鉱石から銑鉄を作るには 大量の熱エネルギーを必要とし、その分 二酸化炭素の排出量も多い。
温暖化ガス規制という、世の流れに逆行するのではないかと、危惧する。

ここで、この展示会の最終ステージで 前東大学長の小宮山宏・三菱総合研究所理事長が ビデオを通して語られていた内容を要約して、この危惧の答えとしたい。
この引用文中の数値は 聞き覚えであり、間違っている点があるかもしれないことを ご了承願いたい。

<現在 この地球上には、人間が有用に利用できる状態の鉄(鉄鉱石から大量の熱エネルギーを費やして還元作用で生産した鉄)は、200億トン存在する。今後 世界の人口が増えて、仮に 2050年に現在の倍の人口になったとする。たぶん、人口は そのあたりが上げ止まりであろう。単純に計算して、2050年に必要とされる鉄は 現在の倍、400億トンとなる。その分の熱エネルギーは必要だが、それ以後の鉄需要は、地上にある鉄製品のスクラップをリサイクルすることで 賄える。いったん鉄に還元されたものを溶かして新たな鉄に作り変えるための熱エネルギーは、酸化作用であるから、鉄鉱石から鉄を生産する熱エネルギーの1割以下で済む。鉄スクラップから不純物を取り除くためのエネルギーを加味しても、十分バランスの取れた需要と供給が 期待できる。>

東京大学総合研究博物館に入館したのは、開館早々の10時だった。
台風18号の接近の影響で 雨足が激しくなった外へ出たのは、午後1時を回っていた。
携帯傘に身を縮めて、本郷キャンパス内を探検することにした。
龍岡門の守衛さんにもらった地図をたよりに、ひとまず 三四郎池を目指す。
文学部3号館のアーチを潜ったところで、三四郎池を見下ろした。
眼下の三四郎池は、雨すだれに煙って 沼の様相を呈して見えた。
向こうの方に霞んで見える山上会館の裾あたりに、里見美禰子は 団扇を翳して立っていたのだろうか。
空腹を覚えて、安田講堂のまわりにありそうな 食堂を目指す。
地図には あちこちに食堂のマークが記されていて迷ったが、どの食堂も とても洒落ていて、余計に迷ってしまう。
肩と足もとが濡れたせいで、少々寒気がし出した。
安田講堂の近くの、工学部2号館へ駈け込む。
この館に入ってすぐのところにある「日比谷松本楼」は 少々重そうなので、その奥のサンドイッチハウスの「サブウェイ」を選んだ。
アボカドエビサンドと、体が冷えたので、あったかいコーンスープを注文する。
古い洋館の校舎と校舎を 近代的な明るい構造物で繋いだ空間で、久しぶりに ちょっぴりアカデミックな雰囲気に包まれながら、昼食をとることができた。
なんだか 本郷キャンパスファンになった気分である。
帰りは、安田講堂を見て 赤門から校外に出ることにした。

安田講堂は、さすがに厳然と聳えていた。
この雨模様にかかわらず、たくさんの見学者が 正面の並木道から安田講堂をバックに、つぎつぎと記念撮影をしている。
この人たちのうちの何人が、1969年1月の事件を 思い浮かべているだろうか。
たぶん、数えるほどだろう。
あのとき、テレビに映し出された安田講堂は、そのときのわたしには ごく近くの大火事に思えて、痛々しかった。

ときは、大きく隔たった。
東京大学総合研究博物館を訪ねて いま、本郷キャンパスを 雨に肩を濡らしながら歩いている自分が、違う世界の自分のようで、思わず目をこすっていた。

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千本釈迦堂の十大弟子像

2009-10-05 12:49:18 | Weblog
どこからともなく漂い流れてくる、金木犀の高貴な香り。
秋空の京都の町中を 自転車で巡ると、金木犀の香りが追いかけてくる。
自転車に乗って、京都の町中の仏像、千本釈迦堂の十大弟子像を訪ねた。

「歴史は民衆がつくる」という 古くて新しい歴史の格言を、このたびの衆院議員選挙の結果 もたらされた政権交代に、喚起させられた。
それは、「英雄不在」であると同時に、民衆という 数多くの無名の英雄が 歴史を動かした、ということである。
今以上に 民衆が歴史を動かした時代が、あった。
いまから540年前、室町時代中期である。

京の町をことごとく焼き尽くした 英雄不在の戦であった応仁の乱は、この時期のエポック・メーキングである。
戦は 武家や公家の醜い骨肉争いであって、民衆にとっては この時期は格好の解放期であった。
民衆が、一つの社会的・政治的主体として 成長してきた時代だったのである。
とはいうものの、太平洋戦争の戦災をほとんど受けていない京都で 戦後といえば応仁の乱後を指すほどに、この乱の戦災は 甚大であった。
辛うじて この戦災を逃れた国宝級建造物が、千本釈迦堂の本堂である。

七本松通りを北に上がり 今出川を越えてトンと突き当たったところが、千本釈迦堂だ。
七本松通りは、今出川通りとの交差点「上七軒」で 千本釈迦堂を迂回するように 西に振り、新七本松通りと名を変えて 寺之内通りで途絶える。
この新七本松通りのもう一つ南の分岐通り、上七軒交差点から北野天満宮の方に西北に延びている斜めの道路が、「上七軒通り」である。
ここは、江戸時代初期 遊女屋が公認された場所で、現在でもお茶屋が軒を連ねて 当時の面影が残されている。

千本釈迦堂は 正式には大報恩寺といい、兼好法師の徒然草に記されている如く 往時の境内は広大で 千本通りに面して東門があり、ご本尊が釈迦如来であることから、通称 千本釈迦堂で親しまれている。

現在、七本松通りが そのまま境内への参道となり、その真正面に本堂がある。
応仁の乱の時、この付近は西軍の中心部であったが、西軍と東軍の特別のはからいから庇護を受け、本堂が残されたといわれている。
本堂の 内陣と外陣の隔壁にある柱には、多くのキズがついている。
柱に残されたキズは、その時の刀や槍によってつけられた痕らしい。

内陣の中に またもう一つ内々陣があり、お厨子のなかに 秘仏・釈迦如来像が祀られている。
この内々陣を支える四天柱には、奇特な物語が語り継がれている。

本堂の造営を任された 棟梁の長井飛騨守高次は、貴重な柱の寸法を誤って切ってしまった。
進退極まり 途方に暮れていた高次を見て、妻の「おかめ」が一計を案じ、ある提言をした。
その一計とは、寸足らずになった分を 斗栱(ますぐみ)を施して飾り継ぎ足す、というものであった。
この着想により 見事に本堂を落成させることができたが、上棟式の前日に 妻の「おかめ」は自殺してしまった。
女の入れ知恵で棟梁の任を果たしたということが 世間に漏れては夫の恥と考え、すべてを秘密にするため、というのが自殺の理由であった。
高次は 妻の心情にうたれ、上棟式には御幣におかめの面を飾り、冥福を祈ったという。

本堂を出て、本堂の脇にある 無人の霊宝館に入る。
拝観券の半券を所定のボックスへ入れて 自動ドアを潜ると、古壁のにおいが少々きつく漂う大広間である。
ここに、お目当ての十大弟子像がある。
その十大弟子像は、ずらりと並ぶ六観音像に対峙して、90センチほどの身体から 十人十色の人間臭を漂わせていた。
快慶、最晩年の作である。

わたしは かって、快慶という人物に惹かれ、興味本位で調べたことがある。
が、結局 よく判らなかった。
快慶は、運慶と並び賞される 鎌倉仏師だが、東大寺南大門の仁王さん造営の頃は まだ下っ端の見習仏師に近かったのではなかろうか。
快慶は、運慶率いる仏師集団に混じって 仁王さんを作りながらも、筋骨隆々の巨大像を 諾としなかったのではなかろうか。
運慶の作風は、運慶のもう一人の偉大な弟子、奈良・興福寺の金剛力士像の作者とされる定慶に引き継がれたとみるべきで、快慶は むしろ、師の運慶の作風とは異なる、やさしさと繊細さの境地に、その真骨頂を見出したように思う。
快慶は、源平の争乱で焼失した東大寺を大勧進職として復興を果たした 俊乗房重源(ちょうげん)に、深く帰依していた。
俊乗房重源は、三度も入宋するほどの高僧で、自らも中国で建設技術を習得したといわれ、また 勧進活動によって 東大寺再興に必要な資金を集める才にも長けていた。
もともと 俊乗房重源は 真言宗の醍醐寺の出であり、当時 新興宗教であった浄土宗とは無縁であったが、浄土宗の開祖・法然にいたく傾倒し、のちに「南無阿弥陀仏作善集」を作成するほどに 阿弥陀信仰に傾いた。
快慶は、俊乗房重源を通じて 阿弥陀信仰を深めていく。
三尺前後の阿弥陀如来像の作例が 快慶の作品に多く見られるのは、そのためである。

鎌倉仏師としては 比較的多くの作品が残っている快慶作品のなかで、わたしは、いま眼前に居並ぶ 千本釈迦堂の十大弟子像を、もっとも気に入っている。
いまだ悟りの境地に達していない、が、人間道の醜さ厭らしさに決別しかかっている、悩める人間としての修行僧たち。
その表情は、現世の隣人たちそのものであり、厳しさと同時に 抱きつきたくなるような親しみを覚える。
十色の悩みを共有できる この十大弟子像に、わたしは共感を覚える。
快慶の、リアリティ溢れる彫刻力と 人間そのものに対する深い関心が、遺憾なく発揮された作品と言えよう。

千本釈迦堂の境内をでて 現世に還れば、そこは 古い京都の町ん中。
今でも、この千本釈迦堂のあたりを、西陣と呼ぶ。
今でも、町家のところどころから 織機の音が、カタンカタンと聞こえる。
幼いころの郷愁が、この町のいたるところに 金木犀の香りにも包まれて 満ち溢れている。

小さい頃から親しんだ、来世と現世が、ここにはある。





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インクラインの夢

2009-10-01 16:14:06 | Weblog
京都で どこが一番好きですか?と聞かれたら、あなたなら どこと答えますか?
わたしの知人は ほとんどが、清水寺あたり と答えます。

たしかに 清水寺あたりは、独特のムードがありますね。
わたしも 好きです。
でも 一番好きなところ と聞かれれば、わたしは 南禅寺水路閣から蹴上インクラインに至る遊歩道、と答えます。

ずっと以前、当時 京都市役所に勤めていた 山田正三さんという方が書かれた「明治の川」という本を読んだことがあります。
明治百年を記念して、琵琶湖疏水工事を主題とした小説でした。
その本の表紙に描かれていた 南禅寺インクラインが、郷愁をもって思い出されます。
「明治の川」は、もう手元にありませんし、絶版になったようです。

その著者の山田さんが、昭和44年11月の月刊誌「京都」(白川書院刊)に寄稿された文章が 残っています。
「南禅寺インクラインの再現を望む」と題した、京都の新しい観光地創出の提案書です。
先日の新聞で知ったのですが、梅小路公園に水族館建設の計画があるそうです。
なんと無粋な計画か と、腹が立ちました。
だから 余計、山田さんの提案書に惹かれたのです。

山田さんは、当時 インクラインの敷地を保存するでもなく 活用するでもないまま、日々 荒廃していく様子を嘆いて、明治百年を契機に 施政者側の一市職員として、この貴重な文化遺産を 観光資源として利用し 保存したい、と考えられました。
彼の提案を支持する人々は、当時 かなりの数にのぼりましたが、この提案書は いまだに実現していません。

彼の提案書の要旨を、紹介しましょう。

[ 提案要旨 ]
 南禅寺インクライン(傾斜鉄道)を戦前のように再現して、京都の新しい名所として欲しいのである。
 傾斜鉄道に乗舟することによって、老人層には 過ぎし日の懐旧の念を、中年層には こよなき郷土愛を、青年層には 理想を、幼少年層には 社会科の学習の楽しい教材を提供し、そして 皆んなが楽しくレジャーを満喫しながら、明治の進取の気鋭に燃えた精神を肌で吸収することを、願うものである。

山田さんは、具体的に かなり突っ込んだ提案をされていました。
その一部を、紹介します。

 [ 区間および運転方法 ]
 第三墜道(日ノ岡山トンネル)周辺の広大な広場を開放し、起点(発着駅)とする。
 歴史的風土特別保存地区に指定されていることを考慮して、周囲を公園化し、蹴上舟溜りまでを 複線運転する。
 発着駅には ケーブルカーのようなドラム機械室を設け、巻揚げ式とする。
 通過時間は、約十分ないし十五分を要する。
 乗舟制限は 十五人ないし二十人までとし、それに船頭とガイド嬢が隋乗する。
 舟は 舟受の枠に載せて上下し、そのまま疏水舟溜りの水中で放流させる。
 舟は そのまま疏水の流れにまかせて西下し、動物園の橋詰めに舟入りを設けるか、もしくは 平安神宮のくれない橋詰めに舟入りを設けるか、のいずれかとする。動物園、美術館用地が舟入りに相応しく、いずれも市有地であり、船着場としては 格好の場所である。
 舟は どちらかの船着場にて乗降を確認、動力をもって川上の蹴上舟溜りまで戻り、待機中の貨車にて第三墜道の発着駅に帰着する。
 複線のピストン運転により 乗客を効率的に輸送するには、蹴上周辺の疏水幅は 疏水の流れの中では最大であり、十分にUターンも可能である。

疏水創始者は、大学を卒業したばかりの 田邉朔郎という青年技師でした。
疏水は、京都市民の飲み水の役割だけではなく、灌漑、水運、防火用水、そして水力発電といった多岐にわたる役割を担ってきました。
そして なによりも疏水は、天皇が江戸へ行ってしまわれた 当時の沈んだ空気の京都を、チンチン電車が代表する 新しい活気ある街、近代技術の街に変貌する きっかけとなったのです。
技術者の端くれとして わたしは、疏水を 京都の大きな誇りに思います。
疏水は、優れた技術の結晶であると同時に、京都の情趣溢れる景観にマッチした 立派な芸術作品だと思います。
そのハイライトが、インクラインなのです。

山田さんの提案書が実現した インクラインを想像すると、ワクワクします。
山田さんも この提案書のなかで夢想されているように、日本で 京都だけしかないインクラインの通過を、都ホテルから外国人観光客が眺めたら さぞかし驚嘆するだろうし、動物園からインクラインを遠望した子供たちや 美術館を訪れた恋人たちは、きっとインクラインに乗りたくなるでしょう。

山田正三さんは この寄稿文の最後に、こう述べられています。

 この夢物語の実現の是非はともかくとして、「インクライン再現運動」を展開することによって、京都市民が 無意識のうちに、保存と開発問題に関心を抱き、世論を交わしながら 行政に関与する姿勢が芽生えてくることが、大事なことではなかろうか。

山田正三氏の 卓見に敬服するとともに、彼の夢が実現できないものなのだろうか もう一度俎上に載せて欲しいと、心から願うものです。

秋、南禅寺の水路閣の袂から山裾伝いに 疏水分流を辿り歩いています。
蹴上発電所の水力管のダム水槽に跳ねる魚の背が、水面に漂う落ち葉に彩られて 銀色に光る光景を、じっと眺めています。
そして インクラインから聞こえる 乗舟客の歓声を、遠い音として聞いています。
そんな情景が、いま 心に浮かびます。

インクラインの夢です。

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