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つれづれ

思いつくままに

1970年

2018-07-27 16:09:38 | 
年のせいでしょうか、自分が生きた時代を 書き留めておきたくなりました。
特に、人生の転機となった 1970年のことを…


わたしは、戦後の貧しさは知っていても、戦争の記憶は まったくありません。
少年期までの「自分が生きた時代」は、与えられた課題をこなすのに汲々と過ごしました。
30歳から60歳に「自分が生きた時代」は、仕事に死んでいました。
14歳から24歳の10年間が、自分の頭で「自分が生きた時代」でした。
何かを残せるとしたら、この10年間の出来事であろうと思います。

この10年間に受けた強烈な時代のインパクトは、水俣病とベトナム戦争です。
この10年の最初は60年安保闘争、最後は70年安保闘争でした。
この期間の終点、1970年に、大阪万博がありました。

振り返って 大阪万博は、戦後日本の折り返し点だったと思います。
その直後にニクソンショック、1ドル360円の時代は終わりました。
固定相場に守られた日本経済の奇跡的な復興は、終わったのです。

水俣病とベトナム戦争については、自分なりに一度ちゃんと向き合いたいと、以前から思っていました。
水俣病もベトナム戦争も、恐ろしい悪の匂いを放っていて、当時のわたしの若い脳をいたたまれない状況に追い込みました。
その記憶が、時を経て、一歩引いた視点から正視する余裕を得て、もう一度考えてみたいとの思いに至りました。
でも どちらも、自分の皮膚感覚で語れるものではありません。
優れた先人の残した書物をしっかり読んで、想像力を逞しくするしかありません。

水俣病については、石牟礼道子著『苦海浄土』やユージン・スミスの『ミナマタ』などを読み返して、少しでも真実に迫りたいと思っています。

ベトナム戦争について。
手元に、開高健著『ベトナム戦記』(1965年朝日新聞社刊)と、司馬遼太郎著『人間の集団について ベトナムから考える』(1974年中央公論社刊)、それに この3月 京都高島屋で催された<写真家 沢田教一展 その視線の先に>と題する展示会で求めた写真集『戦場カメラマン沢田教一の眼』が、置かれています。
自分なりに ベトナム戦争を、この三冊の書物で 無理やりくくりました。
無理なあがきですが、でも まんざら間違っていないと思います。
なぜなら、複雑怪奇の極みみたいなベトナム戦争は 点でしか見ることができず、しっかりした人の眼で見た点を通してしか 真実に迫れない、と考えるからです。
あのべ平連からは、真実は見えなかった。

加藤登紀子さんの友人、ベトナムの作曲家 チン・コン・ソンさんが、再会したおトキさんに語った言葉。
「ベトナムの人は忘れることと、許すことを選びます。心の平和のためには忘却が最良の方法だからです」
わたしは この言葉に、水俣病患者の究極の言葉「のさり」を重ねます。
ベトナム戦争も、当事者でない者には 想像力で理解するしかないのです。

ところで、60年安保闘争の熾烈なとき、たまたま中学校の修学旅行で東京を訪れていました。
上の姉の婚約者が東京の人で、修学旅行の自由時間に その義兄となる人に 東京の街を案内してもらっていました。
国会議事堂をみたいという わたしの希望で、その周辺まで連れて行ってもらったのですが、ちょうどあのフランスデモで あたりは騒然としていて、とても国会議事堂に近づけるものではありませんでした。
後で知ったのですが、その日 樺美智子さんが機動隊との衝突で亡くなっています。

60年安保を理解するには、当時のわたしは 幼すぎました。
ただ、樺美智子さんの死について マスコミが英雄扱いしたり、あるいは 大人たちが「自分で自分を踏み殺した女子学生」などと揶揄したりするのを、なにかおかしい、なにか間違っている、と強く思ったのを覚えています。

70年安保闘争のとき、わたしは修士論文作成に追われていました。
婚約中で、卒業後の身の振り方にも 頭が奪われていました。
ノンポリの最たる存在でした。

ただし、暴力には絶対反対の立場を貫いた、と自負しています。
そのあたりの感情の揺れは、このブログのVol.77『銀漢よ とまれ』で述べたので、省きます。
もし、4歳若かったら、感情的な性格の自分をコントロールできたか、危なかったと思います。
1945年生まれでよかった、そう心から思います、これも‘時代の運命’です。

さて、1970年のことです。

この年 わたしは‘学びの時代’を卒業して、社会人になりました。
結婚という、人生の最大イベントを経験した年でもあります。
三波春夫さんが唄った<世界の国からこんにちは>のメロディーが、耳から離れません。
大阪万博は、あの時代の大きな大きな出来事でした。

日本中がお祭り騒ぎに浮かれているころ、そして 自分自身 就職や結婚で忙殺されているころ。
水俣病患者やその家族は、うめくような苦悩の中を潜っていた。
アメリカ軍は、南ベトナムで枯葉作戦を展開していた。
山田洋次監督は、映画『家族』の中で 貧しい移住家族一家が 長崎県の小さな島を離れ 北海道の開拓村まで旅する途中 大阪万博を訪ねるシーンを描きました、とても切ない場面でした。

結局 旅立ちの年1970年は、自分のことしか見えていなかった。
14歳から24歳の10年間が 自分の頭で「自分が生きた時代」だというのは、‘世界は自分のために’存在するかのように生きただけのこと。
ことに 1970年は、そうです。


1970年から50年後の2020年、東京でオリンピックが開催されます。
この年、私たち夫婦の金婚式の年でもあります。
無事 生きていたらの話ですが。

大方の人々の予想通り、2020年は大きな分岐点となるでしょう。
底の浅い好景気は、終わるでしょう。

見守るしかありません。
起きることを ことごとく、裏の出来事にも思いをいたすこころで 乗る切るしかありません。
猛省すべきだった1970年のことを、教訓として。
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懐かしのリスボン

2018-07-23 15:43:58 | 

『ローマの休日』という映画に惹かれて ローマを訪ねる人は、後を絶ちません。
わたしは、『過去を持つ愛情』という映画に惹かれて、リスボンを訪ねました。


ジャカランダという花があります。
紫色のノウゼンカズラみたいな花を、大木いっぱいに咲かせます。
日本ではあまり見かけませんが、ポルトガルでは 街路や塀際や公園に いっぱい咲いていました。

5月ごろ葉のない状態で花をつけ、6月に満開となって ねむの木のような葉をつけだすと、花をパタパタと散らします。
ポルトガルを訪ねた時期は7月ですから、本来は散ってしまっているはずなのですが、今年は5月6月に寒い日が続いて、7月のリスボンでも 花をつけていました。
とくに北のポルトでは、鮮やかな薄紫に彩られたジャカランダを楽しめました。

かわいらしい花なのですが、落ちた花で道をベタベタにするので、ポルトガルの人たちには煙たがられているそうです。
かって植民地だったブラジルからもたらされた、と言われています。
濃い紫のブーゲンビリアより 薄い紫のジャカランダのほうが、ポルトガルには似合うように思います。


ポルトガルのいたるところで、アズレージョという陶板に出会います。
王宮や教会や城壁や駅舎や、そして一般の住宅の壁面を飾っています。

アズレージョとは 青を基調にした装飾タイルのことですが、この青が 得も言われぬ深い味わいのある色なのです。
気品があって どこか弱々しくて、それでいて キリっとした威厳のある、青なのです。
白地のタイルによく映え、タイルの持つ冷たさを、この青がほんわかとさせています。

下の写真は、ポルトにある サン・ベント駅構内です。
アズレージョが、駅に風格を添えています。


イワシの一番うまい食べ方は 炭火塩焼きだ、ということを知っている国民は、日本人とポルトガル人ではないでしょうか。
ポルトガル料理は ソース文化ではなく、塩と胡椒で素材のうまみを引き出す 素材重視の食事です。
だから、ポルトガルの料理は、日本人の口にあうのでしょう。
ポルトガルの料理は、とてもシンプルです。
塩と胡椒だけで味つけられた 魚介の煮込み「カルディラーダ」は、めっちゃおいしかった。

ポルトガルは、シーフードの国、食の自給率は129%、それに 添加物を嫌う国民です。
防腐剤の入っていないポルトガルワインの 旨いこと。
ポルトガルワインといえば ポートワインが有名ですが、わたしは 緑ワイン「ヴィーニョ・ヴェルデ」が気に入りました。
酒に疎いわたしが、ポルトガルでは 毎食ごとにワインをグイグイ飲んでいました。

リスボンは、とても愉快な街です。

七つの丘の街と呼ばれるリスボンは、平面地図では なかなか判りにくい。
高低差の判る地図があれば、助かったのですが。

旧市街を横切るとき、エレベータやケーブルカーが役立ちます。
西の丘 バイロ・アルト、東の丘 アルファマ、二つの丘に挟まれたバイシャ地区。
次の写真は、バイシャ地区の北端「レスタウラドーレス広場」から バイロ・アルト地区の北東にある「アルカンタラ展望台」へのケーブルカー(グロリア線)です。
アルカンタラ展望台から、バイシャ地区のオレンジ色屋根の波が、その向こうのアルファマの丘にサン・ジョルジェ城の砦壁が、見渡せます。
その展望写真も、下記します。




バイシャとは 低い土地という意味だそうですが、文字通り下町。
バイシャ地区の北端が 旧市街の中心である「ロシオ広場」、そして南端の テージョ川に面して「コメルシオ広場」。
この二つの広場を結ぶ 歩行者天国の「アウグスタ通り」。
アウグスタ通りを挟んで、東に‘銀通り’と呼ばれる 市電の走る「プラタ通り」、西に‘金通り’と呼ばれる「アウレア通り」。
これらの大通りを縫うように、東西南北の小道が 碁盤目に走る。
このあたりが、リスボンで最も にぎやかかな?
アウグスタ通りの写真を、一枚。


1755年、マグニチュード9近い大地震が、リスボンを襲いました。
旧市街は ほぼ全滅、ことにバイシャ地区は 津波に飲み込まれてしまったのです。
リスボン大地震の話を聞きながら、2011年の東日本大震災のときの津波を思い出していました。

この大地震の復興のシンボルが、スズカケの並木道「リベルダーデ通り」です。
ロシオ広場の北西隣り「レウタウラドーレス広場」から北へ、幅90m 長さ1500m、なだらかな登り坂のメインストリートです。
この大通り リベルダーデ通りの両側の歩道は、白と黒の模様が美しい石畳です。


通りの北端は、リスボン復興の立役者、ボンバル侯爵の像が立つ「ボンバル侯爵広場」。


そして、リベルダーデ大通りの南端のレスタウラドーレス広場に、すっくと立つオベリスク。

このオベリスクをみたとき、映画『過去を持つ愛情』の中で ヒロインのフランソワーズ・アルヌールが見知らぬ街をタクシーに乗って巡るシーンの冒頭に現れる塔だと、気づいたのです。

わたしは、このリベルダーデ通りが たいへん気に入りました。
歩いてみたくなりました。
限られた時間と体力を 目いっぱい使って、リスボンの目抜き通りを歩きました。

バイシャ地区南端のコメルシオ広場からアウグスタ通りを北へ、ロシオ広場から北西隣りのレスタウラドーレス広場へ。
スズカケ(プラタナス)の木陰が涼しいリベルダーデ通りをそぞろ歩いて、ボンバル侯爵広場へ。
そして さらに北へ、ボンバル侯爵広場の東をぐるりと回って 地下鉄ブルーラインのサン・セバスティアン駅近くにあるホテルまで。
歩数にして、10000歩近く。

リスボンの街を、人気の市電28番線をあえて避けて、市電12番線で巡ってみました。
市電12番線は、ロシオ広場の東隣りにある「フィゲイラ広場」から出発して サン・ジョルジェ城の裾をぐるりと遠巻きに巡って アルファマ地区を南下。
テージョ川を見下ろせるサンタ・ルジア展望台に立ち寄り、カテドラルとサント・アントニオ教会をすり抜けて、フィゲイラ広場へ戻ってきます。
市電が軒先すれすれに走る街リスボン、それはずっとむかし、チンチン電車が走っていた京都の中立売通りを、思い起こさせます。




いま 日本は、あまりにも便利でスマートになり過ぎて、なにか大切なものを失いかけています。
その大切なものが ギューッと詰まった街、それがリスボンです。
喪失感を喚起させる街、リスボン。


サウダーデという言葉があります。
郷愁、憧憬、思慕、切なさ、そんな気持ちを表すポルトガル語ですが、ぴったしの訳語を見つけるのは難しい言葉です。
家庭や両親のぬくもり、無邪気だった楽しい幼い日々、大人になって もう得られない懐かしさ、『過去を持つ愛情』の中でアマリア・ロドリゲスが唄ったファド「暗いはしけ」に込められた感情、日本の「詫び寂び」にも似たところがあります。

旅の前に想起したサウダーデは「愁」という漢字だったのですが、旅を終えて確信したサウダーデは、喪失感。
喪失感という言葉が、サウダーデをいちばんうまく表現しているのでは と、いまは思っています。

この旅を終えるころ、自分がこの国・ポルトガルに追い求めていたものが すべてこの「サウダーデ」という言葉に含まれていることに、気づきました。
ポルトガルの琴線に触れる この旅で奏でられた音色は、どのようなものであったか。
やはり それは、アマリア・ロドリゲスの名曲『懐かしのリスボン』であり、色で例えるなら ジャカランダの花の色 薄紫色だと。

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苦海浄土

2018-07-18 13:21:51 | 
天変地異としか、言いようがありません。
ついこの間 慣れない地震に怯えていたところに、梅雨明け前のびっくりな豪雨。
京都は 幸い最小限の被害で済みましたが、被災地の悲惨な報道に接して、胸が痛みます。
それに この猛暑。
異常気象が常態化しているみたいです。


1970年 新居浜の明屋書店で買った 石牟礼道子さんの『苦海浄土 わが水俣病』を、読み返しています。
石牟礼さんが なぜ「苦海」と「浄土」という矛盾する言葉をタイトルに使ったのか、わたしは それを、「のさり」という言葉の意味を知って、理解することができました。
3年前 不知火海を旅して、やっとわかったのです。
ブログNo.452『ゆりかごの海』に記しました。

うめくような苦悩を潜ってこそ見えるもの、その苦悩に寄り添い続けた石牟礼さんには、それが見えていたのでしょう。
わたしは、ただ想像するだけです。
『苦海浄土 わが水俣病』を読み返して、想像力で理解するしか ありません。

石牟礼さんの作品を読むとき、かって確かに存在した豊饒な世界を、懐かしく思い起こさせてくれます。
人も渚の虫も貝たちも、みんな ひとつながりの命として共存する世界が、目の前に現れるのです。
仏陀の涅槃図を見るように。


石牟礼道子さんが、今年2月10日 亡くなられました。
享年、90歳。
近代化の波に押されて失われゆく穏やかな暮らしを、あらゆる文学的な手法を用いて、守り抜く、それを実行し続けられた一生でした。
どうか、安らかにお眠りください。
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