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つれづれ

思いつくままに

雪蹊寺の毘沙門さん

2018-03-22 18:57:27 | 
金色の外箱の美術書『日本の彫刻』(美術出版社)が、ぼろぼろになってきた。
まぁよく読み込んだものだ。
ギャグ漫画家で仏像大好きタレントの みうらじゅん も、この書に大きく影響を受けたらしい。

表紙見開きに‘この写真集は私の宝です’と、つたない文字で書いてある、幼い自分のサイン。
そりゃあそうだろう、中学生の少年の小遣いでは 何か月貯めても手の届かなかった写真集だもの。
買ってくれた母に感謝である。


この書に載っている好きな仏像は だいたい実物を拝してきたが、雪蹊寺の毘沙門天像は 所在が遠い高知の地ゆえ、拝顔が伸ばし伸ばしになっていた。
高知に桜の満開宣言が出された3月19日、四国八十八か所33番札所の雪蹊寺を訪ねた。
桜の満開宣言にもかかわらず、寒い春の雨が降っていた。

岡山で特急「南風」に乗り換え、瀬戸大橋を渡り、大歩危小歩危の明媚な景色を土讃線の車窓から眺めて、高知へ。
駅前から桂浜行きのとさでん交通バスに乗って、長浜というところで下車し、そこから少し歩いて雪蹊寺に着く。
遠路はるばる なのに、毘沙門天像の拝観は予約制、たどり着くことばかり気にかけて、肝心の拝観要領の下調べを怠った。
泣きつかんばかりに 明日10時の拝観予約を取り付ける。

高知市内の旅館に宿泊して翌日20日、雨は上がったものの 曇天でまだ肌寒い。
前日の訪問でちょっとだけ交通要領を得た長浜のバス停に再度下車し、雪蹊寺の毘沙門天像の拝観が やっと実現した。


案内された霊宝殿は本堂の裏手にあり、文化財を守るため鉄筋コンクリート造り。
この霊宝殿の中、中央に晩年の運慶作と伝えられる本尊薬師三尊像、左右脇に十二神将像。
そして本尊向かって左側に、毘沙門天とその脇侍の吉祥天女・善膩師童子の三尊像。

この毘沙門天三尊像は、運慶の長男・湛慶の、数少ない真作である。
想像していたよりは小ぶりな、そして想像以上に人間味あふれる面貌の毘沙門天。

口元を引きしめてじっと一点を凝視している破邪顕正の まなざし、
鎧の胸当に包まれた幅広な胸と獅喰(しかみ)に隠された堂々たる豊かな腹の 量感、
捻った腰から両足元に流れる洗練された 感覚。

冒頭に紹介した『日本の彫刻』の本像解説欄に、金子良運氏は次のように評している。
ーーこの像の前にたたずんだとき、そこにあたかも燎火の将に消えなんとする最後の閃めきにも似た一抹の淋しさを感じ、思いなしかその強く見開くまなざしさえ、遠く来し方行末をみつめているような哀愁の漂っているように思われるーー

あぁ 美しい仏像、会えてよかった。
遠く訪ねてきた甲斐があった。

作者湛慶が実質的には日本仏工の最後を飾る名匠であったと同じく、この像もまた輝かしい伝統を誇った日本彫刻の巻尾に花をそえる名作の一つでもある。
その巻尾の名作をまじかに拝せられたよろこび、心豊かな一泊の旅であった。
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森岡峻山先生

2018-03-07 17:37:42 | 
寺町二条を少し下がったところに、清課堂という錫製工芸品の店がある。
下の写真は、このお店の看板である。


清課堂は、天保9年(1838年)、初代山中源兵衛がこの地で「錫源」を名乗って開業、錫を素材にした金属工芸品を製造販売してきた老舗である。
この店の看板に、森岡峻山先生が揮毫されていたことを知ったのは、つい最近だ。
先生の篆書を久しぶりに見て、懐かしさと同時に、やっぱり森岡峻山の篆書はピカ一だと、誇らしい気持ちになった。
やっぱり、先生の篆書はすばらしい。

室町六角下ルにある龍門社に習字を習いに通い始めたのは、小学校1年のときだから、もう60年以上前になる。
休み休みだったが、24歳まで峻山先生の指導を受けた。
年季だけは長かったので、結婚と就職の祝いを兼ねてだったと想像するが、『秀山』という名前までいただいた。
「篆書を教えてへん生徒に名前をやるのは、お前が初めてや」とのお言葉を添えていただいて…
もうちょっと真面目に通って、篆書を習えるまでになっておけばよかった、そう後悔している。

室町六角下ルの龍門社には、思い出がいっぱいだ。

室町通りから西へ路地を入ると、竹で編んだ木戸の向こうに大きな庭があった。
その庭の飛び石を踏みながら通って、庇の長い平屋の大きな沓脱石から、20畳以上はあったと記憶する大部屋へ上がる。
この大部屋が待合室で、その続き間、広い縁側のある12畳くらいの部屋が、お稽古場だ。
この縁側は廊下となって奥に続いていて、先生の奥様がときどき先生のお茶を運んでおられた。

お稽古場には大きな長方形の文机があり、先生はこの文机の長手方向奥間側真ん中に座って指導されていた。
先生から見て左右に一人づつ、向かいに三人、計5名の生徒が坐る。
先生は、筆を持った生徒の手の上から握って、左右にも向いにも、手本の字を書かれる。
神業であった。

毎回宿題を出されるのだが、宿題を忘れたものは、鼻をつままれた。
結構痛いつまみ方だった。
二回に一回、わたしは痛い鼻つまみを経験した。

寒い日だった。
お稽古の順番待ちに飽いて、お手本帖を勧進帳に見立てて遊んでいた。
寒いから、火鉢の上で勧進帳を開けたり閉じたり…
お手本帖に火が燃え移った。
先生がすっ飛んでこられた。
庭の手水鉢の水を庭にあったバケツに汲んで、わたしの背後から頭越しに水をぶっかけられた。
火は無事消えた。
びしょ濡れのわたしは、恥ずかしさと寒さと先生のお目玉で、ガタガタ震えていた。

大学1年の時、夏書(げがき)に参加した。
夏書は、夏の1週間、寺に籠って、龍門社書展に出品する作品を集中練習する催しだ。
その夏は、南禅寺の(名前は忘れた)塔頭で催された。
先輩たちの見事な筆さばき、墨のにおい、南禅寺境内を渡る涼しい風、蝉しぐれ…
夕食前の、先生を囲む語らい…
練習の合間に、水路閣の上を流れる疏水べりを散策、時間が止まったような…
どれも、忘れられない思い出である。

峻山先生のグサリとくる言葉はいっぱいあるが、中でも次の言葉は、わたしの人生を左右する言葉となった。
ーーー迷ったとき、フィフティーフィフティーなら、積極的な方を選びなさいーーー
結婚も就職も、そして事業の大切な岐路の時も、この言葉に従ってなんとか、これまで来れた。

先生が残してくださったお手本帖が、手元にある。
後赤壁賦の一部である。
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