いま、世の中はグローバル社会だといわれます。
日本だけを考えていては なにごとも始まらない と、目を世界に向けることが 現代人の常識と化しています。
ことに、ここ十数年で急速に発展を遂げた隣国・中国をよくよく学ぶことが、日本の行く末を左右する 最重要課題だ、と。
そんなグローバリズムが渦巻くなか、日本人ひとりひとりは、はたして その渦にうまく乗り切れているのだろうか。
すくなくとも わたしは、いまだに、‘あちらさん’は アメリカさんです。
いまだに、日本の‘外国’として認識できる国は アメリカだし、グローバル社会といっても 考えられるその相手国はアメリカであり、アメリカとの関係が わたしにとっての‘グローバル化’なのです。
わたしたちより一世代前、つまり昭和10年前後に生まれた人たちは、筑紫哲也氏の言葉を借りれば、戦前の‘鬼畜米英’が戦後ころっと‘マッカーサーさまさま’に変節した 当時の日本の‘大人の心変わり’に、抜き差しならない幻滅を味わったのでしょう。
でも わたしは、‘マッカーサーさまさま’からの日本しか知らない。
ハリウッド映画は、欲しくて欲しくてしかたがない世界を これでもかこれでもかと映し出していました。
アメリカ!アメリカ!で歩んできた日本人のひとりなのです。
1945年、日本はアメリカに負けました。
このことを忘れて、いまなにを模索しても始まらない。
「2010年安保の年」と位置づけた今年、普天間基地問題で揺れに揺れている政界を遠目に、わたしは、自分なりのアメリカとの決着をつけるときが来たと考えています。
そうでないと、わたしの‘戦後’は終わらないと思ったのです。
そのために何をすればいいのか。
やはり、原点復帰だと考えました。
自分の歩んできた戦後日本を、わたしは、あまりにも、なにも知らな過ぎる。
時間的にも、体力的にも、そして‘お頭’的にも、大それたことはできない。
しっかりした あまり分厚くない書物から、まず無知を少しでも解消しよう。
その書物は 何よりも、なるべく公平な立場で書かれたものでなければならない。
わたしが選んだのは、10年近くも本棚の奥で眠っていた 次の本でした。
ジョン・ダワー著「敗北を抱きしめて」。
わたしは、本を読むとき、あとがきから読む癖があります。
「敗北を抱きしめて」は上下二巻になっているので、しかたなく まえがき(本書では「日本の読者へ」)から読みだしました。
よし!この本だ、そう直感したのは、まえがきに記された 次の一文でした。
・・・この本の英語版が出版されて間もないころ、森喜朗首相が、日本は世界のほかの国や文化と違って、「天皇を中心とする神の国」だという悪名高いスピーチをおこなった。私は、これに非常に腹が立った。
なぜか?
これは、私が研究者として理解している日本ではないからである。・・・
著者のジョン・ダワーは、1938年生まれのアメリカ人です。
親日家(奥様は日本人)といっても、れっきとしたアメリカ人です。
ちょっと上の世代のアメリカ人が、戦後日本の惨状から這い上がっていく姿を 普通の日本人たちを中心に据えて描いた、ピュリッツァー賞作品。
選択に間違いはないと、確信しました。
遅読のわたしにとって、800ページ近い書物の読破は、かなりの忍耐を要しました。
でも 爽快な読後感です。
「敗北」という言葉の響きに、こんなに心地よい感覚になれるとは思いませんでした。
改めて、いや、はじめの思いとは 全く逆の感動をもって、わたしは繰り返したいのです。
1945年、日本はアメリカに負けました。
このことを忘れて、いまなにを模索しても始まらない。
読み終えて、再び上巻のまえがきを再読しました。
まえがきは、次のように締めくくられています。
・・・新しい世紀において、自分たちの国は何を目標とし、何を理想として抱きしめるべきか。今日の日本の人がそう自問するとすれば、恐ろしい戦争のあと、あのめったにないほど流動的で、理想に燃えた平和の瞬間こそ、もっとも重みのある歴史の瞬間として振り返るべきものではないだろうか。私は、そう考える。2001年2月1日。・・・
このまえがきの結びが、わたしのいまの思いを 明確に代弁してくれています。
日本だけを考えていては なにごとも始まらない と、目を世界に向けることが 現代人の常識と化しています。
ことに、ここ十数年で急速に発展を遂げた隣国・中国をよくよく学ぶことが、日本の行く末を左右する 最重要課題だ、と。
そんなグローバリズムが渦巻くなか、日本人ひとりひとりは、はたして その渦にうまく乗り切れているのだろうか。
すくなくとも わたしは、いまだに、‘あちらさん’は アメリカさんです。
いまだに、日本の‘外国’として認識できる国は アメリカだし、グローバル社会といっても 考えられるその相手国はアメリカであり、アメリカとの関係が わたしにとっての‘グローバル化’なのです。
わたしたちより一世代前、つまり昭和10年前後に生まれた人たちは、筑紫哲也氏の言葉を借りれば、戦前の‘鬼畜米英’が戦後ころっと‘マッカーサーさまさま’に変節した 当時の日本の‘大人の心変わり’に、抜き差しならない幻滅を味わったのでしょう。
でも わたしは、‘マッカーサーさまさま’からの日本しか知らない。
ハリウッド映画は、欲しくて欲しくてしかたがない世界を これでもかこれでもかと映し出していました。
アメリカ!アメリカ!で歩んできた日本人のひとりなのです。
1945年、日本はアメリカに負けました。
このことを忘れて、いまなにを模索しても始まらない。
「2010年安保の年」と位置づけた今年、普天間基地問題で揺れに揺れている政界を遠目に、わたしは、自分なりのアメリカとの決着をつけるときが来たと考えています。
そうでないと、わたしの‘戦後’は終わらないと思ったのです。
そのために何をすればいいのか。
やはり、原点復帰だと考えました。
自分の歩んできた戦後日本を、わたしは、あまりにも、なにも知らな過ぎる。
時間的にも、体力的にも、そして‘お頭’的にも、大それたことはできない。
しっかりした あまり分厚くない書物から、まず無知を少しでも解消しよう。
その書物は 何よりも、なるべく公平な立場で書かれたものでなければならない。
わたしが選んだのは、10年近くも本棚の奥で眠っていた 次の本でした。
ジョン・ダワー著「敗北を抱きしめて」。
わたしは、本を読むとき、あとがきから読む癖があります。
「敗北を抱きしめて」は上下二巻になっているので、しかたなく まえがき(本書では「日本の読者へ」)から読みだしました。
よし!この本だ、そう直感したのは、まえがきに記された 次の一文でした。
・・・この本の英語版が出版されて間もないころ、森喜朗首相が、日本は世界のほかの国や文化と違って、「天皇を中心とする神の国」だという悪名高いスピーチをおこなった。私は、これに非常に腹が立った。
なぜか?
これは、私が研究者として理解している日本ではないからである。・・・
著者のジョン・ダワーは、1938年生まれのアメリカ人です。
親日家(奥様は日本人)といっても、れっきとしたアメリカ人です。
ちょっと上の世代のアメリカ人が、戦後日本の惨状から這い上がっていく姿を 普通の日本人たちを中心に据えて描いた、ピュリッツァー賞作品。
選択に間違いはないと、確信しました。
遅読のわたしにとって、800ページ近い書物の読破は、かなりの忍耐を要しました。
でも 爽快な読後感です。
「敗北」という言葉の響きに、こんなに心地よい感覚になれるとは思いませんでした。
改めて、いや、はじめの思いとは 全く逆の感動をもって、わたしは繰り返したいのです。
1945年、日本はアメリカに負けました。
このことを忘れて、いまなにを模索しても始まらない。
読み終えて、再び上巻のまえがきを再読しました。
まえがきは、次のように締めくくられています。
・・・新しい世紀において、自分たちの国は何を目標とし、何を理想として抱きしめるべきか。今日の日本の人がそう自問するとすれば、恐ろしい戦争のあと、あのめったにないほど流動的で、理想に燃えた平和の瞬間こそ、もっとも重みのある歴史の瞬間として振り返るべきものではないだろうか。私は、そう考える。2001年2月1日。・・・
このまえがきの結びが、わたしのいまの思いを 明確に代弁してくれています。






