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つれづれ

思いつくままに

柊の花

2012-11-29 12:02:20 | Weblog
ヒイラギに花が咲くのを、初めて知りました。
小さな白い、愛らしい花です。
近づくと、ほのかに匂います。
キンモクセイの香りに似た、もう少し淡白な香りです。



ヒイラギは柊の字のごとく、いま時分から冬にかけての花なんですね。
来年の初夏、紫色の実を結びます。

生け垣に植わっているのをよく見かけますが、葉にトゲトゲの棘があるので、防犯にはうってつけです。
この棘に触ると、ほんとうに痛い。

古くから 邪鬼の侵入を防ぐとして魔除けの木とされており、家の表鬼門の位置に植えられる、と聞きました。
当敷地の表鬼門には 八手を植えていますが、このヒイラギも北東の小さな生垣に植え直そうかなぁ、と思っています。

ヒイラギのトゲトゲの葉っぱに チクリとやられると、小さい頃のクリスマスを思い出します。
なんでクリスマスにヒイラギなんでしょうね。
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人生は団体戦

2012-11-27 10:32:08 | Weblog
人生は団体戦。
これは、映画『綱引いちゃった』のサブタイトルです。

井上真央主演のこの映画、見れば元気が出ます。
おれも 一丁やったろか、そんな気分にさせてくれます。

綱引き競技は、運動会の定番ですよね。
この綱引き、奥が深いんです。
8人の呼吸がピッタリ合わなけりゃぁ、勝負にならない。
まさしく団体戦の妙味です。

映画のクライマックス、大分県大会で 強そうなおばちゃんチームを相手に、にわか仕立ての“綱娘”チームが最後の力を振り絞って戦うシーンには、思わず自分も両足を踏ん張っていました。

それにしても、いま日本を引っ張っているのは 間違いなく女性だと、この映画を見て再認識した次第です。
それも、ひとりじゃぁない。
いろいろ思いの違いはあるだろうけれど、‘この’ことについては 協力してやりましょう、という一点団結力は、男よりずっと上です。
しかし‘こういう’しがらみもありますからねぇ、なんて言うのは、決まって おいなりぶった男性。
自嘲を込めて、そう思います。

綱引きは、力を蓄えて一気に引いたり、相手が引いたら受け身になったり、誰か一人でも崩れたら みんな崩れてしまいます。
示唆に富んだゲームです。
人は ひとりでは生きてゆけない。
困ったときには 誰かが助けてくれる、その希望があるから 生きてゆける。

まさに、人生は団体戦。
<いろいろ思いの違いはあるだろうけれど、‘この’ことについては 協力してやりましょう>
よくは分からないけれど、民主主義って これなんじゃないでしょうか。

ドリカムが歌うエンディングソングに、こう聞こえました。
  ・・・ 何が起きても あなたを ひとりには しないから
    しつこく そばにいて 握った手を 離さないから・・・
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小水力発電

2012-11-21 18:23:15 | Weblog
年末のあわただしさに、総選挙の喧騒が加わりました。
だれもが感じていることでしょうが、大切な選挙だとはわかっていても、では誰に どの党に一票を入れるのか、選択肢の貧弱さに困ってしまいます。

何が信条なのか見当のつかない政党らに どう投票基準の焦点を絞るか、ほんとうにむずかしいですね。
ただ 原発をどうするのかという争点は、決して外せない投票基準です。
この国のエネルギーをどうするのか、食糧と同じくらい、大きな大きな課題のはず。

ただ脱原発だからとか 原発維持だからとかが、投票基準ではありません。
エネルギー供給システムの根幹を どう変えていくのか、それが問題なのです。

例えば、新エネルギー固定買取制度。
太陽光発電が、新エネルギーでもっとも注目され、法的にも強力な支援を得ています。
この法的支援に推されて、某大手携帯電話会社や従来の電力会社が大規模な太陽光発電所を建設しているのを、ニュースでしばしば見かけるようになりました。
せっかくの新エネルギー固定買取制度ですが、太陽光発電を大規模集中型でやる限り 原発がクリーンなイメージに変わっただけ、との印象は拭えません。

風力にしても小水力にしても、再生可能な新エネルギーは、本来 小規模地方分散型が適しています。
エネルギーの地方分散は、地方分権のとっかかりになり得る。
ただ そのためのシステムが整っていないのです。

これまでのエネルギー利用の常識、すなわち「集中的に大量に発電し 広範囲に供給することが効率的」とする考え方を覆さなければ、新エネルギーによる発電の ほんとうの意義は失われます。

では どう覆えしたいのか。
うまく言い表せているか心配ですが、それはこういうことです。
電力の消費者が、どういう方法で どの地域で作られた電力なのかを、選択できるシステム。
例えば、地元の桂川用水で発電された電力を、たとえ原発で作られた電力より割高であっても、買おうという人たちがいるかもしれない。
そういう人たちがどんどん増えて、どんどん新エネルギーによる発電量が増えて、ついには原発は要らないということになるかもしれない。
このシステムが構築できたなら、それが可能になるのではないか。


3.11以後、原発について 自分なりに考えました。
何が自分にできるのか。
結局 なにもできないまま、いや やろうとしないまま、あれこれ考えるだけで、ときが過ぎました。
退化する‘絆’の叫びと、それに似たり寄ったりの自分に、むなしく怒っています。

放射能除染作業は、むなしい。
いっしょうけんめい除染作業をしている人たちが、気の毒でならない。
除染そのものが、矛盾だらけの行為だからです。

原発ゼロをめざすにしろ、一定の原発を維持するにしろ、放射性廃棄物をどう処理するのか。
この国のだれも どの専門家も どの政党も、放射性廃棄物の処理に、納得いく方法を示してくれてはいない。
ほんとうはだれにも、どうしていいか判らないのでしょう。

一個人でどうすることもできない問題に思い悩むのは もうやめよう、もっと身近で なんだか楽しそうなことで、ささやかでも‘脱原発’の方向にむかうことに意を用いたい。
そんな思いのなかで膨らんできたのが、以前から関心を寄せていた「小水力発電」です。


親しい友人に、木下哲夫というアイデアマンがいます。
彼は自由闊達な生活人であり、わたしなどのような専門バカ的狭い料簡では 思いも寄らない発想が、ときどきですが、飛び出します。
浅いかもしれないが ものすごく広い、なによりも愉快な知識と経験から生まれる、と わたしは分析しています。

5年ほど前、こんな話をしてくれました。
彼は いま、西京区・桂に住んでいるのですが、あたりには きれいな水がとうとうと流れる農業用水路があって、いつも もったいないなぁと思っている、というのです。
この水路に小さな発電機をおけば、街灯くらいの電力は作れるのではないか。
このあたりは、夜になると暗くて水路に足を取られそうになるのだが、その安全策にもなるんやないか。
そんな提案でした。

嵐山渡月橋上の大堰によって導かれ 洛西の野を潤す桂川用水は、古く五世紀に渡来人・秦氏によって開削したのがはじまり、とのことです。
小さいころ、松尾大社境内を流れる桂川用水に、足をつけて遊んだ記憶があります。
当時は、ふつうの川と思っていました。
その桂川用水にも、他の多くの用水と同様、水争いの歴史が刻まれています。

水は、農家にとって死活です。
桂川用水のような 河川を取水源とする水路では、水は上流と下流の利害の対立を引き起こします。
争いに争いを重ねてその結果、用水路を軸にしたひとつの共同体が生まれ、共同体と共同体の話し合いが繰り返されてきたのです。
水利権というものは、村々の間の重苦しい利害調整の結果生まれた慣行であり、決して軽々しいものではありません。

木下氏の話をきいたとき わたしは、いつもの引っこみ思案癖から、まずこの水利権のことを思いました。
ほんとうなら せめて、木下氏の家の近くを流れる用水路の水利権は 現在どういう土地改良区がもっているか くらいは、調べてみるべきだったのかもしれません。

ほかに急ぎの仕事を抱えていたせいもありますが、この話は そのときは雑談で終わってしまいました。
ただ このとき、木下氏の話に触発されて、用水路を利用した発電というものに 強く興味が湧きました。
「小水力発電」に結び付くきっかけをもらったのです。

興味本位で小水力発電のことを調べていたら、ネットでミツカン水の文化センター機関誌(http//www.mizu.gr.gp/)を知りました。
2008年2月発行の『水の文化』第28号<小水力の包蔵力>特集には、欲しかった知識が詰まっていました。
民間で こんなに判りやすくて楽しくて学術的な機関誌を発行している会社があることに、まず尊敬の念を抱いたものです。

少し長くなりますが、印象的だった文章のほんの一部を その特集から抜粋します。

・・・日本ではよく、「水と空気はタダ」と言われる。
実際には水はタダではないが、それだけ豊富だということを表現している言い回しだ。
その豊富な水からエネルギーを引き出して使うときに、ネックになるのは水利権の問題である。

全国に張り巡らされた灌漑用水路や身近な河川を利用しようにも、それぞれに管理者がいて、国から許可された水利権が設定されているため、許可されていない勝手な(目的外の)個人使用が許されていない状況なのだ。

・・・私たちの食の基礎を支える農業を守ることは、大切なことだ。
そのために許可水利権という形で、土地改良区が灌漑用水路の管理主体になっていることも理解できる。
しかし、農業へのかかわり方が変わってきた現在、農業用水路の維持・管理も、農家だけでやっていかれる時代ではない。

・・・柔軟で多目的な水路利用権を、米づくりだけでなく、観光目的や生態系の維持、住民の憩いなど、時と場所に応じて変わる目的にも認めるようにして、そこに「小水力発電」も加えてみてはどうだろう。
そうすれば維持・管理という「使いながら守るための仕事」も、農家だけでなく住民すべてに広げることが当たり前になるのではなかろうか。
そうすることで、農業からも水からも遠くなった住民を、近くに引き戻すことができるのではないか。
その結果、弱まっていた地域の力を強めることに通じれば、地域の活性化にも役立つはずだ。

・・・今回の特集は小水力を、「今の生活にあてはめよう」という折衷的なものではなく、「風土を活かす新たなエネルギー供給・取引に、新たな設計思想を持とうではないか」という主張である。
小水力の「力」は、単に発電パワーを意味するのではなく、それらを効率的に活かすための社会に包蔵された「力」を意味するのである。


『水の文化』第28号が発行されたとき すでに、小水力発電の法的環境は、環境への関心の高まりに呼応して整いつつありました。
この特集に先立つ2年前、つまり2006年に「環境用水に係る水利使用許可について」という通達が、国交省より出されました。
水の消費が目的でなく、ある空間における水または水流の存在自体が、つまり、生活・自然環境の維持改善を目的とする水利権が、「環境用水」という表現で保証されるようになりました。
そして、環境用水の制度創設と並行して、小水力発電用水の許可手続きが緩和されたのです。

再生可能な自然エネルギー、いわゆる‘新エネルギー’による発電への期待は、3.11以降 ますます高まりつつあります。
冒頭に触れた固定買取制度も、そのひとつです。
現行の大規模集中型の発電・供給システムは、この固定買取制度を食い物にする危険を孕んでいるのも事実です。

小水力発電(正確には水路式の1000kw以下の水力発電)は、‘新エネルギー’に分類されました。

小水力発電のいいところのひとつは、「見て楽しい」ということです。
わたしたちは 小さいころから、水に親しんで育ってきました。
水が廻っている、うねっている、落ちていく・・・
きれいな水がサラサラ流れる光景は、日本人の原風景であり、心安らぐ光景です。

採算だけを考えれば、小水力発電は下の下かも知れません。
しかし、自然エネルギーを使って発電しているんだ、地域資源を使っているんだ、自分たちが発電を運営しているんだ、という意識は、採算性とは別物です。
地域からのエネルギー、きれいなエネルギー、ひいては 自分たちの力でエネルギーを生み出しているんだ、といったイメージは、採算では割り切れない、もっと豊かな感情を人々の心に灯すことができるにちがいありません。


小水力に関する わたしの知識など、まだ微々たるものです。
是非一度、ミツカン水の文化センター機関誌を覗いてみてください。
第39号(2011年11月発行)は<小水力の底力>特集です。
きっと、小水力の魅力を理解してもらえると思います。
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アラカシ

2012-11-14 11:16:53 | Weblog
季節は 着々と冬へ向かっていることを、街路樹の色合いで感じます。



以前、『名も判らぬ移植古木』と題した拙文で紹介した‘名も判らぬ移植古木’の名前が判りました。
たぶん ですが、<アラカシ>という木でした。
教えてくれたのは、中京中学校の南側のフェンスに掲げられた木々の説明札です。

上の画像は、中京中学校の南側です。
押小路通り、わたしは 勝手に「二条城南大通り」と呼んでいます。

自動車で、自転車で、たまに徒歩で、しょっちゅう通っているのに、木々の説明札に気づきませんでした。
説明札は きっと、学校関係の方々のお計らいでしょう。


中京中学校の大通りに面した南側には いろんな大きな樹木が植わっていますが、アラカシのすぐ隣に<シラカシ>が植わっていて、アラカシとシラカシの違いがよくわかります。

木の名前を知るだけでも 豊かな気持ちになれるのに、説明札から いろんなことを教えてもらいました。
関東で<カシ>と言えばシラカシを指す とか、シラカシの名は材が白いことに由来する とか、西日本に多いアラカシは葉や枝ぶりがあらあらしいことから名づけられた とか・・・

昭和15年と昭和57年の 二度の引っ越しにも移植して敷地内に生き続けている‘名も判らぬ移植古木’は、まちがいなく アラカシです。
最近とみに弱々しく感じられるこの古木が、名前が判ってますます いとおしくなりました。
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鉄が海を救う

2012-11-06 15:33:05 | Weblog

下の写真は、3年前 東京大学総合研究博物館で催された<鉄-137億年の宇宙誌>会場で 許可を得て撮ったものである。



右が 鉄分を吸収しやすい土壌で育てた稲、左が 鉄分を吸収しにくい土壌で育てた稲。
育ち方の差は、歴然である。

3年前、鉄についてどうしてももっと学ばねばならない事情があり、<鉄-137億年の宇宙誌>展を見るべく 東大本郷キャンパスを尋ねた。
工業材料としての鉄に関する知識補給という初目的は、ほぼ果たされた。
同時に、「生命は鉄なしには生きてゆけない」という、まったく新鮮な認識を促された。

冒頭の写真は、その一例である。
植物は、鉄がなければ 窒素やリンなどの養分をうまく吸収できない、という一証例だ。
稲は、‘ムギネ酸’という物質を分泌して鉄と結合し、水に溶けやすい‘ムギネ酸鉄’という錯体の一種であるキレート物質を作って、鉄を体内に吸収する、との説明であった。

化学音痴なわたしは 字面を追うだけであったが、今までの鉄に対する認識とは別種の、なにか神々しい鉄の力みたいなものを感じて 興奮気味であった。

人間も、体内で酸素の運搬に重要な役割を果たすヘモグロビンの主成分である 鉄なしには、生命維持できない存在である。
人体に含まれる鉄の量は、2寸釘一本分(約3g)。
この わずかな鉄分が、多すぎてもいけないらしいのだが、不足すると、人間は生きてゆけない。

海の生きものも 然り、らしい。
海の食物連鎖の基である 植物プランクトンや海藻は、窒素やリン、ケイ素などを必須栄養分としているが、先に体内に微量の鉄分を取り入れておかないと、これらの必須栄養分を取り込めない構造にできている。

つまり、鉄分が不足している海には、植物プランクトンや海藻の育ちが悪く、それを餌にしている動物プランクトンや貝が生きづらく、また それらを餌にしている小魚・・・と、海は痩せていく。
海が‘貧血’をおこすのである。

‘地球は鉄の惑星’といわれるほどに、地球の質量の三分の一は、鉄である。
生命維持には微量でいいのに、海はどうして鉄分が不足するのか。
単純にそういう疑問が湧いた。

地球の三分の一を占める鉄は、地球中心部に集中している。
地表から深さ16km以内にある元素の質量百分組成では、鉄は5パーセントに過ぎない。
それでも、生命維持には有り余るほどだ。
なのに、海に鉄分が不足している。

ここまでが、3年前の<鉄-137億年の宇宙誌>展見学で得た知識と そこから湧いて出た興味であった。


仕事柄もあるのだが、わたしは 鋼、鋳鉄、Fe、製鉄、製鉄機械、鉄工・・・と、鉄の追っかけマンみたいなところがある。
でも 相手は、無機質な鉄だった。
それでも、有機質の生命体である海の生物が 鉄不足による‘貧血’をおこしている、というところで、ははーんと思ったことがある。

自然に存在する鉄鉱石から鉄を作るのには、高炉のような専門の設備でコークスをどんどん燃やして(炭酸ガスをどんどん排出して)、高温度の還元状態を作らなければならない。
つまり、酸素と硬く結合した状態の鉄(三価の鉄)から、工業材料としての鉄(二価以下の鉄)にするには、大きな熱エネルギーを要する。

生命体も、鉄分を体内に取り入れるには、大きな熱エネルギーに匹敵するくらいの、いや それ以上の、自然の絶妙なからくりが必要なのだろう、そして その自然のからくりを阻害するような出来事が起こっているのだろう、そう思った。

もっと知りたくなった。
辿っていった先は、気仙沼湾の漁師(京都大学フィールド科学教育センター社会連携教授でもある)、畠山重篤氏であった。

ここからは、北斗出版の畠山重篤著『森は海の恋人』(いま文藝春秋社から文庫本で出版されている)や 畠山さんが書かれたエッセイなどを読んで、思ったり考えたりしたことがらである。


気仙沼湾で牡蠣や帆立の養殖を営んでいる畠山さんは、50年ほど前から 赤潮による水産被害に悩んでいた。
高度成長期のころである。
それから四半世紀経った1989年、海の問題は森で解くのだと直感し、「森は海の恋人」を標榜して植林活動を始める。
自然相手のなりわいが、おのずと自然の病みには敏感になる能力を養ったのであろう。

ちょうど それは、アメリカの海洋学者ジョン・マーチンが、富栄養にもかかわらず植物プランクトンの生物量が低いままに保たれている海域(HNLC海域)があることを指摘し、それは 鉄がその海域で不足しているためである と結論づけた時期と、ときを同じくしていた。
もちろん この時点では、畠山さんは ジョン・マーチンという名前すら知らない。

このころ、気仙沼湾に注ぐ大川の河口から わずか8キロの地点に計画されていた新月(にいつき)ダムの建設計画が、本格化しようとしていた。
その建設反対運動の一翼を担った畠山さんは、単に反対を唱えるだけではダメだと気づく。
反対する科学的裏付けが必要と痛感していた彼は、当時北海道大学で 海の砂漠化‘磯焼け’の原因を究明している海洋化学研究者・松永勝彦教授の存在を知った。

ここが畠山さんのすごいところだと思うのだが、彼はすぐに松永教授に会いに行く。
松永教授の援助があれば、大川が運ぶ森の豊かさを新月ダムが堰き止めてしまうという 科学的根拠が得られる、そう彼は確信した。

同時に、畠山さんら漁師が気仙沼の海のために20年間こつこつと森でやってきたこと、気仙沼湾に注ぐ大川の源流が発する室根(むろね)山にブナ、ナラ、ミズキなどの広葉樹を植える運動は「理にかなっている」と、松永教授に太鼓判を捺してもらったのである。

新月ダムは 2000年、大川治水利水検討委員会の具申を踏まえて 建設省がダム工事補助の打ち切りを表明し、宮城県は事実上 工事中止を決めた。

新月ダム建設中止の立役者は、‘フルボ酸鉄’という物質であった。

畠山氏は こう語る。
「鉄は、地中や水中では鉄粒子の状態ですが、ほんの少しずつ、鉄イオンの形になって溶けだします。
しかし、鉄粒子から溶けて鉄イオンになるスピードは非常に遅く、植物プランクトンの需要を満たすだけの供給量はありません。
ところが、森の木の葉が落ちて堆積し、それを土中のバクテリアが分解すると、その過程でフミン酸やフルボ酸という物質ができます。
このフミン酸が土の中にある鉄粒子を溶かして鉄イオンにし フルボ酸と結合すると、水溶性のフルボ酸鉄という安定した物質になる。
それが、沿岸の植物プランクトンや海藻の生育に重要な働きをしているのです。
植物プランクトンや海藻は、水に溶けている鉄しか吸収できないからです」


畠山重篤という在野人の存在を知って わたしは、鉄がますます好きになった。
工業材料としての鉄の魅力とはまた違った 一回り大きな鉄の魅力を、胸いっぱいに吸い込んでいる。

それにしても 気がかりだったのは、大津波が襲った気仙沼湾であった。
『鉄が地球温暖化を救う』という畠山さんの著書が、つい最近『鉄で海がよみがえる』と改題して 文庫本になった。
その<文庫本あとがき>を読んで、わたしは ほっとした。
そこには、沈黙の海だった気仙沼湾が、驚くべき早さで回復しつつあることを報じている。

彼は、言う。
「三陸の歴史は津波との戦いの歴史である。そんな危険な地になぜ人は住み続けるのかとの質問も多く受ける。だがそれは、目の前の海が豊かだからに他ならない」と。

死の海だったはずの気仙沼湾の急速な回復を受けて 彼が確信したのは、永年抱いてきた 森と川と海との関わりであった。
もっと広く、自然のいとなみの凄さであった。
そして、森と川と海をつなぐキーとなっているのが 鉄という物質であることに、改めて思い至ったのである。

鉄が海を救う、なんと魅力的なテーマではないか。

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