goo blog サービス終了のお知らせ 

つれづれ

思いつくままに

goo blog「つれづれ」の移転先について

2025-04-29 10:58:08 | 

当ブログ「つれづれ」の移転先について、お問い合わせをいただきました。
お問い合わせ、ありがとうございます。

2018年10月6日『町工場』以前のブログは
   「株式会社 山田鉄工所」ホームページ yamada@21jp.com の中の「町工場おやじの持論・自説」欄に、
2019年3月13日『新生つれづれ四百字』以降のブログは
   同上ホームページの中の「新生つれづれ四百字」欄に、
収納しております。

よろしくお願い申し上げます。

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goo blogのサービス終了通知を受けて・・・

2025-04-24 15:13:03 | 

このたび、goo blogのサービスが終了する との通知を受けました。
「ブログの引越し」も考えました。
でも、慣れないブログサービスで続けるのは ちょっとイヤかな、と。

これを機に、2005年から20年間続けてきた このブログを、閉じようと決心しました。
これまで、計30万回以上の閲覧をいただきました。
こんな拙いブログに興味を持ってご覧いただいた皆さまに、厚く厚く感謝申し上げます。

最後に、わたしがペチャンコに落ち込んでいた時 家内がかけてくれた言葉を、皆さまへのささやかな感謝の気持ちを込めて お贈りいたします。
  楽しいことば, 明るいフレーズを、心にいっぱい蓄えたら、、、その貯金が、あなたの老後を支えてくれると 信じます。

皆さま、ほんとうに ありがとうございました。

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やがて死ぬ けしきは見えず 蝉の声

2025-04-11 02:23:09 | 

大学に入って 最初の夏休みだったと思う、母と二人で 高野山に入った。
数少ない 母と二人での旅であった。

どこの宿坊に泊まったのか、どんなルートで高野山に入ったのか、まったく覚えていない。
朝、奥之院へ続く参道を歩いていた。
頭上から 耳をつんざく蝉の声が降り注いでいたのを、鮮明に記憶している。
「蝉しぐれやなぁ」と、母がポツリと言った。
蝉しぐれ、初めて聞く言葉だったが、一生忘れない言葉となった。

あの時 もう一つ、一生忘れない言葉を反芻していた。
前夜 眠れぬままに読んだ、石坂洋次郎著『ある日わたしは』の中に記されていた句である。
その後 その句は芭蕉が詠んだものと知るのだが、あの時は、その句の深い意味も解釈も知らぬままに スーッと頭に入ったのだ。
   やがて死ぬ けしきは見えず 蝉の声

あの時から61年後の今、蔵書の整理をしていて 昭和38年発行の角川文庫『ある日わたしは』を見つけ出した。
シミだらけの頼りない紙にポイントの小さい文字で書かれた文章を 今、眠れぬ夜中 起きだして 読み返している。
196ページの 芭蕉のあの句が引用されている部分に、鉛筆で黒々と 傍線が引かれている。

出会ってから61年後の今、この句の意味とかが おぼろげながら理解できるような気がする。
いや、出会った61年前 すでに感覚として、鮮明に理解していたのかも知れない。
   やがて死ぬ けしきは見えず 蝉の声

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父親と息子

2025-03-08 10:59:48 | 

NHK連続テレビ小説『おむすび』第21週「米田家の呪い」で、主人公・結(ゆい)の父である聖人(まさと)が祖父の永吉(えいきち)を突き飛ばすシーンがあった。
父・聖人を北村有起哉が、祖父・永吉を松平健が、演じている。
この出来事のあと 聖人は、自分の父親を突き飛ばしたことが 気になって仕方がない、そして こう 述懐する。
「今まで取っ組み合いしても ビクともせんかったオヤジが あんなにちょっと押しただけで・・・ 昔みたいなケンカが もう二度とできんかと思ったら なんか変な気分になってなぁ・・・」

私が40歳代、父が 今の私と同じくらいの80歳ころ、聖人と永吉との間の出来事と同じことがあった。
あのとき 私は、誰も見ていないところで、父を殴った自分の左手を 自分の右手で、爪が手の甲に食い込むほど 握りつけた。

父と母の間には、いさかいが絶えなかった。
つねに 私は、母の味方だった。
父親と息子、オスとオス、うまくいく方が不思議な関係なのだろう。
公平に見ても 父の方が悪かった、と ずーっと そう思ってきた。

自分が あの時の父の年頃になって やっと、そうとばかりとは言えないなぁ と。
オスとオスだからこそ、理解できることがあるのだ。

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最後の雛飾り

2025-02-19 10:46:50 | 

「おひなさん、飾ってあげへんか。たぶん 最後やし・・・」
家内が こう提案した。

実は 去年の暮、来年は 本気の終活の年にしよう、そう話し合っていた。
傘寿という年齢もあり、物に囲まれた生活に 少々疲れたという事情もあった。
息子や娘に 煩わしい後片付けを押し付けるのが忍びない、という気持ちも 強くある。
その時から 私の頭の中で、片づけの順番が形づけられていった。

私の頭の中では、「まず お仏壇」と決めた。
早くに兄を亡くしているので、若いころから 親を送ったあとの仏壇は 自分がみるものと思ってきた。
だから 先の引っ越しの時も、小さなモダン仏壇に替えるという選択を蹴って、本格的な「仏壇のオーバーホール」を 知り合いの仏壇店に依頼して、いま、ひとつの狭い部屋を仏壇がほぼ占領している。
ここへ引っ越してきて ほぼ10年、家内と二人で毎日 大切に守ってきたんだから、もう十分だと 自分に言い聞かせている。

二番目は、美術書。
みうらじゅん ではないけれど、私も若い時から仏像マニアで、親にねだって高価な美術書を買い溜めてきた。
それほど裕福でなかったのに、特に母は私に甘くて、ずいぶん無理をして 私が欲しいという美術書を買い与えてくれた。
その中には、一度も目を通していない書物も けっこうある。
罰当たりの上塗りだが、おそらくもう 開ける機会は ほぼないだろう、それを処分する言い訳にしている。

そして、三番目に 人形だ。
家内や娘が大切にしてきた人形たち、義母が玄人肌の趣味で作り続けてきた人形たち、子供や孫の誕生を祝って 私たちの親が与えてくれた人形たち、そして、雛人形。
人形寺に供養してもらって・・・とも考えたが、リユースを主眼にした善良(そう)な処分事業のNPO団体に依頼しようかな、とも考えている。

母は、4月3日をひな祭りの日 と決めていた。
ある時期までそれを踏襲してきたが、孫娘が生まれた時から ひな祭りは世間並みになった。
それも 孫娘の成長につれて、飾ったり飾らなかったり となった。
今年は終活で 特別、3月3日を過ぎて雛人形を飾っていると嫁にゆくのが遅くなる  という迷信(?)を信じて、飾るなら いまだ、ということになった。

仏壇の右わき1mほどの隙間空間に、美術書を階段状に積み並べたり 収納ボックスを逆さ向けて揃えたりして、その上に赤い毛氈を被せて 俄か造りの雛段を作った。
最後かもしれないと、長い間眠っていた副飾りの 牛車や雪洞やお膳も 皆、所狭しと並べたてた。

同じ部屋の南側壁面にある棚の上に、義母の作ったお雛さんも飾った。

孫娘に ラインで、「お雛さま、なんとか飾れたんで、また 見に来てネ」と送信したら、動く絵文字で「はあ~い」と返信されてきた。

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「おシャカ」と「ご命日」

2025-01-11 12:26:47 | 

父は、明治41年生まれです。
私が46歳のとき、83歳で亡くなりました。
叩き上げの職人でした。
材料の乏しい時代に ものづくりを生業にしたからでしょう、父は、材料を粗末に扱うことを とても嫌いました。
棚に上げられない長尺ものや重量ものは 床に置いて保管していましたが、幼い私が それを跨いで通ったことがありました。
大声で叱られましが、叱られた記憶は そのときだけです。

ものづくりで 不良品を出すとこを、「おシャカにする」と言います。

工場の若い職人さんが おシャカを出しても、父は叱りませでした。
ただ、おシャカになった製作途中の品物を 絶対に捨てさせませんでした。
そして、おシャカした本人のロッカーの上に 置いておくように命じました。
長尺ものの「おシャカ」も、です。
だから、ロッカーの天板は撓って そして転げてきそうで、とても危険でした。
新人職人さんが増えてきて ついに、材料棚の横に「おシャカ棚」ができました。
おシャカ棚の不良品を見て、若い職人さんたちが どう感じていたか、少年の私には 関心外のことでした。
覚えているのは、おシャカした若い職人に対して 指導していた言葉です。
「鋸盤のスイッチを入れる前に、三度、サシ(ものさし)を当てるようにせい!」


幸田文の作品に、『木』という、文庫本にして150ページ少々の作品があります。
この中の「材のいのち」というエッセイに、堂塔古建築で知られた棟梁父子、父の西岡楢光(ならみつ)、長男 常一、次男 楢二郎が登場します。
著者が西岡三棟梁から一番に教わったことは、“木は生きている” ということでした。
大工さんのいう  “木” は立木ではない。
立木としての生命を終わったあとの “材” をさします。

法隆寺の大修理の終盤、著者は斑鳩に移って、一年余り 仮住まいをしていました。
ある日 弟棟梁の楢二郎が、著者の仮住まいをたずねてくれました。
「今日の話は、どうも縁起のいい話じゃないと思うので、しょうか、しまいかと考えあぐねているのだが・・・」という。
なんの話かときいたところ “木の死んだののことです” という。
どんな良材、強材であろうと木には寿命があり、寿命がつきれば死ぬ。寿命を使いつくして死んだ木の姿は、生きている木にはない、また別の貴さ、安らかさがあって、楢二郎は たまらなく心惹かれるという。
もし縁起をかまわないのなら、木の死んだのも見ておいてもらいたい。生きている木ばかり見せておいたのでは、片手落ちなわけで、生きても死んでも、木というものは立派だ、と知っておいてもらいたいし、一度それを見ておけば、きっとあなたの何かの役に立つと思う、という。

当然、著者 幸田文は 翌日、さっそく見せてもらいました。
生きて役立っていた時の張りや力をすっかり消して、その代わりに気易げに、なんのこだわりもなく鎮まっているので、自然の寿命が尽きるというのは、こういう安息の雰囲気をかもすものなのだろうかと、著者は気付きます。
そして、楢二郎の話したことの意味、さらに西岡三棟梁から一番に教わった “木は生きている” ということの滞りが、解けたのです。

著者は、楢二郎から こんな話も聞いていました。
若い大工さん仲間には、“刃物を入れたら、ご命日” という笑い言葉がある。
間違って切ったが最後、もう処置なしだというのである。
熟練した大工でも、“大工は毎日、ご命日の心配しながら仕事をする” というのです。

この話から 私は、「おシャカ」と同じだ、と思いました。
そして、西岡三棟梁には もちろん及ばずとも、父が材料を大切に思う心は 棟梁たちに通ずるものだと、解けたのです。


「ご命日」と「おシャカ」、どちらも いい言葉です。
ちなみに、長男棟梁 常一は、私の父と同い年、次男棟梁 楢二郎は、5歳とし下です。

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鳥取県大山町鈑戸(たたらど)の野墓

2024-12-31 16:03:47 | 

年末、奇跡的にあいた 空き時間に見る、テレビ。
めぼしいドラマはすべて終了したテレビビデオ番組を無造作に探っていて見つけた、火野正平『にっぽん縦断こころ旅』の再放送、2014年10月10日放映の372日目の旅、鳥取県大山町鈑戸(たたらど)の野墓(のばか)編でした。

鈑戸の野墓の風景は、大阪府高槻市の谷口邦子さんのリクエスト場所、彼女のこころの風景です。

火野正平一行が 倉吉駅から輪行してめざす最寄り駅は、山陰最古の駅舎のある「御来屋(みくるや)」。
倉吉駅前でも どしゃ降りの空はあがらず、自転車の一陣は 大粒の雨に打たれながら、約14km先の鈑戸を目指します。

南の山側へ、かなりの登り勾配の道を進みます。
正平さんの息が激しくなる。

白い雨雲がところどころ切れ、大山の山並みが見え隠れしてきました。
「雨あがりの空気がおいしい!」と、息切れの声を嬉しそうに震わす 正平さん。
県道36号線に出たところで 日本交通の路線バスが横切り、3年前に大山を訪ねた『こころ旅』を 正平さんは思い出します。
「おばあちゃんが前の席に乗ってて、おれたち後ろでさんざんおしゃべりしてんのに、なんの反応も示さないで、降りるときおばあさんが先に降りたんだけど、いつも見てますよぉって、にこっと笑って降りてっていっちゃった。そのおばあさんが乗ってたバスだ」

やっと「鈑戸のバス停」に着きました。
ここは、正平さんがさっき思い出したおばあさんが降りたバス停です。
ここの三叉路を 左折します。
「やっぱり鳥が啼きながら飛ぶと、その後 雨が降らないなぁ」と正平さんの独りごと。
この独り言は、正しいと思います。

鈑戸川に至ります。
川沿いの道は、文化庁選定「歴史の道百選・大山道(坊領道)」です。
川の西側平地に並び立つ、石積みの野墓群。
カメラは、野墓の風景を スロー撮りします。

たぶん 川向うの村から来たのでしょう、一台の電動シニアカーに乗ったおばあさんが、橋の上からこちらを見ています。
正平さんが声を掛けます。
「おうかがいしたいことがあるんですが、ちょっとこちらに来ていただけませんか?」
電動シニアカーを上手に操作しながら おばあさんは、正平さんの脇に近寄リます。
辛抱しきれないという風に おばあさんは、こう明かします。
「言っちゃぁいかん言われとったんですが 娘に、実はわたし、邦子の母です」「ええーっ」
「あのね、その前 大山に来られたでしょぉ バスで、その時もお会いしてて 鈑戸のバスの駅で降りましたぁ」「ええーっ」
正平さんの うれしそうな顔!

その火野正平も、もうこの世にいなくなりました。

おばあさんを見送った火野正平は、おばあさんが「間違いなくそこの野墓が土葬の墓ですぅ」と証言してくれた野墓群のそばで、娘の谷口邦子さんの「こころの旅への手紙」を、もう一度 読みました。
雨に濡れた野墓の石積み墓群風景を、カメラは長撮りし続けます。

大阪府高槻市 谷口邦子さん(55歳)
わたしの「こころの風景」は、鳥取県西伯郡大山町鈑戸(たたらど)の野墓の風景です。
野墓というのは、両墓制において、遺体を土葬した墓のことです。
お参りするのは、髪と爪とだけを埋めた普通のお墓の方です。
少し前まで、人が死ぬとお葬式は村から川を渡った川原に埋葬していました。
野墓は、ごろごろ石だらけで、穴を掘るときに出てきた石をそのままお棺の上に積み上げただけの、素朴なものです。
月日が経つと、どんどん石が沈んで低くなり、最後はまた元の川原にもどります。
当然のことながら、どの墓がだれのものかは、身内しかわかりません。
その知っている人がいなくなれば、お参りする人もいなくなり、自然にもどっていきます。
わたしは、この川原のお墓の風景が、たまらなく好きなのです。
この野墓の風景を見ていると、そんなに無理して生きていかなくても大丈夫だと思えるので・・・

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思い出

2024-05-21 12:58:11 | 

「思い出は一人で抱くものではなく誰かとわかちあうもの。」
きのう('24年5月20日)の朝日新聞『折々のことば』に、こう記されていた(シドニー・スミスの絵本『ねえ、おぼえてる?』から)。

ほんとうに そうだと、思う。
ひとりでは、思い出は作れない。
あのとき ああだったね と 語り合う人がいなければ、「出来事」は「思い出」にならない。
たとえ「いやな出来事」でも、話して「そうそう そうだったね」と返してくれる人がいれば、「思い出」になる。
「そうそう そうだったね」と返してくれる人がいなければ、その「出来事」は 単なる出来事に過ぎず、流されて いつのまにか消えてしまう。

去年の10月、幼友達とふたりで 安乗岬を訪ねた。
このブログに 先に『安乗岬灯台』という表題で投稿したら すぐに彼からコメントが送られてきて、何回かのやり取りの末 じゃぁ安乗岬へいっしょに行こうや ということになった。
小学校・中学校のころ ふたりで何度か行ったことのある安乗岬へ、65年ぶりに訪ねたのだ。

あいにくの雨模様で 岬をおとずれる人は少なく、白く四角い安乗埼灯台は ふたりで独占できる状態だった。
雨脚が激しくなり、安乗岬園地休憩舎で 一休みした。
客のまばらな店内、灯台を正面に眺められるスタンド座席に ふたり並んで坐る。
大きな窓ガラスに雨がうちつけているものの、見通しは悪くない。
ここの名物の 土産用の「きんこ芋」をつまみにして、ドリンク一杯で小一時間ほど 語り合った。

その幼馴染の、突然の訃報。
小学校のころ、中学校のころ、ふたりで見た、白く四角い灯台。
ついこの間、ふたりの目の同じ方向に佇んでいた、白く四角い灯台。
もう ふたりで、あの灯台を話題に 語り合うことはない。
ふたりの思い出は、消えた。

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『生きとし生けるもの』

2024-05-12 17:05:19 | 

連休の最終日の夜、久々に 骨のあるテレビドラマを観た。
テレビ東京開局60周年特別企画ドラマスペシャル、『生きとし生けるもの』である。

「医者と患者 男二人のロードムービー」、北川悦吏子の脚本、妻夫木聡と渡辺謙の主演 となれば、見逃すわけにはいかない。
この思いに違わず ロードムービーとして見ごたえのあるドラマに仕上がっているばかりでなく、北川悦吏子の「死生観」に自分の老いを重ねて 様々な感情が触発された。

余命宣告を受けた「患者」の「おっさん」こと成瀬(渡辺謙)は、窓はあるが締め切った病室の白い天井ばかり見て 余命の日々を送っている。
彼は、「とっちゃん坊や先生」こと陸(妻夫木)から「死ぬまでにしたい10のこと」を書くように メモ用紙を渡されている、が 何も書けない。
「坊や先生」は たぐいまれな才能を持った外科医だったが、あることをきっかけにメスを握れなくなり 精神的に追い詰められ、外科を追われて内科医となっていた。
この白紙のメモを見て残念がる「坊や先生」に「おっさん」は、空気が淀んでいる病室に気づいて「風に吹かれたい」と言い出した。
ここから、バイクとキャンピングカーを乗り継いだ「医者と患者のロードムービー」が始まる。
二人とも、死ぬ覚悟の 旅が始まる。

どっぷり夜の闇に包まれた、バスのようなキャンプハウスの中の男、ふたり。
「坊や先生」が カバンから二本のアンプルを取り出して、「おっさん」の前のテーブルの上に置く。
一本は すぐに楽になる薬 つまり死に至る薬、もう一本は しばし楽になる薬 つまり強力な鎮痛剤、と「坊や先生」。
たぶんカモフラージュであろう「塩化カリウム」のラベルを貼った 安楽死へのアンプル注射液 これを「おっさん」は、「怖いような 憧れるような、生きるか死ぬかを選べる魔法薬」と呼んだ。

ドラマの中盤で明かされるが、このアンプルは 「坊や先生」と「おっさん」のお守りなのだ。

「生きる権利もあるなら 死ぬ権利もあるだろう。いや 生きるのは、義務か」と「おっさん」。
「おっさん」は 続ける。
「病棟の奥の部屋、自分で飯も食えず、全身 管だらけ、胃ろうで流し込んで起き上がることもできず、おしめ当てて、そこまでして 生きたいか、あれは 本人の意思なのか」
おもむろに 口を開く「坊や先生」。
「いえ そうとも・・・ 医者は 命を助けたい生き物です。でも 僕は虐待ですらと思ってます。・・・ 成瀬さんの生まれたころより 医学の進歩によって、格段に平均寿命は延びました。でも それってほんとに 人々を幸せにしたでしょうか。」 

このあと、このドラマ最大の感動シーン、山の向こうのかなたから 昇る朝日、それを眺める二人の男の 輝く顔と顔。

北川悦吏子のドラマには、どうしてこうも、松任谷由実の歌が流れるのだろう。
このドラマにも、『恋の一時間は孤独の千年』を「坊や先生」が 口ずさむシーンがあった。


この齢になると 自分も あんな「魔法の薬」をお守りとして欲しくなる、悪いことだろうか。
先端医療は 若い人には、間違いなく必要だろう。
だけど、緩和ケア医療も 年寄りには、絶対に必要なのだ。

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円空の善財童子立像

2024-04-19 12:55:14 | 

上の写真は、紀伊国屋書店発行の『円空の彫刻』から転載したもので、円空の「自刻像」と明記されている。
長い間 この像から円空上人を想像し、円空仏を彫りだしている円空の姿を 思い描いていた。

あべのハルカス美術館で4月7日まで「円空ー旅して、彫って、祈ってー」展が開催されていたが、最終日近く やっと思い立って阪急電車と地下鉄御堂筋線を乗り継いで あべのハルカスを訪ねた。
現在ただいまの体調からして、大阪まで行くのは少々勇気が要ったが、天王寺駅を降りてすぐそこだったので すごく助かった。

これほどの数の円空仏を一か所で観られること自体、わたしにとって大きな賜物でしかない。
この「円空展」では、上の写真の像は「善財童子立像」となっていた。


20歳はじめ 円空仏に魅せられたわたしは、 円空上人が遍歴した足取りをたどるように、円空仏の痕跡を 日本各地に訪ねまわった。
北海道南西部の後志(しりべし)地域から始まって、青森県下北半島から秋田県男鹿半島をめぐり、日を改めて 三重県志摩半島に長逗留して 円空の足跡を訪ね歩いた。
ひと夏休みを丸々費やして、濃尾平野から飛騨地方を 憑かれたように歩き回った。
円空仏を追い求めて 最後にたどり着いたのは やはり 円空上人の生まれ故郷である岐阜羽島で、木曽川を眺めたのち 歩いて長良川に向かい、その河畔に夕暮れまで佇んでいたのを、懐かしく思い出す。

円空上人は、江戸時代のはじめ、美濃国竹が鼻というところ、現在の岐阜県羽島市上中町に生まれている。
ちょうど 木曽川と長良川に挟まれた、農業のほかに生きる道のなかった、しかも 常に水の災いにさらされた地域だ。
父無し子であったが、母親にかわいがられ、7歳のとき その母を洪水で無くしてしまう。
あの夕暮れに見た長良川は、予想外にきわめて穏やかであった。

円空は、生涯で12万体の仏像を彫ったといわれている。
発見されているもので、約5500体ほどある。
この目で観たのは、その1割ほどもない。
それでも 画集などで調べて気に入った円空仏は、ほとんど訪ねている。
その中で 実物の円空仏を観ていないのは、上の写真の立像と 円空最後のほとけと言われている「高賀神社・十一面観音菩薩及び両脇侍立像」であった。
その両方とも、この展で拝観が実現した。

高賀神社・十一面観音菩薩及び両脇侍立像は、展の最後の部屋に置かれていた。
2mを越す細長い十一面観音像を中心に、向かって右が 善女竜王像、左が善財童子像の三体。
これら三体の仏像は、同じ一本の丸太から作られている。
十一面観音像を彫りとった残りの木から、円空の母の姿である善女竜王像と 円空自身の姿である善財童子像を 彫りだしているのだ。
円空さんは、母とともに 観音さまに抱かれて、やっと安寧を得たのである。


善財童子像は、円空上人自身。
だから、善財童子像は 自刻像。
冒頭の疑問は、「高賀神社・十一面観音菩薩及び両脇侍立像」と展の最後に対面できて、すっきり解けた。


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