分別の 底たゝきけり 年の暮 (芭蕉)
分別の底をたたいても うまい思案が浮かんでくる余地のない、ことしの暮れです。
「世情ますます騒然、かつ殺伐」と、新聞の見出しが わびしく応えます。
なにか いいこと探そう、なにか来年に繋がる 夢のある話はないか。
そんなに焦らなくても じっくり構えればいいのに。
風邪のなかなか引かない体が、些細な不都合でも 大袈裟に構えさせてしまいます。
100年暖簾のこんにゃく製造業を営む友人が います。
浜長という、癖のないこりこりした 日本一旨いとわたしは信じている こんにゃくの老舗の、おやじさんです。
いまが 一年で一番忙しいときで、ここ数週間 電話するのを控えていたのですが、きのう 大好物の浜長こんにゃくを どっさり送ってくれたお礼を口実に、長話しできました。
「忙しく仕事してると、浜長さんはええなぁ と羨ましがられるけど、無茶苦茶な原料高で なにしてるこっちゃわからへん。便所紙ほどの儲けしかあらへんゎ」
そう ボツいたあと、彼は こう しみじみ言いました。
「そいでもなぁ 買うてくらはるお客さんがいはるうちは、ガンバらにゃぁなぁ。衣食住で 食は最後の砦や。こんにゃくは 贅沢品やあらへんもん」
当社の仕事は 麺を作る機械を製造することで、食に関係しています。
麺も 贅沢品ではありません。
当社のお客さんも、この年末 薄利でガンバってられます。
こんな時期、設備投資の意欲が涌かないのは 当然です。
だから、当社も 我慢ガマンです。
でも、食、それも贅沢品でない食に関係した仕事をしていることに、誇りを感じます。
それが、年越しの希望です。
かへりみる この一年の ながれかな (もと女)
いま 日本の若者は、もっと怒るべきだ。
そして この日本の未来を自分たちでつくりかえようと、立ち上がるべきだ。
「トヨタ、純利益1兆円」というニュースに 度胆を抜かされたのは、つい半年ほど前だった。
一日本人として 誇らしい気持ちになったのは事実だが、かって ソニーが「世界のソニー」と うたわれたときに感じた誇らしさとは異種の、不安と冷ややかさを感じてもいた。
そのトヨタが、大企業のトップを切って 人員削減を報じた。
ええぇ あのトヨタが・・・
この衝撃は、規模の大小を問わず 日本のあらゆる業種の経営者に、心理的なマイナスを与えた。
日本の経済は、急速に悪化した。
“天下のトヨタ”の責任は、重い。
今だから言えることなのかも知れないが、『9・11』以後のアメリカの なりふり構わぬわがままぶりが いずれ大きな躓きをもたらすことは、あの「トヨタ」なら予想できたはずだ。
それを あえてアメリカへの輸出依存を強めたことが、今のトヨタの慌てふためきを招いた、と ズブの素人でも理解できる。
乱暴に言って、1年前、トヨタの社員の給料は 零細企業の社員の数倍、ボーナスは5倍、役員の給料は わからない。
わからないが、GMの役員に比べられるくらいの額であったのだろう。
はっきりいって、儲け過ぎであった。
それだけの儲けがあったなら、せめて 解雇した期間労働者の当分の寝どこくらい確保してあげても、罰は当たるまい。
非正規社員とはいえ、トヨタの未曾有の儲けに貢献してきた社員ではないか。
来年度の役員賞与はゼロにする と最近トヨタは言い出した、と報じられた。
本末転倒である。
役員賞与どころか、まず、役員の賃金カットで苦境乗り切りをスタートするのが、われわれ零細企業のトップの常識である。
日本航空の西松遙社長の率先質素を、見習うがよい。
期間労働者ばかりではない。
トヨタのすそ野は、広大である。
つい1年ほど前には、増産体制を敷いて 下請け企業に設備投資を奨励してきたという。
いま、その下請け企業は 受注半減、孫請け そのまた下の下請けの苦境は、容易に想像できる。
もちろん 下請け企業にも、家庭では大黒柱の社員がいっぱいいる。
トヨタの正社員の比ではなかろう。
トヨタだけではない。
バブル崩壊後の大企業の、能力主義の名に隠れてとった冷たい仕打ちを、30代の若者なら 身にしみて覚えているであろう。
そして いま、「企業人格」を問われる 大企業のふがいなさ。
松下幸之助も 本田宗一郎も 井深大も、草葉の陰で嘆いていることであろう。
トヨタをやり玉にあげる気はない。
グローバル化、世界標準、経済至上主義などといった名に隠れて、真の意味での個人が蔑ろにされている現実を 問うているのだ。
人を“材”と見る風潮に、NOと言いたいのだ。
人材派遣業という業種、知識に乏しいわたしには 理解に苦しむ。
ハローワークが「職業安定所」と呼ばれていたころ、職業を斡旋して利益を得たら お縄ちょうだいであったはずだ。
それが いつのまにか 堂々たる一業種として、社会に受け入れられている。
それならば、なぜ そこに登録した“人材”を社員扱いしないのか。
派遣労働者は、雇用保険などの労働保険には かろうじて加入するが、厚生年金や健康保険などの社会保険には入れてもらえない と聞く。
まず、そういう状態で人材派遣業という業種を公認した役所(政治?)に問いたい。
企業が正社員の人数を できるだけ抑えようとする理由の第一は、労働保険の全額負担、社会保険の半額負担が厳しいからだ。
正常な会社であれば、税金と同じく 税金よりいまや負担の重いこれら保険負担金を なんとかやりくりして納付しているのだ。
その負担のない人材派遣業とは、いったい何ものなのか。
セイフティーネットのほころびは、社会制度の不備にも現われている。
若者にも言いたい。
期間労働者のほうが 身軽で居心地が良い などと 甘ったれた考えがあったとすれば、それがいかに儚いものか このたびで思い知らされたであろう。
景気のいい 売り手市場のときに、正社員でなければ働きません、と強く言うべきであった。
若者たちよ、これからの日本を、平和を愛し人を大切にする国に つくり直そうではないか。
その指針として、わたしは 次の一言を掲げたい。
「一人、そしてまた一人」
これは、マザー・テレサが生前 人々に語り続けてきた言葉の一節である。
そして、先日放映されたNHK番組「その時歴史が動いた」『マザー・テレサ 平和に捧げた生涯』の副題でもあった。
マザー・テレサがノーベル平和賞の授賞式の壇上で まず語りかけた言葉は、「ともに祈りましょう」と、そして続けて、戦乱止まぬ時代に幼かった彼女の生き方を変えた 聖フランシスコの平和の祈りであった。
「主よ
あなたの平和を
もたらす道具として
私をお使い下さい
憎しみのあるところには
愛を
不当な扱いのあるところには
ゆるしを
分裂のあるところには
一致を」
1979年にマザー・テレサに与えられたノーベル平和賞が どうして「その時歴史が動いた」のかを、番組の中で 早稲田大学名誉教授の西川潤氏は、こう説明している。
平和を希求してやまないマザー・テレサが ノーベル平和賞を受賞するまでは、平和というものは 国家や政府の仕事だと考えられてきました。
授賞式の壇上で 最も質素な木綿のサリーをまとい サンダルを履いたマザー・テレサが、全世界に発したメッセージは、平和というのは、ひとりひとりの取り組みの問題、生き方の問題であり、“貧しい人”という固定したイメージではなく、わたしたち自身の“貧しさ”が 貧困や紛争を起こし出している という、豊かさ、貧しさを考える上での「認識の転換」でした。
西川潤氏は、かって訪ねた「死を待つ家」での体験を踏まえて、こう語り続ける。
死を待つ家で 私は死を待つ人々の手を握りました。
そして その手を離し、もう行かなくてはなりません と言うと、彼らは「Good! bless you 神のご加護あれ」と祝福してくれました。
愛を貧しい人たちに投げかけていると思っていたのが、実は 彼らが私に愛をくれていたのです。
こういう認識・自覚から、もう一つの豊かさ、お金に測れない豊かさ、愛や平和につながる豊かさ、そういう新しい豊かさが見えてくるのです。
マザー・テレサは、ノーベル平和賞を 一つのメッセージ手段として、そういう新しい豊かさをわれわれに教えてくれました。
今の社会から もうひとつあとの社会を展望するものを、指し示してくれたのです。
この番組の中で、マザー・テレサの活動について、ひとりの社会活動家が疑問を呈する発言に対するマザーの応答が、深くわたしの心に残っている。
社会活動家「あなたのしていることは 確かにすばらしいけれど、もっと大掛かりで現実的なやり方があるのでは?」
マザー・テレサ「私は 大仕掛けのやり方は反対です。大切なのは 一人ひとりの個人。愛を伝えるには、一人の人間として相手に接しなければなりません。多くの数が揃うのを待っていては 数の中に道を失い、一人のための愛と尊厳を伝えることはできないでしょう。『一人ひとりの触れ合い』こそが、何よりも大事なのです」
わたしたちが 立ち上るとき、思いあがってはならないことがある。
それを、マザー・テレサが友人へ宛てた手紙に 読み取ることができよう。
「神の偉大さに比べて 私はなんてちっぽけなのかーーー ほとんど無に等しいかもしれない。あまりに無力で 空っぽで、そして あまりに小さい私」
マザーですら こうなのだから、ましてや われわれをや、である。
マザー・テレサが 生前、人々に語り続けたのは、次の言葉であった。
「私は 決して助けた人を数えたりはしません。ただ一人 ひとり そしてまた一人」
来年の1月17日で、14年前になる阪神淡路大震災。
あのとき、日本中から心ある若者が 被災地に集まった。
被災地に行くことはできなくても、何かしてあげられることはないかと、心を砕いた若者が 大勢いたはずである。
自分の何かを犠牲にしてでも 誰かを救ってあげたい、その心の環が広がったとき この世の中に真の平和が訪れる、とマザーは教えてくれた。
あの大震災は たいへんな不幸であったが、もう一つの新しい豊かさを 身をもって知ることのできた 貴重な体験であった。
わたしたちは、やろうと思えば できるのだ。
新しい真の豊かさを求めて、立ち上がろうではないか。
そして この日本の未来を自分たちでつくりかえようと、立ち上がるべきだ。
「トヨタ、純利益1兆円」というニュースに 度胆を抜かされたのは、つい半年ほど前だった。
一日本人として 誇らしい気持ちになったのは事実だが、かって ソニーが「世界のソニー」と うたわれたときに感じた誇らしさとは異種の、不安と冷ややかさを感じてもいた。
そのトヨタが、大企業のトップを切って 人員削減を報じた。
ええぇ あのトヨタが・・・
この衝撃は、規模の大小を問わず 日本のあらゆる業種の経営者に、心理的なマイナスを与えた。
日本の経済は、急速に悪化した。
“天下のトヨタ”の責任は、重い。
今だから言えることなのかも知れないが、『9・11』以後のアメリカの なりふり構わぬわがままぶりが いずれ大きな躓きをもたらすことは、あの「トヨタ」なら予想できたはずだ。
それを あえてアメリカへの輸出依存を強めたことが、今のトヨタの慌てふためきを招いた、と ズブの素人でも理解できる。
乱暴に言って、1年前、トヨタの社員の給料は 零細企業の社員の数倍、ボーナスは5倍、役員の給料は わからない。
わからないが、GMの役員に比べられるくらいの額であったのだろう。
はっきりいって、儲け過ぎであった。
それだけの儲けがあったなら、せめて 解雇した期間労働者の当分の寝どこくらい確保してあげても、罰は当たるまい。
非正規社員とはいえ、トヨタの未曾有の儲けに貢献してきた社員ではないか。
来年度の役員賞与はゼロにする と最近トヨタは言い出した、と報じられた。
本末転倒である。
役員賞与どころか、まず、役員の賃金カットで苦境乗り切りをスタートするのが、われわれ零細企業のトップの常識である。
日本航空の西松遙社長の率先質素を、見習うがよい。
期間労働者ばかりではない。
トヨタのすそ野は、広大である。
つい1年ほど前には、増産体制を敷いて 下請け企業に設備投資を奨励してきたという。
いま、その下請け企業は 受注半減、孫請け そのまた下の下請けの苦境は、容易に想像できる。
もちろん 下請け企業にも、家庭では大黒柱の社員がいっぱいいる。
トヨタの正社員の比ではなかろう。
トヨタだけではない。
バブル崩壊後の大企業の、能力主義の名に隠れてとった冷たい仕打ちを、30代の若者なら 身にしみて覚えているであろう。
そして いま、「企業人格」を問われる 大企業のふがいなさ。
松下幸之助も 本田宗一郎も 井深大も、草葉の陰で嘆いていることであろう。
トヨタをやり玉にあげる気はない。
グローバル化、世界標準、経済至上主義などといった名に隠れて、真の意味での個人が蔑ろにされている現実を 問うているのだ。
人を“材”と見る風潮に、NOと言いたいのだ。
人材派遣業という業種、知識に乏しいわたしには 理解に苦しむ。
ハローワークが「職業安定所」と呼ばれていたころ、職業を斡旋して利益を得たら お縄ちょうだいであったはずだ。
それが いつのまにか 堂々たる一業種として、社会に受け入れられている。
それならば、なぜ そこに登録した“人材”を社員扱いしないのか。
派遣労働者は、雇用保険などの労働保険には かろうじて加入するが、厚生年金や健康保険などの社会保険には入れてもらえない と聞く。
まず、そういう状態で人材派遣業という業種を公認した役所(政治?)に問いたい。
企業が正社員の人数を できるだけ抑えようとする理由の第一は、労働保険の全額負担、社会保険の半額負担が厳しいからだ。
正常な会社であれば、税金と同じく 税金よりいまや負担の重いこれら保険負担金を なんとかやりくりして納付しているのだ。
その負担のない人材派遣業とは、いったい何ものなのか。
セイフティーネットのほころびは、社会制度の不備にも現われている。
若者にも言いたい。
期間労働者のほうが 身軽で居心地が良い などと 甘ったれた考えがあったとすれば、それがいかに儚いものか このたびで思い知らされたであろう。
景気のいい 売り手市場のときに、正社員でなければ働きません、と強く言うべきであった。
若者たちよ、これからの日本を、平和を愛し人を大切にする国に つくり直そうではないか。
その指針として、わたしは 次の一言を掲げたい。
「一人、そしてまた一人」
これは、マザー・テレサが生前 人々に語り続けてきた言葉の一節である。
そして、先日放映されたNHK番組「その時歴史が動いた」『マザー・テレサ 平和に捧げた生涯』の副題でもあった。
マザー・テレサがノーベル平和賞の授賞式の壇上で まず語りかけた言葉は、「ともに祈りましょう」と、そして続けて、戦乱止まぬ時代に幼かった彼女の生き方を変えた 聖フランシスコの平和の祈りであった。
「主よ
あなたの平和を
もたらす道具として
私をお使い下さい
憎しみのあるところには
愛を
不当な扱いのあるところには
ゆるしを
分裂のあるところには
一致を」
1979年にマザー・テレサに与えられたノーベル平和賞が どうして「その時歴史が動いた」のかを、番組の中で 早稲田大学名誉教授の西川潤氏は、こう説明している。
平和を希求してやまないマザー・テレサが ノーベル平和賞を受賞するまでは、平和というものは 国家や政府の仕事だと考えられてきました。
授賞式の壇上で 最も質素な木綿のサリーをまとい サンダルを履いたマザー・テレサが、全世界に発したメッセージは、平和というのは、ひとりひとりの取り組みの問題、生き方の問題であり、“貧しい人”という固定したイメージではなく、わたしたち自身の“貧しさ”が 貧困や紛争を起こし出している という、豊かさ、貧しさを考える上での「認識の転換」でした。
西川潤氏は、かって訪ねた「死を待つ家」での体験を踏まえて、こう語り続ける。
死を待つ家で 私は死を待つ人々の手を握りました。
そして その手を離し、もう行かなくてはなりません と言うと、彼らは「Good! bless you 神のご加護あれ」と祝福してくれました。
愛を貧しい人たちに投げかけていると思っていたのが、実は 彼らが私に愛をくれていたのです。
こういう認識・自覚から、もう一つの豊かさ、お金に測れない豊かさ、愛や平和につながる豊かさ、そういう新しい豊かさが見えてくるのです。
マザー・テレサは、ノーベル平和賞を 一つのメッセージ手段として、そういう新しい豊かさをわれわれに教えてくれました。
今の社会から もうひとつあとの社会を展望するものを、指し示してくれたのです。
この番組の中で、マザー・テレサの活動について、ひとりの社会活動家が疑問を呈する発言に対するマザーの応答が、深くわたしの心に残っている。
社会活動家「あなたのしていることは 確かにすばらしいけれど、もっと大掛かりで現実的なやり方があるのでは?」
マザー・テレサ「私は 大仕掛けのやり方は反対です。大切なのは 一人ひとりの個人。愛を伝えるには、一人の人間として相手に接しなければなりません。多くの数が揃うのを待っていては 数の中に道を失い、一人のための愛と尊厳を伝えることはできないでしょう。『一人ひとりの触れ合い』こそが、何よりも大事なのです」
わたしたちが 立ち上るとき、思いあがってはならないことがある。
それを、マザー・テレサが友人へ宛てた手紙に 読み取ることができよう。
「神の偉大さに比べて 私はなんてちっぽけなのかーーー ほとんど無に等しいかもしれない。あまりに無力で 空っぽで、そして あまりに小さい私」
マザーですら こうなのだから、ましてや われわれをや、である。
マザー・テレサが 生前、人々に語り続けたのは、次の言葉であった。
「私は 決して助けた人を数えたりはしません。ただ一人 ひとり そしてまた一人」
来年の1月17日で、14年前になる阪神淡路大震災。
あのとき、日本中から心ある若者が 被災地に集まった。
被災地に行くことはできなくても、何かしてあげられることはないかと、心を砕いた若者が 大勢いたはずである。
自分の何かを犠牲にしてでも 誰かを救ってあげたい、その心の環が広がったとき この世の中に真の平和が訪れる、とマザーは教えてくれた。
あの大震災は たいへんな不幸であったが、もう一つの新しい豊かさを 身をもって知ることのできた 貴重な体験であった。
わたしたちは、やろうと思えば できるのだ。
新しい真の豊かさを求めて、立ち上がろうではないか。
先日 テレビのニュース番組で、山陰地方の過疎地の町の小学校で みごとに黄葉する大イチョウが紹介されました。
この小学校は 来年の春 廃校となり、校庭に佇む大イチョウも 切り倒されてしまうかもしれないのです。
この大イチョウに幼いころから親しんできた 小学校卒業生や地元の人たちは、その存続運動に立ち上がります。
大イチョウの落ち葉を舞い上げて戯れる子どもたち、落ち葉の布団のなかに首まですっぽり埋まって 「あぁいいにおい」と叫んでいる女の子。
画像を通して、こちらにまで香ばしいイチョウの葉っぱの匂いが 伝わってきそうでした。
この大イチョウは、切り倒されずに済むそう とのことでした。
でも 来年の落ち葉は、子供たちの歓声を聞くことができるのでしょうか。
数日前の新聞に、大阪御堂筋のイチョウ並木を 低空から見たカラー写真が、載っていました。
ため息が出るほど きれいでした。
いまはもう、落ち葉で歩道が埋め尽くされていることでしょう。
落ち葉は、誰が掃き集めるのかなぁ。
どうでもいいことが 気になります。
たぶん 御堂筋のイチョウの落ち葉は、土に還ることはできないでしょう。
わたしたちの会社の前の街路樹イチョウの落ち葉も、アスファルトの上で 靴に踏まれ 車輪に敷かれています。
アスファルトの恩恵を 重々承知の上で、アスファルトが憎らしく思えます。
映画「画家と庭師とカンパーニュ」のなかで、死をまじかにして 立っていることもつらい状態の庭師が、線路沿いの菜園で 手塩にかけた野菜に囲まれて 土の上に寝そべっている場面で、そこへ訪ねてきた幼馴染の画家と交わす会話が、わたしには とても印象的でした。
画家「おい、どこだ」
庭師「ここだよ。豆の後ろ」
(寝そべっている庭師の頭のほうに置いてあるラジオから 音楽が流れてくる)
画家「寝ながら作業を?」
庭師「横になると腹が引きつらん」
画家「モーツァルトか」
庭師「モーツァルト? 知らなかった。目を覚ますためだ。横になると寝ちまうから。時々向きを変えて空を見る。(空を見上げて)俺はあそこへは行かない。迷子になる。地下のほうがいい。根があれば道しるべになる」
わたしも、空へ行くよりは 土になりたいと思います。
お百姓さんのまねごともしたことがないくせに、土をいじくっていると 楽しいのです。
そんなわたしですら 土が恋しいのに、落ち葉はきっと土に還りたいに違いない、と思うのです。
目抜き通りで愛でられたイチョウも 校庭にひっそりと佇むイチョウも ひとしく、あとひと月もすれば 木枯らしに虎落笛でこたえることでしょう。
この小学校は 来年の春 廃校となり、校庭に佇む大イチョウも 切り倒されてしまうかもしれないのです。
この大イチョウに幼いころから親しんできた 小学校卒業生や地元の人たちは、その存続運動に立ち上がります。
大イチョウの落ち葉を舞い上げて戯れる子どもたち、落ち葉の布団のなかに首まですっぽり埋まって 「あぁいいにおい」と叫んでいる女の子。
画像を通して、こちらにまで香ばしいイチョウの葉っぱの匂いが 伝わってきそうでした。
この大イチョウは、切り倒されずに済むそう とのことでした。
でも 来年の落ち葉は、子供たちの歓声を聞くことができるのでしょうか。
数日前の新聞に、大阪御堂筋のイチョウ並木を 低空から見たカラー写真が、載っていました。
ため息が出るほど きれいでした。
いまはもう、落ち葉で歩道が埋め尽くされていることでしょう。
落ち葉は、誰が掃き集めるのかなぁ。
どうでもいいことが 気になります。
たぶん 御堂筋のイチョウの落ち葉は、土に還ることはできないでしょう。
わたしたちの会社の前の街路樹イチョウの落ち葉も、アスファルトの上で 靴に踏まれ 車輪に敷かれています。
アスファルトの恩恵を 重々承知の上で、アスファルトが憎らしく思えます。
映画「画家と庭師とカンパーニュ」のなかで、死をまじかにして 立っていることもつらい状態の庭師が、線路沿いの菜園で 手塩にかけた野菜に囲まれて 土の上に寝そべっている場面で、そこへ訪ねてきた幼馴染の画家と交わす会話が、わたしには とても印象的でした。
画家「おい、どこだ」
庭師「ここだよ。豆の後ろ」
(寝そべっている庭師の頭のほうに置いてあるラジオから 音楽が流れてくる)
画家「寝ながら作業を?」
庭師「横になると腹が引きつらん」
画家「モーツァルトか」
庭師「モーツァルト? 知らなかった。目を覚ますためだ。横になると寝ちまうから。時々向きを変えて空を見る。(空を見上げて)俺はあそこへは行かない。迷子になる。地下のほうがいい。根があれば道しるべになる」
わたしも、空へ行くよりは 土になりたいと思います。
お百姓さんのまねごともしたことがないくせに、土をいじくっていると 楽しいのです。
そんなわたしですら 土が恋しいのに、落ち葉はきっと土に還りたいに違いない、と思うのです。
目抜き通りで愛でられたイチョウも 校庭にひっそりと佇むイチョウも ひとしく、あとひと月もすれば 木枯らしに虎落笛でこたえることでしょう。
奈良の薬師寺東院堂に、像高190cmの 聖観音という 白鳳金銅仏立像が安置されている。
教育者・林竹二は、この像の持つ生真面目なまでの剛直性、若い男のひたむきとも受取れる清爽さ、そして、古代国家の黎明期を彩る 天皇家一族の悲しい史実から、この像は 有間皇子(ありまのおうじ)の姿を写したものではなかろうか、と小説的に推論している。
ちなみに、林竹二は、噂に聞くだけだったが、70年安保の学生紛争時 常に学生側に立ってことに当たってくれた学長として、われわれノンポリ学生にとっては親父的存在だった 西の奥田東・京大総長に対して 東の宮城教育大学学長であった人で、真の教育者だったと言われている。
11月30日、暖かな晩秋の陽射しに釣られて、40数年ぶりに薬師寺を訪ねた。
各層に裳階(もこし)を持つ 一見華奢な三重の塔として 東塔は、遠い記憶にも残っていたが、新たに建設された 金堂、大講堂、西塔、中門、回廊と すべて揃った 古代国家の大伽藍は まことに壮大であり、圧倒されてしまう。
宗教心の弱いわたしには、竜宮城に迷い込んだか と、少々食傷気味の感は否めない。
ただ この大伽藍から少し離れて位置する東院堂は、いにしえの奈良の香りを残す 鎌倉時代再建の建造物で、堂内は 大きさ、高さ、質素さにおいて ほっとする空間である。
この東院堂の本尊が、今回 薬師寺を訪れた目的の 聖観音菩薩像である。
厨子の中に安置された 直立不動のこの美顔長身白鳳仏を仰ぎ見るとき、有間皇子はこのような若者だったのかと、わたしも 林竹二の夢想に引き込まれてしまう。
本像は、大化の改新時の天皇である孝徳帝のきさきであった間人(はしひと)皇后が、孝徳帝追善のために造顕したことになっている。
間人皇后は、大化改新の立役者、中大兄皇子の実妹である。
ともに、舒明天皇を父に、皇極天皇(重祚して斉明天皇)を母にもつ。
なお、孝徳帝と間人皇后は いとこ同士の結婚であり、舒明天皇と皇極天皇は 伯父と姪の結婚である。
近親婚は、古代国家の天皇家では ごく当たり前のことであった。
とはいうものの、さすがに実の兄妹の結婚は タブーであったものと思われる。
ところが、間人皇后は 実兄の中大兄皇子と恋仲にあった。
孝徳帝のきさきとなってからも、間人皇后の中大兄皇子へのおもいは失せなかった。
中大兄皇子が、強引に間人皇后へおもいを寄せていたのかも知れない。
孝徳帝には 間人皇后とのあいだに子供はおらず、大化の左大臣安部倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)のむすめ小足媛(おたらしひめ)とのあいだに 一人息子がいた。
これが 有間皇子であり、間人皇后とはなさぬ仲であった。
悲劇は、このような ややこしい人間関係から生まれた。
いわば 妾の子である有間皇子には、もともと皇位を望む気はなかったはずだ。
ところが 孝徳帝崩御ののちも、実権を握る中大兄皇子は天皇とはならずに、母である皇極上皇を再度天皇に据えて斉明天皇とし、自身は皇太子のまま 摂政することになる。
皇位を望む気はなくても、孝徳帝の死以来の 斉明・中大兄皇子の政治に疑問をもつ有間皇子のもとには、良からぬ取り巻きが群がるのが 権力争いの常である。
直木孝次郎(中央公論社刊 日本の歴史 第2巻 古代国家の成立)に拠ると、中大兄皇子が長いあいだ天皇の位につかずに 摂政の位置を続けていた理由に、間人皇后とのあいだの非公認の恋愛関係があった と、みている。
平安朝以降の 型にはまった儀式化された天皇ではなくて、古代天皇家の自由奔放な時代でありながらも、やはり先の天皇のきさきで しかも実妹の間人皇后と正式に結ばれることは、いくら実力者の中大兄皇子でも 憚れたのであろう。
こんな関係を、父孝徳帝に可愛がられた有間皇子が きわめて不愉快に思っていたことは、容易に想像できる。
勘の鋭い中大兄皇子が、有間皇子の不穏な周辺を見過ごすはずはない。
657年(斉明3年)、18歳になった有間皇子は “陽狂”となる。
つまり ハムレットの狂気、きちがいのまねをして、中大兄皇子の疑いから逃げようとする。
実際に狂人とまではいかなくても、有間皇子は 暗鬱な青年になっていたようである。
強度の神経衰弱、つまり ノイローゼにかかっていたらしい。
紀伊の牟婁温湯(むろのゆ)へ 湯治に出かけた記録が残っている。
和歌山県白浜温泉の近くであるが、いまも 白浜温泉には「有間皇子ゆかりの温泉」の客引きを掲げているのを見かける。
翌斉明4年、有間皇子19歳、彼の意志をこえて 有間皇子の存在は、政界に大きく浮かび上がってきた。
元気を取り戻して都(飛鳥岡本宮か)へ戻っていた有間皇子に、中大兄皇子は、蘇我入鹿とその父蝦夷(えみし)を倒し 異母兄の古人大兄(ふるひとのおおえ)皇子を失脚させたクーデター、大化の改新と同じ策略をめぐらす。
入鹿のいとこ蘇我赤兄(あかえ)に 有間皇子を訪ねさせ、謀反をそそのかす。
孤独な皇子は、赤兄の本心を見抜く余裕を 持ち合わせていなかった。
斉明天皇が 中大兄皇子ら(たぶん間人皇后も)を従えて 牟婁温湯へ湯治に出かけた留守を狙って、謀反の密議をお膳立てした赤兄は、有間皇子が密議を終えて帰宅したところを 襲撃して皇子を捕らえ、同時に 旅先の中大兄皇子に謀反の急を報せた。
刑せられんとして紀の温湯へ送られる途上、皇子が 自らを痛んで詠んだ歌が二首、万葉集に残されている。
磐代(いわしろ)の 浜松が枝を 引き結び 真幸くあらば 亦かへりみん
家にあらば 笥(け)に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る
有間皇子は、中大兄皇子の 紀の温湯での尋問に こう答えている。
「天と赤兄と知る。吾は全ら(もはら)解らず」
わたしはなんにもしらない。中大兄皇子よ、あなたがいちばんよく知っているではないか。
その後 有間皇子は、紀ノ川の南、藤白坂というところまで連れ戻されて、ここで絞首された。
19歳の青年であった。
この事件は、さすがに、間人皇后の心を傷ましめたであろう。
中大兄皇子に与して 孝徳帝につれなくした間人皇后の、夫への慙悸的追善が、薬師寺東院堂の聖観音像であるとしても、それに託して 薄命の有間皇子を弔う心が強く働いていたと考えても、的外れではあるまい。
皮肉なことに、歴史とはそういうものだろうが、天智天皇となった中大兄皇子が寵愛したひとり息子の大友皇子は、有間皇子絞首から14年後、中大兄皇子の実の弟である大海人皇子(のちの天武天皇)に滅ぼされるのである。
歴史でいう「壬申の乱」、大友皇子、歳25であった。
ここ数年、毎夏 孫たちと 紀伊白浜温泉へ海水浴に行っている。
紀勢本線に岩代という 小さな駅がある。
南部(みなべ)に着く少し手前にある、海岸沿いの駅である。
海岸と鉄道の間に、松林が伸びているところがある。
ここが、万葉集に残された 有間皇子が詠んだ『磐代』なのだろうか。
先に紹介した 直木孝次郎著の「古代国家の成立」には、つぎのように記されている。
「磐代から紀の温湯までは、20数キロ、半日あまりの行程である。11月8日の夜をここであかしたとみてよかろう。松をむすぶのは身の幸いを祈るためのまじない、または習俗である。中大兄皇子の前にひきだされて運命のきまる日を明日にひかえ、一縷ののぞみを松が枝に託した有間皇子の心情は察するにあまりがある。」
また来年の夏 この松林を通るとき、きっと 薬師寺東院堂の聖観音像を思い浮かべることであろう。
教育者・林竹二は、この像の持つ生真面目なまでの剛直性、若い男のひたむきとも受取れる清爽さ、そして、古代国家の黎明期を彩る 天皇家一族の悲しい史実から、この像は 有間皇子(ありまのおうじ)の姿を写したものではなかろうか、と小説的に推論している。
ちなみに、林竹二は、噂に聞くだけだったが、70年安保の学生紛争時 常に学生側に立ってことに当たってくれた学長として、われわれノンポリ学生にとっては親父的存在だった 西の奥田東・京大総長に対して 東の宮城教育大学学長であった人で、真の教育者だったと言われている。
11月30日、暖かな晩秋の陽射しに釣られて、40数年ぶりに薬師寺を訪ねた。
各層に裳階(もこし)を持つ 一見華奢な三重の塔として 東塔は、遠い記憶にも残っていたが、新たに建設された 金堂、大講堂、西塔、中門、回廊と すべて揃った 古代国家の大伽藍は まことに壮大であり、圧倒されてしまう。
宗教心の弱いわたしには、竜宮城に迷い込んだか と、少々食傷気味の感は否めない。
ただ この大伽藍から少し離れて位置する東院堂は、いにしえの奈良の香りを残す 鎌倉時代再建の建造物で、堂内は 大きさ、高さ、質素さにおいて ほっとする空間である。
この東院堂の本尊が、今回 薬師寺を訪れた目的の 聖観音菩薩像である。
厨子の中に安置された 直立不動のこの美顔長身白鳳仏を仰ぎ見るとき、有間皇子はこのような若者だったのかと、わたしも 林竹二の夢想に引き込まれてしまう。
本像は、大化の改新時の天皇である孝徳帝のきさきであった間人(はしひと)皇后が、孝徳帝追善のために造顕したことになっている。
間人皇后は、大化改新の立役者、中大兄皇子の実妹である。
ともに、舒明天皇を父に、皇極天皇(重祚して斉明天皇)を母にもつ。
なお、孝徳帝と間人皇后は いとこ同士の結婚であり、舒明天皇と皇極天皇は 伯父と姪の結婚である。
近親婚は、古代国家の天皇家では ごく当たり前のことであった。
とはいうものの、さすがに実の兄妹の結婚は タブーであったものと思われる。
ところが、間人皇后は 実兄の中大兄皇子と恋仲にあった。
孝徳帝のきさきとなってからも、間人皇后の中大兄皇子へのおもいは失せなかった。
中大兄皇子が、強引に間人皇后へおもいを寄せていたのかも知れない。
孝徳帝には 間人皇后とのあいだに子供はおらず、大化の左大臣安部倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)のむすめ小足媛(おたらしひめ)とのあいだに 一人息子がいた。
これが 有間皇子であり、間人皇后とはなさぬ仲であった。
悲劇は、このような ややこしい人間関係から生まれた。
いわば 妾の子である有間皇子には、もともと皇位を望む気はなかったはずだ。
ところが 孝徳帝崩御ののちも、実権を握る中大兄皇子は天皇とはならずに、母である皇極上皇を再度天皇に据えて斉明天皇とし、自身は皇太子のまま 摂政することになる。
皇位を望む気はなくても、孝徳帝の死以来の 斉明・中大兄皇子の政治に疑問をもつ有間皇子のもとには、良からぬ取り巻きが群がるのが 権力争いの常である。
直木孝次郎(中央公論社刊 日本の歴史 第2巻 古代国家の成立)に拠ると、中大兄皇子が長いあいだ天皇の位につかずに 摂政の位置を続けていた理由に、間人皇后とのあいだの非公認の恋愛関係があった と、みている。
平安朝以降の 型にはまった儀式化された天皇ではなくて、古代天皇家の自由奔放な時代でありながらも、やはり先の天皇のきさきで しかも実妹の間人皇后と正式に結ばれることは、いくら実力者の中大兄皇子でも 憚れたのであろう。
こんな関係を、父孝徳帝に可愛がられた有間皇子が きわめて不愉快に思っていたことは、容易に想像できる。
勘の鋭い中大兄皇子が、有間皇子の不穏な周辺を見過ごすはずはない。
657年(斉明3年)、18歳になった有間皇子は “陽狂”となる。
つまり ハムレットの狂気、きちがいのまねをして、中大兄皇子の疑いから逃げようとする。
実際に狂人とまではいかなくても、有間皇子は 暗鬱な青年になっていたようである。
強度の神経衰弱、つまり ノイローゼにかかっていたらしい。
紀伊の牟婁温湯(むろのゆ)へ 湯治に出かけた記録が残っている。
和歌山県白浜温泉の近くであるが、いまも 白浜温泉には「有間皇子ゆかりの温泉」の客引きを掲げているのを見かける。
翌斉明4年、有間皇子19歳、彼の意志をこえて 有間皇子の存在は、政界に大きく浮かび上がってきた。
元気を取り戻して都(飛鳥岡本宮か)へ戻っていた有間皇子に、中大兄皇子は、蘇我入鹿とその父蝦夷(えみし)を倒し 異母兄の古人大兄(ふるひとのおおえ)皇子を失脚させたクーデター、大化の改新と同じ策略をめぐらす。
入鹿のいとこ蘇我赤兄(あかえ)に 有間皇子を訪ねさせ、謀反をそそのかす。
孤独な皇子は、赤兄の本心を見抜く余裕を 持ち合わせていなかった。
斉明天皇が 中大兄皇子ら(たぶん間人皇后も)を従えて 牟婁温湯へ湯治に出かけた留守を狙って、謀反の密議をお膳立てした赤兄は、有間皇子が密議を終えて帰宅したところを 襲撃して皇子を捕らえ、同時に 旅先の中大兄皇子に謀反の急を報せた。
刑せられんとして紀の温湯へ送られる途上、皇子が 自らを痛んで詠んだ歌が二首、万葉集に残されている。
磐代(いわしろ)の 浜松が枝を 引き結び 真幸くあらば 亦かへりみん
家にあらば 笥(け)に盛る飯を 草枕 旅にしあれば 椎の葉に盛る
有間皇子は、中大兄皇子の 紀の温湯での尋問に こう答えている。
「天と赤兄と知る。吾は全ら(もはら)解らず」
わたしはなんにもしらない。中大兄皇子よ、あなたがいちばんよく知っているではないか。
その後 有間皇子は、紀ノ川の南、藤白坂というところまで連れ戻されて、ここで絞首された。
19歳の青年であった。
この事件は、さすがに、間人皇后の心を傷ましめたであろう。
中大兄皇子に与して 孝徳帝につれなくした間人皇后の、夫への慙悸的追善が、薬師寺東院堂の聖観音像であるとしても、それに託して 薄命の有間皇子を弔う心が強く働いていたと考えても、的外れではあるまい。
皮肉なことに、歴史とはそういうものだろうが、天智天皇となった中大兄皇子が寵愛したひとり息子の大友皇子は、有間皇子絞首から14年後、中大兄皇子の実の弟である大海人皇子(のちの天武天皇)に滅ぼされるのである。
歴史でいう「壬申の乱」、大友皇子、歳25であった。
ここ数年、毎夏 孫たちと 紀伊白浜温泉へ海水浴に行っている。
紀勢本線に岩代という 小さな駅がある。
南部(みなべ)に着く少し手前にある、海岸沿いの駅である。
海岸と鉄道の間に、松林が伸びているところがある。
ここが、万葉集に残された 有間皇子が詠んだ『磐代』なのだろうか。
先に紹介した 直木孝次郎著の「古代国家の成立」には、つぎのように記されている。
「磐代から紀の温湯までは、20数キロ、半日あまりの行程である。11月8日の夜をここであかしたとみてよかろう。松をむすぶのは身の幸いを祈るためのまじない、または習俗である。中大兄皇子の前にひきだされて運命のきまる日を明日にひかえ、一縷ののぞみを松が枝に託した有間皇子の心情は察するにあまりがある。」
また来年の夏 この松林を通るとき、きっと 薬師寺東院堂の聖観音像を思い浮かべることであろう。
またまた「絶対にみて!」とお薦めしたくなる映画を観てしまいました。
ヤング@ハート。
ストーリーがあるわけでは ありません。
有名な俳優さんが出ているわけでも ありません。
スクリーンに映し出されるのは、鼻からチューブを通したデブデブのじいさんであり、あの世行き寸前のシワくちゃのばあさんであり、ほとんど目の見えないよぼよぼ頑固じじいであり・・・平均して年齢80歳のジジババばかり。
それがです。
そんな彼らが、「心の底から、楽しんで、歌う」ことを通して、刑務所の檻の中の 恐そうなアンちゃんたちを歓喜に唸らせ、コンサートに集まった満員の観客を総立ちで拍手喝采させ、そして、スクリーンをみているわたしを、震えるほどに感動させるのです。
よっしゃ、ワイもガンバルでぇ。
そんな 元気の出る映画です。
七色の虹に腰掛けて、あなたたちを見守ってあげるね。
遺書には、ただひとこと、こう書いて死んでやる。
そんな アクティブパワーをもらえる映画です。
ヤング@ハート。
是非ぜひ、ご覧になってください。
ヤング@ハート。
ストーリーがあるわけでは ありません。
有名な俳優さんが出ているわけでも ありません。
スクリーンに映し出されるのは、鼻からチューブを通したデブデブのじいさんであり、あの世行き寸前のシワくちゃのばあさんであり、ほとんど目の見えないよぼよぼ頑固じじいであり・・・平均して年齢80歳のジジババばかり。
それがです。
そんな彼らが、「心の底から、楽しんで、歌う」ことを通して、刑務所の檻の中の 恐そうなアンちゃんたちを歓喜に唸らせ、コンサートに集まった満員の観客を総立ちで拍手喝采させ、そして、スクリーンをみているわたしを、震えるほどに感動させるのです。
よっしゃ、ワイもガンバルでぇ。
そんな 元気の出る映画です。
七色の虹に腰掛けて、あなたたちを見守ってあげるね。
遺書には、ただひとこと、こう書いて死んでやる。
そんな アクティブパワーをもらえる映画です。
ヤング@ハート。
是非ぜひ、ご覧になってください。
井上靖の小説に、「天平の甍」という作品があります。
天平の昔、聖武天皇の命を受けて 唐より高僧の来朝を実現すべく、僧・栄叡、普照ら若い僧たちが 在唐二十年の末に 鑑真和上を招聘するまでの、木の葉のように翻弄される彼らの運命を描いた作品です。
その鑑真和上が開いた寺、唐招提寺を、最晩秋の小春日に訪ねました。
唐招提寺は、過去2回尋ねています。
1回目は、昭和35年10月27日(朱印帳に残っているので明確なのです)。
その朱印帳には、金堂の鴟尾の形の朱印の上に 盲目の鑑真和上像を称えた芭蕉の句が、流れるような細筆で記されています。
「若葉して 御目の雫 ぬぐはばや」
2回目は、42年前 サークル活動で。
そのとき わたしは、奈良・西ノ京の当番でした。
薬師寺とともに この唐招提寺に関する資料を 短期間でかき集めて、にわかガイド役を務めました。
そのとき拝したはずの 鑑真和上像も 本尊・盧舎那仏像も、すっかり記憶から失せています。
ただ、金堂(この名前すら定かでなかったのですが)の屋根の稜線の美しさだけは、記憶の底にありました。
平成7年に、仕事で 中国江蘇省姜堰市というところを訪ねたことがあります。
北京から南京へ飛び、南京から車で東行して、鎭江というところで 黄土色の大河、長江(揚子江)をフェリーで渡りました。
張宝健という 30歳を少し出たくらいの、北京対外科技交流中心の青年技師が、同行してくれました。
張さんは 最初、日本語の達者な通訳の喬くんを通じて わたしと話していましたが、わたしが かたことの英語が話せると気づいてからは、分かりよい きれいな英語で話しかけてきました。
半分も理解できていなかったと思いますが、張さんは 日本の歴史や文学にたいへん興味があり かなりの知識を持っていることが伺えました。
長江の対岸へ近づいたころ フェリーの甲板で、彼が「ここは、日本へ何回も行こうとして失敗した鑑真が、最後に日本へ渡った乗船場です」と話すのを、長江を流れる風音に邪魔されながら なんとか聴き取ることができました。
長江を渡って揚州市にさしかかったころ、張さんはこんなことを言いました。
「ここに大明寺というお寺があります。鑑真はこのお寺にいたんです。行ってみませんか」
あのとき、姜堰市での夕食会の予定がなかったら、大明寺を訪ねることができたのに と、悔やまれてなりません。
揚州市を過ぎて 昭和30年ころの日本を思わせる風景を車窓から眺めながら、張さんは「チャンスがあれば、日本の唐招提寺というお寺を訪ねてみたいです」と言いました。
彼が、遠い昔 日本を精神的に導いた鑑真和上を、誇りを持って 心から尊敬していることを、ひしひしと感じました。
「日本へ来られたら、わたしが唐招提寺を案内します。」
あの 勢い込んだわたしの約束は、まだ 果たせていません。
唐招提寺の金堂が110年ぶりの大解体修理され その外観が見られるようになった という報道が、今回の訪問のきっかけでした。
本尊の盧舎那仏像は まだ観ることはできないと思っていましたが、鑑真和上像が 御忌日6月6日の前後1週間しか拝することができないとは 無知でした。
ほぼ全容を現した金堂を中心に 静寂なたたずまいを見せる境内は、律宗の厳しい修行道場にふさわしい威厳と 神々しいまでの風格を備えています。
鑑真和上像を拝顔できなかったことは 残念ですが、この伽藍の中に佇めただけでも、今回の訪問の甲斐がありました。
ことに、礼堂東室から舎利殿越しに見る金堂の屋根の 大らかなこと。
「天平の甍」という言葉が、こんなにふさわしく こんなに似合う屋根は、他にありますまい。
張さんに 見せてあげたい、無性に彼に会いたくなりました。
小春日の 碧空を射る 古刹鴟尾 (佐々連)
天平の昔、聖武天皇の命を受けて 唐より高僧の来朝を実現すべく、僧・栄叡、普照ら若い僧たちが 在唐二十年の末に 鑑真和上を招聘するまでの、木の葉のように翻弄される彼らの運命を描いた作品です。
その鑑真和上が開いた寺、唐招提寺を、最晩秋の小春日に訪ねました。
唐招提寺は、過去2回尋ねています。
1回目は、昭和35年10月27日(朱印帳に残っているので明確なのです)。
その朱印帳には、金堂の鴟尾の形の朱印の上に 盲目の鑑真和上像を称えた芭蕉の句が、流れるような細筆で記されています。
「若葉して 御目の雫 ぬぐはばや」
2回目は、42年前 サークル活動で。
そのとき わたしは、奈良・西ノ京の当番でした。
薬師寺とともに この唐招提寺に関する資料を 短期間でかき集めて、にわかガイド役を務めました。
そのとき拝したはずの 鑑真和上像も 本尊・盧舎那仏像も、すっかり記憶から失せています。
ただ、金堂(この名前すら定かでなかったのですが)の屋根の稜線の美しさだけは、記憶の底にありました。
平成7年に、仕事で 中国江蘇省姜堰市というところを訪ねたことがあります。
北京から南京へ飛び、南京から車で東行して、鎭江というところで 黄土色の大河、長江(揚子江)をフェリーで渡りました。
張宝健という 30歳を少し出たくらいの、北京対外科技交流中心の青年技師が、同行してくれました。
張さんは 最初、日本語の達者な通訳の喬くんを通じて わたしと話していましたが、わたしが かたことの英語が話せると気づいてからは、分かりよい きれいな英語で話しかけてきました。
半分も理解できていなかったと思いますが、張さんは 日本の歴史や文学にたいへん興味があり かなりの知識を持っていることが伺えました。
長江の対岸へ近づいたころ フェリーの甲板で、彼が「ここは、日本へ何回も行こうとして失敗した鑑真が、最後に日本へ渡った乗船場です」と話すのを、長江を流れる風音に邪魔されながら なんとか聴き取ることができました。
長江を渡って揚州市にさしかかったころ、張さんはこんなことを言いました。
「ここに大明寺というお寺があります。鑑真はこのお寺にいたんです。行ってみませんか」
あのとき、姜堰市での夕食会の予定がなかったら、大明寺を訪ねることができたのに と、悔やまれてなりません。
揚州市を過ぎて 昭和30年ころの日本を思わせる風景を車窓から眺めながら、張さんは「チャンスがあれば、日本の唐招提寺というお寺を訪ねてみたいです」と言いました。
彼が、遠い昔 日本を精神的に導いた鑑真和上を、誇りを持って 心から尊敬していることを、ひしひしと感じました。
「日本へ来られたら、わたしが唐招提寺を案内します。」
あの 勢い込んだわたしの約束は、まだ 果たせていません。
唐招提寺の金堂が110年ぶりの大解体修理され その外観が見られるようになった という報道が、今回の訪問のきっかけでした。
本尊の盧舎那仏像は まだ観ることはできないと思っていましたが、鑑真和上像が 御忌日6月6日の前後1週間しか拝することができないとは 無知でした。
ほぼ全容を現した金堂を中心に 静寂なたたずまいを見せる境内は、律宗の厳しい修行道場にふさわしい威厳と 神々しいまでの風格を備えています。
鑑真和上像を拝顔できなかったことは 残念ですが、この伽藍の中に佇めただけでも、今回の訪問の甲斐がありました。
ことに、礼堂東室から舎利殿越しに見る金堂の屋根の 大らかなこと。
「天平の甍」という言葉が、こんなにふさわしく こんなに似合う屋根は、他にありますまい。
張さんに 見せてあげたい、無性に彼に会いたくなりました。
小春日の 碧空を射る 古刹鴟尾 (佐々連)
両方の両親を見送り 子供たちを巣立たせ 孫たちにも恵まれた夫婦を、ホームラン人生というのだと、知人が教えてくれた。
四人集まって、ホームラン人生を送っているのは そのうちの一人いるかいないかだ、とも言っていた。
わたしたち夫婦は、幸せ稀なホームラン人生を送っていることになる。
感謝の気持ちが 足りなさ過ぎるようだ。
ホームランという言葉には、ラッキーという意味が こめられている。
同時に、「あがり」の意味合いもあるのでは、と わたしは思う。
一塁の塁上で、脚力を誇って 虎視眈々と二塁を盗むチャンスをうかがっていた 20歳代。
ニ塁の塁上で、ワンヒットでホームまで滑り込めるよう 周囲の状況に全神経を張り巡らせていた 30歳代 40歳代のころ。
三塁の塁上で、ゴールのホームを目前にして 僥倖の外野フライを恃み 一か八かのスクイズに望みを託していた 50歳代。
この一周の間には、子育てを 親の介護を と、人間として当たり前の営みを 同時進行させてきた。
気づいたら、「あがり」のホームを踏んでいた。
それが 実感である。
仏教は、四苦を教えている。
生・老・病・死。
無事ホームを踏めたと思っても、それは「生」の出口にさしかかったに過ぎない。
大きく口を開いて、老・病・死が待ち構えている。
老いはそんなに怖いものじゃない、とても自然なことなのよ。
そう、映画「マルタのやさしい刺繍」のシュテファニー・グラーザーは 話しかけてくれる。
十分やってこられたんだから いまある幸せを心おきなく楽しまれたらいいじゃないですか と、法然院の梶田真章貫主は おっしゃってくださる。
千葉県鋸南町を NHK「家族に乾杯」で訪れた笑福亭鶴瓶は、本番中に髭を剃ってもらいながら(演技かも知れないが)鼾をかいて眠っていた。
眠っているときと 糞をこいているときが 人間いちばん隙があるときだが、それを(一見)平気でやってのける笑福亭鶴瓶に、人生の達人をみた思いがする。
ホームラン人生をほんとうに楽しむためには 但し書きがつく、と自覚した。
逆とんぶっても笑福亭鶴瓶のようにはなれないが、「あがり」など わしゃ知らんといわんばかりの開き直りと、飽くなき好奇心に満ちた貪欲な「いま」を生きる力を、携えているもののみに、ホームラン人生は与えられる。
決して 僥倖のようなものではないのである。
四人集まって、ホームラン人生を送っているのは そのうちの一人いるかいないかだ、とも言っていた。
わたしたち夫婦は、幸せ稀なホームラン人生を送っていることになる。
感謝の気持ちが 足りなさ過ぎるようだ。
ホームランという言葉には、ラッキーという意味が こめられている。
同時に、「あがり」の意味合いもあるのでは、と わたしは思う。
一塁の塁上で、脚力を誇って 虎視眈々と二塁を盗むチャンスをうかがっていた 20歳代。
ニ塁の塁上で、ワンヒットでホームまで滑り込めるよう 周囲の状況に全神経を張り巡らせていた 30歳代 40歳代のころ。
三塁の塁上で、ゴールのホームを目前にして 僥倖の外野フライを恃み 一か八かのスクイズに望みを託していた 50歳代。
この一周の間には、子育てを 親の介護を と、人間として当たり前の営みを 同時進行させてきた。
気づいたら、「あがり」のホームを踏んでいた。
それが 実感である。
仏教は、四苦を教えている。
生・老・病・死。
無事ホームを踏めたと思っても、それは「生」の出口にさしかかったに過ぎない。
大きく口を開いて、老・病・死が待ち構えている。
老いはそんなに怖いものじゃない、とても自然なことなのよ。
そう、映画「マルタのやさしい刺繍」のシュテファニー・グラーザーは 話しかけてくれる。
十分やってこられたんだから いまある幸せを心おきなく楽しまれたらいいじゃないですか と、法然院の梶田真章貫主は おっしゃってくださる。
千葉県鋸南町を NHK「家族に乾杯」で訪れた笑福亭鶴瓶は、本番中に髭を剃ってもらいながら(演技かも知れないが)鼾をかいて眠っていた。
眠っているときと 糞をこいているときが 人間いちばん隙があるときだが、それを(一見)平気でやってのける笑福亭鶴瓶に、人生の達人をみた思いがする。
ホームラン人生をほんとうに楽しむためには 但し書きがつく、と自覚した。
逆とんぶっても笑福亭鶴瓶のようにはなれないが、「あがり」など わしゃ知らんといわんばかりの開き直りと、飽くなき好奇心に満ちた貪欲な「いま」を生きる力を、携えているもののみに、ホームラン人生は与えられる。
決して 僥倖のようなものではないのである。
倉本聰のテレビドラマ「風のガーデン」、ご覧になってますか。
12月4日放映の、勘当された息子・中井貴一とその父・緒形拳が久しぶりに再会する場面、ジーンときました。
悔恨と許しとの揉みくちゃの末に生ずる、陽だまりのような穏やかな安らぎ。
中井貴一の演技も さすがですが、これが出演遺作品となった緒形拳の 一挙一動の味のあること、見ごたえありました。
風のガーデンは、またひとつ わたしの「倉本聰お気に入り作品」に入りそうです。
倉本聰といえば、「北の国から」。
わたしの長男と長女のどちらもが<純>と<蛍>と同い年 という“因縁”もあって、欠かさず みていました。
どの登場人物も魅力的で、彼らが語る台詞が みんな胸にこたえて、北海道の美しさが まなこに焼きついて、さだまさしの歌う主題歌が耳から離れなくて・・・
なかでも「'87初恋」は、尾崎豊の「I LOVE YOU」のメロディーとともに 脳裏から離れません。
エンドマークの直前のシーンだったと 記憶します。
純が父・五郎の元を離れて上京するとき、五郎と蛍が 長距離トラックに乗せてもらう純を見送ります。
運転手に なんどもなんども頭を下げる五郎。
ウォークマンで自分の思いに浸っている純に、運転手はこう言う。
「金だ。いらんっていうのに おやじが置いてった。しまっとけ」
「いいから、お前の記念にとっとけ」
「抜いてみな。ピン札に泥がついている。お前のおやじの手についた泥だろう」
「オラは受取れん。お前の宝にしろ。貴重なピン札だ。一生とっとけ」
この運転手の台詞は、あの場面とともに 忘れられません。
そして この運転手は、わたしの大好きだった役者、自ら命を絶った 古尾谷雅人でした。
倉本作品に、「ライスカレー」という テレビドラマがありました。
「'87初恋」のちょっと前に放映された、英語の全くしゃべれない日本人(ケン)の カナダでの体験を描いたものでした。
わたしのなかで、カレーライスとライスカレーの違いを はっきり区別する基準ともなった作品です。
時任三郎、中井貴一、陣内孝則、藤谷美和子、布施博、風吹ジュン、室田日出男、三木のり平・・・
故人となった役者もいれば、主役たちも みんな若かった。
このドラマには、英語がふんだんに使われていました。
当時 英会話の習得に熱を入れていた時期でしたので、それを知っていた娘が、父の日のプレゼントに そのシナリオ本を買ってくれました。
黄や緑やピンクの蛍光ペンで いっぱい傍線が引いてあります。
丸太小屋でのシーン。
黙々とかがみ込み、ひとり丸太の小さな修正を憑かれたようにやっているB・J(中井貴一)。
コニーの声「Who is that guy?」(あの人だれ?)
間
マックの声「He's from Japan」(日本人さ)
間
コニーの声「A log builder?」(ロッグ・ビルダー?)
マックの声「---No,---he's more of an artist」(っていうより芸術家だな)
コニーの声「---」
マックの声「A very lonely artist」(とっても孤独なね)
カメラは窓の外へ、物陰に立っているマックとコニー。
コニー「What makes you say that?」(どうして孤独なの?)
間
マック「Cuz he has very little to share with others」( 人のことを考えられないからさ)
コニー「---」
マック「Yoe see, what's possible for him is not always possible for others」(自分にできることはすべて他人ができなくちゃならないって信じこんでいる)
コニー「---」
マック「And he's not used to compromising」(そういうやつさ)
カメラは 再びB・Jの孤独な作業を捕らえる。
マックの声「He just won't forgive those that fall below his standards. Thsat's what makes everything so sad」(人ができないと許せないんだ。不幸なやつさ)
コニーの声「---」
あのころ、B・Jと自分とが ダブっていたのです。
B・Jの小屋で B・Jが、カナダでは新米のケン(時任三郎)と、カレーを食いながら話します。
B・J「(食いつつ)俺もおやじが大きらいだった」
ケン「---」
B・J「あんなふうにだけはなりたくなかった」
ケン「---」
B・J「ところがね」
ケン「---」
B・J「ある日、ドキンとしたンだな」
ケン「---」
B・J「自分の中にひどくおやじに似ているところがあることに気づいてさ」
ケン「---」
B・J「どこの学校でも友だちができずに、---気がつくといつも一人だったよ」
ケン「---」
間
B・J「カレッジのときはシアトルだったンだ」
ケン「---」
B・J「そこであるときアメリカ人のクラス・メートに、ズバッといわれたよ」
ケン「---」
B・J「ユーは正しく日本人だな。ユーを見ているとジャパニーズがよくわかる」
ケン「---」
B・J「どうしてお前はそんなふうに、自分の基準で他人を見るンだ」
ケン「---」
B・J「自分がすぐれた能力をもっているから、自分が凄く努力家だからって、それを他人に押し付けられちゃかなわない」
ケン「---」
B・J「人は様々だぜ、いろんなやつがいるンだ」
ケン「---」
B・J「働きたくないやつ、のんびりしたいやつ、やりたくてもできないやつ、楽に生きたいやつ、それぞれがそれぞれの生き方をしてるンだ」
ケン「---」
B・J「すべてにお前を押し付けるなシュン」
ケン「---」
B・J「ショックだったな」
ケン「---」
B・J「だって俺は自分じゃそんなこと、夢にも思ってなかったンだから」
ケン「---」
ショーケンの唄。(「酒と泪と男と女」に変わっている)
B・J「そいついったよ。You make everything so sad, SHUN」
ケン「---」
B・J「お前はまわりを悲しくしちまう」
ケン「---」
B・J「その頃はまだ俺、シュンって呼ばれてたンだ」
ケン「---」
間
ケン「どうして今はB・Jっていうンだ」
B・J「---」
けん「B・Jっていったいどういう意味なンだ」
B・J「BはバンフのB。Jはジャスパの頭文字のJさ」
ケン「---」
B・J「バンフとジャスパの間の道で、ラリーに偶然拾われたンだ」
ケン「---」
B・J「カナダを一人で放浪していて、どこに行く当ても別になくって、ボール紙にバンフ_ジャスパって、書いて---通る車にさし出してたンだ」
ケン「---」
B・J「そうしたらトラックが前に止まって、男が顔出していったよ。ヘローB・J。どっちに行きたいンだ。お前の本当に行きたいのはどっちだ。BなのかJなのか、はっきりしろって」
音楽---静かに忍び込む。B・G。
B・J「I don't know って俺はいったンだ。自分でも本当に I don't know なんだ。どこでもいいンだ。どっかに行きたいンだ」
ケン「---」
B・J「結局そいつの家に行ったよ」
ケン「---」
B・J「それがラリーだった。たまたまそうだった。それで丸太小屋の勉強を始めた」
ケン「---」
B・J「もともと丸太小屋のために来たわけじゃないンだ」
ケン「---」
B・J「何でもよかったンだ。一人になれるなら」
ケン「---」
B・J「人といるのが恐くなっちまったンだ」
間
ケン「これからもずっと丸太小屋をやるのか」
間
B・J「どうかな」
ケン「---」
B・J「たぶん---」
ケン「---」
B・J「わからないけどな」
ケン「---」
B・J「ただ---」
ケン「---」
B・J「一人でいりゃあ倖せなのか。人を傷つけなくてすむからいいのか。そうやってずっとやっていけるのか」
ケン「---」
間
B・J「君を見ていて羨ましかったよ」
ケン「俺を?」
B・J「---ああ」
ケン「どうして」
B・J「人に好かれるからさ」
ケン「---」
B・J「人に愛されるし、人を愛するし、---つまり---、そういう単純なことが、もしかしたら一生生きていく上で---」
ケン「---」
B・J「(フッと笑う)しゃべりすぎだな」
ケン「---」
わたしも、ちょっと しゃべりすぎました。
13年前の ある新聞のひとこと欄に、倉本聰は 次のように書いています。
よくカナダの太古の森に行くんですが、「倒木更新」と言いまして、古い木が倒れた上に新しい木が芽生えて、何百年、何千年の森を作っている。我々のやっていることは 未来へつなげるための「倒木更新」ではないかなと思っております。いま植えた木が、大木になる姿を、僕らが見たいと思ってはいけないのではないか、死んでずっと先のことではないかと思います。
倒木更新。
こうつぶやくと、ちょうど「風のガーデン」での緒形拳の、悔恨と許しとの揉みくちゃの末に生ずる、陽だまりのような穏やかな安らぎを感じます。
宗教者が「南無阿弥陀仏」と唱えるように、そう唱えたとき ふわーっと降り注ぐ陽射しのように、「倒木更新」という響きは、わたしにとって 念仏のようでもあります。
これでいいんだ、もう十分ですよ と、囁いてくれるようなのです。
倒木更新。
倉本聰から教わった、わたしの宝の言葉です。
12月4日放映の、勘当された息子・中井貴一とその父・緒形拳が久しぶりに再会する場面、ジーンときました。
悔恨と許しとの揉みくちゃの末に生ずる、陽だまりのような穏やかな安らぎ。
中井貴一の演技も さすがですが、これが出演遺作品となった緒形拳の 一挙一動の味のあること、見ごたえありました。
風のガーデンは、またひとつ わたしの「倉本聰お気に入り作品」に入りそうです。
倉本聰といえば、「北の国から」。
わたしの長男と長女のどちらもが<純>と<蛍>と同い年 という“因縁”もあって、欠かさず みていました。
どの登場人物も魅力的で、彼らが語る台詞が みんな胸にこたえて、北海道の美しさが まなこに焼きついて、さだまさしの歌う主題歌が耳から離れなくて・・・
なかでも「'87初恋」は、尾崎豊の「I LOVE YOU」のメロディーとともに 脳裏から離れません。
エンドマークの直前のシーンだったと 記憶します。
純が父・五郎の元を離れて上京するとき、五郎と蛍が 長距離トラックに乗せてもらう純を見送ります。
運転手に なんどもなんども頭を下げる五郎。
ウォークマンで自分の思いに浸っている純に、運転手はこう言う。
「金だ。いらんっていうのに おやじが置いてった。しまっとけ」
「いいから、お前の記念にとっとけ」
「抜いてみな。ピン札に泥がついている。お前のおやじの手についた泥だろう」
「オラは受取れん。お前の宝にしろ。貴重なピン札だ。一生とっとけ」
この運転手の台詞は、あの場面とともに 忘れられません。
そして この運転手は、わたしの大好きだった役者、自ら命を絶った 古尾谷雅人でした。
倉本作品に、「ライスカレー」という テレビドラマがありました。
「'87初恋」のちょっと前に放映された、英語の全くしゃべれない日本人(ケン)の カナダでの体験を描いたものでした。
わたしのなかで、カレーライスとライスカレーの違いを はっきり区別する基準ともなった作品です。
時任三郎、中井貴一、陣内孝則、藤谷美和子、布施博、風吹ジュン、室田日出男、三木のり平・・・
故人となった役者もいれば、主役たちも みんな若かった。
このドラマには、英語がふんだんに使われていました。
当時 英会話の習得に熱を入れていた時期でしたので、それを知っていた娘が、父の日のプレゼントに そのシナリオ本を買ってくれました。
黄や緑やピンクの蛍光ペンで いっぱい傍線が引いてあります。
丸太小屋でのシーン。
黙々とかがみ込み、ひとり丸太の小さな修正を憑かれたようにやっているB・J(中井貴一)。
コニーの声「Who is that guy?」(あの人だれ?)
間
マックの声「He's from Japan」(日本人さ)
間
コニーの声「A log builder?」(ロッグ・ビルダー?)
マックの声「---No,---he's more of an artist」(っていうより芸術家だな)
コニーの声「---」
マックの声「A very lonely artist」(とっても孤独なね)
カメラは窓の外へ、物陰に立っているマックとコニー。
コニー「What makes you say that?」(どうして孤独なの?)
間
マック「Cuz he has very little to share with others」( 人のことを考えられないからさ)
コニー「---」
マック「Yoe see, what's possible for him is not always possible for others」(自分にできることはすべて他人ができなくちゃならないって信じこんでいる)
コニー「---」
マック「And he's not used to compromising」(そういうやつさ)
カメラは 再びB・Jの孤独な作業を捕らえる。
マックの声「He just won't forgive those that fall below his standards. Thsat's what makes everything so sad」(人ができないと許せないんだ。不幸なやつさ)
コニーの声「---」
あのころ、B・Jと自分とが ダブっていたのです。
B・Jの小屋で B・Jが、カナダでは新米のケン(時任三郎)と、カレーを食いながら話します。
B・J「(食いつつ)俺もおやじが大きらいだった」
ケン「---」
B・J「あんなふうにだけはなりたくなかった」
ケン「---」
B・J「ところがね」
ケン「---」
B・J「ある日、ドキンとしたンだな」
ケン「---」
B・J「自分の中にひどくおやじに似ているところがあることに気づいてさ」
ケン「---」
B・J「どこの学校でも友だちができずに、---気がつくといつも一人だったよ」
ケン「---」
間
B・J「カレッジのときはシアトルだったンだ」
ケン「---」
B・J「そこであるときアメリカ人のクラス・メートに、ズバッといわれたよ」
ケン「---」
B・J「ユーは正しく日本人だな。ユーを見ているとジャパニーズがよくわかる」
ケン「---」
B・J「どうしてお前はそんなふうに、自分の基準で他人を見るンだ」
ケン「---」
B・J「自分がすぐれた能力をもっているから、自分が凄く努力家だからって、それを他人に押し付けられちゃかなわない」
ケン「---」
B・J「人は様々だぜ、いろんなやつがいるンだ」
ケン「---」
B・J「働きたくないやつ、のんびりしたいやつ、やりたくてもできないやつ、楽に生きたいやつ、それぞれがそれぞれの生き方をしてるンだ」
ケン「---」
B・J「すべてにお前を押し付けるなシュン」
ケン「---」
B・J「ショックだったな」
ケン「---」
B・J「だって俺は自分じゃそんなこと、夢にも思ってなかったンだから」
ケン「---」
ショーケンの唄。(「酒と泪と男と女」に変わっている)
B・J「そいついったよ。You make everything so sad, SHUN」
ケン「---」
B・J「お前はまわりを悲しくしちまう」
ケン「---」
B・J「その頃はまだ俺、シュンって呼ばれてたンだ」
ケン「---」
間
ケン「どうして今はB・Jっていうンだ」
B・J「---」
けん「B・Jっていったいどういう意味なンだ」
B・J「BはバンフのB。Jはジャスパの頭文字のJさ」
ケン「---」
B・J「バンフとジャスパの間の道で、ラリーに偶然拾われたンだ」
ケン「---」
B・J「カナダを一人で放浪していて、どこに行く当ても別になくって、ボール紙にバンフ_ジャスパって、書いて---通る車にさし出してたンだ」
ケン「---」
B・J「そうしたらトラックが前に止まって、男が顔出していったよ。ヘローB・J。どっちに行きたいンだ。お前の本当に行きたいのはどっちだ。BなのかJなのか、はっきりしろって」
音楽---静かに忍び込む。B・G。
B・J「I don't know って俺はいったンだ。自分でも本当に I don't know なんだ。どこでもいいンだ。どっかに行きたいンだ」
ケン「---」
B・J「結局そいつの家に行ったよ」
ケン「---」
B・J「それがラリーだった。たまたまそうだった。それで丸太小屋の勉強を始めた」
ケン「---」
B・J「もともと丸太小屋のために来たわけじゃないンだ」
ケン「---」
B・J「何でもよかったンだ。一人になれるなら」
ケン「---」
B・J「人といるのが恐くなっちまったンだ」
間
ケン「これからもずっと丸太小屋をやるのか」
間
B・J「どうかな」
ケン「---」
B・J「たぶん---」
ケン「---」
B・J「わからないけどな」
ケン「---」
B・J「ただ---」
ケン「---」
B・J「一人でいりゃあ倖せなのか。人を傷つけなくてすむからいいのか。そうやってずっとやっていけるのか」
ケン「---」
間
B・J「君を見ていて羨ましかったよ」
ケン「俺を?」
B・J「---ああ」
ケン「どうして」
B・J「人に好かれるからさ」
ケン「---」
B・J「人に愛されるし、人を愛するし、---つまり---、そういう単純なことが、もしかしたら一生生きていく上で---」
ケン「---」
B・J「(フッと笑う)しゃべりすぎだな」
ケン「---」
わたしも、ちょっと しゃべりすぎました。
13年前の ある新聞のひとこと欄に、倉本聰は 次のように書いています。
よくカナダの太古の森に行くんですが、「倒木更新」と言いまして、古い木が倒れた上に新しい木が芽生えて、何百年、何千年の森を作っている。我々のやっていることは 未来へつなげるための「倒木更新」ではないかなと思っております。いま植えた木が、大木になる姿を、僕らが見たいと思ってはいけないのではないか、死んでずっと先のことではないかと思います。
倒木更新。
こうつぶやくと、ちょうど「風のガーデン」での緒形拳の、悔恨と許しとの揉みくちゃの末に生ずる、陽だまりのような穏やかな安らぎを感じます。
宗教者が「南無阿弥陀仏」と唱えるように、そう唱えたとき ふわーっと降り注ぐ陽射しのように、「倒木更新」という響きは、わたしにとって 念仏のようでもあります。
これでいいんだ、もう十分ですよ と、囁いてくれるようなのです。
倒木更新。
倉本聰から教わった、わたしの宝の言葉です。
11月11日に放映された「筑紫哲也さん追悼」番組で、鳥越俊太郎氏がこう言っていた。
『 筑紫さんは、日本人の心、日本人の考え方の しっかりした一つの座標軸を示し続けてくれた。』
わたしは、司馬遼太郎を 『 歴史という縦の座標軸 』 と 常々頼りに思ってきた。
それと同時に、『 現代という横の座標軸 』 として 筑紫哲也は、わたしにとっても 大丈夫な とても安心な存在であった。
納得のいく存在だった。
筑紫さんに代わる指標は、まだ見つかっていない。
ただ、筑紫さんのように 語りかけてはくれないけど、この国には この国の指標として 泰山の如く存在するものがある。
あの終戦を境に 無節操に豹変する“大人たちの心変わり”を目の当たりにして、何を信じて生きてゆけばいいのか 10歳そこそこの多感な少年だった筑紫哲也をして「しびれた」と言わしめた、日本国憲法である。
いま、一般の日本国民と公務員のあいだは、繕うことのできないくらい 大きく隔たってしまった。
とても悲しいことだ。
なにか いい手立てはないのだろうか。
わたしは強く思うのだが、われわれ一般国民は、この国の根幹である日本国憲法を いま一度 じっくり読み直すべきではないか。
そして 公務員は、憲法第99条をしっかり護るべきではないか。
一般国民が愛し尊敬できる公務員になって欲しい。
この国をたて直すには、それしかない。
憲法第99条には、こう記されている。
「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う。」
決して上手とは言えないが、真面目で、無駄がなく、見ているとなんともいえない魅力を感じる人がいる。
物にも、同じような親しみを感じるものがある。
日本国憲法を読んでいると、そんな気分に わたしはなる。
筑紫さんのように しびれるとまではいかないが、とても素直で 分かり易くて まっとうな文章で、ちょうど 筑紫さんの「多事争論」を聞いているような 安心な気分になるのだ。
誇りに思う。
キザっぽい言い方になるが、あの戦争で亡くなった幾万の先輩たちの魂がこもっている。
そうに違いない。
この国の指標として、こんなにも誇らしい碑を 先人たちが残してくれたのだ。
ジュリーこと 沢田研二が、先月の29日 京セラドームでコンサートを開いた。
ジュリーも わたし同様、戦争を知らない世代だ。
その彼が、6時間ぶっ続けのライブの中で、自作詩の憲法第9条賛歌「我が窮状」を歌った。
その歌声に、合唱と万雷の拍手だったという。
公務員を貶して、この国が救われるのもではない。
日本国憲法を大いに誇り、それをこの国の確かな指標として、ジュリーの歌声に和した 地底から湧きあがる合唱のように、国民と公務員が家族のように一体となって 進むこと。
この国をたて直すには、それしかない。
『 筑紫さんは、日本人の心、日本人の考え方の しっかりした一つの座標軸を示し続けてくれた。』
わたしは、司馬遼太郎を 『 歴史という縦の座標軸 』 と 常々頼りに思ってきた。
それと同時に、『 現代という横の座標軸 』 として 筑紫哲也は、わたしにとっても 大丈夫な とても安心な存在であった。
納得のいく存在だった。
筑紫さんに代わる指標は、まだ見つかっていない。
ただ、筑紫さんのように 語りかけてはくれないけど、この国には この国の指標として 泰山の如く存在するものがある。
あの終戦を境に 無節操に豹変する“大人たちの心変わり”を目の当たりにして、何を信じて生きてゆけばいいのか 10歳そこそこの多感な少年だった筑紫哲也をして「しびれた」と言わしめた、日本国憲法である。
いま、一般の日本国民と公務員のあいだは、繕うことのできないくらい 大きく隔たってしまった。
とても悲しいことだ。
なにか いい手立てはないのだろうか。
わたしは強く思うのだが、われわれ一般国民は、この国の根幹である日本国憲法を いま一度 じっくり読み直すべきではないか。
そして 公務員は、憲法第99条をしっかり護るべきではないか。
一般国民が愛し尊敬できる公務員になって欲しい。
この国をたて直すには、それしかない。
憲法第99条には、こう記されている。
「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う。」
決して上手とは言えないが、真面目で、無駄がなく、見ているとなんともいえない魅力を感じる人がいる。
物にも、同じような親しみを感じるものがある。
日本国憲法を読んでいると、そんな気分に わたしはなる。
筑紫さんのように しびれるとまではいかないが、とても素直で 分かり易くて まっとうな文章で、ちょうど 筑紫さんの「多事争論」を聞いているような 安心な気分になるのだ。
誇りに思う。
キザっぽい言い方になるが、あの戦争で亡くなった幾万の先輩たちの魂がこもっている。
そうに違いない。
この国の指標として、こんなにも誇らしい碑を 先人たちが残してくれたのだ。
ジュリーこと 沢田研二が、先月の29日 京セラドームでコンサートを開いた。
ジュリーも わたし同様、戦争を知らない世代だ。
その彼が、6時間ぶっ続けのライブの中で、自作詩の憲法第9条賛歌「我が窮状」を歌った。
その歌声に、合唱と万雷の拍手だったという。
公務員を貶して、この国が救われるのもではない。
日本国憲法を大いに誇り、それをこの国の確かな指標として、ジュリーの歌声に和した 地底から湧きあがる合唱のように、国民と公務員が家族のように一体となって 進むこと。
この国をたて直すには、それしかない。
12月1日の夕べ、6時を少し過ぎたころでした。
長女の家に孫たちの世話で出かけていた家内を迎えて 帰る車のフロントガラスから、西の夜空を見上げました。
くっきり三日月さんです。
三日月さんが笑っているのです。
白く輝くこんぺいとうのようなお星さまが、目を細めています。
ちょっと首をかしげて 微笑んでいるみたい。
なにかいいこと あるかもね、と 家内がいいました。
ほんとに いいことありそうな、そんな三日月さんでした。
(追記)
翌朝の新聞で知ったのですが、夕べ見た三日月の 斜め左にひときわ輝く星は 金星で、その右手上に光る星は 木星だということです。
こんな夜空の配列は、めったに見られない光景とのことでした。
長女の家に孫たちの世話で出かけていた家内を迎えて 帰る車のフロントガラスから、西の夜空を見上げました。
くっきり三日月さんです。
三日月さんが笑っているのです。
白く輝くこんぺいとうのようなお星さまが、目を細めています。
ちょっと首をかしげて 微笑んでいるみたい。
なにかいいこと あるかもね、と 家内がいいました。
ほんとに いいことありそうな、そんな三日月さんでした。
(追記)
翌朝の新聞で知ったのですが、夕べ見た三日月の 斜め左にひときわ輝く星は 金星で、その右手上に光る星は 木星だということです。
こんな夜空の配列は、めったに見られない光景とのことでした。






