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つれづれ

思いつくままに

遅咲きの乙女たち

2008-11-25 11:01:10 | Weblog
久々に 痛快な映画を観ました。
「マルタのやさしい刺繍」。
チャーミングで 知的で 上品な コメディタッチの、見終わってスカッとする映画です。

このスイス映画の原題は 『 Herbstzeitlose 』、おがくずや水栽培でも開花する サフランに似た秋咲きの花、コルキカム(いぬさふらん)という花の ドイツ語だそうです。
直訳すると 『 秋の時知らず 』、人生の秋を迎えてから もう一花咲かせる主人公たちの 4人の女性をなぞらえた題名です。

わたしには無名の 36歳の女性監督 ベティナ・オベルリが、彼女のおばあちゃん世代の 4人の経験豊富な女優たちと 爽快無比の胸のすく映画を作ってくれました。

とやかく申しません。
おばあちゃんだけの映画じゃありません。
年寄りだけの映画じゃありません。
遅咲きの乙女たちの チャーミングさに、きっと魅了されるでしょう。
もちろん わたしは、4人のおばあちゃんの大ファンになりました。

ぜったい観て と、薦めずにはおれない映画です。




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奈良・佐紀路をゆく

2008-11-24 16:18:34 | Weblog
技藝天という、芸事なら なんでも叶えてくださるという仏さまがある。
奈良・秋篠寺に、その仏像は すっくと佇んでおいでだ。

晩秋の小春日和に、奈良を訪れた。
目的は、秋篠寺の技藝天像。
それと、ほんとは こちらがメインだったかも知れないのだが、ある雑誌に紹介されていた「秋篠の森」を 覗いてみることだった。

西大寺から北西へ奈良交通バスで10分たらず、東の東大寺あたりの賑やかさに比べ、このあたり、佐紀路は 住人の息づかいが感じられるような ゆったりした静けさが漂っている。
秋篠寺には、9時30分からの拝観に 少し早く着いた。
南門から境内に入ると、清浄な森に踏み込んだみたいに、空気が澄んでいるのが肌でわかる。
目は、参道両側の庭園の 光るような緑をなす苔に吸い寄せられる。
見事だ。
朝陽が低い角度で斜めから照らす苔の輝きは、本堂への入場を待つ 願ってもない もてなし待合だった。

奈良の寺院の建造物を見るたびに思うことだが、屋根の雄大で優雅な広がりに いつも感嘆させられる。
秋篠寺の本堂は、鎌倉時代の再建ということだが、大棟の両端から四隅に下る 軽快な降り棟は、天平の寄棟造りの様式を色濃く残しており、その屋根の 素朴でおおらかな広がりに ただただ見入ってしまう。

技藝天像は、薬師如来三尊の須弥壇の 向って左端に佇んでいるが、本堂に入るや否や まず そのお姿に吸い寄せられる。
2メートルを超える体躯の 艶やかにくねるプロポーション、ところどころに残る極彩色、ガングロな美顔、インド舞踊の表情豊かな手先にも似た 両手の動き・・・
やや前傾して伏すお目に見つめられて、うっとりと ゆったりと 時間が流れた。
昭和41年4月11日以来の、技藝天像との 至福の再会であった。

今回の奈良訪問の もうちとつの目的「秋篠の森」は 予約制とのことで、次の機会の楽しみとして 近鉄西大寺駅へ戻る。

一度おとずれてみたかった西大寺を、この機会に訪ねてみた。
近鉄西大寺駅から すぐのところだ。
西大寺は、東の東大寺に対する西の大寺として、東大寺を建てた聖武天皇の皇女である女帝・孝謙天皇(のちの称徳天皇)が建てた寺である。
小学校の歴史で習って以来 とても気になる歴史上の人物のひとりに、『弓削の道鏡』がいる。
民間人で皇位を狙った、野心満々の怪物である。
極悪人として日本史をいろどる この人物を、わたしは なぜか気になってしかたなかった。
道鏡にまつわる この時代の謎めいた歴史をたどるようにして 日本史を好きになったのも、弓削の道鏡のお蔭と言えそうだ。
道鏡という人物、絶世の美男子だったらしい。
この道鏡を寵愛する余り 平城の都を京都に移さなければならない原因をつくったのが、西大寺を建てた女帝・称徳天皇なのだ。
平安時代に再三の災害や兵火に遭い、鎌倉時代に 名僧・叡尊の中興をみたが、その後も災害兵火にみまわれ、創建当時の面影は わずかの伽藍と連綿として続く行事にしのぶしかない。
本堂で朱印帳の記帳をお願いしたご縁で 寺の歴史をひととき説明いただいた寺守さまから、本堂前の老木菩提樹の実を 三粒お分けいただいた。
なぜか無性に悲しく、その三粒の菩提樹の実に 平城の都の凋落を重ねてしまっていた。

遅めの昼食を、お目当てだった「秋篠の森」の姉妹本店、「くるみの木」でとる。
2時間待ちも、手作りのぬくもりある雑貨が並ぶ隣接のお店や ほっとするやさしい雰囲気の待合空間で紛らわせて、やっと おいしいシンプルランチにありついた。

晩秋の陽の傾きは 早い。
もうひとつ 会ってみたかった仏像、法華寺の十一面観音立像を、あきらめずに思い切って訪ねた。
尼寺である法華寺は、光明皇后ご創建時の荘厳は失われているに違いないが、女人道場門跡寺院の女性的な風格と穏やかさを、観音像にも 雰囲気にも しっとりと感じ取ることができた。
手元にある昔の朱印帳に、昭和41年4月11日の日付で 「法華滅罪寺・本尊十一面観世音」とある。
42年前も、秋篠寺から法華寺への佐紀路を辿っていたのだ。
法華寺の近くにある海龍王寺をも 欲張って参拝し終わった頃には、陽は西に大きく傾いていた。

バスの時刻表を見ると、次の西大寺駅行きは 30分以上待たねばならない。
急ぐ旅でもない。
平城宮跡の北側の道 佐紀路をぶらぶら歩きながら、西大寺駅へ向かう。
みるみる日は暮れて、広大な平城宮跡のずっと向こうの西の山端に 夕焼けの帯が 幾筋も浮かび上がった。
晩秋の佐紀路のあちこちに、鈴生りの柿の実が 枝を大きく撓らせて、夕焼けを受けて ますます熟れた朱色を際立たせていた。





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ラジオが蒔いたかぼちゃの種

2008-11-21 10:28:03 | Weblog
とってもいい話をききました。
ラジオが蒔いたかぼちゃの種、というおはなしです。

わたしの住んでいるごく近くに、「西ノ京文化サロン」という地域文化交流の場があります。
西ノ京という 京都の古い土地柄の文化を 市井の人々のお話から掘り下げ、「市民みんなが文化人」をスローガンに、他の地域の文化とも交流していこう、という庶民サロンです。
こういう場があることを新聞で つい最近知って たいへん興味が涌き、先日 第2回目の集いに参加させていただきました。

お話いただいたのは、FM79.7京都三条ラジオカフェを率いていられる 町田寿ニさんです。
日本初のNPO運営のコミュニティFM放送局を 開局されたときのお話には、苦労して夢を叶えられた人のみがもつ輝きを 強く感じました。
町田さんご自身は 元放送会社社員という経歴をお持ちですが、彼以外 放送には全くの素人の人たちばかりで、大会社の助けも借りず、役所に泣きつくこともせず、有志の熱意と努力で 放送局を立ち上げたときの喜び、そして はじめて「京都三条ラジオカフェ」の放送が受信できたときの感激を、京都の町衆の心意気に敬服しながら 語られました。

戦後 ラジオが日本国民に与えた影響は、連続ドラマ「君の名は」や「のど自慢」を引き合いに出すまでもなく、計り知れないものでした。
しかし、皇太子と美智子さまご結婚、東京オリンピックなどのテレビ報道を境に、テレビ映像の報道威力に圧倒されて、耳からだけのラジオは 急激に衰退していきます。
ラジオの真価が見直されたのは、あの 阪神淡路大震災のときでした。
電話は不通、テレビは受信不可、家族の安否を知る手がかりは 地元のコミュニティ放送局のラジオ放送だけだったのです。
この放送局がカバーする地域には、外国人労働者が たくさん住んでいました。
だから、8ケ国語で放送したのです。
わたしも ほんのささやかなボランティアでしたが、その地域でお手伝いしたことがあり、地元コミュニティFM放送が 地域の人たちにとって あのときどんなに頼りになったか、よく理解しています。
阪神淡路大震災の教訓から 各自治体が独自でFM局を開設するようになって、現在、220局になり、NPOのコミュニティ局も 12局に増えているそうです。
こんな、ラジオに関する四方山話も 興味深く聴くことができました。

これからのFM放送 というお話で、町田さんは いろいろな事例を挙げて その重要性を自信を持って強調されました。
ラジオは、テレビに比べ ずっと読書に近い要素をもっています。
視覚で端からイメージを限定されるのではなく、聴覚のみで膨らませる想像力が、読書と同様 人間の脳の活性化を促す、というのです。
そして もっと大切なこと、それは 人と人とのコミュニケーションに 一役も二役も役立っている という事実です。
人前や ましてカメラの前では とても話すことなどできない 引きこもりの子供たちが、姿をさらけ出さなくてよいマイクの前なら、リラックスできるカフェ風のスタジオなら、 思っていることをスラスラと話せる、という事実。
たまたま 三条ラジオカフェを訪ねてきた二人の引きこもり少年が流した 掛け合い漫談風の放送が、ラジオを聞く機会の多い引きこもりの子供たちのたくさんの耳に届いて、そこから彼ら自身が連絡を取り合うようになり、だんだんその輪が広がっていった、というのです。

そのほか いろんな事例を紹介していただきましたが、最後にお話いただいた「ラジオが蒔いたかぼちゃの種」は、とても印象に残る話でした。
日本かぼちゃは、絶滅の危機とまではいかなくても、ある時期 西洋かぼちゃなどに押されて 生産量が極端に落ちたことがありました。
ある大手の放送会社を定年退職した元アナウンサーは、家庭栽培で得た日本かぼちゃの種を5粒持っていました。
彼は、退職の記念に 最後に誰憚ることなく 自分の気持ちを電波に乗せて流したい、それも大手の放送局でなく コミュニティFM局のような 自由な電波に乗せて語りたい、と思っていました。
京都三条ラジオカフェを選んだ彼は、いざ 自分の思いのたけを語ろうとしたとたん 長年プロとしてマイクに向かっていたはずなのに、思うように話せません。
そこで、持っていた5粒の日本かぼちゃの種のことを思い出し、「この放送をお聞きの方に 日本かぼちゃの種をさしあげます」と話しました。
どうせ 申し込んでくる人などいないだろうと思っていると、なんと1000名を超える人たちから 分けて欲しいとの申し込みがあったそうです。
彼は、次の放送で 5粒しかないことを詫び、1年かけていっしょけんめい日本かぼちゃを作って 来年 申し込まれた方全員に 種をお送りします、と約束しました。
1年後、彼は約束通り 1000粒の日本かぼちゃの種を送ります。
種を分けてもらった人たちの間で、こんなに大きく育ちました とか、肥料をどれだけ与えたらいいのですか とか、訪ねあい 励ましあいのコミュニケーションの輪が、拡がっていきました。
そうして、日本のあちこちで日本かぼちゃが育ち、無くなりかけた日本かぼちゃが 見事に復活しました。

ラジオの持つ ほのぼのとした可能性、夢があると思われませんか。








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モミジバフウ落ち葉を拾う

2008-11-19 16:46:37 | Weblog
二条城の北側、押小路通りの街路樹は、千本通りまで モミジバフウが植わっています。
モミジバフウ、最初 二条中学前の街路樹に掲げてある名札を見たとき、「もみじの葉っぱのような」という意味なのかな と思っていましたが、「紅葉楓」という アメリカ原産の落葉樹のことだそうです。

もみじの葉っぱをぐんと大きくしたような 大らかな葉付きが、緑色の春夏のころから 道行きを和ませてくれていましたが、10月の終わりころから しだいに色づきだして、緑、黄、赤のグラデーションが 日を追うごとに 黄、緑、赤から黄、赤、ところどころ緑となり、いまはもう 赤あちこち黄となっています。
そのグラデーションが、日当たりの加減からか それぞれの木で 微妙にずれているのです。
そして、豊かな幅の敷石歩道には モミジバフウ落ち葉がいっぱい。
雨上がりの夕暮れなど、それはそれは 踏み歩くのが惜しいような 落ち葉のじゅうたんです。

土に還ることのできない落ち葉を、持って帰ったから どうすることもできないと わかっていながら、両手にいっぱい抱えて 帰りました。
結局 処分に困るだけでしたが、写真だけにでも と、落ち葉をかたちよく広げて カメラに収めました。
程よい大きさと色合いのことにきれいな葉っぱだけを 大き目のファイルに挟んで、あとは 工場の敷地内の狭い土に戻してやりました。
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ただいま!

2008-11-19 13:28:55 | Weblog
重松清の短編 『 家路 』 を読んでいて、気づいたことがあります。
それまで 頭のどこかでぼんやり描いていた あったかい空気の塊みたいなものが、言葉では表現し切れていなかったのに、いま はっきりイメージできた、と言ったほうが 適切かもしれません。
それは、しあわせの正体です。

しあわせって、なんだろう。
みんな、このことについては いろいろ考えているんだろうけれど、口に出して言うには 照れくさいし、格好悪いし、邪魔くさいし、だいいち そんな腹の足しにならんこと どうでもいいよ・・・そんなところなんだろうと思います。
わたしも、似たようなものでした。
そのくせ、だれもが しあわせになりたいと思っている。
重松小説 『 家路 』 が教えてくれた わたしの思うしあわせは、「ただいま!」「おかえり!」でした。

ずっと前にみたテレビドラマで、題名もあらすじも忘れてしまったけれど、あるシーンだけ 鮮明に覚えています。
妻を亡くした 渡哲也演ずる中年男が、居酒屋で知り合いに こう話します。
「朝 急いで家を出るとき、カッターシャツの袖のボタンが取れたんだ。廊下に転がっていたけれど、邪魔くさいから そのままで出てきちゃった。帰宅したら そのボタンが家を出たときとおんなじ格好で廊下に落ちているんだよ。そのとき つくづく思ったね、あぁ俺ひとりなんだなぁって・・・」

「さよなら」という日本語は、美しいです。
でも「さよなら」は、しあわせからは 遠いところにあるように思います。
帰るところのない、もう会えないかもしれない、そういう悲しさを秘めているからです。
「家族には 『 さよなら 』 っていう挨拶はないんです」と、小説 『 家路 』 は教えてくれます。
「さよなら」ではなく、「いってきます」と言えるなら、きっと「いってらっしゃい」と言ってくれる人が いるでしょう。
「ただいま」と言って「おかえり」と応えてくれる人がいてくれることが、どんなにしあわせなことか。

わたしのしあわせの正体は、「ただいま」と言えること、そして それに「おかえり」と応えてくれる人がいてくれること、そういう家族があること、そう 確信しました。
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危なっかしい米粉麺ブーム

2008-11-18 04:00:04 | Weblog
いま、ちょっとした米粉麺ブームが起こっている。
貯え余った古米、古々米を粉にして、それから麺を作って 市場に出そうというものである。
当社も この動きに対応して、製麺に適した米粉の配合を模索し、従来の製麺設備で 小麦粉でできた本来の麺に遜色ないくらいの品質の米粉麺が製造できることを確認している。

ただ、このブームには わたしは疑問をもっている。

一つには、米という穀物の持つ特徴を 無視した製造方法だ、ということだ。
米粉は、麩質、いわゆるグルテンが乏しく、本質的に製麺性に欠けている。
したがって、これのみで常温で麺を作るには、バインダーの役目として ガム質の添加物を配合しなければならない。
もっとも、ベトナムのフォーのような作り方なら、米粉と水のみで作ることはできるが、フォーにはコシがなく、 日本での麺の感覚とは かなり違う。
また、台湾のビーフンも 米粉のみで作られるが、米粉といってもうるち米であって、それに製造過程でデンプンのアルファー化が入るから、これも 日本での麺の感覚と大きく異なる。
いずれにしても、日本のコメは 粒食に適しており、粒で食うのが一番旨い食い方なのだ。
ご飯の大好きなわたしは、炊き立てのほっかほかご飯ほど旨いものはない と思っている。
一方 麦は、戦前の農家の貧しさから来る質素さを「百姓は麦を食って米を作る」と言われたように、また 1960年台の高度成長時の首相・池田勇人が「貧乏人は麦を食え」と言ったように、粒食としては コメよりずっと下に見られてきた。
しかし、製粉技術の進歩も伴なって 小麦粉から作られる“コナモン”の 食品としての旨さは、いまやコメを凌ぐ勢いである。
麦は、粉食に適しているのである。
だから、単にいまコメが余っているから、という理由からだけで 米粉パンや米粉麺がもてはやされることに、危なっかしさを感じるのだ。

もう一つには、貯え余った古米、古々米というものの正体である。
はっきり言って、これは、これまでの不適切な日本農政のツケではないのか。
そのツケのせいで 米粉麺ブームなどと踊らされているような、苛立ちと空しさを覚える。

コメが米屋でしか買えなかったのは、そう昔のことではない。
米穀通帳という カビが生えたような制度も、1982年に食管法が改正されるまで 存続していた。
食管法は、戦前の米穀統制法を引きずって 戦後の食糧難の時代を凌駕してきた。
あの 食べ物の極端に乏しかった時代には、食管法も 重要な役割を果たしたのは事実だ。
しかし、戦後の食糧難の時代を乗り切った日本において、食管法は 国内農業の保護という 本来の役割でない役割に移行する。
「食糧管理特別会計」は、国内産のコメを高く買い取り、輸入小麦を管理下におき、これらを消費者としての日本国民に採算の合わない価格で販売し続けた いわゆる二重米価によって、莫大な赤字を抱えている。
食管法自体は 1995年に新食糧法に移行するが、食糧管理特別会計は いまだに財政再建の大きな障碍の一つのままだ。
1993年に採択された「ウルグァイ・ラウンド農業合意」という、わたしには よく理解できない国際協定がある。
この、自国農業を数量輸入制限で護ることをやめて 関税化して徐々に農産物輸出入を自由化することを目的に定められた国際合意において、日本は、コメだけは例外的に関税化を拒んだ。
その代償として、毎年一定の最低輸入義務量のコメ、すなわちミニマム・アクセス米を輸入する義務を負った。
1999年にコメも関税化して以後も、最終年度(2000年度分)のミニマム・アクセス米を買い続けなければならないらしい。
世界的な食糧不足のこんにちにあって、日本のコメが過剰だというのに、まともに食えもしない汚染ミニマム・アクセス米を買い続けなければならないとは、理不尽極まりないことではないか。
この汚染ミニマム・アクセス米の処理に窮した末のぶざまな社会問題が、このたびの汚染米騒動である。
歯がゆいことだが、この汚染米問題が浮かび上がらなかったら、わたしを含め ほとんどの日本国民は、上記のような事情に関心をもたなかったであろう。

日本の土壌で、麦は立派に育つはずだ。
麦を輸入に依存ばかりせず、なぜ、休耕地となった土地で 麦を作らないのか。
だいたい、減反政策の産物である休耕地そのものが、クエスチョンの塊だ。
農業の そして政治の理解度の低いわたしには、不可解なことだらけだ。

米粉麺ブームを考えるにつけ 思い出されるのは、昭和28年の夏に 降って涌いたような「人造米ブーム」である。
この年は、未曾有の凶作年であった。
昭和28年9月9日の読売新聞の切り抜き記事が、手元に残っている。
『 今年は凶作というかけ声だけでお米のヤミ値がピンとハネ上がった。そこへ“人造米”がダークホースの勢いで登場してきた。「安くてうまくて栄養になる。農林省では助成金を出す」という評判に業者は人造米の特許権をめぐって暗躍をはじめた。農林省までがこの特許権買取りに乗り出すなど、虚々実々というから“人造米”はいまや狙われたニューフェースというところ。沖縄や朝鮮にもゆく“人造米”は果たして新しい食糧時代を生むだろうか。・・・』
一時は 天皇ご一家もご常食されたという“人造米”は、その翌年の豊作で 割れた風船のごとく消え去ってしまった。
朝鮮戦争終結の年のことであった。
残ったのは、鉄くず同然の「人造米製造機」の山のみであった。

実は、当社は この人造米製造機に深く関わっていた。
まだ10歳そこそこの子供であった わたしの記憶にも、工場の倉庫に所狭しと在庫された「人造米製造機」の残骸や 格好の遊び場所であった資材置き場に 山積みされた錆びた部品の塊が、残像としてある。

人造米は、小麦粉やでんぷん、砕け米を配合して作った擬似米である。
米粉麺と人造米の 非にして似たるもの、そして 両ブームの発端が 酷似しているのだ。
昭和28年の前後 小麦粉は、世界的な豊作に加え、朝鮮戦争終結による進駐軍の払い下げ小麦もあって あり余る状態であった。
一方 コメは 大凶作で、上記新聞記事にあるように ヤミゴメの価格が急騰する状態であった。
コメと小麦を逆にすれば、同じような状況ではないか。

火の消えたような工場に隣接する我が家で 連日砂を噛む思いで囲んだ夕食時、酒に紛らわせながら語った父の「政府に踊らされた」という言葉が、耳にこびりついている。

時代の潮流を読むことは、事業を成功に導くリーダーの務めであることに 間違いはない。
ただ、ブームに乗り遅れるな式のやみ雲な追随は、ブームに流される危険を孕んでいることを 胆に銘じなければならない。












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お月さん、まん丸やでぇ

2008-11-13 09:01:45 | Weblog
「いま、電話 かまへんか」
<ええでぇ タクシーの中やから。ちょっと一杯の帰りや>
「お月さん、見てみぃ」
<お月さん? ええっと お月さんお月さん・・・《ちょっと 運転手さん、お月さんって見えるかぁ?》《なんどす お月さん? お月さんお月さん、あっ見えます見えます、真ぁ上どすがな》《まぁ上?そんなん こっから見えへん》・・・あのなぁ もうちょっとしたら着くさかい あと14秒 待っとって>
「・・・」
<・・・《運転手さん、ほな これで》《へぇ おおきに》・・・あっ ほんまや わぁ きれい まん丸のお月さんや>
「見えたかぁ きれいやろぉ」
<ほんまや きれいやなぁ うさぎが餅つきしとるんも よぉ見えるわぁ>
「見えたら ええわ それだけや」
<ほぉかいな おおきに>
「早よぉ 帰って寝ぇやぁ」
<これからちょっと寄道して 嫁さんにたこ焼き買ぉて帰るわ>
「ほな さいなら」
<さいなら おおきになぁ>
・・・
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筑紫哲也なら どう評しただろうか

2008-11-10 09:08:59 | Weblog
ジャーナリストの筑紫哲也が 亡くなった。
彼のニュース番組を見るのが、一日の締めくくりだった。
激しく評しているのに 常に穏やかな口調で語る筑紫さんの人柄に、その評論とともに 惹かれた。
口を少し歪めて「多事争論」を語る あの白髪の姿は、もう見られない。

田母神・元航空幕僚長の論文が、話題になっている。
原文を読んでみた。
論文というよりも 感想文であろう。
田母神氏は、二つの大きな誤りを犯している。

一つには、歴史、ことに近代史に対する甘さである。
彼は、わたしと同様、先の戦争を知らない世代である。
したがって、戦前・戦中のはなしは、体験談ではない。
論じていることは すべて何らかの資料に基づくものであって、その引用も 自分の好みに見合ったもののみである。
歴史というものは、そんな側面的な見方のみで 正しく論じられるものではない。
特に 近代史は、「とき」という洗礼を受ける度合いが乏しいだけに、早合点に陥りやすい。
あの 驚異的な歴史認識を蓄えた司馬遼太郎でさえ、近代の歴史小説を描くときは 震える思いで机に向かった と語っている。
田母神氏は、歴史認識があまりにも甘すぎる。
「私の感想に過ぎないが・・・」と、断ってから書くべき内容であろう。

二つめは、公人と個人の差の 認識の欠如である。
自分の思いを どうしても懸賞論文に応募したいのなら、“防衛省航空幕僚長 空将”などという肩書きは ひた隠しにしなければならない。
ペンネームでも 使えばいいだろう。
田母神氏がトップの司令を務めていた小松基地では、航空幕僚教育課が 幹部を対象に 同じ懸賞論文のテーマを指導の課題に引用していた というから、驚きである。
航空幕僚長といえば、航空自衛隊のトップであろう。
われわれ中小零細企業のトップですら、立場上 誤解を生むような“書き物”は遠慮しているのに、航空自衛隊のトップという公の立場の認識が 田母神氏には あまりにも貧弱すぎる。
言論の自由を行使したいのなら、在野に下って 言いたいことを言えばいい。

田母神俊雄という人物を正しく知っているわけではないが、彼が 日本というこの国を愛していることは、論文を通して伝わってくる。
自衛隊のトップの一人として 自衛隊員に自分たちのやっていることの意義みたいなものを与えてやりたい という気持ちも、判らないわけではない。
自衛隊は 難解極まる存在であり、いままでの日本にとっても これからの日本にとっても 難問中の難問であろう。
しかし、目指すものは 日本国憲法に明記された「恒久の平和」だ。
田母神氏に、われわれの憲法の 『 前文 』 だけでも もう一度読み直して欲しい。
戦争は 人間の為す最大の罪悪であることを、私たちの親の世代が体験した あの筆舌に尽くしがたい惨状を、想像して欲しい。
われわれは、『 政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすること 』 を決意したのである。
自衛隊という むずかしい存在を、「恒久の平和」の実現に役立つ方策として 考えてもらいたいと、切に願う。

筑紫さんが生きていたら、この問題を どう評したであろう。
たぶん、絶筆となった一文の締めくくりと同じように、
「歴史は繰り返さず、人間は変わるものだ---と信じたい」
と言うと、わたしは思う。



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嵐電に乗って

2008-11-07 22:22:22 | Weblog
ガタン、ガターン、ガターーン、ガターーーン・・・
路面電車・嵐電は、ゆっくりゆっくり 三条通りを西へ行く。
車道に寄り添うように盛られた 細長い乗り降り台だけの 山ノ内駅を出てすぐに、嵐電は 地下鉄・東西線との連絡駅として新しくできた 天神川駅に着く。
次の蚕ノ社駅は、もう そこに見えている。
そして、太秦広隆寺駅。
この駅に立つと、訳のわからない懐かしさが 込み上げてくる。
太秦の住人になったことはないのに、この駅と一体の文房具屋さんとふとん屋さんが、昔からのお隣さんであったような錯覚に陥ってしまう。
文房具屋さんは 昔とずいぶん変わったし、ふとん屋さんは お店を閉ざしているが、この駅に漂う雰囲気は 昔とちっとも変りはしない。

広隆寺へは、久しぶりの参拝である。
あの弥勒菩薩に 無性に会いたくなって、思い切って訪ねてみた。
こんなに近くに住んでいるのに、山門前の三条通りは しょっちゅう利用しているのに、広隆寺の境内に踏み入るのは、50年ぶりだ。
もっと荒れた寺のように 記憶にはあったが、境内は ずいぶんすっきりとした印象を受けた。
国宝一号の弥勒菩薩半跏思惟像は、奥のほうの 真新しい立派な霊宝殿に安置されていた。
広く薄暗い空間の周囲に たくさんの仏像がぐるっと並んだ中央に、三体の弥勒菩薩、その真中に一段高く安置された 半跏思惟像。
前回は、ずいぶん前だから 記憶がおぼろだが、もっと近くに拝することができて、しかも周囲がもっと明るく背景が白っぽかったからか、お顔をはっきり拝むことができたように思う。
弥勒菩薩半跏思惟像は、だからと言って その魅力が増減するわけではない。
立派な建物の中でも、薄暗い照明でも、関係なく 無条件に素晴らしい。
素晴らしいという表現は、この仏像には 薄っぺら過ぎる。
わたしの貧しい言葉では、表現する術を知らない。
ドイツの哲学者・ヤスパースの表現を、助けとしたい。
「私は、今迄哲学者として、人間の存在の最高に完成された姿の表徴としての、色々のすぐれた芸術作品に接してきました。古代ギリシャの神々の彫像も見たし、ローマ時代に作られた、多くのすぐれたキリスト教的芸術品をも見てきました。しかしながら、それらのどのものにも、まだ完全に超克され切ってしまわない、単なる地上的人間的なるものの臭いが残されていました。・・・ところが、この広隆寺の仏像には、本当に完成され切った人間 『 実存 』 の最高の理念が、あますところなく表現され尽くしています。それは、この地上におけるすべての時間的なるものの束縛を超えて達し得た、人間の存在の最も清浄な、最も円満な、最も永遠な姿の表徴であると思います・・・」

弥勒菩薩三体、向かって左に 天平仏の弥勒菩薩坐像、右に 百済伝来の泣き弥勒、そして中央の国宝一号・弥勒菩薩半跏思惟像、これらの中央祭壇の前に 畳敷きの参拝スペースが設けられている。
わたしは、この畳の上に坐って ぼーっと拝観していた。
しばらくして、先日久しぶりに読み返した 小林秀雄の「モオツァルト」というエッセイのなかの一文を ふっと思い出した。
「・・・美というものは、現実にある一つの抗い難い力であって、妙な言い方をする様だが、普通一般に考えられているよりも実は遥かに美しくもなく愉快でもないものである。・・・」
中央の弥勒菩薩像は、わたしにとって ほんとうに美しいと言えるのだろうか。
素晴らしいとは思うが、少なくとも 愉快なものではない。
50年前に感動した(と思い込んでいる)ものは、一体なんだったのだろう。
右の泣き弥勒が、ぼーっとした視界に入った。
改めて、泣き弥勒、百済伝来とされる ふた回りも小さな弥勒菩薩半跏思惟像を、まじまじと拝した。
ひょっとしたら、わたしの脳裏に焼きついていたのは、こちらの泣き弥勒ではなかったか。
その愛称の名の通り いまにも泣き出しそうなお顔は 決して美顔とは言いがたく、でも 会いたかったのは やはりこの仏像であった、そう確信した。

やっと 落ち着いた気持ちになれた。
満足感に浸りながら、帰路も嵐電に乗る。

20人ほどの女子学生の集団で 一両きり電車は賑やかだ。
とびっきり明るい奇声が 飛び交う。
他の客も それほど迷惑そうでもなく、奇声の発信地へ視線を投げている。
そんなことにはお構いなく、嵐電は ガタンゴトン、ゆるゆると走る。
マイペース、マイペース。
『モボ301型』 嵐電だ。
広隆寺の弥勒菩薩像に会いに出てきたつもりだったが、ひょっとしたら このマイペースの嵐電に乗ってみたかったのかな。
きっとそうだと、波長の合う揺れに身を任せながら 思った。








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ブタがいた教室

2008-11-02 17:02:01 | Weblog
私たちが日ごろ食事の前に自然に出てくる「いただきます」という言葉が、本来「あなたの命をいただきます」という感謝の意味であることに気付いている人 そう感謝して食卓についている人は、今の日本では たぶん 数少ないでしょう。
私も、ただ機械的に いただきますと言っている部類です。

映画 『ブタがいた教室』 を観ました。
この映画は、冒頭のテーマを、小学6年生の教育現場である小学校の一教室を舞台にして繰り広げられる26人の子供たちの リアルな行動と言動を通して、問いかけています。

18年前に大阪北部の小学校の新任教師が、担任クラスで生徒たちとブタを飼い 飼育をした後で そのブタを食べるという 実践教育をして話題になりましたが、その実話を映画化したものです。
新任教師・星先生役の妻夫木聡のさわやかな演技と、物語の結末が記されていない脚本を渡された26人の子供たちの 白紙の台本から自然に生まれる 演技でない演技が、重いテーマなのに 重苦しい“お芝居”から救っています。
上映中、映画の中の子供たちと一緒になって「ブタを食べる・食べない」を真剣に考え 白熱して悔し涙を流し 取っ組み合いのケンカをしている気分になっている自分に気付いて、苦笑したほどです。

小学6年生って、まだまだ子供だと思っていましたが、凄いです。
大人が こそばゆがって言えないことでも、平気で 真剣に突っ込んできます。
大粒の涙を流しながら激論しあっても、つかみ合いのケンカをしても、みんな ブタのPちゃんが大好きだという 共通の認識があるから、ただその表現方法が違うだけだと ちゃんと分かっているから、最後に多数決で決めた結論に みんなで責任をもって協力します。
大人より ずっとずっとしっかりしています。

この「飼ったブタを食べる・食べない」のテーマは、とても深いです。
「かわいそう」とか「食べるのはむごい」とか言って 逃げられないんです。
でも、星先生も言っているように、大切なのは答えではなく、大人も子供も一緒になって、命のあり方について真剣に考え、とことん悩んだということ、それが一番大事なことじゃないか。

子供たちの発言に ドキッとさせられることが、いっぱいありました。
たとえば、「食べると殺すは違う」と主張する生徒。
この子は、もうすでに「いただきます」の本当の意味を ちゃんと認識している、と思いました。
星先生に「じゃあ人間って何なの? 人間は食べられないでしょ?」と迫った生徒。
この子は、すでに人間のどうしようもないエゴを 鋭く見抜いています。

この実践教育の狙いは、「自分たちは 生きながらえるために、この大切な命を食べていることを しっかり教えること」なのでしょうが、「生き物が生き物を食って生きている」ことは、そう すっきりしたことではありません。
すっきりしないままにも、結局は、食事の前に「いただきます」と手を合わせて 感謝しながら生き物の命をいただくことしか、やりようがないのでしょう。

2時間足らずの 映画と一緒になって考えた、命の授業でした。





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