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つれづれ

思いつくままに

筑紫哲也が生きていたら

2013-01-30 16:50:36 | Weblog
末は博士か大臣か。
かって 神童と呼ばれた子が幼少のころに、大人たちから からかい半分で囃したてられた言葉です。
そのほとんどの‘神童’は、長じて‘ただの人’なのですが・・・

かように、大臣とは、凡人にとって なりたくてもとうていなれない、偉い存在でありました。
まして その大臣のトップ、内閣総理大臣は、偉い偉い雲の上の人でありました。
それが、いまは・・・

身近な存在になった、といえば言えなくもない。
しかし あえて尊大に言えば、お粗末です。
ソーリダイジンの値打ちが、下落したのです。

その咎は まず、現行総理大臣に就いている安倍晋三氏にあります。
安倍氏が いとも軽率にやった同じことを、福田康夫氏が またしでかしました。
極めつけは、鳩山由紀夫氏。
彼らのすべてを否定するつもりはありませんが、日本国内閣総理大臣という地位を貶めた咎は避けられますまい。

筑紫哲也は、福田康夫氏よりお粗末な首相はいくらもいました と前置きしながらも、福田氏の突然辞任を 彼の最大の“罪状”であると批判していました。
筑紫哲也なら、民主党政権の不甲斐なさをどう糾弾したであろうか、原発事故とどう向きあったであろうか、安倍晋三氏の‘返り咲き’にどう切りこんだであろうか・・・
筑紫哲也なら、筑紫哲也なら、と、座標軸のふわふわしているわたしは、縋るように筑紫哲也を想います。

筑紫さんは日本の座標軸を示してくれました と慕ったのは、鳥越俊太郎氏です。
わたしにとっても、筑紫哲也は、ただいまのこの世をみる「横の座標軸」でした。

縦の座標軸は、司馬遼太郎です。
歴史を考える指標となる縦の座標軸は、色褪せにくいスパンをもっています。
でも 横の座標軸は、時々刻々の状況変化に対応しなければ 意味がありません。
だから、筑紫哲也が生きていたら、と思うのです。

先日、BS-TBSで 日曜特番「筑紫哲也 明日への伝言~『残日録』をたどる旅」という番組をみました。
その中で、筑紫哲也がジャーナリストとしての自覚が芽生えたのは、本土復帰前の沖縄特派員時代だったことを知りました。
平和への思い、安寧への希求を、ジャーナリストの根っこの有りように据えたのは、沖縄の真実だったのです。

わたしが、平和という 一種こそばゆい言葉に、どれほど大きな重みがあるかを感じ取るきっかけを得たのも、沖縄でした。
ひめゆり平和祈念資料館 第四展示室<鎮魂>の部屋、わたしの誕生日 昭和20年5月22日死亡とある島袋さんの遺影の前で、金縛りになって立ちつくしたときです。
生まれ変わりということを、はっきりと自覚したときです。
この人たちのお陰で いまわたしがあるという思いを、はっきりと自覚できたときです。

2003年8月15日のNEWS23「多事争論・ぶっちゃけの時代に」で、筑紫哲也はこう語っています。
  平和でいようとすることが あたかも悪いことであるかの如く、言われるようになりました。
  平和という言葉は もう大っぴらに言うことが憚られるという状況が、すぐ近づきかねない。
  そういう中に、わたしたちはいます。

この日曜特番をみて わたしは、ある確信を得ました。
横の座標軸は、いまを生きている このわたしの信念でいい。
平和への思い、安寧への希求を、根っこの有りように据えている限り、筑紫哲也の座標軸から大きく逸れることはない。
そう確信できたのです。

頑迷は避けねばなりませんが、この有りように関する限り 頑固を通して良い、いま 爽やかな気持ちでそう考えています。
筑紫哲也が生きていたら、そう応援しただろうと 空想しながら・・・
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身につまされます

2013-01-29 18:28:15 | Weblog
68歳で亡くなったんやなぁ、身につまされるなぁ・・・
いや これは、映画館の出口で合流した同年輩らしき 見ず知らずの二人のご婦人の歩き話が、かってに聞こえてきたのです。
映画の題名は、『東京家族』。
なお、68歳で亡くなったのは、吉行和子が演じる母・平山とみこです。

映画ファンなら、小津安二郎監督の不朽の名画『東京物語』をご覧になったことでしょう。
わたしは、少ない方だと思うのですが、三回みました。
山田洋次監督の この『東京家族』は、あの『東京物語』のリメイクということですが、観客である自分の立ち位置が、まったく違ったのです。

『東京物語』を最後にみたのは もう20年も前ですから、東京に暮らす子供たち(山村総、杉村春子、原節子)の位置から、父である周吉(笠智衆)や母とみ(東山千栄子)を眺めていたのでしょう。
周吉やとみのところまでは、まだまだ先だと、ある意味 客観的に眺めていられたのです。

『東京家族』では、すべての登場人物が自分のようでした。
長男の幸一(西村雅彦)の考えていそうなことも、長女の滋子(中島朋子)の感じていそうなことも、そして二男の昌次(妻夫木聡)の思いも、ジンジン伝わってきます。
でも とくに、父である平山周吉(橋爪功)は、自分そのもの。

周吉が 妻とみこの臨終の病院の屋上で 二男の昌次にポツリと話すことば、「かあさん、死んだぞ」。
ラストシーンの直前、島にひとり残された周吉が仏壇の前で 新聞紙を広げて自分の足の爪を切る場面。
橋爪功のキャラでしょうか、尾道の高台の家でひとり団扇を使う笠智衆ほどには、沈んでいくような淋しさは免れています。

家族というものの煩わしさと愛しさの切ない‘機微’をスクリーンに求めて、映画を愛する人々が『東京物語』を60年近く見続けてきたように、『東京家族』は、現在ただいまの その‘機微’を これからの50年も60年も、放ち伝えていくことでしょう。

冒頭で「いや これは・・・」などと 体裁つけましたが、「身につまされます」というセリフは、自分の口からも出かけたものでした。
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尋ね人の時間

2013-01-15 17:21:44 | Weblog
点けっぱなしのラジオから流れる、延々と(そう感じた)続く「尋ね人の時間」。
受験勉強をしていた高校のころまで、聞いていたように思う。

聞きたくて聞いていたわけではない。
<ながら>族の習性で、耳に入ってきただけである。

「尋ね人の時間です」とのアナウンサーの声で始まり、「これらの方々をご存じの方は日本放送協会まで手紙でお知らせ下さい。手紙の宛先は東京都港区内幸町、内外(うちそと)の内、幸いと書いて『うちさいわいちょう』です」で終わる。
淡々と抑揚なく読み上げられる、訳が分からないのに なぜかもの悲しい番組であった。

その悲しみのほんとうの訳を知るのは、ずっとのち、テレビで放映された『戦後50年企画-尋ね人の時間-』という番組を見てからである。


「尋ね人の時間」は、ラジオの聴取者からの依頼に基づく伝言番組であり、その依頼人からの手紙の内容をNHKがラジオ放送したものである。
昭和21年に「復員だより」としてスタートしたこの番組は、南方からの復員が一段落した昭和22年からは「引揚者の時間」という名前に変わって、シベリアや中国大陸からの帰還者の情報や消息が流された。
その後 番組の名称は「尋ね人」となり、『尋ね人の時間です』とのアナウンサーの声から始まったため、「尋ね人の時間」と呼称された ということである。

名もない人たちの、懸命に生きた人たちの、悲痛な叫びを、戦争を知らないわたしが、脱脂粉乳(ユニセフミルク)のまずい味は覚えているわたしが、「尋ね人の時間」に聞いたと言えば、面映ゆい表現だろうか。

あれから67年、「尋ね人の時間」の放送が終了してからでも、50年。
わたしの記憶がおかしいのだが、中国残留孤児たちに関する情報を伝えるラジオ番組(昭和55年以降か)も、わたしの中では「尋ね人の時間」なのである。
それすらも、もうずっと遠い過去になってしまったようだ。


4年半ほど前に 『映画「ひめゆり」』と題してこのブログで紹介した、ひめゆりの語り部・比嘉文子さんは、3年前に亡くなられている。
その報を新聞で知ったとき、あぁ またひとり、大切な証人が逝ってしまわれた と、なにか 取り返しのつかない悲しみが込み上げてきたのを覚えている。

ここに改めて、比嘉文子さんの言葉をお借りしたい。

  私が子供の頃、親が星空をながめて、先祖から言い伝えられた話をしていました。
  「箒星(ほうきぼし)が出たら、また戦(いくさ)が起こるのではないか」。
  ほうき星とはハレー彗星のことで 70年あまりの周期で訪れます。
  70余年たつと、親たちも死に、戦争を体験した人たちも亡くなり、指導者たちが戦争を美化しようとします。
  私の親が言っていたことは そのことを戒めているのだと思います。
  戦争の美化は絶対にさせたくないと思っています。
  そのためにも、若い人たちは真実を見つめ、学び、しっかり行動していって欲しいと願っています。


もう一度言おう。
反戦の心は、イデオロギーや政治や理屈ではない。
戦争がいかに人間を鬼畜にするか、それを、その地獄をくぐってきた、いとしい人々の叫びなのである。

わたしは、生きている限り、「尋ね人の時間」を忘れはしない。
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フェルメールの光

2013-01-15 11:00:28 | Weblog
地球儀を回して眺めると よく判ることなのだが、オランダという国は 北樺太と同じくらいの緯度にある。
なのに、冬でも零度以下になることは稀なのだそうだ。
夏涼しく 極寒の冬がなく、降雨量は年間を通じほぼ一定で 梅雨や干ばつがない。
これは 暖流や偏西風の影響で、これを 西岸海洋性気候と呼ぶことを知った。

しかし 緯度が高いのだから、陽射しは日本に比べて かなり低いはず。
低い陽射しは、多くの水分や埃を潜りぬけて、穏やかになる。
そして 窓からの光は、部屋の奥深くまで 忍び込む。
絶対量の少ない光を逃がすまいと、この地の人々は太陽光線へあこがれる、と かってに想像する。

フェルメールの絵の中の光が、内向的な落ち着きがあり、そのくせ独占的なのは、この低い陽射しと関係があるにちがいない。
まるで、太陽光を冬眠させて いつまでも留めておきたい、というような・・・


神戸市立博物館でのマウリッツハイス美術館展は、この6日で終わった。
終わるぎりぎりに、観に行った。
目当ては、レンブラントの最晩年の自画像と、もちろん フェルメールの「真珠の耳飾りの少女」。

真珠の耳飾りの少女が気に入っている、というわけではなかった。
あえて言うと、あの のっぺり顔は苦手である。
わたしは、どちらかと言えば、犬に例えると ブルドッグやチワワのように、クチュンとした顔のほうを好む。
この少女の顔には、なにか 人間を感じさせない、生気のなさが漂っている。
なんの個性も見出せそうにない、ゆいいつ特徴的な厚めの唇は、一見だらしなく開いている。

ならば、わざわざ神戸まで観に行かなくても・・・。
それでも観たいのは、ひとえにミーハー根性なのだ。
なんで みなが、ダヴィンチのモナリザに劣らぬ興味を持つのか、現物で確かめたかった。


謎に包まれた画家、フェルメール。
自画像もない、直筆の手紙も見当らない、アトリエも残っていない。
が、ドラマチックな生涯を空想して謎に包みたがるのは、わたしのような後世のミーハーである。
確かな資料から窺がえることは、フェルメールは いたって普通の一生を送ったようだ。

フェルメールがその43年の生涯の大半を過ごしたデルフトは、わずか1km四方の小さな町らしい。
しかし フェルメールが生きた17世紀のオランダ最盛期には、アムステルダムやロッテルダムに比べれば小規模ながら、デルフトも 東インド会社の拠点のひとつとして、エネルギッシュな繁栄を築いていた。

フェルメールは、年に2,3作のペースで作品を仕上げて 10人をこえる子供を養っていた、と伝えられている。
そんな 一見のどかな暮らしが可能だったのは、裕福な義母の援助もあったのだろうが、オランダ最盛期という時代が フェルメールを活かしたことは間違いない。


「真珠の耳飾りの少女」をまじかで見られる列は長蛇をなし、かつ 永くは止まっていられない。
人の肩越しからなら、離れてはいるが ゆっくり眺められる。
その方を選んだ。

画集やさまざまな印刷物で目にする 大きさのイメージとはかけ離れて、ずいぶん小さな作品だと感じた。
まず惹きつけられたのは、少女の瞳。

鑑賞する前に読んだ手引書に、「鑑賞者は無意識のうちに画家の揺れ動く視線を体験させられるであろう」とあった。
その訳が、少女の瞳に映る光点であることを理解した。

実は、マウリッツハイス美術館展を観る少し前の旅先で 孫とのツーショットの似顔絵を描いてもらったのだが、そのときの「画竜点睛」体験が、この理解に役立ったと かってに合点している。
その似顔絵は あまり上手とも思えなかったが、ただ 目だけは活きていた。
活きたと感じたのは、似顔絵の絵描きさんが 描き終わる直前に、白マジックインキのペン先で 瞳に映る光点を点付けした瞬間だったのである。

少女は、じっとこちらを見ているのではなさそうだ。
しがない似顔絵とフェルメールの名画を並列に置くこと自体 恐れ入るのだが、少女の左右の瞳に映る 微妙に位置がずれている白く小さい光点から、振り向いた瞬間か 真っ黒なバックの方を向こうと動きかけた瞬間か どちらか判らないが、確かに揺れている、そう感じ取ることができたのだ。

この光点の効果は、口元の左右にもみられる。
だらしなく開いていると考えていた唇は、これらの光点で いっそう、なにかを話しかけようとしている瞬間か 「どう?」と話し終えた瞬間か どちらか判らないが、確かに話声が聞こえる気がするのだ。

名画の題名にもなっている、真珠の耳飾り。
これはすごい。
少女の首筋の肌に重ねられた 二つの白いハイライトだけで、よくもまあ 見事に球面を描き出している。
やはり、観に来て よかった。
この真珠の輝きの魅力は、実物をじっくりみないと判らない。


神戸市立博物館を出るときには もう、縦約45cm横約40cmの「真珠の耳飾りの少女」の、光の魅力に はまってしまっていた。
フェルメール、この名の響きも、実に魅力的ではないか。
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頼るべきは、自分自身に宿るエネルギー。

2013-01-02 18:21:42 | Weblog

気功太極拳を長年学んでいて、その究極の目的はいったい 何だろう と、疑問に思ったことが これまで何度かありました。
それを、元日の中日新聞に載っていた「新春対談」で、はからずも知ることができた気がします。
東大教授・玄田有史(げんだゆうじ)氏と、脚本家・倉本聰氏の、「明日をひらく」というタイトルの対談です。

以下に述べる気功太極拳への思いは、この対談から気づかされたものです。


気功太極拳の究極の目的は、自分自身の体内に宿る〈エネルギー〉を見いだし 使いこなすこと。
それは、〈生きる力〉と言い直しても いいのかも知れません。
それは また、〈希望〉という名の幸せ力とも言える。
人間 究極のところ、頼るべきは 自分自身の体の中に持っている〈エネルギー〉であり、それを巧みに操って生きることが とりもなおさず、各自特有の幸せのかたち〈希望〉なのですから。

気功太極拳をやっていると、ときどきですが、とても幸せな気分になります。
その幸せな気分とは、極めて個人的な〈幸せのかたち〉なので うまく表現できないのですが、いまこのときに満ち足りている気分・・・かな。
それは、冒頭に紹介した対談で、倉本氏が表現されていた心と通じるように思います。
すなわち、「幸せとは、現在に満ち足りている心」だと。


この「新春対談」で、もうひとつ 気づかされたことがあります。
これまで自分がどうして職人に魅力を感じていたのか、それを、玄田氏のつぎの発言で ガッテンな解釈を得たのです。

  (「生きる」ということと「暮らす」ということが分離している、そこに現代人の欲望制御不能の病巣があるのでは、という趣旨の倉本氏の指摘に応えて・・・)
  感覚がまひするんですね。たとえば職人のよりどころは、体験であり、実感に裏打ちされた見方です。そういう体験が大事だという人が減っている。

これを受けて、倉本氏が引用した 宮沢賢治の教えに、足るを知る心の神髄を見た気がします。
  彼(宮沢賢治)が農学校の先生をしていたとき、「二引く一は?」と聞いたら生徒は「一です」。では「二引く二は?」、「ゼロ」。そして「二引く三は?」。「マイナス一です」と答えたら、「それは違う」と言う。「二つのリンゴからは二つしかとれない。三つとろうとしても、二つなくなって、もう一つはとれない。答えはゼロだ」。そっちのほうが正しい。リアルだという気がする。なくなったらとれないということが残る。

高望みとは全く異なる価値観、職人は これを、理屈ではなく 実感として身に備えているのだと、気持ちのいい解釈ができたのです。
職人は 巧まずして、「頼るべきは、自分自身に宿るエネルギー」だと、体得しているのです。


気功太極拳と職人は、その究極の目的とするところは、意外に同じなのかも知れません。


最後に、玄田氏が被災地・釜石で出会った82歳の八幡さんの〈夢〉を、年の初めの自分の心に刻むべき言葉として、引用させていただきます。
  「夢を持ったまま死んでいくのが夢です」。
 

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