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つれづれ

思いつくままに

学者ボケの集団記者会見

2009-11-26 09:54:19 | Weblog
「日本の頭脳、抗議の結集」。
いま 政府が行っている『事業仕分け』で 科学技術予算が廃止や見直し、縮減対象になったことに異議を唱える ノーベル賞・フィールズ賞受賞者たちが、ずらりと並んで 記者会見している模様を、テレビ報道で見た。
はっきり言って、不愉快である。
なにを 偉そうに、と言いたい。

『事業仕分け』には、色々問題があると思う。
そのことと、「日本の頭脳、抗議の結集」とは、わたしの感覚からは、似合わない。
学者が 政治に口をだすな、とは言わない。
しかし、アインシュタインや湯川秀樹が、原爆使用反対運動に率先だって協力したのと、今回の「抗議の結集」とは、まったく別物である。

はっきり言おう。
学問だけが、それも 理系の学問だけが、世の趨勢から切り離されて恩恵を受けることは、間違っている。
会見に列座した学者たちは、これまでも国の援助を 潤沢に受けてきたはずである。
ある意味 そのお陰で、ノーベル賞やフィールズ賞を与えられたと、言えなくもない。
今の国立大学や国立研究所の事情は よく分からないが、少なくとも 会見に列座した学者たちが学んだ時代には、贅沢すぎるほどの国のお金が 彼らに注がれたはずである。
だからこそ 彼らは、今の日本の現状をよく理解し、いまこそ この国の恵まれない人たちに思いを至らす立場にある。
それができないのなら、学者ボケの謗りを免れない。

あの会見は、政治の臭いがする。
もし そうでなくても、あんなふうに雁首揃えて記者会見すれば、そう勘ぐられても仕方なかろう。
金がなくても すばらしい学問の成果をあげることも、若い学者たちに授けるべき教育ではないか。
あれでは、さもしい圧力団体と かわらない。
もう少し、世間を知って欲しい。

まったく不愉快な記者会見であった。
唯一の救いは、あの場に 益川敏英教授が、いなかったことである。

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落ち葉の季節

2009-11-25 10:24:22 | Weblog
当社前の御池通り歩道が、舗装工事に入っている。
堀川通り以東のような 立派な舗装ではないが、透水性の こげ茶とグレーのブロック舗装歩道となる。
街が きれいになるのは、うれしいことだ。

北側から工事が始まったので 南側のイチョウ街路樹は 枝落しを終えたが、こちら、北側のイチョウは、半分まっ黄に色づいて 工事中歩道に落ち葉をハラハラ撒き散らしている。
掃き集めるのに、けっこう時間がかかる。
ことに 雨上がりの濡れ落ち葉は、強く掃かないと寄せられない。
ちょっとした重労働だ。
まぁ 半分仕事のように、半分楽しみながらの日課である。
きれいな舗装歩道が 待ち遠しいが、長い間 手間のかかった、へこみ水溜りや穴ボコも、もうすぐ無くなるのかと思うと、なにか 別れづらいような気分になる。
妙なものだ。

低い陽射しを まっ黄の葉っぱを通して浴びるよろこびは、この季節だけの 特権である。
その代償の落ち葉掃除と思えば、毎朝の労働も さほどのことではない。

季節は、色で頷ける。
イチョウの黄色は、晩秋の象徴である。

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愚公 山を移す

2009-11-20 14:04:49 | Weblog
中学の国語の教師で、「しじら」という あだ名の先生がおられた。
「しじら」とは何なのか、いまだに理解していない。
が、なぜ「しじら」なのかは、なんとなく分かる。
授業中、そんなに悪いことをした覚えがないのに 耳を引っ張られて廊下に出され、水のいっぱい入ったバケツを両手に提げさされた記憶からか、お天気屋の 怖い先生という印象が強い。
わたしも そうとう小生意気だったし、相性も悪かったのだろう。
「しじら」というあだ名そっくりの、いけ好かない先生だった。
おもしろいもので、そういう先生ほど 想い出が大きいものである。

菊池寛の短編小説『恩讐の彼方に』を、学習していたときであった。
小説の主人公である了海(俗名・市九郎)が こつこつと青の洞門を穿つ情景を喩えて、「しじら」先生は、<愚公 山を移す>ということわざを 黒板に書かれた。
ことわざの由来やほんとうの意味が 判っていたはずがないのに、このとき、<愚公 山を移す>という言葉が、すんなりと頭に入った。
それ以来、<愚公 山を移す>は、わたしの座右の銘のひとつになった。

つい最近、どこの企業の社内報であったか、「ミミズの土壌学」と題する雑文を読んでいて、あの 中学の国語の授業で感じた、言葉がすんなり頭に入る 同じ感覚を、味わった。
・・・中国に <愚公 山を移す>という故事があるが、ミミズのことを調べていると、ふと この故事を思い出す・・・という件であった。
そう、ミミズの営みは、まさに<愚公 山を移す>に違いない。

ミミズは、一見 グロテスクな生き物である。
以前は 触るのも気持ちが悪かったが、土いじりをするようになって よくよく観察してみると、けっこうかわいい生き物である。

ミミズは、「自然の鍬」だと言われる。
ミミズが土中を掘り進むことによって、そこには無数の穴が明けられる。
この穴に、水や空気が入り込む。
これにより、土壌表層の流壊を防ぎ、同時に この穴に土中の腐食残渣が塗り込まれて 栄養分を保持する。
されに この穴には、作物の育成に程よい有効水分が保たれ、晴天続きや降雨続きによる乾燥や冠水を防ぐ働きをしている。
土壌に対する、ミミズの行動の 物理的な働きかけ、といえよう。

一方、ミミズは、「大地の腸」と言われる。
土くれを食べるミミズは、その腸内で 摂取された微生物が培養され、滋味豊かな栄養分を多く含む糞として排泄する。
糞だけではない。
ミミズの頭部と胴体を分ける白っぽい部分を 環帯というが、ここから排泄される尿は、植物の生育に欠かせないアンモニアなどの窒素に富んでいる。
この尿を 掘り進む穴の壁面になすりつけて、ミミズは 自分の尿を掘削油のごとくにして、硬い土をも掘り進むことができるのだ。
ミミズの通った穴には、空気が送られて 栄養素としての窒素が豊富に供給される。
まさに これは、ミミズの行動の 土壌に対する化学的な働きかけ、といえよう。

さらに ミミズは、生物濃縮の濃い生き物で、体内には植物にとって豊かな栄養分となる物質を蓄積している。
だからミミズは 死してなお、体内に蓄積された高い栄養価ゆえに、死骸が分解されて 地味をより豊かにしていく培養基として働くのである。
その反面、だからこそ、カドミウムや鉛の汚染土壌は、ミミズにとっても 作物にとっても、ひいては それを食する人間にとっても、怖いのである。

このような ミミズの、<愚公>のごとき営みは、いとおしい限りである。
軽蔑など できようか。

雨上がりのアスファルトに、ミミズがよたよたしている。
箒の先で 痛くないように そうろと塵取に載せて、土場へ返してやった。
愚公に感心して 山を移した天帝の気持ちが、ミミズの不恰好な動きを眺めていると よく分かる。

ミミズへの愛着が増すとともに、<愚公 山を移す>は、やはりこれからも わたしの座右の銘でありたい、と思うのである。

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含胸

2009-11-16 16:22:16 | Weblog
含胸、中国語で ハンシュンと読むらしい。
健康太極拳の創始者 楊名時先生が、その十二の極意として挙げられている『含胸抜背 脊貫四梢』に出てくる ことばである。
「含」は、花が満開になる前の、つぼみが少し膨らんだ状態を指す。
「含胸」は、小さな風船を膨らませるように、胸を少し膨らませる、という意味合いだ。
気をつけ!の姿勢のように 胸を極端に張るのではなく、やや控えめに ゆとりのある姿勢ということである。
同じことが、日常生活でも言える。
自分の心の中で思っていることを ぜんぶ言い切ってしまわないで、三分の余裕を残して 相手の言い分も受け容れる心の持ちようを、指しているのであろう。

含胸ということばから、わたしは 鳩胸を連想する。
豊かな胸は 女性の大きな魅力ではあるが、わたしは むしろ理知的な鳩胸が好ましい。
鳩胸は、和服にもよく似合う。
鳩胸の雰囲気は、含胸という言葉の持つ 本来の意味合いにも 通ずるものがある。

個人的な解釈は ともあれ、「含胸」ということばは、いい響きである。
わたしは、このことばに惹かれる。
胸に花のつぼみを抱えるように、奥ゆかしいなにかを宿して、ゆったりとした姿勢でいたい、と思うのである。

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