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つれづれ

思いつくままに

アーミッシュの生き方から学ぶもの

2009-07-22 14:06:06 | Weblog
アメリカ東部ペンシルベニア州で、3年前 キリスト教の一派 アーミッシュ運営の学校が襲撃された事件を、覚えてられるだろうか。
ランカスター郡にあるウエスト・ニッケルマインズ学校に、散弾銃、短銃、ライフルを持った男が侵入し、女子児童らを人質にとって 立て篭もった。
約1時間後 州警察が学校を包囲したが、犯人が発砲、人質の10人の女児を撃ち 5人が殺された事件である。

銃乱射事件が続いた当時のアメリカで とくにこの事件が わたしの記憶に残っている理由は、被害者であるアーミッシュの人たちがとった 神か仏のような行動であった。

殺害された13歳の女の子が 年下の子どもを逃がそうと、「自分を先に撃ってください」と 犯人の32歳の男(犯行後に自殺)に申し出ていたことが、事件後の生存者の証言で判った。
この女の子の妹(11歳)も、自分を撃つように男に訴えたという。
妹は、撃たれて肩などを負傷した。
事件後には、犯人の妻やその3人の子どもが 多くのアーミッシュの人々に抱擁される場面もあったほか、犯人の妻は 犠牲者の葬儀に招かれたとも聞く。


いま 京都の思文閣美術館で、《Plain People アーミッシュの生き方》展が催されている(8月2日まで)。
家内の友人の浦地瑞穂さんから この催しのチケットをいただかなかったら、アーミッシュを良く知らないまま、あの事件も 記憶の彼方に散っていたことであろう。

オーム真理教のいやな印象が強すぎて、アーミッシュという宗教集団を、週刊誌の見出し文字的な認識だけで 捉えていたようである。
《Plain People アーミッシュの生き方》展をみて、また そこで入手した『アーミッシュの昨日今日明日』(ドナルド・B・クレイビル著 論創社刊)を読んで、そして 東京工芸大学工学部基礎教育研究センター教授の野呂浩氏の寄稿文『アーミッシュ・ウェイ・オブ・ライフ』に触れて、アーミッシュの生き方がどんなものであるか 少し判ったような気がする。

少し判ったような気がして、おぉ!と気づく たくさんの猛省がある。
神か仏かのようなアーミッシュの少女の行動を ほんのちょっと理解できそうな、身震いが起こりそうな啓示がある。

アーミッシュをほんの少し知った程度のわたしが、数行の文章で アーミッシュを説明できるはずもないが、この展示場で わたしが啓示みたいなものを受けた展示パネルのいくつかを、紹介しよう。

  すべきこと:男性のあごひげ(結婚後)
         馬車の利用
         ペンシルベニア・ダッチ(ドイツ語の古語から訛った言語)の使用
         色や形のほぼ決まった衣服の着用
  してはいけないこと:カメラ, テレビ, コンピュータなどの使用
              航空機の使用
              訴訟をおこすこと
              兵役につくこと
              宝石などの装飾
              自動車の所有・運転
              高等教育を受けること
              離婚


いま 世界は、大きな転換点にある。
マネー資本主義の崩壊は、わたしたちに そのことを知らしめた。
では これから、わたしたちは どうすればいいのか。
政治が悪い 社会が悪い、声高にそう叫んでも それで何が解決できるのか。
ひとりひとりの幸せは、ひとりひとりの心のあり方ではないか。
心のあり方に、あえて二つを挙げるなら、ポイントは「謙虚」と「少欲」であろう。
そのことを、アーミッシュの生き方から はっきりと学ぶことができる。

もともと 日本人は、謙虚な民族であったはずだ。
それが いつしか、自己主張、個性尊重、競争原理が まかり通り、謙虚な心は どこぞへ忘れ去られてしまった。
自我を殺したみせかけの謙虚は、卑屈である。
いつのまにか、卑屈を謙虚と履き違えてしまっている。
「自分で復讐することをしないで、神の怒りに任せなさい」と教えられたアーミッシュの子供たちは、自我を殺すのではなく 自我を無限の愛に 自然に昇華している。
まことに謙虚なのだ。

欲が 人間を高きに引き上げる要素であることは、真実である。
しかし 強欲が人を蹴落とし、ついには戦争という 人間最悪の業に行き着かせてしまうことも、また真実である。
アーミッシュは、絶対平和主義である。
その障碍が 欲であることを、アーミッシュは 長い迫害の歴史から学んだ。
だから あえて、欲をあおる要素、《便利なもの》を排そうとするのだ。
それは、禁欲の苦しみを ほんとうに知った者のみができる、知恵である。
少欲の愉しみ「足るを知る」、これも もともと日本人の美徳ではなかったか。

謙虚と少欲、わたし自身 この二つから程遠いから 余計思うのだが、ひとりひとりのレベルで達成可能な そしてそれが、最終的に世界に安寧をもたらすことになる と、アーミッシュの生き方から学ぶことができた。


《便利》の味を知った わたしたち現代人は、もはや アーミッシュには なれない。
しかし、わたしたちが進むべき未来への 大切な指針のいくつかを、《アーミッシュの生き方》から学ぶことができると 確信する。

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防人の詩

2009-07-18 03:26:07 | Weblog
このところの蒸し暑さと 体調の悪さで、真夜中に目が覚めて それから眠れぬまま、レコードを聴きながら 無聊を慰めることが 多くなった。

いまも BOSEのスイッチを押したら、家内が寝しなに聴いていたのだろう、平原綾香の『明日』が 流れてきた。
思い出した。
テレビドラマ、倉本聡の『優しい時間』の主題曲だったなぁ。
平原綾香の ささやくような静逸な歌声は、眠れぬわたしの脳に やさしく滲みわたる。
このアルバム<ODYSSEY>を、聴き進んでいく。
『Brand-new Day』が、気に入った。
わたしの魂にまだ宿っている 若い情熱を、じわじわと呼び醒ますメロディー。
“Track Repeat”モードで、繰り返し聴いている。

この状態じゃぁ 当分眠くなりそうもない。
さだまさしの『風に立つライオン』が なんかのドラマの中で紹介されていて、先日 河原町の清水レコード店で、この曲が入っているアルバムを買っておいたのを思い出して、封を切って かけてみた。
好きな曲『道化師のソネット』も、入っている。

聴き進むうち、『防人の詩』が流れ出した。

最近 親しい人の死が続いている。
死に 思いをめぐらさずにはおれない。
親しい人の死に直面するとき、死ぬことって いったい何なのだろう と、素朴に疑問に思う。
初めて 死ということに深く思いを至らせたのは、祖母の死であった。
中学二年のときだった。
それは、わたしにとって強烈な思索であった。
常は 死は縁遠い。
生きていることって、死を忘れてることでもある。
真に生きることは 真剣に死と向き合うことだ などと、哲学書は教えるが、凡人には 生きることで精いっぱいなのが 現状だ。
だが とことん生きることに疲れた時、死は すぐ傍に寄り添ってくる。
そして 死が、もっとも大きな関心事になる。
宗教も 哲学も、いまのところ わたしに明確な回答をよこさない。

ところが、である。
『防人の詩』を聞いて、まるで不思議なくらい 清らかな涙が流れ出た。
死を、これほどまで 感覚的に理解できたことはない。
このメロディーは、人間の生の根底に 深く深くしみじみと触れることによって、死を昇華してくれている。
それも、重苦しくなく・・・

わたし自身 いつか、ひょっとしたら近々、死に直面するだろう。
これは、生きとし生けるものの さだめである。
そのとき、きっと『防人の詩』を所望するだろう。
この歌を聴きながら、静かに眠りたい。
それが いま、贅沢な望みである。

常用している眠剤は 効かなくなってきた。
ブランデーを コップ半分、ゆっくりと飲む。
ようやく 眠気を催してきた。

こんなことの繰り返しの、毎日である。

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反逆の時を生きて

2009-07-09 22:20:36 | Weblog
「反逆の時を生きて」
これは、朝日新聞夕刊記事“ニッポン人脈記”の、いま連載されているシリーズの題名である。
70年安保の学園紛争前後に 青春を駆け抜けた人々の、鎮魂記とも受け取れる。
団塊の世代が 第一線を退き、過去を振り返る時期にきた、ということか。
その第一回に記載されたのが、高野悦子『二十歳の原点』であった。

「会長の興味ありそうな記事が載ってますよ」と、当社ホームページを管理してくれている水野さんが渡してくれた夕刊の、このシリーズ第一回の記事を一目見て、遠い遠い魂の叫びが どっと甦った。


当社のすぐ東の南北の通りを、“御前通り”という。
北野天満宮の御前を通る道だから、御前通りである。
この通りを少し北へ上がると、JR山陰本線(嵯峨野線)に交差する。
いまは高架になっているが、以前は踏切を越えて 丸太町通りへ出た。
昭和44年6月24日の未明、この踏切近くに下宿していた高野悦子さんは、単線のレール上を 西に向かって歩いていた。
御前通りのもうひとつ西の通り“天神通り”の踏切から20mほど進んだところで、上り貨物列車を避けることもなく、自殺。
二十歳になったばかりだった。
その数日前 郷里の栃木県西那須から上京した母に買ってもらった 茶色のワンピースを身につけ、同色の これも一緒に買ってもらった靴を履いて・・・

革命的変革時には、ジャンヌ・ダルクが現れる。
周囲が それを求めるからだ。
女だてらに という偏見も、その あと押しをする。
60年安保闘争のときは、全学連の国会突入デモ時 警官隊と衝突して圧死した、樺美智子さんだった。
つい先だってのイラン騒動でも、デモで死亡した ネダさんという若いきれいな女性が、<イランのジャンヌ・ダルク>として ネットを通じて全世界に知らされた。
だが 高野悦子さんの場合、学園紛争中には その存在はほとんど知られることはなく、紛争が終焉しかかった昭和46年に その手記が新潮社より出版されて 初めて、人口に上ることになる。

『二十歳の原点』を手にしたのは、勤務地の愛媛県新居浜であった。
当時 新居浜で一番大きな本屋、登道の“はるや書店”の店頭書棚で、それを見つけたのである。
社会人になって 一年が経っていた。
この手記に自分を語っている人物は、男女の差、4歳の年齢差を越えて、わたし自身の生き写しのようであった。
たいへん不謹慎なもの言いだが、彼女の死は わたしの身代わりのような、思いあがった錯覚にとらわれたものである。

「反逆の時を生きて」の記事を読んだその翌日、物置の奥を探し回ったが、あの単行本『二十歳の原点』は見つからなかった。
失われた記憶を取り戻したい!みたいな探し方・・・
文庫本なら手に入ることを ネットで知り、新たに買った 新潮文庫『二十歳の原点』を むさぼるように読み返す。

高野悦子さんがよく利用した<シアンクレール>という音楽喫茶店は、荒神橋から河原町通りへ出た交差点、荒神口の北東角にあった。
いまは、もうない。
立命館の学生だった彼女は、立命館がいまの衣笠学舎に移転する前の 広小路学舎に通っていたのであろうから、その近くのシアンクレールを よく利用していたのであろう。
荒神橋は、サークルの先輩から「ここは昔、京大生と警官隊が衝突して、欄干が崩れて、大勢の負傷者をだしたんだ」と聞かされていた。
いわゆる“赤狩り荒神橋事件”である。
そんな事件に興味もあってか わたしも、荒神口のシアンクレールへは ときどき通ったものである。

昭和44年1月、京大正門がバリケード封鎖される直前に 非暴力の呼びかけビラを配ったわたしと二人の友人は、民青からも全共闘からも マークされる存在になっていた。
自分がしでかした行為の 思いがけない展開にビクついている自分に、失望していた。
ガンジーへの傾倒は、いったい何だったのか。
そんなに軽薄な信念だったのか、と・・・

研究室の仲間は 封鎖中も、構内から抜け出して(吉田神社との境界通路へは東の垣根を飛び越えて 案外かんたんに出入りすることができた)、百万遍の<進々堂>で よく集会をしていたが、わたしは 稀にしか参加しなかった。
「君子 危うきに近寄らず」と「機を見てせざるは 勇なきなり」との間で 揺れに揺れていたわたしは、親しみのある荒神橋を越えて、シアンクレールで ひとり 夏目漱石全集を読みふけっていた。
現状から逃げていた。

シアンクレールは、二階が名曲喫茶になっていた。
ひょっとしたら、あの隅っこの席で 煙草をふかしながら朝日ジャーナルを読んでいた 子供っぽい丸顔の女性は、高野悦子さんだったかもしれない。

他人と繋がっていたいくせに、自我意識が強すぎて うまく人の輪に入っていけない。
高野悦子さんも、同じだったろう。
とくに 異性との付き合い方が、興味津々なのに、どうしていいか わからない。
そんな一番多感な時期に 一番狂おしい事件、学園紛争に行き当たった彼女のもがきは、わたしにはよく理解できる。
わたしは いい加減なところがあるが、彼女は 純粋だったのだ。

彼女がよく立ち読みした 烏丸丸太町のアオキ書店、嵐山に下宿していた頃 よく通った喫茶店<松尾>、よくサイクリングに出かけた 広沢の池、喫茶店<白夜>、スナック<ろくよう>・・・
すべて わたしも、慣れ親しんだスポットである。

彼女が読みふけった書物の幾冊かは、当時のわたしの愛読書でもあった。
怖いくらい、似ている。

60年安保は、中学二年生だったわたしには 実感のない現代史のひとこまである。
70年学園紛争は、生々しい記憶の中にある 人生の一部分である。

あの時、誰彼を問わず、みんな 被害者であると同時に、みんな加害者であった。
マイクからがなりたてていた 民青のウラナリ顔の青年も、タオルで眼しか見せなかった ひょろ長い中核の男も、防弾盾の隙間から敵愾心丸出しにわたしを睨みつけた 同年輩の機動隊員も、成り行きで構内に立てこもりながら デモと機動隊の殺気立った衝突をおずおずと傍観していた ノンポリの学生も、みんな被害者だったし、同時にみんな 加害者でもあったのだ。
みんな 孤独で、誰かと繋がっていたかったのだ。

60年安保を 政治闘争と呼ぶのなら、70年学園紛争は 自己闘争ではなかったか。
社会への扉の入口に立った若者の、反逆すべきはずの社会に 同化して生きねばならない自己に対する、震えながらの闘争ではなかったか。

学園紛争が頂点に達した昭和44年、わたしは すでに社会人への助走を始めていた。
だから 紛争とは、半分以上 逃げながら、距離を置くことができた。
わたしより3学年下の高野悦子さんは、まじめだったから なおさら、紛争の渦中に放り出されてしまった。


『二十歳の原点』を読み通して 目が冴えて、眠れぬまま さだまさしの『道化師(ピエロ)のソネット』を聴いている。
もし あのとき、高野悦子が この『道化師のピエロ』を聞いていたなら、そして 太宰治のあんな小説を読まなかったなら、貨物列車に飛び込むなど しなかったのでは・・・

高野悦子さんは 二十歳の誕生日 昭和44年1月2日の日記に、独りであること、未熟であること、これが二十歳の原点である、と書いている。
それを達観していた彼女を その半年後の自殺にまで追い込んだもの、それは いったい何だったのか。
それは、あの時代の風だったと、わたしは いまにしてそう思う。





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友 遠方より来る

2009-07-07 04:04:03 | Weblog
先日 松並壯君が、尋ねに来てくれました。
ほんとうに 久しぶりです。
彼は、自称“うんち博士”で、技術士(水道部門)の資格を持っています。
水の大切さ、下水道の重要性を正しく認識している、数少ないエンジニアです。
“口八丁手八丁”とは、彼のような人物を言うのでしょう。
行動的な松並君が訪ねて来てくれなかったら、彼とは もう会えなかったかも知れません。
手土産にいただいた大磯のせんべい、船橋屋織江謹製の『大いそ花吹雪』は、実に旨かった。
彼の話によると、かの吉田茂も大好物だったとか。

日本の現状を憂え 人生の愉快を説き 専門の上下水道に熱弁をふるって、過ぎる時を惜しんだ松並君が、「これが今回の訪問の第一目的」と言って渡してくれた論文、『昭和戦争の反省~21世紀の日本国の健全化のために~』を精読しました。

この論文は、大正14年生まれの 故・中川義徳氏の遺稿文で、「水道界 平成16年3月号」に記載されたものです。
中川さんのことは、松並君から その“真の技術者”たる人柄を 飛び飛びに聞き知っていましたが、このたび 氏の経歴や業績を詳しく知って、こういう技術者がおられたからこそ 戦後日本の驚異的な技術立国への変身ができたのだと、つくづく思ったものです。
特に、首都・東京の 耐震を重視した上下水道は、中川義徳氏の業績に負うところが大きいことを知って、改めて 誇らしく感じます。

技術者・中川義徳氏が、彼が生きた昭和の歴史で最も反省すべき事件、昭和戦争(彼は昭和6年の満州事変から昭和20年の敗戦までを「昭和戦争」と呼んでいます)に対して、ひとりの良識ある民間人として抱いた 真剣な思いが、この遺稿を読むわたしに、ていねいな真心をもって伝わってきました。

ところで、田母神・元航空幕僚長の論文が話題になり、マスコミが一時期 彼を英雄視するかのごとき扱いをしたとき、わたしは 心底 腹立たしく感じました。
田母神氏のような考え方があっても、それは構いません。
田母神氏がマスコミへ露出する度合が増すにつれ、彼の主張が正しいような錯覚を 聴衆に抱かせてしまったことが、腹立たしいのです。
わたしのような浅学な者からみても、田母神氏の論文は、昭和戦争を経験していないことから生じる実感の無さに加え、昭和戦争を十分に照査していないことが歴然とわかります。

一方、中川義徳氏の遺稿論文を読むと、長兄がソロモン沖海戦で戦死され、また兄上お二人が南方戦線で九死に一生を得て還ってこられたというご家庭の事情、1997年にガナルカナル島で執り行われた戦没者55年忌慰霊式に参加した体験などから、昭和戦争を にじみ出る思いで照査された痕跡が、ひしひしと伝わってきます。
感情だけに流されるのではなく、冷静な技術者の目で 莫大な資料を照査されてのち、昭和戦争を猛省されているのです。

この論文で 中川氏は、日本の将来を左右する重要な節目節目で そのときどきの日本のリーダーの人間的器の大小が その後の日本の命運を分けることを、強調されています。
時を追って、張作霖爆殺事件、満州事変、五・一五事件、リース・ロスの中国幣制改革への対応、ニ・ニ六事件、蘆溝橋事件、ドイツの日中和平調停への対応、ノモンハン事件、日独伊三国同盟と日米交渉、そして太平洋戦争と、それぞれの節目で採った当時の日本のリーダー達の誤りが、沖縄の悲劇、本土主要都市への無差別空襲、そして広島・長崎への原爆投下へと導かれ、ポツダム宣言受諾、全面無条件降伏での終戦へと至る歩みを、膨大な資料の照査と 彼自身の悲痛な体験に基づいて、ていねいに 判り易く、語っているのです。

わたしは、中学校でも 高校でも、歴史の授業で この「昭和戦争」を詳しく教わった記憶がありません。
高校では 大学受験との絡みで、明治維新くらいまで来ると 講座時間切れとなり、あとは各自で学習するように・・・でした。
歴史の先生としては、「昭和戦争」を教えたくても、思想的な問題が絡む近代の歴史授業は 避けざるを得なかったのかも知れません。
歴史でいちばん重要なのは、近代史なのに・・・

少し話は逸れますが、佐藤栄作氏がノーベル平和賞を受賞したとき、わたしは その受賞理由に合点がいきませんでした。
時がときなら、昭和天皇にこそ ノーベル平和賞をもらってもらうべきだ と、思っていました。
そんな事態になっても おそらく、昭和天皇は 受賞をお断りになられたことでしょうが・・・

中川義徳氏は この論文の中で、節目節目の事件に際して 昭和天皇が いかに平和への道へ軌道修正しようと努力されたかを、決して右翼的尊王感情からではなく、昭和天皇を 平和をこよなく愛し願うひとりの人間として、正当に評価しています。

例を挙げます。

<ニ・ニ六事件に当って>
『・・・天皇は反乱の報を受けたときから、一貫してこの動きに反対し、重臣を殺した反乱軍の鎮圧を強く命じた。この天皇の強い命令にもかかわらず、陸軍幹部は鎮圧をためらったので、天皇は「お前らがやれないのなら、自分が近衛師団をひきいて鎮圧する」といわれたので、ようやく28日午前6時に撤兵を命ずる奉勅命令が出された。「今からでも遅くないから、原隊に帰れ・・・」の放送が行われると、下士官、兵は たちまち帰順し、日本をゆるがした大事件も あっけなく終わった。
 この事件の処理にあたって、天皇のとられた筋を通した勇気ある行動と信念には ほんとうに頭が下がる思いで、この聖断がなければ、日本はその後 完全に軍のいいなりになる無法国家になってしまったことは確実である。』

<もし、8月15日の終戦が遅れたら>
『・・・昭和天皇の聖断により、8月15日に終戦となったが、これがもし遅れたらどうなったか。まず第一に、すでにソ連軍は満州に大挙侵入していたが、南樺太から北海道へ上陸し、さらに東北地方北部に上陸したにちがいない。この段階では、日本本土の防御能力はきわめて低下していたので、日本軍がこれを撃退することは不可能であったろう。
 そうなれば、ソ連占領地域には、ソ連影響下の共産主義政権(北日本人民共和国?)ができ、ちょうど 北朝鮮と同じような国となったに相違ない。
 そして、必ずや朝鮮動乱ならぬ日本人どうし骨肉相争う日本動乱が起きていたに違いない。これは、昭和戦争以上の国民への被害と不幸をもたらしたであろう。これを避け得たのは、昭和天皇の身を捨てての決断によるところが大きい。
 昭和天皇は、日本が連合軍に降伏すれば、自分の生命はないと覚悟されてのことだったに違いない。昭和天皇に 心から感謝の念を新たにする次第である。』

<東京裁判>
『・・・なお、天皇を裁判にかけるべきだとの意見を、ウェップ裁判長は持っていたが、天皇は元来 平和主義者であり、国民の尊敬の念厚く、その天皇を裁判にかけることは、日本国民の反抗を招き、占領統治を困難にするというアメリカ政府および、天皇の人柄に感激したマッカーサーの配慮から、天皇は訴追されなかった。』

中川氏は、この論文を次のような言葉で、締めくくっています。

『・・・昭和戦争を振り返って反省するに いちばん重大な点は、一度起こした失敗を 次の指導者が 反省して勇気をもって改めようとせず、その責任をとらずに次の代に後送りしていった無責任体質が、遂に 勝てる見込みのほとんどない日米戦争にまで導いてしまったことである。・・・日露戦争の勝利以降、国民全体に気がゆるみ、指導者層も緊張感を失って、国全体より、自分の属するグループの利害を先に考えるようになった。・・・国全体のことを総合的、長期的立場で考える指導者不在のまま進行したのが、昭和戦争であった。』

この指摘は、現在の日本の指導者たちの体たらくに あまりにも酷似しているようで、恐ろしいくらいです。

松並壯君は、ほんとうにいい置き土産をくれました。
一期一会、再会あらば、僥倖としましょう。

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