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つれづれ

思いつくままに

素晴らしき哉、人生!

2011-09-20 16:08:42 | Weblog
東北地方の被災僻地を 3トントラックに生鮮食料品などを満載して巡回する移動コンビニのニュースが、先日 流れていました。
いいことやるなぁ と、うれしい気持ちになりました。
移動映画館もできたらいいのになぁ、被災地の人たちも たまには映画を見たいだろうに と、映画好きのぼくは かってに、そう連想していました。

きのうのニュースで知ったのですが、その移動映画館が 映画プロデューサー 李鳳宇さんらの企画によって 宮城県松島町で実現したそうですね。
李鳳宇さん心機一転の企画とはいえ、このささやかな映画祭は、被災地の人々の憂さを ひととき、きっと忘れさせてくれたことでしょう。


この映画祭の演目のひとつは、フランク・キャプラ監督の『素晴らしき哉、人生!』(1946年作品)でした。

李鳳宇さん個人の思いも込められていたのでしょうが、この上映は、実に的を得た選択だと思います。
この映画は、 暗いトンネルにあった頃のぼくに、一抹の光を射してくれた作品なのです。

その頃の「私の映画鑑賞」ノートには、こうメモられています。

アメリカの良心を描く、まさに現代の大人のメルヘンだ。
“古き良きアメリカの理想”が、見事に映像化されている。

ある田舎町、クリスマスイブ。
親から受け継いだ会社を守りながら、日ごろ 町の貧しい人たちのために 身を削って働いていた青年ジョージ(ジェームス・スチュアート)は、人生に抱いた大きな夢と希望に潰されて、絶望のあまり 川に身を投げてしまう。
その瞬間、ひとりの老いた天使が、彼を救う。

どうせ何をやっても無駄と 自分の無力を嘆くジョージを、老いた天使は「彼が生まれていなかった」彼の町へ案内する。
ジョージのいない その町は、人々の心が荒んだ 殺伐たる世界だった。
ジョージは、ちっぽけな自分にも ちぃとは人の役にたっていたことに気づく。

人は独りでは生きてゆけない。
誰かに助けられ、誰かの命を救っていることもある。
いくらちっぽけな自分に思えても、実は周囲の人々に素晴らしい“何か”を生んでいるのだ。
自分も 人生も、捨てたもんじゃぁない。

このジョージの気づきが、聖夜に さらなる奇跡を呼んだように、ぼくにも 素晴らしい奇跡が起こるかも・・・

この映画から ぼくは、良心的に生きることに、大きな励ましを得ることができた。


映画なんて つまらない、そういう被災者も もちろん大勢おいででしょう。
でも、あのささやかな映画祭に上映された映画から、なにか生きる気力を得た人もいるに違いありません。

李鳳宇さんの行動力を、尊く思います。
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技術士

2011-09-16 16:18:51 | Weblog
畏友 松並壯君は、飲み水からウンチまでを専門とする、技術士である。

半世紀も前に 水はタダだったこの日本で 彼は、「人類いや生命を維持するに必須な水は、これからの世界の一大産業になる」と(たぶん)予測した。
さらに 彼は、「人間は生存するかぎり、糞尿を処理・処分する方法を考え、対策を講じなければならない」ことを 深く認識していた。

いにしえより、人間が集落を作り 徐々に都市を建設していく過程で 上下水道が最重要課題であったことは、考古学に学ばずとも周知である。
だが、三種の白物神器を追い求めていた あのころの日本で、こういう基本的な考察を 嗅覚的に捉えていた者は、少なかった。

松並君の先見的変人性は、この嗅覚を 生きる糧にしようとしたところにある。
彼自身「きわめて打算的に」と表現しているが、“飲み水からウンチまで”の技術士たる資格を取得すれば、路頭に迷うことはないであろう、と彼は判断した。
そして、水道部門と衛生工学部門の技術士の国家資格を取得した。


実をいうと、私も 技術士(機械部門)を目指した時期があった。
ところが、そう簡単に取れる資格ではない。

二次試験には、長い実務経験(原則7年)を要する。
そして実務経験には、第三者(企業なら代表者)の証明が必要だ。

ここまでクリアーした時点で、私は受験を諦めてしまった。
○×式の受験能力しかないのに、記述式という論文試験は重荷だった。
それに、当時の私は 受験する環境ではなかった。
言い訳が半分以上だが、私にとって 技術士の壁は高かった。

その後も 技術士へのあこがれの気持ちは続いたが、ついに その壁を乗り越える努力をしなかった。


ところで、技術士とは何ぞや、ということである。
技術士法によると、技術士とは「科学技術に関する高等の専門的応用能力を必要とする事項についての計画、研究、設計、分析、試験、評価またはこれらに関する指導の業務を行う者」と定義されている。

残念ながら、同じ国家資格である 医者や建築士に比して、技術士というものは 認知度が低い。
その大きな理由は、技術士が、医者や一級建築士のような 業務独占資格でないからだろう。
逆に 私は、技術士が業務独占資格でないところに、魅力を感じるのだが・・・

技術士は、技術士法に基づいて、登録義務や守秘義務を負う。
さらに、公共の安全・環境の保全その他の公益を害することのないよう、義務付けられている。
つまり、公共性のある他社を蹴落として 一社の利益のみに供することは、本来できないはずである。

自己研鑽も怠ってはならない。
「その業務に関して有する知識及び技能の水準を向上させ」る責務を負っている。
‘ペーパードライバー’では いられないのだ。

技術士は、かくのごとく責任と義務の厳しい、れっきとした格調高い技術者である。
“Registered Professional Engineer”なのである。


憎らしい思い出として、忘れられない情景が 脳裏に焼き付いている。
父の跡を継いで いまの会社に再就職して、だいぶ経ってからのことである。

大学の同窓会みたいな会合に出席した。
名刺交換が始まった。
そのころにはもう、同窓生はみな 所属する企業において、いっかどの肩書を持っていた。

学生時代 けっこう楽しい話を交わしあっていた同窓生のひとりが、私の名刺をちらっと見ただけで、隣の同窓生に目を移してしまった。
隣にいた人物が、彼の取引先の会社に勤めていたから かも知れない。

私の僻みだったとは、十分認識している。
が、いまだから言えるが、所属した企業の肩書など、老後に何の役に立つというのか。


技術士という職業は、本人の精進さえあれば、一生の‘肩書’である。
松並君の元気をもらうにつけ、技術士に対する この私の認識は 間違いではなかった、と思うのである。
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神様のカルテ

2011-09-12 21:23:18 | Weblog
かかりつけのお医者さんは、気さくな先生です。
唐突なはなしにも 嫌な顔ひとつせず、ニコニコと合づちを打ってくれます。

このまえの定期診察のときも、ちょっと戸惑いながらも、ちゃんと答えてくれました。
「延命治療はいやなんですけど、先生に一筆入れといたら ええんですか?」
「なんぼ一筆入れといてもろても、医者としては 延命治療はせんとあきませんのや」
「ほな、どないしたらよろしいんです?」
「ご家族の方に つね日頃から、ご意志をちゃんと伝えとかはるのが よろしいやろな」


先日の朝日新聞『声』欄に載った、田中博子さん(下関市75歳 主婦)の投稿文が、印象的でした。
娘さんにではなく お孫さんに出された、最期の願いを託した手紙です。

二つお願いがあります。
一つは、私に痴呆が出始めたら、速やかに施設に入れてください。
もう一つは、延命治療は絶対にしないでください。

田中さんは、お母さんから「入院したときは延命治療はしないでね」と言われていたのに、お母さんが入院したとき、医師に「延命治療はしないでください」と言えなかったそうです。
意識のないまま管につながれ1年も生き続けたお母さんに、死後16年間ずっとわび続けている、というのです。

私にその時がきたら、彼女(お孫さん)は きっとこの手紙を親(娘さん)に見せて、私の意思を通してくれると信じている。
田中さんは、投稿文を そう結んでおられました。

子は 親の死に際では、冷静になれないのが つねです。
この手の最期の親のわがままを 子に聞いてもらうことは、なかなかむずかしいのです。
託されたお孫さんも ちょっとかわいそうな気もしますが、田中さんのお気持ちは ぼくにも、ひしひしとわかります。


映画『神様のカルテ』をみました。
またも、いっぱい涙をながしました。
さわやかな涙でした。

栗原一止(桜井翔)のような先生に 最期を看取ってもらえた安曇さん(加賀まりこ)は、ほんとうに幸せでした。
ラッキーなのでしょうが、運がよい、だけではないようにも思います。
そのラッキーは、その人のもつ徳なのでしょう。

ぼくは、栗原一止先生に看取られる可能性は、限りなく薄そうです。
ならば、自分で‘神様のカルテ’を、作ってやろうじゃないか。
不遜にも‘神様のカルテ’を作れたとしても、それをだれに託す?
それが問題です。


誰かが 知らぬ間に、そっと見届けておいてくれるような方法で、知らせたい。
「延命治療だけはしないでください」
と。


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風しもの村

2011-09-06 15:40:50 | Weblog
しわくちゃの白ロシア婆さんたち13人が、立ったり坐ったり 思い思いの姿で、こちらの遠い後ろの方を 見つめています。
大判横長の和紙に 無彩色で描かれた、画家・貝原浩さんのチェルノブイリ・スケッチ絵巻のひとつ。

どの婆さんの顔も、明るくはなく 少々おっかないですが、決して絶望していません。
眼差しは みな、「生きてるでぇ」と叫んでいるように見えます。
ポンと肩を叩かれて、いまにもハグされそうな・・・

この絵の前に、足がすくんだようになって、立っていました。


毎週のことですが、日曜日の午後、御池通りから本能寺境内を通り抜けて 寺町通りを三条の方へ歩いていました。
先月末の朝日新聞地方版で、貝原浩さんの「反原発」作品展の記事を チラ読みしていたのが良かった、「風しもの村」遺作展を催している小ギャラリーへ、すーっと入っていけました。

この絵に描かれているのは、いまの福島原発とおんなじじゃないか。
どうして もっと早く、貝原さんのこの絵巻に会わなかったのか。
3.11以後でなきゃ、いくらチャンスがあったって 素通りしていたに違いない、とも思います。
いや いまだって、たまたま通りかかったから 立ち寄っただけじゃないか。

チェルノブイリ原発事故が起きたのは、ソ連崩壊の5年前、1986年のことです。
それから25年、その間、貝原浩さんはじめ JCF(日本チェルノブイリ連帯基金)や チェルノブイリ医療支援ネットワークなど、多くの人たちが 様々なかたちで、チェルノブイリ原発事故と向き合ってこられました。
彼らは、自然界の生き物たちの命とは相容れない放射性物質の管理など とうていできないことを、活動を通じて感じ 発信していたのです。

この国のトップが、彼らのように もっと真剣に、チェルノブイリ原発事故を検証していたならば、福島原発事故は起こらなかったかもしれない。
いや、自分自身 無頓着そのものでした。


描かずにはおれない、というタッチで 貝原さんは、チェルノブイリの風しもの村・チェチェルスクの農民たち、若者たち、子どもたちを、大きな和紙の上に 墨と水彩で絵巻風に描いています。
一点ずつに添えられた随想は、絵の補足ではなく 絵と一体となって、みる者に訴えかけてきます。

防護服を着て描いたという、チェルノブイリ原発4号炉。
いまだに、分厚いコンクリートの壁をつらぬいて、放射性物質が大気にまき散らされているといいます。
なんと冷たい、むなしい石棺でしょう。

この絵に添えられた随想は、こう結ばれていました。

ありとあらゆる知恵と金をもって、いまの状態から抜け出ねば、私達の享受する一切の文化文明生活なんぞ、一体何になろうか。
次代がまだあると考えるなら、原発の起こした惨事が決して他人事でなく、まさしく日常に隣り合わせにひそむ 私達共通の悲劇です。
毒にも薬にもならないオリンピックのメダルなぞに声をからすな。
知恵を出せ!
人を出せ!
「ガンバレ!!ニッポン」

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萩反射炉

2011-09-05 18:24:54 | Weblog
玉鋼(たまはがね)。
いい名前です。
‘玉のように秀でた鋼’という意味合いでしょう。
これから 日本刀が作られます。

玉鋼は、たたら吹き(ケラ押し法)という 日本の伝統的な製鉄法(直接製鋼法)で得られる、貴重な鋼です。
玉鋼を1トン得るのに、砂鉄13トン 木炭同じく13トンを要し、粘土でつくった 使い捨ての炉で作られます。

炉壁の触媒効果で 砂鉄から不純物が取り除かれ、約3トンのケラ()が得られます。
ケラには、炭素量を多く含んだ「銑」、炭素量の少ない「鉄」、炭素量が「銑」と「鉄」の中間の「鋼」が含まれています。
1トンの玉鋼を粉砕選別した残りのケラは、そのまま鋳鉄材料にも使われますが、多くは 鍛造場(大鍛冶場)へ運ばれます。

大鍛冶場で鍛錬されたケラは、脱炭されて 軟らかいが粘り強い「錬鉄」となります。
これを包丁鉄といい、刀工は これを日本刀の心鉄として、玉鋼のもろさを補うのです。

たたら吹きは、三日三晩 ぶっ通しの、過酷な作業です。
砂鉄を溶かすに十分な熱を得るためには 大量の木炭が必要で、炭づくりのために 山をハゲ山にするほどでした。
なによりも、良質の砂鉄が勝負です。
この砂鉄を 川や山や浜から採取する作業も また、たいへんな重労働です。

古くから 奥出雲の地は、良質な砂鉄「真砂(まさ)」が得られました。
ヤマタノオロチ伝説は、この地に古くから製鉄がおこなわれていた証しです。
この伝説は、製鉄作業の過酷さを物語ると同時に、製鉄による自然破壊を暗示しています。


鋼を追い続けると、興味が付きません。

鋼とは、学生時代を含めれば、45年の‘つきあい’になります。
でも ここ数年が、気分的にですが、もっとも濃いつきあいです。
学問や仕事の対象ではない‘はがね’が、おもしろくなってきたのです。


この春、山口県萩市を訪れました。
目的は別にあったのですが、せっかく来たのだからと、反射炉遺跡を尋ねました。



1853年、アメリカ蒸気船四隻が浦賀港に現れます。
日本の近代史を 大きく揺さぶった黒船事件。
当時の日本人の喧騒ぶりと恐怖感が、半分おかしく半分かなしく、想像できます。

ペリーが日本を目指したのは、日本近海での捕鯨、とりわけマッコウクジラを大量に捕獲する上で 捕鯨船の水や食料の補給基地として、日本列島が最適だったからです。
石油精製技術の未熟だった当時のアメリカでは、鯨油が生活必需品だったのです。

ペリーが浦賀に現れる以前から、海の交通の要所を抱える長州藩は、欧州列強の外圧を強烈に感じていました。
アヘン戦争における欧州列強の圧倒的な軍事技術力の情報も、伝わっていたことでしょう。
強力な大砲と軍艦をつくって、海の守りを固める必要に迫られていたのです。

ことに大砲は、海防のかなめでした。
砲弾を遠くに飛ばせるに耐えうるものが、緊急に必要でした。
ところが 長州藩が保有する大砲は、ほとんどが青銅製で、鋳鉄砲はごくわずかです。

近代以前の金属精錬の難易度は、一にも二にも 融点です。
青銅の融点は875℃、鋳鉄は1200℃前後、鋼になると それより300℃ほど上がります。
在来の製鉄法では、鋼どころか 大量の鋳鉄をつくることができなかったのです。

青銅砲や鋳鉄砲では、大きな火薬爆発力に耐えられません。
破裂をおそれて、少量の火薬しか使えません。
沖遠くに迫ってくる外国船をねらって発射した砲弾は、情けなくも はるか手前で海中へ沈んでしまいます。

この悔しさが、青銅や鋳鉄よりも もっと強靭な鋼をつくる設備・反射炉の建設へと、長州人を駆り立てます。

と まぁ、萩反射炉がつくられたころの長州人の気持ちに、空想半分で なってみました。


ところで、反射炉は、当時すでに 旧式の製鋼設備となりつつありました。
製鉄産業の先進国であったイギリスやドイツでは、平炉や転炉が 製錬炉の主流になる直前でした。
反射炉は、脱炭製錬効果を有していたものの、青銅や鋳造用の銑鉄を溶かすのが そのおもな役目となりつつあったのです。
しかし 旧式だったとはいえ、鎖国状態の日本で 反射炉がつくられたのは、驚異に近いことです。

日本最初の反射炉は、当時 唯一開港の長崎を警備していた佐賀藩で つくられました。
そして 国内で初めて、鉄の大砲の鋳造に成功しました。
1851年のことです。
南蛮渡来の技術書一冊からの出発でした。
残念なことに、佐賀藩の築いた反射炉は、いま残っていません。

佐賀藩に次いで、薩摩藩、伊豆代官所(幕府)、水戸藩と続きます。
伊豆韮山には、当時の反射炉が残っています。

先生格は 佐賀藩で、大砲づくりでは 終始先頭に立っていました。
どこの反射炉も、試行錯誤の連続でした。
資料によると、実際に鋳鉄砲がつくられた反射炉は、佐賀藩だけとのこと。
江戸品川の台場に据わった大砲は、佐賀藩の反射炉で作られたもののようです。

萩反射炉は、実用にはいたりませんでした。
失敗作、とは言いきれません。
試験炉、だったと言うべきでしょう。
萩反射炉には、謎が多いのです。


萩反射炉が試験炉で終わった訳に、興味を抱きました。
ものづくり屋の習性みたいなものです。

萩反射炉をつくるため 佐賀藩に教えを乞うても、当然ながら、なかなか教えてくれません。

まず原料です。
佐賀藩は、どうも 最初は、出雲産の砂鉄銑(和銑)を原料としていたようですが、うまくいかなかった。
その理由は、当時の和銑は、嵩上げのため 往々にして、生の砂鉄が銑鉄に混ざっていたためらしい。
そこで 長崎に入港する外国船がバラストとして積んでいた重し鉄を使ったら、巣のほとんど無い鉄製錬ができたらしい。
ところが 長州藩では、この輸入銑鉄(洋鉄)の入手は、きわめて困難でした。

つぎに燃料です。
佐賀藩は 最初、木炭を使っていたらしい。
ところが 所用の高温が得られないので、石炭に切り替えたらしい。
佐賀藩には、豊かな炭鉱を擁する筑豊が控えている。
良質の石炭だから いい、というわけでもないらしい。
高温個所の偏在は 製錬反応のムラを招き、脱炭が進んだ個所は融点が上がって 湯流れを悪くします。
高い熱量をコントロールする技術が要るよう。
こういうノウハウは ことに、佐賀藩が教えるはずもありません。

さらに 大きな問題は、中ぐり加工設備(平錐台)です。
砲弾の通り道である砲身を、真円に加工しなければなりません。
当時 平錐台は、もちろん外国製の、超高価品です。
莫大な経費が要ります。
「一諸侯(大名)にして、これほどの規模の大軍需工場を起こすのに必要な費用をまかなうことは、とうていできない」と悟ったのでしょう。

これが、萩反射炉が試験炉に終わった訳なのです。


ちょっと無理な旅程だったので、萩反射炉遺跡を訪ねたときは もう、夕ぐれ近くになっていました。
そのうえ 午後からの雨が、急に激しさを増していました。
家内を遺跡入口に残して ひとり、小高い遺跡の丘をのぼりました。



萩反射炉は、たとえ試験用設備で終わったとしても、幕末という激動の時代に、萩、ひいては日本を、欧米列強の脅威から守るために、この地の技術者たちが懸命に試行錯誤した証しであることに、間違いはありません。

人けのない 雨脚に煙った萩反射炉遺跡に向かって、じわーっと こみあげるものがありました。
あぁ「つわものどもが夢のあと」だと。
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