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つれづれ

思いつくままに

小暮荘物語

2014-11-27 18:04:00 | 
名曲『時代』を23歳のときに作詞・作曲した中島みゆきを評して、故 筑紫哲也氏は「あんな人生の奥深くを語る歌を 年若い彼女が どうして作れたのか不思議だ」と語っている(HNHK BS2 1994年1月10日放映「中島みゆき特集」第一夜)。
これと似た感想を、三浦しをん著『小暮荘物語』(祥伝社文庫)を読んで感じた。
三浦しをんさんは1976年生まれ、38歳である。

たいていセックスを扱った小説は、隠微になるか底抜けにハレンチか、おおっぴらに人前で読むには ちょっと気恥ずかしくなるのだが、『小暮荘物語』は、地下鉄の中でも公園のベンチでも、ニヤニヤしながら読んでいても平気である。
ただし『小暮荘物語』は、かなりエッチな小説である。
エッチさが、きわめて奇妙で、いやらしくない。
なぜか?
結論的にいうと、この小説は‘人生’を語っているからだと思う。

だいたい、駅のホームの柱にできた水色の突起物を、ふつう、男根と思うか?
夫のいれるコーヒーが泥の味がするからといって、いったいだれが、夫の浮気を言い当てられる?
だいいち、70を過ぎたじいさんの「燃えるようにセックスしたい」という悩みを、38歳の女性の著者が、なぜ判る?

奇妙キテレツな語り口が、どっこい、ものすごく奥が深い。
300ページ足らずの、うすっぺらなこの小説を読み終えるのに、丸一日もかかるまい。
ところが 読み終えて、どーっと疲労する。
同時に、もう終わりか、これ以上おもろい小説に出会うことはないかも と、さみしくなる。

それは、7つの短編それぞれに描かれた 小暮荘アパートの住人の 小さなささやかな人生が、重く深く 読むものの心に 寄りかかってくるからであろう。
変人に違いない 小暮荘アパート住人のひとりひとりが、読者に潜む変人性に 共鳴するからであろう。

こんなおもろい小説、読んだことがない。
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エスカレーター

2014-11-27 15:35:05 | 
スイカは関西でも使える?
先日 或る会合で、日本各地から京都に集まったうちのひとり 平塚から来た友人が、帰路の地下鉄改札口で こう わたしに問いました。
使える使える!
なんか誇らしげに、答えました。
イコカが首都圏でも使え、スイカが関西圏でも使える ということに、あぁ日本は一つだ などと、変な一体感を覚えました。

ハードでは「東日本」「西日本」の違いはなくても、ソフト面では やはり地域性がでるんだなぁ、という事例。
エスカレーターの乗り方の違いです。

駅やデパートのエスカレーターでは、東京では左に立って右をあける、大阪では逆に右立ち左あけ、といわれます。
だいたい その通りだと思います。
問題は京都です。

京都では、右立ち左あけ でもなく、左立ち右あけ でもない。
前の人が左に立っていたら自分も左に立ち、逆に前が右なら自分も右、その時々で違う、いわば風見鶏。

ちょっと前までは、このことが なにか不名誉なことのように感じていましたが、まぁこういう生き方もアリか と、いまは肯定的です。
楽な生き方、見えない規則に縛られない 自由な生き方、言い方はいくらでもありますが、要は無難な生き方を 知らず知らず選んでいるのでしょう。

エスカレーターは、もともと 歩いたり駆けたりを想定した乗り物ではないから、堂々と真ん中に立っていれば良いはず。
急ぐ人は、階段を駆け上がればよいこと、と思うのですが・・・


先日、地下鉄東西線烏丸御池の上りエスカレーターの 混み合う乗り口で、エスカレーターに乗る順番を待っていたときのことです。
左立ち右あけの右側から 乗ろうとしていました。
直線後方の列と 右から割り込む列が、もみ合う状態です。

ちょうど列が交差する 後方の列に、初老の欧州系外人さん夫婦がいました。
その初老の紳士が ニッコリした顔で、「どうぞ」と日本語で わたしに列を譲ってくれました。
ちょっと会釈して列に入らせてもらったのですが、「ありがとう」のひとことが言えませんでした。

「どうぞ」とか「ありがとう」とか そういう一言が、たかがエスカレーターの乗り降りを、あったかい感じの一コマにしてくれる。
右立ちであれ 左立ちであれ、ただブスっと列についていくのではなく、このちょっとした行動が、こんなに雰囲気をかえるとは!

エスカレーターの乗り方で 人の心理の地方色を観察する ちょっとした研究者をきどっていた自分が、おはずかしい。
年間5000万人もの観光客が訪れる京都に住むものは、大それたことでなく、こういうちょっとした勇気をもたねば ・・・
などと、いまもエスカレーターの前の人に追随して左立ちしながら、えらそうに考えていました。
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健さんの爪の垢

2014-11-20 10:32:36 | 
高倉健が亡くなった。
こんなに多くのファンが、それも同性のファンがいたのかと、いまさらながら 健さんの偉大さを知る。

スクリーンはうそをつかない。
高倉健の後姿のかっこよさは、高倉健という人間性が スクリーンを観るものに伝わったからだろう。
渥美清の寅さんもそうだったが、高倉健の健さんは、フツウの日本人の 一つの生き方の規範を指し示してくれた。
哀悼の心が尽きない。

こんなわがままな総理大臣は、いままで見たことがない。
安倍晋三首相のことである。
第一次安倍内閣の終末に見せた あの身勝手な辞め方のときから、わたしはこの人を信用していない。
いままた、自己中心丸出しの衆院解散である。

人々が健さんを好きなのは、なによりも他者を気遣い、自らを厳しく律した 自省心の持ち主だったからだ。
安倍首相に、その心があるのだろうか、わたしは疑わしく思う。

健さんの爪の垢。
わたしもこれを煎じて呑まねばならない。
一国のトップたる安倍総理にも、ほんとうに国民のための政治をしているのかと、毎朝 健さんの爪の垢の煎じ薬を呑んでいただきたい。

健さんのように、亡くなったとき国民がこぞって、心から哀悼の花束をささげたい政治家を、待望している。
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信州へ(その2) 無言館

2014-11-10 16:22:36 | 
当初 佐久平を旅したい、とのおもいで始まった、一泊二日の信州への旅でした。
駆け足でもいい、欲張って 上田平や塩田平にも、足を踏み入れたい。
その付け足しのような旅の終わり近くに立ち寄った、無言館のお話です。


実は 無言館については、予備知識は ほとんどありませんでした。
名前と どんな美術館かは、おおむね聞いていました。
それが この旅の最後にたずねた塩田平の南端にあることを、旅の途中で知ったのです。

塩田平は、上田城のある千曲川沿い上田平の南西、上田電鉄別所線沿いに広がる地域です。
わたしの好きな木曽義仲が 平家討伐の宣下を受けて挙兵した城とされる依田城址は、この塩田平のすぐ東側にあります。
上田電鉄を見がてら 別所温泉を視察してやろうと この地へ足を向けたのですが、気が変わって、塩田平の南端の山肌に立つ「無言館」をたずねました。

無言館とは、どんな美術館なのか。
これを建てた窪島誠一郎氏の著した『「無言館」ものがたり』の冒頭を、その説明に引用させてもらいます。

  「無言館」---
  このちょっぴりヘンテコな名前の美術館は、長野県上田市の郊外、美しい浅間山や千曲川の流れが遠くにみわたせる山王山(さんのうやま)という小さな山のてっぺんに建っています。
  ねずみ色のコンクリートでできた、空の上からみると十字架の形にみえるこの 80坪ほどのちっちゃな美術館は、平成9年5月1日の昼下がり、信州の空が青々と晴れわたった初夏の日に開館しました。
  「無言館」には、約50年前(注・この本の初版が発行されたのは1998年です)におこったあの太平洋戦争で亡くなった画学生さんたちの作品や遺品があつめられています。
  画学生というのは、当時の美術学校で絵の勉強をしていた学生さんたちのことです。
  あの時代、たくさんの画学生さんが学校を卒業してすぐ戦争にゆき、早く祖国に帰って絵を描きたい、そしてりっぱな絵描きになりたいという希望にもえながら、とうとうそれをはたすことなく鉄砲にうたれたり病気にかかったりして死んでいきました。
  「無言館」には、そうした画学生さんたち(そういう画学生さんのことを「戦没画学生」とよびます)が、戦争にゆく前に一生懸命に描いた絵や、戦地でそっと描いたスケッチ、祖国のお父さんやお母さんにあてた絵ハガキ、そのとき使った愛用の絵の具や絵筆やスケッチブックなどがたくさんかざられているのです。
  ・・・

『無言館ものがたり』は、青少年向けに書かれたものですが、著者の窪島誠一郎氏は ほんとはきっと、大人にも読んでほしかったにちがいありません。
窪島氏は、作家・水上勉の最初の結婚で生まれた長男であり、幼いころ空襲で父と生き別れして、1977年36歳にして父・水上勉と再会するのですが、本人は 一言もそれらしきことは語っていません(NHK「ドラマ人間模様・父への手紙」(1983年放映)に詳しい)。
この著書を読むと、彼がどういう気持ちで この美術館を建てたのか、その思いがひしひちと伝わってきます。

窪島氏が書いているように、「無言館」にかざってある絵には、有名な画家になりたいとか、コンクールに入賞したいとか、絵を売ってお金持ちになりたいとか、そういう目的で描かれた絵は一枚もないといっていいでしょう。
画学生たちはただただ一心に、絵を描きたくてしようがなかったのだと思います。
自分たちが生きている‘しるし’として、絵を残しておきたかったにちがいありません。
「無言館」にある絵をみて、たとえそれがそんなに上手ではない未熟な絵であっても、なんとなくジンと胸をうたれるのは、絵の奥にそういう画学生たちの純粋な心があるからでしょう。

そして なによりも、戦争というものの愚かさや残酷さに、改めて気づかされるのです。
もう二度と戦争なんかおこしてはいけない、その思いが 画学生たちの必死な絵筆あとから読み取れるのです。


わたしは これまで、政治的な活動を 一切避けてきました。
反戦活動であっても、政治のにおいのする行動には、絶対に雷同しなかったつもりです。
それがいいとか悪いとかいう問題ではなく、わたしの性に合わないからです。
ただ、戦争やむなし調の世の動きには、異を唱えたい。
異を唱えねばなりません。

先日、同い年の友人が、「戦後69年というけれど、昭和20年生まれの僕たちは、自分の歳でこれが判るから、便利だね」と言っていたのが印象に残ります。
わたしは、「戦争を知らない世代」の一人です。
しかし、戦争の愚かさや残酷さを、親の世代から じかに伝えられています。
ズルチンの甘苦い味を知る最後の世代の一人として、空腹の惨めさを胃の片隅に記憶している最後の世代の一人として、そして何よりも、あの戦争で痛めつけられ 戦後の貧しさの中にあって 子らを独り立ちできる人間に育て上げてくれた親たちの子の一人として、戦争につながる危険な事柄には、これを赦すわけにはいかない。
あと何年生きるかわかりませんが、残り少ない命の限り、戦争に向かう一切の現象に、勇気を持って異を唱えつづけたい。

薄暗い無言館の中に 時を忘れて、戦没画学生の「絵を描きたい」一途な筆あとを追いながら、このことを改めて心に誓いました。


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信州へ(その1) ビーナスライン

2014-11-10 15:04:48 | 
   まだあげぞめし前髪の
   りんごのもとに見えしとき
   前にさしたる花櫛の
   花ある君と思ひけり
   ・・・
七五調4行四聨の この島崎藤村の詩「初恋」を知ったのは、高校一年生の国語教科書でした。
詩と初恋が ほとんど同時に訪れる、青春期まっただ中の衝撃でした。
現実の初恋より先に、詩の中で恋をしていたといっていいほどだったのです。

この「初恋」に続けて、同じ教科書に載っていたのが、「千曲川旅情の歌」です。
   小諸なる古城のほとり
   雲白く遊子悲しむ
   緑なすはこべは萌えず
   若草もしくによしなし
   しろがねの衾の丘べ
   日に溶けて淡雪流る
   ・・・
五七調のこの歌に詠われた信州への、ことに‘歌かなし佐久の草笛’と詠まれた佐久平への旅愁が、爆発的に湧きあがりました。
小遣いを貯めること一年、高校二年の夏休みに、同じ舞い上がりものの同級生とふたり、信州へ旅しました。
2000メートル級の山に挑む 最初の登山でもありました。

まず、小諸を訪ねました。
小諸駅は 信越本線を走る優等列車の停車駅であり、当時の小諸城跡付近は 観光客であふれていました。

余談ですが、この数年後 志賀高原へスキーで足繁く通っていたころ、ゲレンデで足を骨折して現地で仮治療し、ギブス姿で長野駅から 夜行急行列車「ちくま」に乗るはずでした。
ところが何を勘違いしたのか、夜行準急列車「あさま」に乗ってしまったのです。
これが信越本線経由の上野行きと気づいたのが、小諸駅でした。
軽井沢で降り、一夜を駅舎で過ごすことになるのですが、その後の珍道中は略します。

憧れの小諸は、喧騒と俗化にまみれていました。
たぶんこの数年後に ここを訪れた司馬遼太郎は、著書『街道をゆく・信州佐久平のみち』で、当時の小諸を 次のように表現しています。
  小諸なる古城のほとり/雲白く遊子悲しむ という島崎藤村の詩さえなければ、小諸城址はいまも閑かだったであろう。
  こういう騒音もなければ、残忍な客あしらいもなく、テーブルの上の器物の狼藉もなかったにちがいない。
  藤村の詩も小諸城址もわれわれの誇るべき文化だが、それが大衆化され商業的に受けとめられて再表現されたときに民族のほんとうの民度とか文化の担当能力が露呈するのかもしれない。
  ・・・

いまの小諸駅は、しなの鉄道沿線沿いの中間駅となっています。
小諸駅は、長野新幹線にそっぽを向かれたのです。
信越本線は横川止まりで 軽井沢とのあいだを絶たれ、残る軽井沢~篠ノ井間は「しなの鉄道」という第三セクターに格下げされて、小諸駅は、中央本線の小淵沢から来る小海線(八ケ岳高原線)の北の終着駅という地位にとどまっています。

小諸市民の名誉のために付け加えます。
ついこのあいだ小諸を再々訪した折には、市民ボランティアでしょうか 駅前でも懐古園周辺でも おそろいの上っ張りを着た人たちがゴミを拾い集め、大手門公園ガーデンには市民の手で色とりどりのかわいい花々が植えられていて、すがすがしい気持ちになれました。
新幹線から見放された小諸は、まちがいなく素敵な方向に、生まれ変わろうとしています。

さて、小諸に‘遊子’の感慨をそがれて、ふたりの高二生は 登山に向かいました。
リュックサックに運動靴姿のふたりは、みたところ 小山のハイキングがせいぜいだったにちがありません。
美しの塔、この響きが、若いふたりを 少々無謀な登山に駆り立てたのです。

どういうルートを採って白樺湖に着いたかは覚えがありませんが、白樺湖で一泊して、ここからスタートしました。
車山、霧ケ峰、八島ケ原湿原をめぐり、和田峠を越え、一路 美ケ原へ。
ちょうどそのルートをいま、ビーナスラインが通っています。

遠くに美しの塔を眺めたのは 夕方5時をまわっていたでしょうか、さっきまで太陽がまぶしかったのに、急にあたり一面濃い霧に包まれました。
晴れていれば、夏の日差しで まだ明かるかったはずです。
到着予定地の美ケ原山小屋(山本小屋と呼ばれていたかも)の廻りを、霧で視界を塞がれて すぐそこに山小屋があるとも知らず、グルグルグルグル・・・

やっとのおもいでたどり着いた山小屋のおやじさんに こっぴどく叱られたことが、すごく懐かしい思い出です。
美しの塔が 霧鐘塔(霧で視界が悪い時に登山者のために鳴らす鐘の塔)であり 一時避難場所でもあることを教えてくれたのも、この山小屋のおやじさんでした。

翌朝の晴天下に見る、足元下の松本平、その向こうの 背後からの朝日で浮かぶ北アルプスの山々、高二生のふたりには、絶景であったことでしょう。
山の怖さと素晴らしさを知った、初めての‘登山’でした。

このときに喚起された‘山好き’はその後 封印され、それが再熱するのは 壮年期に入ってからでした。
ですから、人さまに誇れるような踏破歴はありません。
ひとつ誇れるとするなら、八ケ岳連峰最高峰の赤岳の山頂で見た ブロッケン現象でしょうか。


ビーナスライン開通のニュースを聞いたのは、昭和56年頃だったと記憶しています。
訳もなく腹が立ちました。
自分の大切な青春を 冒涜されたような気分だったのでしょう。

ときが経ち、もう2000メートル級の登山は無理といわれる年齢に達して、もう一度 あのコースを辿ってみたい、その思いが募りました。
嫌っていたビーナスラインの恩恵を乞うてでも、転がりたいような車山の感触をもう一度味わってみたい、美しの塔に再会したい。


秋が深まった10月の終わり、松本からレンタカーして、ビーナスラインをめざしました。

青空をバックに 車山は、ススキの穂の海原でした。
斜めから射す 秋の午後の日差しをうけて、ススキの穂がキラキラと輝いているのです。
絶叫したくなるような光景です。

霧が峰富士見台から眺める山々、蓼科山から南に連なる八ケ岳連峰、右手に南アルプスの峨峨たる峰々、八ケ岳連峰と南アルプスのあいだの遠くに富士山。
なによりも、8回挑んで5回登頂した 南八ケ岳の赤岳・横岳・硫黄岳の山々が、手に取るように眺められたのが とてもうれしい。

美しの塔へは、美ケ原山本小屋駐車場から 散策路をかなり歩かなければならないようで、時間的にも体力的にも あきらめざるをえませんでした。
白樺湖経由で蓼科山北山麓へ向かい、その日の宿泊予定地・春日温泉に着いたころには、もう日が暮れかかっていました。


高二生の青春の足どりを 半世紀ぶりにたどれたのは、あれほど嫌っていたビーナスラインのおかげです。
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