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つれづれ

思いつくままに

阿弥陀堂だより

2010-09-29 22:55:46 | Weblog
8年ほどまえ、『阿弥陀堂だより』という映画が上映されました。

東京で暮らす熟年の夫婦、孝夫(寺尾聡)と美智子(樋口可南子)。
医師として大学病院で働いていた美智子は、ある時パニック障害という心の病にかかってしまいます。
東京での生活に疲れた二人が、孝夫の実家のある長野県に戻ってきたところから、映画は始まります。
二人は大自然の中で暮し始め、様々な悩みを抱えた人々とのふれあいによって、徐々に自分自身を、そして生きる喜びを取り戻していく、というストーリーでした。

山里の阿弥陀堂を守る<おうめ婆さん>役の北林谷栄さんの、味のある演技が、いまでも鮮明に思い出せます。
ゆったり時間の流れる、いい映画でした。

この映画で、村の広報誌に「阿弥陀堂だより」を伝えるのは、喋ることが出来ない難病を抱える少女・小百合役の、小西真奈美さんでした。
その小百合が、昔は著名な作家だった孝夫を相手に、阿弥陀堂の縁に腰かけながら語る 筆記の言葉が、深く印象に残っています。
「小説とは、阿弥陀様を、言葉で、作るようなものだと、思います。」


それでは、わたしが伝えたい「阿弥陀堂だより」を、お便りします。

京都市の南東のはずれ、日野という土地に、法界寺というお寺があります。
このお寺の阿弥陀堂を、お伝えしたい。

今は、地下鉄東西線ができて、少しは便利になりました。
醍醐のひとつ向こう、石田駅で降りて、歩いて20分くらいのところです。
この地は、古くは貴族たちの遊猟地であったらしい。
『日本書記』に、天智天皇がこのあたりで猟を楽しんだ、と記されています。

この地の案内を、もう少し。

浄土真宗の開祖・親鸞は、藤原一族の日野家の出です。
親鸞は、この地で生まれたとされています。
日野家一門の菩提寺である 法界寺の阿弥陀様を拝む親鸞を、空想してしまいます。

法界寺から一キロほど東の山中に、方丈石が置いてあります。
鴨長明は、ここに庵をくみ、あの有名な『方丈記』をつづったといいます。
当時の法界寺が、いかに人里離れたところにあった寺だということが、うかがわれます。

もともと この寺は、薬師堂をもうけることから はじまりました。
薬師堂じたい、創建当時(1051年)すでに建っていたらしい。
阿弥陀堂と薬師堂が、ここでは たがいにそっぽを向いたかっこうで、おかれています。
なんとかならないものか と、門外漢のわたしですら、訝しく案じる配置です。

薬師堂の格子には、おびただしい数のよだれかけ。
それもそのはず、この薬師様は<乳薬師>として、古くより あまたの女性が、我が子への授乳のために 祈りを捧げてきたのです。


盆明けの、肌に刺さるような真夏の日差しが照りつける昼下がり、日野薬師こと法界寺を訪れました。
ふっと、阿弥陀堂の蔀戸越しに浮かぶ阿弥陀仏の姿を思い出して、なにか どうしても、もう一度見届けなくっちゃぁ、という気分で、出かけました。

境内に、人の気配はありません。
伽藍配置との位置関係が釈然としない境内池に、大きな白い蓮が咲いていました。

その斜め向こうに、桧皮葺の阿弥陀堂が、くっきりと建っています。
7間正方、宝形(ほうぎょう)造りの裳階(もこし)付きで、二階建てのような一階建て。
中央階段をおおう裳階のところだけ、一段切り上がっていて、スリットの入ったスカートみたいです。
ぐるりと廻らされた広々とした縁が、おおらかで親しみある雰囲気を、醸し出しています。
実にいいお堂です。

わたしは、京都の有名なお寺には、どうも愛着が湧きません。
その訳が、自分でもはっきりしなかったのですが、法界寺の阿弥陀堂に接して、ようやく判りました。

訳、その一。
京都で観光にわく寺々は、たいてい庭園を売りにしている。
わたしは、庭園美というものが、どうも理解できない。

訳、その二。
京都の有名なお寺は、寺関係者のご努力もあって、経営的にうるおっている。
いきおい、地元から、浮いている。

わたしは、宗教者ではありませんが、宗教性を愛しています。
建物や仏像といった、ものとしての寺院が宗教性を秘めていることに、もちろん異論はありません。
しかし、わたしの愛する宗教性は、人間の行為にあります。
釘抜きさんの小さなお堂に向かって、一心に願い事をしている おばあさんの後ろ姿に、わたしは、深い宗教性を感じます。

つまり、土着民に愛されていない寺院に、宗教性を感じないのです。

法界寺の薬師堂は、重要文化財に指定されています。
その内陣を仕切る格子に、溢れんばかりのよだれかけが、掛かっているのです。

法界寺の阿弥陀堂は、国宝に指定されています。
その広縁に、1月14日、裸おどりの男たちが裸足で上がって、ふんどし一丁でもみ合うのです。

きれいな庭を見にくる観光客が、支えているのではない。
授乳に良く効くと詣でる地元女人たちや、老いも若きも 両手を高く合掌して「頂礼(ちょうらい)、頂礼」と叫び もみ合う男衆の、素朴だけれど真摯な信仰に、支えられてきた。

こんなお寺は、とても貴重です。
愛さずにはおれません。
もっともっと、大事にしなければ。

鮮やかであったろう彩色絵の ところどころ残る内陣に坐して、真正面のまろやかな阿弥陀如来を仰ぎみながら、わたしは、京都にこんな親しげな阿弥陀堂があったことを、心から感謝していました。
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1970年

2010-09-28 16:31:18 | Weblog
寺山修司作詞の『時には母のない子のように』をカルメン・マキが歌ってヒットしたのは、70年安保闘争のさなか、1969年でした。
これ以上 不機嫌な歌い方はないくらい、暗い曲でした。
でも 時代は、カルメン・マキの歌を求めていたのです。
寺山修司、1935年生まれ。

その2年後、北山修作詞の『戦争を知らない子供たち』が、大ヒットします。
北山修自身がのちに語っているように、この曲は、反戦歌というより、戦争を美化して語る世代への 反抗歌でした。
北山修、1946年生まれ。

朝日ジャーナル、平凡パンチ、そして少年マガジン。
1964年から70年の学生生活6年間で、日々の象徴は「生真面目」から「かっこつけ」を経て、徐々に「しらけ」へ移っていきます。
現実を直視することから逃げるように、見せかけの幼稚化が進みました。
そして、当時最大の人気漫画、少年マガジン連載『明日のジョー』の、最もかっこいい登場人物・力石徹の死、1970年3月をもって、ぼくの学生生活は終わりました。
卒業式もなく。

あとから知りましたが、力石徹の架空“葬儀”で葬儀委員長を務めたのは、寺山修司でした。

これは ぼくだけの傾向なのかも知れませんが、戦中派でも戦後派でも、ましてや戦前派でもない 中途半端な世代の自分は、昭和10年前後生まれの人間のニヒルな強さに、憧れをもっていました。
そのかわりと言ってよいのか、自分より下の世代、ことに団塊の世代に対して、ちゃらちゃらしすぎというふうに、一種 偏見的に見下していたように思います。

ぼくの僻みな思いは、どっちもつかずの、よわよわしい世代。
その区切りをつけたのが、1970年でした。

1970年3月15日に始まった大阪万博は、その象徴でした。
学生から社会人へ。
そして大阪万博開催日は、結婚記念日ともなりました。


半世紀近く前の過去は、もう‘歴史’の範疇に入ります。
10年や20年まえの出来事を 好き嫌い抜きで懐かしむことは、冷静さを欠きます。
でも、40年も経てば、個人の歴史としても かなり中立的な見方で、振り返ることができそうです。
そういう観点から見ても、1970年は、戦後日本のターニングポイントではなかったか。

作詞家・阿久悠は、彼の著書『愛すべき名歌たち』の中で、1970年という年を、次のように語っています。

・・・時代は貧しいのか豊かなのか、人々は自由なのか不自由なのか、未来は明るいのか暗いのか、立場立場の人の発言でどちらとも思える時代を、なかなか個人では確認できなくて大いに惑い、揺れた年である。
お前さんは自由だよ、勝手だよ、気ままなんだよと言われることは、捨てられたと同じ気持ちになることがある。
昭和45年という年は、日本人が、自由なのか捨てられたのか判断がつきかねる状態になった分岐点のような年で・・・

阿久悠は、この年の日本人を「この分岐点の時代に迷子になりそうだった」と続けています。

万博に沸く1970年の日本列島を縦断した 貧しい家族の物語を、山田洋次監督は、映画『家族』で描きました。
故郷、斜陽の炭鉱の島、長崎県西彼杵(そのぎ)郡伊王島を捨てて、北海道の中標津にある開拓村へ引っ越す一家5人。
途中で、一生の思い出にと立ち寄る、大阪万博。
ぼくは この映画を、だいぶ後になって、レンタルビデオで観ました。
そして、恥ずかしく衝撃をうけました。
佐良直美が歌っていた『世界は二人のために』のように、自分たちのことだけで有頂天になっていた昭和45年、こんなに切ない愛すべき貧しい家族が、必死で生きていたんだと。
山田洋次監督は、万博で沸きかえる日本列島を、冷静に見つめていたのです。

1970年、いったい日本人は、何から迷子になったのか。
映画『家族』で描かれていた、あの家族から、貧しいけれど暖かくて安心な絆から、ひとりひとり、迷子になったのではないだろうか。


ぼくの、勝手な1970年への思いです。
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賽院の河原

2010-09-28 00:10:41 | Weblog
京都市街の西端、通りの名で言うと西大路四条の 交差点付近を、西院と呼んでいます。
阪急の駅名は、「さいいん」です。
嵐電の駅名は、「さい」と読ませています。
どちらも正しいらしい。
わたしは、言い慣れた「さあいん」で通しています。

淳和天皇の離宮の淳和院が、この地にあったらしい。
別名「西院(さいいん)」といわれていました。
これが地名の由来となった、という説。

遠いむかし、このあたりは都の辺鄙な西の果て、一面 川原でした。
鴨川と桂川の合流洲は、この近辺から南に長く広がっていました。
その河原は、野葬の場でした。
幼くして死んだ子を、捨てに来た。
年老いて死んだ親を、捨てに来た。
子や親を捨てたものたちは、合流洲を 三途の川の河原に見立てたに違いありません。
諦めきれない親たちは、死んだ子恋しやと、この付近まで会いに来る。
三途の川を渡りきれない魂は、娑婆恋しやと、この付近まで彷徨い出る。
あの世とこの世の どっちつかずの「賽(さい)の河原」だったのです。

この「賽(さい)の河原」説は、陰気ですが、引き付けられるものがあります。


祖母のむかし話を聞くのは楽しみでしたが、賽院の河原の話だけは、いやでした。
   これはこの世の事ならず
   死出の山路の裾野なる
   西院(さい)の河原の物語
嬰児が父上恋し母恋しと せっかくせっせと作った積み石を、夜になると地獄の鬼が来て押し崩すところにくると、耳を塞いで聞いていました。
「やい、子供、汝らは何をする、娑婆と思いて甘えるか」
祖母の袂に首を突っ込んで、聞いていました。
深い意味など、判ろうはずもありません。
ただ、恐ろしうてなりませんでした。
地蔵さまが「幼きものをみ衣の、裳裾のうちに掻き入れて」くださるところで、祖母の袂から やっと首を出して聞きました。
   未だ歩まぬみどり子を
   錫杖の柄に取り付かせ
   忍辱慈悲のみ膚(はだえ)に
   抱(いだ)きかかえて撫でさすり
   哀れみ給うぞ有難き

わたしは、地獄などあるとは信じないけれど、自分の中の邪悪は、幼いころから自覚していたように思います。
だから、賽院の河原の話が、恐ろしかったのでしょう。


映画『悪人』をみていて、追いつめられた祐一(妻夫木聡)と光代(深津絵里)が隠れる灯台の灯りに 視覚を奪われたとき、なぜか 祖母の話を思い出していました。
暗闇を照らすスクリーンの灯台の閃光が、恐ろしい三途の川の河原で救ってくれた 地蔵さまのように思えたのです。

映画『悪人』は、しんどかったです。
それは、この映画を観ているわたし自身のいやらしい部分、同時にかわいそうな部分が、映画の登場人物ひとりひとりに映し出されているように、錯覚したからでしょう。

ただ、祖母から聞いた賽院の河原の話が、免疫になっていました。
悪人の自覚、というと大げさですが、それがあったから、気持がどん底まで沈んでしまわずに済んだように思います。

明るさばかり追い求めていては、得られないもの。
生きることは、本来陰気な部分が大半なんだと。

嫌だった「賽院の河原」の話は、生きる肥しだったんだ。
映画『悪人』は、それを教えてくれました。
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矢野選手の八重歯

2010-09-23 23:30:58 | Weblog
虎気違の「浜長」のおやじさんとの電話は、 決まって1時間は越します。
浜長とは、日本一旨いとわたしは信じている こんにゃくの老舗です。

浜長のおやじさんには、野球に対する持論があります。
自身、若いころは 草野球のヒーローであり、現在では 地元少年野球チームの監督でもあります。
彼の持論は、ただ二つ。
「野球はピッチャーや」
「二勝一敗でええねん。三連敗はあかん。三連勝はもっとあかん」

今季の阪神タイガースは、彼の持論に沿っていません。
だから たぶん、リーグ優勝は無理でしょう。
優勝は、ピッチャーのいい中日ドラゴンズでしょう。
(こんなこと言いながら、心の内では 阪神がひょっとして優勝するかも、なんて思ってるんですが・・・)


矢野耀大(あきひろ)捕手の引退は、とてもさみしいです。
試合に勝って、投手に歩み寄って、八重歯を思いっきりみせて、最高の笑顔。
ぼくは、あの笑顔が見たくて、阪神タイガースを応援しているようなものです。
家内は、矢野選手は いい顔してるけど しゃべらしたらちょっと失望やね、なんていいますけど、ぼくは あの噛みそうな関西弁、大好きです。

「おれには一芸がない。これに関して負けないというのは何もない」
矢野選手はそう話していますが、彼のここ一番の適時打シーンは、ぼくの頭にいっぱいです。
「コツコツやるのは誰にも負けないから、おれはやってこられた」
そう言い切る矢野選手、かっこいい。

もし ぼくがピッチャーなら、キャッチャーは 絶対に矢野捕手を選びます。
矢野選手のキャッチャーミットに向かって、投げてみたい。
夢のまた夢です。


岡田の首振り、赤星のひょっとこ口、阪神から消えてしまいました。
浜長のおやじさんが、長電話で ポツリと言いました。
こんどは、矢野の八重歯、もう見られんのかぁ。
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合歓の木陰

2010-09-22 14:53:37 | Weblog
きょうの暑さ、今年最後に ちがいありません。
ゆうべ、コオロギの合唱を聞きましたから。

この夏 合歓の木は、たぶん ちょっといいことをしました。
その木陰は 道行く人々の、強い日差しからの ささやかなシェルターになったのです。

御前通りとの交差点を東行きする 信号待ちの たいていの歩行者や自転車は、20数歩手前の 合歓の木陰で、信号が変わるのを待っています。
この木陰、とても涼しいんです。

梅雨どきから咲き出した合歓の花は、お彼岸近くなった今も、長い団扇のように張り出した枝の先を、淡いピンクで飾っています。

木陰の涼しさや 風車のような花の愛らしさには、困りごとも付属します。
細かい葉の掃きにくい落ち葉や 茶色に変色して落ちる花の老姿が、風に乗って ご近所の門をきたなくくします。
心苦しいのですが、隣人の寛大さに甘えています。

夜になると葉が合わさって閉じるので ネムノキというのだそうですが、花の方は夕方から咲き始め、翌朝の午前中には萎んでしまいます。
ぼくは 花も好きですが、この寝起きする 柔らかなシダみたいな葉に、安らぎを覚えます。
風に、細い枝の根元から たゆたゆ揺れる葉の眠たげな動きは、とても優しい。

今も、残暑の強い日差しを避けて、合歓の木の木陰で しばし憩っている信号待ち人たちの姿を、この二階の設計室から 眺めています。
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