goo blog サービス終了のお知らせ 

つれづれ

思いつくままに

おとなの始末

2016-01-29 18:06:05 | 
おとなの始末。
落合恵子さんの新書本(集英社刊)のタイトルである。

いわゆる<ハウツーもの>は、最近は読まないことにしていた。
なのに、『おとなの始末』は、最後まで読みきった。
読みきった ということは、わたしにしてみれば、いい本に出会えた ということになる。


「素晴らしい一冊の本に出会うためには、100冊のくだらない本を読め」というけれど、読書力の衰えたわたしには 無理な努力だ。
100冊の完読は無理だから、4~5冊の本で勝負することにしている。
それも、省エネ法で。

本屋さんで 題や表紙に惹かれた本は、手にとって パラぱらっとめくってみる。
内容は(理解できていないから)二の次で、読みやすさや意匠センスで、まず篩にかける。
決め手は、<あとがき>である。
<あとがき>を多少努力して読んで 気に入ったら、レジへ。

こういう ズボラな選定法だから、当たり外れの当り確度は そうとう低い。
『おとなの始末』は、その低い確度の中での当りの中の一冊である。


『おとなの始末』の<あとがきにかえて>に、こうある。

  ・・・それにしても、あとがきはいったい、だれのためのものだろう。
  なかなか書き終えることができない言い訳に、さっきからそんなことを考えている。
  それは著者のためのものなのだろうか?
  読者のためのものだろうか? わたしにはわからない。
  なんとなく言い訳めいているな、とも あとがきについて思う時がある。
  読者のためでも著者のためであっても、書き残したものがあるなら、
  本文に加えればいいのに!

まったく同意見だ。
落合さんは正直だなぁ、と思う。

  ・・・たぶん、わたしはたくさんの宿題、「おとなの始末」を完成させることなく、
  この生を終えるだろう。
  しかし、生きることに、そして最期を迎えることに、完成形などあるのだろうか。
  なにをして完成と呼ぶことが可能なのか。
  ほとんどすべての人生は、未完と言えるのではないだろうか。

そうして 落合さんは、(ほんとうは本文に加えるべきなのに)こう結論めいたことを、この<あとがきにかえて>で述べている。

  「おとなの始末」とは、つまり・・・。
  最期の瞬間から逆算して、残された年月があとどれほどあるかわからないが・・・。
  カウントすることのできない残された日々を充分に、存分に「生ききる約束」、
  自分との約束。そう呼ぶことができるかもしれない。
  生あるうちは生きるしかない。
  生きるなら、「自分を生ききってやろう」という覚悟のようなものが、
  本書『おとなの始末』の底流に流れる静かな水音と言えるかもしれない。

落合さんは ほんとうは、一番言いたいことを<あとがき>に書くということを承知で、長々と(失礼!)本文を書いてられたのか、とも思う。
上の文のすぐあとに続く次の文は、この本のなかで わたしが一番好きな一節である。
これこそ、「おとなの始末」なのだ、と思う。

  クレヨンが好きで、仕事机の横にいつも置いている。色鉛筆もある。
  あれもこれもそれも、と24色や36色のすべてを
  試してみたかった年代は、とうに過ぎた。
  さまざまな色を思いつくままにやみくもに使いながら、
  あの頃はどの色も、自分の色とはなぜか思えなかった。
  そしていま・・・。
  一色だけを選ぶことはまだできないけれど、数色だけが、
  わたしの素手に握られている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いい顔してます!琴奨菊

2016-01-27 11:18:23 | 
大相撲初場所で、大関・琴奨菊が優勝しましたね。
うれしいです。
日馬冨士や白鵬など 日本出身でない力士も嫌いではないですが、やっぱり日本出身力士の優勝は 胸躍ります。
ことに 琴奨菊は、お気に入り中のお気に入り力士。
いい顔してます。

この初場所は、先場所までの顔つきと違いました。
照れ笑いのような いつものあの笑顔も素敵ですが、制限時間いっぱいになったときに見る この場所の琴奨菊の顔は、東大寺戒壇院の広目天をみるようでした。
ほれぼれする顔立ちでした。

来場所もいい成績をあげて、久しぶりの日本出身横綱の誕生を、心から願っています。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

思い出の食、捜します

2016-01-20 15:20:21 | 
「思い出の食、捜します」
NHKテレビBSプレミアムドラマ『鴨川食堂』のサブタイトルです。
柏井壽(かしわいひさし)著の原作では、
京都発!思い出の「味」、捜します。
こっちの方がピッタリ、と感じるのですが…

小説『鴨川食堂』、急いで読むのが惜しいくらい、味わい深い作品です。
が、テレビドラマの方も、なかなかいい味 出ています。
一話一話、心がほっこりいたします。
初回から見ていなくても 大丈夫、一味一味 違いますから。
ぜひぜひ、お見逃しなく。


河原町通りと鴨川の間に 、土手町通りという筋があります。
竹屋町通りから丸太町通りまでの、短い、でも京都のあいの筋にしては けっこう道幅のある通りです。
この筋にある中京年金事務所に用があって、しょっちゅう通っています。
旅館石長さんのある通りです。

この通りは 丸太町に出る手前で道幅が細くなるのですが、その細くなる出っ張りのところに、小さな洋食屋さんがありました。
お手軽洋食の店・金平(きんぺい)です。
金平のすこし手前の、アテナ商事さんの前に駐車させてもらって、よく通いました。

このお店、最初に教えてもらったのは、洛北高校の先生です。
昭和30年代、ここは洛北高校教師の集まりの場だったそうです。
ここのオムレツは最高やでぇ、そう教えてもらいました。

京都を離れた5年間を除いて、外食先に困ったら決まって、金平でした。
外の薄皮を箸でちょっと突くと、中からジュワーっとふわふわの半熟卵が…
あのオムレツの味、忘れられません。


コロナの玉子サンドが喫茶マドラグで蘇ったように、どこかで金平のオムレツが生き返ってへんやろうか。
東本願寺あたりの「鴨川食堂探偵事務所」はんに、探してもらおうかしらん。
思い出の食 捜します、てな言う探偵事務所、あったらええのになぁ!



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

飛鳥大仏

2016-01-14 15:01:18 | 

飛鳥寺安居院を訪ねたのは、去年の秋、10月12日であった。
稔りの稲穂と夏の代名詞のひまわりが同居する田畑の向こうに、金木犀の香る飛鳥寺安居院はあった。
穏やかな、懐かしい光景。
やまとは 国のまほろば、ほんとうにそうだと思う。
風が渡って、稲穂とひまわりを揺らしていた。


御堂内部は、撮影自由。
飛鳥大仏を、パチパチ撮らせていただいた。
なんという おおらかさ。

面長、杏仁(きょうにん)型の眼、引き締めた口元、まさに推古仏のお顔である。
それにしても、痛ましい傷痕を残しておられる。
爛れたような頬に、このみほとけの背負われた 人間の業を読み取れる気がする。

飛鳥寺のみほとけは、忘れられたみほとけの代表といってもよい。
満身創痍のこのみほとけに なにか拙劣な感じだけを抱いて、その痛みの意味から引き下がっているのではなかろうか。
そうであってはならない。
このみほとけを造りあげた作者の、深い深い祈りに、心いたさねばならない。

飛鳥大仏の前に正座して、思い起こしていた言葉がある。
毎日新聞奈良版に『奈良の風に吹かれて』を連載されている、西山厚さんの言葉である。

  元気いっぱい幸せいっぱいの人が仏像を造ったりはしない。
  悩みや苦しみや悲しみがあるから、あるいは切実な願いがあるから、
  人は仏像を造り、その前で祈り、大切にしてきた。
  すべての仏像の向こうに、その前で切なる祈りを捧げた それぞれの時代の人々がいる。
  そして今も、その前で祈りを捧げる人がいる。
  確かに仏像はすぐれた美術品でもある。
  しかし、すぐれた美術品として、ただそれだけの意味で展示したのでは、
  仏像がもっている広い深い世界の大部分は、失われてしまう。
  私は金子みすゞさんの詩の一節を、いつも思い出す。
  「私がさびしいときに/仏さまはさびしいの」
  そして私は手をあわせ、仏像(=仏さま)をじっと見つめる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

詩、一篇。

2016-01-08 10:57:04 | 
わたしには、詩は書けない。
だけど、詩のすごさは、判る。
わたしは、優しい人間では、決してない。
だけど、優しい人間の悲しみは、理解できる。

吉野弘の『夕焼け』という詩を読んで、そんな気がした。

  いつものことだが
  電車は満員だった。
  そして
  いつものことだが
  若者と娘が腰をおろし
  としよりが立っていた。
  うつむいていた娘が立って
  としよりに席をゆずった。
  そそくさととしよりが坐った。
  礼も言わずにとしよりは次の駅で降りた。
  娘は坐った。
  別のとしよりが娘の前に
  横あいから押されてきた。
  娘はうつむいた。
  しかし
  又立って
  席を
  そのとしよりにゆずった。
  としよりは次の駅で礼を言って降りた。
  娘は坐った。
  二度あることは という通り
  別のとしよりが娘の前に
  押し出された。
  可哀想に
  娘はうつむいて
  そして今度は席を立たなかった。
  次の駅も
  次の駅も
  下唇をギュッと噛んで
  身体をこわばらせて---。
  僕は電車を降りた。
  固くなってうつむいて
  娘はどこまで行ったろう。
  やさしい心の持ち主は
  いつでもどこでも
  われにあらず受難者となる。
  何故って
  やさしい心の持ち主は
  他人のつらさを自分のつらさのように
  感じるから。
  やさしい心に責められながら
  娘はどこまでゆけるだろう。
  下唇を噛んで
  つらい気持ちで
  美しい夕焼けも見ないで。

    
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする