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つれづれ

思いつくままに

21世紀のキーワード

2009-05-26 08:49:43 | Weblog
NKBという ユニークな会社がある。
例えば 電車内の中づりなど、交通広告をはじめとする広告代理店業務を行っている会社だ。
関西では あまりお目にかかれないが、首都圏の駅などの公共空間に描かれている 心和む魅力的な大壁絵の多くは、NKBによる製作らしい。
近年 Webサイト構築やインターネット広告などの事業分野で、躍進著しい。
わたしは、この会社に注目している。
会社そのものも そうだが、この会社のリーダー、わたしの5歳年上の滝久雄社長に 心引かれる。

滝久雄氏が著した『貢献する気持ち』(2001年紀伊国屋書店刊)という書物のなかで、彼は「貢献心は本能である」と言っている。
貢献心という言葉もユニークだが、貢献心を 食欲や性欲と同列の本能と捉えるところに 彼の真骨頂がうかがえるし、そのことに わたしは強く同意したい。

フランス革命の真髄は、その標語<自由・平等・博愛>で表現されるが、この精神は 200年以上経ったこんにちでも 変わることのない真実である。
問題は、自由・平等・博愛のバランスだ。
平等の偏向は、ロシア革命に始まる旧ソビエト連邦の壮大なマルクス主義実験によって、その脆さを 全世界に示した。
自由の行き過ぎは、いま 世界を窮地に貶めている。
ならば 博愛かというと、歴史はそうだと答えていない。
平等の影に独裁者がいたように、博愛の影にも 宗教という魔物が付きまとう。

資本主義と自由主義が結託して幅を利かせている現代社会において、欠けているのは まちがいなく 博愛であるし、人はそれを敏感に感じ取っている。
愛を掲げる直江兼続を描いたNHK大河ドラマ『天地人』が これほどまでに人気があるのは、その証しであろう。
民主党党首に選ばれた鳩山由紀夫氏が<友愛>を標榜するのも、ときを得た姿勢かもしれない。
しかし わたしは、直江兼続の<愛>にも 鳩山由紀夫氏の<友愛>にも、どうも 嘘っぽい臭いを嗅いでしまう。
博愛が道具に使われてしまう危惧を、どうしても拭いきれないのだ。

14年前に起こった阪神大震災のとき、全国の多くの若者が被災地へ向かった。
なにか手助けしたい、その一念からの行動だった。
わたしは、しっかりとこの目で 彼らの貢献心を見た。
あれは、まちがいなく 人間の持つ本能であった。
愛だの友愛だのといわず 本能と割り切るところに、わたしは <博愛>の真実を感じ取る。

滝久雄氏は その著書で、「貢献心とは、けっして後天的なものではなく、むしろ先天的な欲求である」と指摘している。
貢献心は、他者に尽くすことが善い行い といった動機がないと発動できないものではなく、わたしたちが自分自身のために表現する欲求の一つとして、きわめて自然に生まれてくるものなのだ。

「本能としての貢献心」、21世紀を救うキーワードではなかろうか。
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『重力ピエロ』で感じたこと

2009-05-25 09:05:09 | Weblog
加瀬亮という俳優の魅力と<重力ピエロ>という題名に惹かれて、映画『重力ピエロ』を観てきました。
6年も前に 大ベストセラーになった原作、実は、その存在すら知りませんでした。
作者の伊坂孝太郎の作品は、まったく知りません。
だから これから述べることは、伊坂ファンなら、なに言ってんの ということだろうと思います。
親みたいな世代の「感想」と、聞き流してください。

主人公のひとり、弟 春と同じ年齢のころ、わたしも マハトマ・ガンジーに強く惹かれていました。
《非暴力から生じる力》という著書を、あの頃 自分の一生のバイブルにすると、そう誓ったものです。
でも 空々しいなにかが どっかしらに引っかかって、70年安保学生紛争のときも 結局 体を張ってガンジー主義を貫くことはできませんでした。
空虚感に苛まれた時期でした。
ガンジー主義に憧れていながら、実は なんにも判っちゃいなかったのです。

春の部屋いっぱいに貼られた偉人たちの写真、マザー・テレサの写真もありました。
ひときわ大きいガンジーのポートレート、その後ろに隠された 母親をレイプした犯人の犯行現場30箇所のピンポイント地図。
春は これら犯行現場で放火行為を繰り返すことによって、自分の体内に流れる卑しい血を 浄化しようとします。
最後の浄化は、卑しい血の主とともに なにもかも炎で燃やし去ってしまうこと。
兄 泉水も、悪の権化のようなレイプ犯人(渡部篤郎)を溺死殺人する計画を立てます。
空家になっている 引越し前の家、母親がレイプされた部屋で、ついに兄弟は「事を起こす」のですが、これは わたしの勝手な推量ですが、「事を起こした」あの場面は、兄弟の心の中で成就した 架空シーンではなかったか。

題名<重力ピエロ>の深い意味が、よくわかりました。
そして 兄弟たちの父親(小日向文世)の言動を通して、ほんとうのガンジー主義を(わたしなりに)理解することができました。
小日向文世演ずる父親も 渡部篤郎演じるレイプ犯も、実は 同じ人間の側面であり、真の非暴力主義とは、おのれに降りかかってくる外部からの暴力に対するものではなく、おのれの内部に宿る暴力に対する 深遠で高尚な生き方そのものを問う言葉だったのです。
ガンジーのポートレートの裏に隠された レイプ犯行現場のピンポイント地図が それを象徴しているように、わたしには感じられました。

新型インフル騒動で 街なかは閑散としているのに、映画館は超満員。
それも わたしたち夫婦以外、みんな若い人たちばかり、あっ いや ひとりお年寄りがいました。
そのおばあさんは、上映開始間際に入館して 係員に最前列の座席へ案内されていたので、記憶が鮮明なのです。
彼女は この映画を観終わって どのような感想をいだいたのだろうか、それを聞く勇気はありませんでした。

若者たちが『重力ピエロ』に関心をもっていること、そのことが なにかとってもうれしいことのように思えます。
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立って歩く人間

2009-05-12 12:54:48 | Weblog
どうも 花粉症に罹ったようです。
これまで、花粉症に悩まされている人を見ても、気の毒になぁとは思っても、その辛さの実感がありませんでした。
体質って、変わるんですね。
連休前ころから、くしゃみの連続で、目がやたらと痒く、鼻水ダラダラ。
辛いものですね。
「経験しないと、わからない」
ほんとに そうだと、つくづく思うこのごろです。

ところで、わたしたちの生活で 立って歩くことは、当たり前になっています。
赤ちゃんが始めてヨチヨチ歩きしたときの 愛する者たちの感動は、かわいさと同時に 無事な成長を喜ぶ感謝の気持ちからでしょう。
膝が弱って 歩くのがままならないお年寄りを、心から気の毒に思います。
でも、日常生活で忙しく立ち回っていて 自分が立って歩いていることには、ことさら何の感動もありませんし、意識にすらのぼりません。
立って歩く、このことがどんなに凄いことか、歩けない不便さといった 実利的なことだけでなく、人間そのものに関わる重要な能力であることに気づいて、びっくりします。

「あなたのからだは、あなたの人生そのものです」という理念のもとに『菊池体操』を編み出された菊地和子先生は、75歳とは思えないほど 姿勢のすてきな方です。
「人間は、立って歩くようになって 脳が発達しました。どんどん脳が育って 頭が大きくなると、その重さを支えなければなりません。そのためには、頭が背骨の真上にしっかり乗っかっていなければなりません。姿勢が大切なわけが、ここにあります。」

菊地先生のお話で、思い出したことがあります。
ずいぶん前の映画ですが、チャールトン・ヘストン主演の『猿の惑星』で、ネアンデルタール人みたいな類人猿が振り返るシーンです。
振り返るといっても、頤のない つまり首のない類人猿は 首を曲げて振り返ることはできませんから、ピョコンと飛び跳ねて後ろ向きになるのです。
首があるのに ネアンデルタール人みたいに亀首のような姿勢の現代人を、たくさん見かけます。
きっと 背骨のどこかに、歪みが出ていることでしょう。

菊地先生は、講演には必ず 骨の人体模型を持参されるそうです。
先生は、この人骨模型を示しながら こう指摘されます。
「見てください。首と同じように 背骨しかない個所があるでしょう。胸には肋骨があり、お尻のまわりには骨盤がありますが、腰の部分には背骨しかありません。」
人間が立って歩くためには、上半身と下半身との間に 可撓性のある部位が必要です。
この可撓性部位が腰で、腰が肋骨のような骨で覆われていては その役目は果たせません。
「その代わりにあるのが、筋肉、腹筋です。」
菊地先生は、腹筋の大切さを 人間のからだ全体から 解き明かされます。
腰は、字そのものが明かすように、からだの要です。
この からだの要を支えるのが、腹筋だというわけです。

この感覚は、太極拳に馴染むようになって すごく良く判るようになりました。
「丹田」という表現が、それを象徴しています。
姿勢、腹筋、丹田・・・
これら 自分自身のからだに注意が向くようになって はじめて、気づくこと あまたです。
これまでの生活が いかに自分のからだを蔑ろにしてきたか、そして、人間のからだの不思議、ひいては この地球上に存在するすべてのものに対する驚き、そうして、立って歩く人間の崇高さ。

どうも この時期の花粉症の原因は、イチョウらしい。
花粉症に罹るということは 新陳代謝が活発な証拠ですよ と、かかりつけのお医者さんに言われて、ちょっと落ち込んでいた気分が 楽になりました。
イチョウも 子孫を残すために 必死で生命活動をしている、それに反応して わたしのからだも 必死で新たな生命維持活動を始めた、そう思えば、くしゃみも かゆみ眼も まぁいいか、ということろです。

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麻生総理、もっと憲法を勉強して!

2009-05-11 10:54:30 | Weblog
麻生太郎という いまの日本国の総理大臣は、日本国憲法をしっかり読んだことがあるのだろうか。

ソマリア沖への自衛隊派遣をめぐっての 麻生総理の発言を聞いていると、そんな危惧を抱きます。
野党も なぜ、総理発言の 憲法からの乖離を突かないのか、わたしには理解できません。

日本国憲法は、日本国民であることの「基本的な約束事」であって、いかなる法案であっても これに反することはできないはずです。

わたしは、現行の日本国憲法の「前文」を 心から大切に思います。
この「前文」には、その読みやすく判りやすい文章の中に、先の大戦でのあまたの無念と祈りが込められている、そう 確信できます。
日本国憲法の「前文」は、わたしたち日本国民にとっての聖書だと思います。
そして、この“聖書”ほど強力な武器は、他にないのです。

この「前文」に続く第1条から第99条は、「前文」で掲げる理想と目的を遂行するための いわば“道具”であって、「前文」こそ 日本国民が死守すべきバイブルなのです。
わたしたちは、『政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意』したのであって、それが達成されるのであれば、わたしは、憲法第9条に拘りません。
しかし わたしたちは、過去の歴史から、これを達成するためには 第9条が その手段として どうしても必要であると覚ったのです。

昨今の経済状況で苦境に陥っている人びとが 人口に乗り始めて、憲法第25条がクローズアップされていますが、問題の大企業トップ達が 憲法「前文」の精神を理解し これに基づいてその会社をリードしていたなら、いま苦しんでいる人々のおそらく大半は 救われていたはずです。

憲法の条文で あまり問題にされないのは、触れたくないからかも知れませんが、第1章「天皇」の第1条です。
昭和天皇も 今上天皇も そして美智子皇后も、人間としてすばらしいお方です。
こんにちの日本の繁栄は、このお三方に負うところが絶大だと思います。
それは、大多数の日本国民にとって 天皇の存在は非常に大きいからです。
ただ 過去の歴史は、天皇が国政に関与すると この国が乱れることを、教えてくれます。
憲法第1条は、この辺の微妙なバランスを 見事に消化してくれているのです。
その根幹の精神は、「前文」に掲げられた“主権在民”の理念であって、天皇といえども この理念を遂行する役割を担っていることを、はっきりと謳っているのです。

ソマリア沖への自衛隊派遣の問題に 戻ります。

自衛隊は、その成立過程から 多くの矛盾をはらんでいました。
いま、その存在の是非を問うつもりはありません。
それは、憲法第9条第2項に関わる問題です。
ソマリア沖への自衛隊派遣に関わって いま問いたいのは、第9条第1項の条文です。
『国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。』

イラクへの自衛隊派遣は 違憲だったと、わたしは 今でもそう考えています。
ただ イラク派遣は、実質的には戦争への協力ですが、“人道派遣”という装いをかぶっていました。
このあたりが 小泉元総理の賢いところで、アメリカへの配慮から派遣はするが“戦闘には加わらない”ために、比較的治安が安定しているとされたイラク南部の都市サマーワに その活動の範囲を限定しました。
“世界公益のための奉仕活動”という名目を、一応 拵えあげたのです。
小泉元総理が 憲法第9条第1項に拘った証拠です。

ところが ソマリア沖派遣は、日本関係船舶の護衛を主目的としており、はっきりした国益優先の自衛隊派遣です。
これは、明らかに 憲法第9条第1項に違反しています。
麻生総理の 憲法第9条第1項に対する配慮の無さを、露呈しています。
だから、冒頭のような疑問が 涌いてくるのです。

日本国籍の船舶を見殺しにするのか、争いごとの好きな輩は、きっと そう言うでしょう。
逃げればいいのです。
ソマリア沖を避けて、遠回りの航路を選べばいいのです。
そのためのコストアップは、日本が『武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する』ことを宣言した証しを示す費用と 考えるべきでしょう。

憲法改正のための手続きを定めた国民投票法の施工まで、あと1年余りです。
わたし自身を含め、日本国民は、もっと自国の憲法に関心を持つべきです。
日本国憲法「前文」に込められた わたしたち親の世代の悲願を、読み取るべきです。

わたしたちの孫が 安心して住める日本を、いま、真剣に考えるときです。

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葉落帰根

2009-05-11 10:54:03 | Weblog
『あの戦争から遠く離れて』
いま、毎週土曜夜9時に放映されているNHKドラマ『遥かなる絆』の、原作小説名です。
作者は、1976年 四国八幡浜生まれの 中国残留孤児二世 城戸久枝。

中国残留孤児への感情移入が激しいわたしは、中国残留孤児二世である城戸久枝という若者の目を通して、ある意味 覚めた眼で、考え直す機会を得ることができました。
中国残留孤児への思い、ひいては、日本と中国との ここ80年の因縁的な関係を、『遥かなる絆』からは映像で、『あの戦争から遠く離れて』からは文面から、冷静に しかも より正確に 眺めることができたように思います。

この実話物語から、わたしは 大切な言葉を知ることができました。
「葉落帰根」
これは、久枝(ドラマでは鈴木杏)が、中国吉林省の吉林大学で学ぶかたわら 中国残留孤児たちやその家族に日本語を教える短期臨時講師を務めたときに、その生徒のひとり、李さんという日本語の上手な50代男性が、日本へ帰りたい思いを込めて 語った言葉です。
葉が落ちて根に帰る、他郷をさすらう者も落ち着く先は故郷である、そういう意味の言葉だそうです。

この言葉に出会ったとき わたしは、姜尚中氏の自伝『在日』にも 同じような言葉があったことに気づきました。
「落地成根、落葉帰根」
在日一世である姜尚中氏の父の気持ちを推し量って、表現された言葉です。
姜尚中氏は、父の、望郷の無念と同時に 深遠な諦観に似た安らぎを、この言葉で表現したかったのだと思います。

「葉落帰根」も「落地成根、落葉帰根」も、思いは同じ、止むに止まれぬ望郷でしょう。

城戸久枝の父 城戸幹氏や 姜尚中氏の父の、血を吐くような思いからは程遠いでしょうが、わたしたちは みな、この世に生れ落ちた瞬間から、「葉落帰根」の心情を宿して、生きているように思います。

「土に還る」というイメージを、聖路加病院の日野原重明先生は、こう説明しています。
「わたしたちの肉体の成分、カルシウムやマグネシウム、リンといったものはみんな、土の成分と一緒です。亡くなると同時に魂が体から抜けて、その魂はどこへいくかわかりませんが、体は地球へと還っていく。だから わたしたちは、死んだら土に還るというイメージを 知らず知らずのうちに覚えているのでしょう。」

「葉落帰根」
また ひとつ、好きな言葉が増えました。
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エドワード・ホッパーの憂鬱

2009-05-09 15:21:11 | Weblog
アメリカを代表する画家、エドワード・ホッパーの作品に、《日曜日の早朝》(1930年)という題名の絵がある。
ニューヨークの7番街を描いて、休息日の早朝に漂うけだるい雰囲気を、観るものにじわじわと感じさせる作品だ。
ひと気の無い街に、これから始まる人々の活動を予告させるような活気はなく、かといって ゴーストタウンのような不気味さは まったく感じない。
もちろん、休息日の癒しなど 微塵もない。
見捨てられたような淋しさ、そして、ただただ けだるいのである。

ルノワールに代表される印象派の絵には、ほのぼのとした温かみを感じる人が多い。
わたしも、ゴッホの絵などには 心惹かれるが、見たそのときに あぁいい絵だなぁと感心して、後は知らん顔でいられる程度の、残像である。

盗難で話題になった、エドヴァルト・ムンクの《叫び》(1893年)は、決して好ましい絵ではないが、受けた印象を いつまでも引きずってしまう。
エドワード・ホッパーの《日曜日の早朝》も、いつまでも引きずるという点では、ムンクの《叫び》に等しいか、あるいは それ以上である。
ムンクの《叫び》が 何か訴えるものを強烈に感じるのに対して、ホッパーの《日曜日の早朝》には 主張らしきものは無く、醸しだされるのは 諦めである。

もう一枚、ホッパーの絵を とりあげたい。
《ニューヨークの映画館》(1939年)。
画面左半分は スクリーンの上にチカチカと映る映画とそれに見入る人びと、右半分に おそらくこの映画を何べんも観飽きて もの思いに耽るしか場が持たない案内嬢が エントランススペースの壁灯の下に立っている。
左半分に 映画舘という場で暗示する見せ掛けの現実、右半分に その見せ掛けの現実から疎外された これも空虚な現実。
この絵を見た瞬間から、わたしは いわれのない不安感に駆られてしまった。

ホッパーが主に描いたのは、20世紀後半を象徴する大都会・ニューヨークだ。
歴史に彩られた華やかさの影に漂う『パリの憂鬱』とはまったく異質の、大恐慌時代から第2次世界大戦に至る 金持ちと貧しい労働者が醸す『ニューヨークの憂鬱』を、ホッパーは、独特の“省略と暗示”の手法を使って表現した。
彼の作品が、俗な“時代風刺”に留まらず、80年の時を越えて わたしたちの心をとらえるのは、彼の生きた時代の人間そのものに深く関わって、「人間の気持ちの普遍的真実」を 真摯に描ききっているからだろう。

ホッパーの描く「憂鬱」は、まさに 現代の憂鬱そのものである。
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