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つれづれ

思いつくままに

中華そば

2008-02-27 10:06:39 | Weblog
ラーメンブームといわれて 久しい。
が、いまだ廃れる兆候はない。
仕事柄を抜きにしても、わたしも ラーメンには目がない。
あそこのラーメン 旨いで、の ひと言で、すぐにでも行ってみたくなる。
たいていの場合、行って がっかりすることが多い。
ラーメンの好みほど 百人百様はない、と諦める。
それでも めげず、自分の好みを満たしてくれる店を 恋しがっている。
正直言うと、たぶん いま評判のラーメン店は わたしを満足させないだろう との予感が いつもある。
実を言うと、わたしの欲しいのは、‘中華そば’なのだ。
支那そば、と言ったほうが 正確かもしれない。
昔、チャルメラを鳴らして引いていた屋台で食べた あの味なのだ。
ちゃんとした中華料理店で出す中華そばも、嫌いではない。
中華料理風の出汁は、懲りすぎの今風ラーメンだしより ずっといい。
だが、わたしの欲するのは、中華料理店風の中華そばでもないのだ。
たまに、いわゆる 麺類店で、ぴったりの中華そばに 当たることがある。
そんなとき、大げさだが 涙がでるくらい 嬉しい。
厨房を覗き込んで、店の主に わざわざ「旨かったでーぇ」と 声をかけたこともある。
ちょっと、専門家づらして もの言うと、これは 一にも二にも 出汁のとり方である。
かといって、どうしたらあの味がでる 出汁のとり方ができるのか、そこまでの懲りはない。
ただ、あの味に会いたいだけ。
ところが、あの味よ もういちど、と 件の麺類店を再訪すると、がっくり来ることが ほとんど。
あの味は まぐれか といいたくなるのだが、実のところ たぶん まぐれなのだ。
隠さずに言うと、昔 味しめた‘中華そば’のほんとうのところは、それほど 旨いものでなかったのではないか ということも、うすうす感づいている。
だって、あの時代 食は旨いよりも量だったのだから・・・
そして、いまの時代だって 旨いまずいは、そのときのこちらの体調によるところが きわめて大きいことも 悟っている。
あの店のラーメンは 噂ほどでもない、あのうどん屋が出す中華そばは 格別や、・・・
そんな 無責任な‘批評家’でいられることが 一番 いい状態であることを、本人が一番よく知っているのである。



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夫婦連れウォーキング

2008-02-22 11:17:42 | Weblog
ウォーキングが盛んだ。
まちがいなく 歩くことは体にいい。
人間は歩く動物だ、と定義しても まちがいはないと思う。
歩くことは、生きることの基本みたいなものであろう。

ところで、夫婦連れでウォーキングしている光景を よく見かける。
二条城の廻りは 約1.8kmで、一周すると 程よい運動になる。
早朝から 夜遅くまで、二条城周辺は ウォーキング族のおかげで さびしいということはない。
夕暮れ時ともなると、夫婦連れウォーキングが目立つ。
なかに、ご主人が奥さんをかまうでもなく さっささっさと奥さんの前 数メートル先を歩いている ご夫婦ウォーキングを見かけた。
これを見ると、わたしは 15年ほど前の きわめて個人的な かなしいウォーキングを思い出さずにいられない。

そのころ、わたしたち夫婦も 一緒にウォーキングをしていた。
コースは 二条城ではなく、北野神社まで往復する けっこう長い距離だった。
冬の気配が濃くなった ある日の夕食後の、ウォーキングのことである。
原因がなんだったのか 忘れてしまったが、たぶん わたしの自分勝手なわがままが きっかけだったに違いないのだが、二人で家を出てほどなく わたしは ひとりすたすたと歩いていった。家内を振り返りもせずに。
だいぶ後方になった家内を チラッと見た。
うつむき加減に歩いている。
そんな家内を そのまま後方に、わたしは いつもの北野神社往復コースを歩き終えた。
かなり時間が経ってから、家内は帰ってきた。
それから、家内はもうウォーキングをしなくなった。
家内に 劇的な変化が生じたのは、この最後のウォーキングからだった。
それまで、なにかことをおこすとき わたしからの働きかけがなければ 家内は自分から行動を起こすということは、まず なかった。
言い方に誤解を生じやすいが、とても従順であった。
あのときから、人が変わったように思う。
その翌年早々、家内は ひとりでカナダへ旅に出た。
カナダにいる古くからの友人を訪ねる目的もあったろうが、あれは「独立宣言」だったと わたしは思う。
夫婦のあり方というものは、ときとともに変わっていく。
変わって当たり前なのだが、あのときの変わりようは わたしにとって 意外な きわめて切ないショックだった。

二条城の堀端を いま離れて歩いている夫婦が、どのような夫婦のありようなのか どうでもいいことなのだが、あのときの自分の悔いる気持ちを思い出して、いらぬ詮索をしてしまうのである。


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愉快であった

2008-02-19 08:00:00 | Weblog
NHK大河ドラマを、最近 みなかった。
どうしても観たい という気持ちが湧かなかったからだが、いま放映している「篤姫」は 録画してでも観たいと思う。
主人公 於一の宮崎あおいがみせる いやみのない演技が好ましいし、彼女の幼なじみの尚五郎役 瑛太のさわやかな笑顔が、ドラマを明るくしている。
なによりも、於一の両親を演じている 長塚京三と樋口可南子が 脇をしっかり固めてくれているのが、このドラマを軽い流れに終わらせていない。
この前の放送分「父の涙」で、於一が藩主 島津斉彬の養女に入る日、娘の改まった別れの言葉に対して 父 長塚京三は こう返す、「愉快であった」と。
愉快であった、いい言葉ではないか。
あの場面で、ほかにこれ以上ふさわしい言葉があろうか。
愉快であった 父と娘とは、なんと素晴らしい関係であろう。
愉快であったとの言葉の裏には、父の 娘への深い愛情と惜別と潔さが あふれんばかりに感じられるのだ。
もし 死に際にこの言葉が発せられるなら、その人の一生は 素晴らしいものであった証左である。
「愉快であった。」
何ごとにも こう言ってお別れできる一生でありたいと、心から思うのである。



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歓喜の歌

2008-02-18 17:08:58 | Weblog
立川志の輔の創作落語「歓喜の歌」を、まだ聴いたことがない。
それを聴いていたら、たぶん 映画「歓喜の歌」は観なかっただろう。
わたしには、そういう 天邪鬼なところがある。
久しぶりに 映画を観る気持ちのゆとりができたので、山田洋次監督の「母べえ」か この「歓喜の歌」か迷った。
しんどい映画は 敬遠したい体調だったので、「歓喜の歌」ということになった。
京都シネマで 監督・松岡錠司の話が聴ける放映帯に、偶然にも出かけることになった。
観るまえのお話だったので、それが好都合だったのか、その逆だったのかは判断がつかないが、松岡監督という人物に接することができたのは、ラッキーだったと思う。
パンフレットの表紙に 彼のサインももらってきた。
映画というものは、出演者が自分の好みの俳優さんか否かで 大きく影響される。
小林薫という俳優は わたしの好みだから、この映画が気に入らないはずはない。
娯楽映画としては 上出来だと思う。
が、人に是非にと薦めるたぐいの映画ではない。
映画の内容を あれこれ書きたくなるようなたぐいの映画でもない。
それが、この映画の良さでもあろう。
普通の人間のお話なんてものは、特筆せねばならないような代物ではない。
ゆうべ食べ過ぎて きょうは胃が重くてしかたがない、ここ2,3日 大便が出ていないので 体がけだるい、このまえ彼女にとった態度が きつ過ぎたのだろうか きょうも彼女の機嫌が悪い、などなど。
普通の人間の日々なんて、そんなもんであろう。
そういうのって、嫌いじゃない。
この映画「歓喜の歌」は、ちょっと1ヶ月ほどまえに近所で起こったような 時間が経ったらすぐ忘れてしまいそうな そのへんの立ち話的存在、まさに 落語の世界である。
そうそう、わたしにも 歓喜の歌をうたった経験がある。
或る団体のクリスマス例会で 余興のまとめ役が当たって、しかたなく 7,8人で歓喜の歌をドイツ語で歌ったものだ。
映画「歓喜の歌」も、いつの日か そういう感傷で思い出されるのかもしれない。
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女流作家 梨木香歩

2008-02-06 16:47:41 | Weblog
いまや書店の店頭に並ぶ新刊書の半分以上は、女流作家の手になるものではないだろうか。
女流作家などというと、叱られるどころか 完全にバカにされそうである。
なにを いまどき 古臭い、いまや 芥川賞も 直木賞も、‘女流作家’でしょ。
そもそも、女流作家などという表現は、女性蔑視だよ。
だいたい、女流作家ということば自体、もう死語でしょ。
ごもっともである。
ところで、わたしは 女性の書いた小説や随筆が 苦手だ。
源氏物語をしっかり読んでもいないのに こんなことを言う資格はないが、源氏物語的おんなの情念というやつが どうも好きになれない。
源氏物語は、特に日本の女性に 圧倒的な人気がある。
なにに魅力があるのか、光源氏か。
だいたい 光源氏などという男は、わたしの いちばん避けたいタイプである。
もっとも、現代の女流作家が、みながみな 源氏物語的な作風であるはずはない。
だから、わたしが 女性の書いた小説や随筆を 苦手とする根拠にはならない。
やはり、男の視点と女の視点の違いからくる違和感が、女流作家に対する苦手意識を生んでいるのであろう。
ところで、例外が存在する。
作家・梨木香歩のことであるが、彼女の作品は『家守綺譚』と『春になったら苺を摘みに』の二冊しか読んでいない。
それで どうこう言うのも これまた資格のない話なのだが、たった200ページほどの二冊の文庫本で 一ぺんに梨木香歩に惚れてしまった。
まず、『家守綺譚』を読んで、この作家は きっと夏目漱石が好きに違いない、と思った。
語り口が 漱石風である(わたしは 大の漱石ファンである)。
よく 時代劇などで 男勝りのお姫様が 男のいでたちで活躍する といった場面を見かけるが、この‘漱石風’と言っても 男装のお姫様的な匂いは 一切感じない。
男の作品だと言われても、きっと そうかと思ってしまうだろう。
それでいて、ちらちらと ユニセックス的なやさしさが感じられるのが、わたし好みである。
次に、『春になったら苺を摘みに』を、正直なところ 最初 少々嘗めていた。
帰国子女の海外体験談か そこらくらいしか、期待していなかった。
ところがなんの、これは 凄い作品である。
と いうより、梨木香歩という人間が 凄いのであろう。
凄い との表現は いかにも稚拙だが、‘彼女は凄い’と思う。
単に 頭が良さそう とか、文章が鋭い とか、そんなことだけじゃなく、彼女自身のビリーフという表現を拝借すれば、わたしは‘彼女のビリーフ’に惚れてしまった。
よし、このつぎは『西の魔女が死んだ』を読もう。
実に 楽しみだ。




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冬の季語

2008-02-03 17:15:05 | Weblog
ことしは 暖冬といわれていたが、なんの!寒さひとしおの1月だった。
寒さにも いろいろある。
ちかごろ感じる寒さは、どうも 冷蔵庫的な寒さに思えてならない。
子供の頃は、水溜りに よく氷が張った。
その上を、ミシミシいわせて歩くのが 面白かった。
水道管も、凍らないように マフラーをしてもらっていた。
玄関先の ちょっとしたスロープが 、格好のゲレンデになることも 多かった。
落ち葉焚きの 咽ぶ匂いが、懐かしい。
冬の趣きという点では、いまよりも 昔のほうが ずっと 味わい深かったのではなかろうか。
家内が 大丸で買い物をするあいだ、ここ 上島珈琲店で あたたかいカカオミルクコーヒーを啜る。
『咏諷鳥花』を、拾い読みする。
この季語辞典は 高濱虚子の著で、義母のかたみである。
去年の2月に義母が亡くなって以来、いつも持ち歩くカバンの中に 必ず入っている。
一月の季語は、豊富だ。
正月にちなむ季語が多いのは 当然だが、雪や氷に関する季語も たくさんある。
その中から、心に響く説明文と俳句を、二三挙げてみよう。
  雪折れ。
   ・・・しんしんと更けゆく夜半、裏山に雪折れの音を聞くのは淋しい。
      雪折れの巨木悼みて老二人 (雉子郎)
  雪晴れ。
   ・・・高嶺や平原の深雪に輝きわたる旭光、一夜のうちに装いを替えた
   山里や漁村に塵も止めぬ快晴を齎す風景はまったく素晴らしい。
      雪晴の障子細目に慈眼かな (茅舎)
  氷面鏡(ひもかがみ)。
   凍った水面が鏡のように見えるのをいう。
      濃く淡く木々影落とす氷面鏡 (友次郎)
季語が薄れる世の中は、味も素っ気もない世の中を意味する。
まだ 京都には、ありがたいことに 季語を感じさせる風情が残っている。
ことに 冬の京都には、季語にふさわしい雰囲気を あちこちに ことごとに 感じることができる。
冷蔵庫の中のような味気ない冬から 抜け出して、この寒さにめげず 冬の季語を 探しに出かけよう、そう 家内に提案してみようと思う。
外は、牡丹雪になったみたい。
カップに残った さめたカカオミルクコーヒーを、急いで飲み干した。
 
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再び 地球儀

2008-02-02 09:32:36 | Weblog
地球儀を見ていると 楽しくなる。
地球は、けっこう傾いている。
自転軸が 公転軸に対して23.44度の角度をなすという。
この傾きのおかげで 日本には四季がある、と学んだ。
自然の摂理は偉大だ、地球儀を見ながら そんな思いに浸る。
日本、その隣に 中国、ロシア。
中国も ロシアも、大きな国だ。
日本は これらの国と うまくやっていかないと、しまいに飲み込まれてしまう。
地球儀を見ていると、そんなとり越し苦労さえ沸いてくる。
そこへいくと、朝鮮は 南北合せても 日本とそれほどかわらない。
そう、日本は やはり 朝鮮と一番仲良くしなければいけないのだ。
地球儀を 指先で ぐるりと一周させてみる。
地球って、そんなに大きくないんだな。
地球は ひとつ。
地球は かわいい。
地球を 大切にしなければ。
地球儀を見ていると、そう つくづく 思う。
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