つれづれ

思いつくままに

テレビっ子

2009-06-26 09:12:42 | Weblog
表題を間違いました。
テレビっ子ならぬ、テレビじじいなんです。
それも、テレビドラマ。
4~6月期の夜10時台は、火曜日から金曜日まで、テレビにかじりついています。
だから、寝不足。

火曜日は、『白い春』。
水曜日は、『アイシテル』。
木曜日は、『ボス』。
金曜日は、『スマイル』。

それも、今週で みんな おしまいですが・・・(また、7~9月期が始まるかぁ)

「歌は世に連れ・・・」といいますが、テレビドラマも 世に連れて変わります。

30年近く前、山田太一の『ふぞろいの林檎たちへ』というドラマに夢中でした。
サザンオールスターズの『いとしのエリー』のメロディーとともに・・・
そのときの出演者、中井貴一や時任三郎、手塚理美・・・みんな お父さんお母さん役の年代になりました。
山田太一の作品、『男たちの旅路』も 『岸辺のアルバム』も 『沿線地図』も、よく覚えています。
人と繋がっていたいくせに、「愛」という言葉の持つ嘘っぽさ、人間のどろどろしさを なんとなく感じ取っている登場人物たちに、共鳴していたからだと思います。
倉本聰や向田邦子の作品も、必死で観ていました。
これらのテレビドラマは、わたしの理解範囲内の いわば分身的存在であった訳です。
真剣に、「愛」と呼ばれる何かに、向き合っていたはずです。

1990年代、高視聴率の「月9」ドラマの地位を確立した『東京ラブストーリー』から『ロングバケーション』にいたる、いわゆる「トレンディドラマ」も、それなりに おもしろく見ていました。
でも それは、当事者としての興味ではなく、異世代への理解度を深める的な、少し離れた位置からの“観戦”でした。
わたしの理解範囲外からの眺めだったのです。
30歳そこそこで どうしてあんな立派なマンションに住めるのだろう・・・とか。
そういう現実の時代だったのだろうし、それなりに みんな一生懸命だった。
でも なにかしら、何かが安らかでなかった。

阪神淡路大震災、9.11アメリカ同時多発テロ・・・
少しずつ 変わりだしました。
平穏な日常の連続の中では、なかなか見出せないもの。
愚かなわたしは、一種の災害願望みたいなところがあります。
たとえば 大地震でも起きて、みんなが危機に瀕して助けあわなきゃならなくなれば、案外いまの空虚さは無くなるんじゃないか といった、たいへん不遜な考えです。
昨今の「戦後最大の危機」も、このような不遜な考えで 眺めているところがあります。
そして 現に、テレビドラマが変わりました。

『白い春』は、見えにくくなった“父の愛”を、
『アイシテル』は、独りよがりになりかけた“母の愛”を、
『ボス』は、ちょっと置いておいて、
『スマイル』は、一見忘れ去られたかのようにみえる偏見な“他人への愛”を、
それぞれのドラマは、語りかけています。
ほんとうの「愛」の気づき、みたいな、そんな“愛の方向”。
世の目が そういう方向にたぶん 向きつつあることに、わたしは好感を覚えます。

ところで、「愛」という言葉ですが、この日本語は どうも誤解を招きやすい。
「愛」が表現しようとする概念と、「愛」と口ずさんだときの情念が、どこかで乖離しているように思えるのです。
人は 人と繋がっていたい。
これは事実です。
それを、しょっちゅう携帯電話することで、その気になっている。
人間と人間のつながりに対する飢えを、愛の欠乏からくるものだ との表現は、真実を伝えているでしょうか。
どうも 実態が言葉を得ていない。
「愛」という言葉が とても軽薄に使われ過ぎでは と、自分も含め このごろ思うのです。

これまでの「愛の欠乏」から いまは直江兼続の愛がもてはやされていますが、軽薄に使われた「愛」は、そのうち白けが出てくることでしょう。
人と繋がっていたい という願望は、食欲や性欲と同じレベルの 一種の本能であって、それを「愛」などと表現するから 誤解が生まれるのです。
そんな「愛」を価値基準や行動基準にしようとするから、愚弄されただの 捨てられただのと 騒ぎ立てるのです。
「おてんとうさま」への畏敬の念を 生活規範にできている人は、強い。
だって ブレがありません。
なんで ここで、「おてんとうさま」なんや ですが、ほんとうの「愛」は 結局のところ そういう 普遍で不変な“大きな何か”に行きつくのです。
常はおとなしいのに いざというとき喧嘩にめっぽう強い人、一つのことに飽きもせず こつこつ仕事している人、山で遭難したとき 動物的本能で生きる知恵がうまれる人・・・
こういう 魅力的な人は、共通して「おてんとうさま」的嗅覚を持っています。
そして、共通して「何がいちばん大切か」を心得ています。
だから、小欲です。
禁欲ではなく、多くを望まないことに慣れているのです。

おてんとうさまへの畏敬の念を 愛と呼ぶのなら、そういう 強い「愛」が、いまの社会に必要なのだと思います。

『白い春』も 『アイシテル』も 『スマイル』も、そういう「愛」を予感できる すばらしいドラマでした。
最後に『ボス』のことですが・・・
女性に叱られることを覚悟で言うのですが、わたしは 女上司のもとで働く気は、まったくありませんでした。
でも 天海祐希のようなボスなら、その下で働いてもいいです。

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真夏のオリオン・余録

2009-06-16 18:07:09 | Weblog
前に勤めていた会社に、山崎平さんという わたしより9歳年長の上司がおられました。
わたしが その年限りで退社することを決意した その年の夏の人事異動で、わたしが所属する部署の長となられました。
人手不足の時代でしたから、退社をおもいとどまるよう いろんな方々からお声を掛けていただきました。
当時の父の会社の状態から、いま父の手伝いをしなければ 一生後悔するとの思いが、慰留していただく方々のご好意にまさったから、わたしの決心は変わりませんでした。
山崎さんは、強くは引き止められなかった。
ただ一回だけ、個人的に食事に誘っていただいたことがあります。
新居浜駅前通りをまっすぐ南下して 突き当たったところを右に曲がって 街中に出るのですが、その突き当たったところに 当時としてはまだ珍しかった焼肉店がありました。
その焼肉店で、遅くまで 二人で語り明かしたのです。
山崎さんは、会社に残れ!的なことは 一切おっしゃらず、人生に関するような話を とつとつと語られた。
酒がすすんできたころ、彼は 美空ひばりの「悲しい酒」を アカペラで歌われました。
お世辞にも上手とはいえませんでしたが、いまでも あの かすれた歌声が、わたしの耳の奥に残っています。
晩夏の星空が少し明るくなっていたから、5時は過ぎていたでしょう。
タクシーで わたしが住んでいた長屋社宅まで送っていただき、別れぎわに「社員が幸せになれる会社にするんだぞ」と、わたしの肩をとんとんと二回たたかれた。
その後 半年のあいだ、わたしは山崎さんの下で 気まずい思いもせず働きましたが、仕事以外の会話は ありませんでした。
山崎平さんは 長く要職に就かれてのち、関連会社の社長を勤め上げられ、2005年11月1日 お亡くなりになったと聞きます。
享年69歳でした。
半年早く わたしが山崎さんの部下になっていたら、わたしのその後の人生は 大きく変わっていたかもしれません。

映画「真夏のオリオン」をみたとき、潜水艦イ-77の艦長 倉本孝行と、かっての上司 山崎平さんが重なりました。
万事休す寸前に 航海長 中津弘が、姿勢を正して 艦長に言った言葉は、あのたった半年の間 いっしょに仕事させていただいた山崎平さんに向かって言いたかった思いとダブったのです。
「倉本艦長のもとで いまを迎えたことを、わたしは誇りに思います」

人間、どんな上司のもとで働く嵌めになるか、それは 半分以上 運命としか言いようがありません。
だから 余計に、心から尊敬できる上司を持てたことは、たとえ短期間であっても、どんなに幸せなことか。

現在の日本を見るに、マスコミに現れるたぐいのリーダーの品位が、極端に落ちたと言わざるを得ません。
政治家や官僚ばかりではない。
日本を代表する民間大企業のトップに、かっての日本のリーダー達のような 尊敬に値する人物が、いかほどおられるのだろうか。
いまの日本の体たらくをもたらした責任は、民間のしかるべき大企業トップの資質に負うところ大なのです。

振り返って わたしたち市井の周りには、ほんとうに立派な方が たくさんおられます。
その方たちの 共通する資質は、「真夏のオリオン」の倉本艦長に通じている。
すなわち、人を敬う心。
どんな人に対しても、どんな状況においても、きちんと向き合い、理解しようと努め、決して見捨てたりはしない。
マザー・テレサは、栄養失調で首がぐにゃぐにゃで 腹ばかり膨れたガリガリの子供を抱きかかえて、「この子は神のお子です」とおっしゃった。
凡夫のわたしは 到底そんな高みには至るはずもありませんが、倉本艦長役の玉木宏が パンフレットに書き記している言葉を読んで、こんな若者になら この日本を安心して託していいと思いました。
「・・・ですから演じる上では、必死にそこに追いつこうとしました。もちろん、なかなか簡単に追いつけるものではない。けれども 追いつこうとイメージすることが、自分自身が変わる第一歩だと思っていました。上に立つ人間には、どんな状況でも ブレてほしくありません。それは いまの時代でも変わらないことだと思います。いま見ても、この人物像は すごく輝いて見える。そういう気持ちを持つことが、日本が変わっていく第一歩だと思います。」

良きリーダーに恵まれるということが どんなにすばらしいことであるか、映画「真夏のオリオン」をみて、このことを 強く強く感じました。





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真夏のオリオン

2009-06-14 23:07:13 | Weblog
中学生だったわたしを夢中にさせたハリウッド映画に、『眼下の敵』という戦争映画がありました。
マリリン・モンローと共演した『帰らざる河』をみて その頃自分の好みで作っていた“私の映画スターベストテン男優編”で一位を得ていた ロバート・ミッチャムが、アメリカ駆逐艦の艦長役でした。
ところが この『眼下の敵』以後、一位は 敵のドイツ潜水艦Uボート艦長役の クルト・ユルゲンスになりました。

前置きが長くなりました。
『真夏のオリオン』の予告編をみて、これは『眼下の敵』のリメイク版やん と、高を括っていたのです。

金曜日の毎日テレビ夜11時、笑福亭鶴瓶が 超長身の美人ファッションモデル小泉深雪をアシスタントにして 司会しているトーク番組“A-studio”で、玉木宏がゲストに出ていたときでした。
鶴瓶が、『真夏のオリオン』を激賞していたのです。
それまで ちょっと怖いフェースの玉木宏に あまり好感を持ってなかったのですが、この番組で ちょっと見直したこともあり、『真夏のオリオン』はぜひとも見なくっちゃぁ、という訳で・・・。

たしかに 筋は、『眼下の敵』に似ています。
でも これは、ちゃんと“筋”の通った 良くできた作品です。
涙がポロポロこぼれるわけでもない。
迫力満点ということでもない。
でも、見終わって こんなにさわやかな気分になれる戦争映画は、いままで見たことがありません。
そして、れっきとした反戦映画です。
戦争を知らない世代が作った、新しい形の戦争抑止映画だと思います。

映画友だちに 見なきゃ損するよ と、はっきり言える映画です。

蛇足ですが、CHEMISTRYの堂珍嘉邦、役者としても いけますね。

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一休さんの書

2009-06-08 13:39:02 | Weblog
父母の住んでいた家の整理をしていたら こんなものが出てきたよ と、先日 姉が、ナイロン袋にきちんと仕舞われた 全紙大の額を渡してくれた。
額には、銀粉散らし深緑の色紙に「奇峰」と書いた墨書が入っており、わたし名の朱印が押されていた。
母が、たいせつに残しておいてくれたらしい。
この「奇峰」の書から どっと蘇ってきた記憶が、一休さんの書である。

京都の街からずっと南、京田辺市の薪(たきぎ)というところに、酬恩庵(しゅうおんなん)という禅寺がある。
通称、一休寺。
一休さんの墓がある、文字通り 一休さんの寺だ。
大徳寺の末寺とはいえ、まことに立派な構えの禅寺である。
元は、妙勝寺といった。

臨済宗の歴史みたいな話になるが、中国唐の時代 臨済義玄(りんざいぎげん)は、禅宗を興隆して 臨済宗を開いた。
禅宗には、その教えを末代に伝えるため、禅を極めた者に法を嗣(つ)ぐ“印可”という制度がある。
ちなみに 臨済義玄は、禅宗の祖・菩提達磨から数えて 11世に当る。
宋の時代に、臨済義玄から数えて16世の 虚堂智愚(きどうちぐ)という高僧が出た。
一休さんが 常々自分のことを「虚堂七世孫」と称していたように、虚堂智愚は 一休さんの憧憬の人であった。
その虚堂智愚に教えを請うため、南浦紹明(なんぽじょうみょう 大応国師)という 日本の禅僧が 入宋した。
この大応国師が 虚堂智愚から印可されて帰朝し、南山城・薪の地に開いた禅の道場が、妙勝寺であった。
大徳寺開山の大燈国師こと宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう)は、大応国師の弟子に当る。

元弘の乱が、鎌倉幕府末期に起こる。
「太平記」の舞台、南北朝時代の始まりである。
妙勝寺は、この乱の戦火にかかり 消滅したも同然の姿となった。
大応国師から数えて6代の法孫に当る一休さんは これを再興し、師恩に酬いるという意味で『酬恩庵』と名づけた。

一休寺本堂(法堂)の右手に、鎌倉の禅寺の建物を髣髴とさせるような 小ぶりながら唐風ゆたかな 愛すべきお堂がある。
このお堂、開山堂(大応堂)の内部に、一休さんは、妙勝寺の再興時に 大応国師の木像を刻ませて これを安置している。
一休、63歳のときである。

前置きが 長々しくなったが、それも 酬恩庵という禅寺のすばらしさに 魅了されてのことである。

さて 一休さんの書について であるが、わたしが なぜ 一休さん、禅師・一休宗純の書に惹かれたか。
具体的に、大徳寺塔頭(たっちゅう)・真珠庵に伝わる、一休宗純筆の四言偈(げ)双幅の一行書「諸悪莫作、衆善奉行」をみればわかる。
一見 稚拙であるが、筆力雄渾とは このような字を言うのではなかろうか。
その 押し迫る気魄と野性味溢れる鋭さは、逆とんぶっても 真似できる字ではない。
すべて書は その人の性格を現わすというが、 それのみならず、書は その人の骨格をも表わすものだと、一休さんの書と一休さんの頂相(ちんそう、肖像画)を見比べて、この勘を深くした。
つまり、書を通して 一休さんという人間そのものに 強く惹かれた、ということなのである。

ところで、京都の物知りさんに言わせると、京都では戦前と言えば 応仁の乱以前を指すという。
古色蒼然もはなはだしいが、第二次大戦で大きな戦災に遭わなかった 京都ならではの話であろうし、当時の京都が 応仁の乱で受けた被害が、それだけ大きかったことを 物語ってもいる。
その 応仁の乱のとき、一休さんは74歳であった。

話は外れるが、元弘の乱から応仁の乱に至る 室町時代という中世日本は、ふたりの天皇と うつけな将軍様が統治する きわめて不安定な社会であり、暗黒時代のイメージが強いが、その反面 庶民の時代であり、特に京の都では 下から湧き上がるような活気溢れる時代でもあった。
日本のルネッサンスであったのだ。
いまのわれわれの生活の土台は、この時期にできたといって過言ではない。
それは、『わび』『さび』といった 能や茶道などの芸の世界だけではなく、いわゆる『日本的』日常生活に、である。
このことは、京都という土地に住んでいると 一倍 肌で感じられるのだ。

人は、時代によって作られる。
一休さんが室町時代に現れたということは、摂理の一端であった。

一休さんは、漫画やテレビを通じて 一気に子供たちのアイドルになった。
それは、普通の人間には思いつかない“頓知”ゆえであるが、同時に 権力や組織をその頓知でやっつけるという 反権力的開放感を、頓知話しを聞く者に 与えてくれるからであろう。
だから 一休さんは、子供のみならず、現代日本人みんなのアイドルなのだ。
「さん」付けで呼ばれる所以である。

一休さんが 後小松天皇の落とし子だということは、ほぼ間違いないようだ。
高貴な血を享けながら 乱世の世に 賎しい民家で産声を上げなければならなかった宿命は、一休さんの人間形成の根幹をなす。
一休さんが自らを『狂雲』と称したように、「狂」は 一休さんの生き方を象徴する。
それは、「絶望」のなかで生きていく智慧であった。

禅者は、世俗的価値を超越しなければならない。
しかし 一休さんは、禅体験において世俗的価値を超越しつつも、世間に生きるためには 世間の価値を越えることはできなかった。
天皇の落胤であるという定めから逃げることができない。
悲運な母を見捨てられない。
乱世という歴史上にも稀な時代を避けて生きることはできない。
この「絶望」に強く向かっていくには、「狂」になるしかない。
わたしは、一休さんの この人間臭に惹かれる。

昭和43年の秋、11月祭の催しに合わせて わたしたちが所属していたサークルも 部活発表をするべく、講義そっちのけで 各自の年間テーマの仕上げに没頭していた。
その年 わたしが選んだテーマは、“一休の書”であった。
檀家寺である長遠禅寺の大和尚・藤井宗允氏は、大徳寺・真珠庵で修行され 一休さんに造詣が深い。
亡母も、この大和尚を 10歳年下ながら、心から敬慕していた。
その いまもご健在の大和尚に、40年以上も前に 一休さんについてお話をうかがい、それをテープにとらしていただいた。
いまでは出典すら定かではないが、一休の書の代表として、もっとも気に入った『峯』という字を スライドにした。
あまたある一休禅師の資料や書物を、手当たり次第 調べ上げた。
いよいよ研究発表の当日、11月23日 勤労感謝の日、あいにくの寒む雨で、会場の北部講堂は 足元がやたらと寒かった。
聴衆は、義理で来てくれた友人数名と サークルの仲間のみ。
寒さと薄暗い照明と音量不足のオーディオと そして テーマ自体の陰気臭さで、その数名の聴衆すら、わたしの話なんぞ うわのそらだったに違いない。
こうして、わたしのはじめての“講義”は、散々に終わった。

その翌年の1月 大学正門はバリケード封鎖され、9月には時計台が全共闘に占拠されて、機動隊との乱闘騒ぎに巻き込まれていく。
紛争の騒がしさは、わたし自身の頭からも 一休さんをどこぞへ追いやってしまった。
その後、「奇峰」の額を目にするまで、一休さんの書をみていない。

「奇峰」は、一休禅師に寄せる わたしの畏敬の造語である。
一休の書をテーマに選んで 一休さんの『峯』に惚れこんでから、『峯』という字を、一休さんに真似て なんどもなんども習字した。
似た感じには書けても、書いている人間に雲泥の差があるのだから、迫力がまったく違う。
「奇峰」と書いて、おしまいにした。
字そのものはともかく、一休さんを「奇峰」とは うまく表現できたと、ひとりうれしがっていたのを、懐かしく思い出す。

母がたいせつに残しておいてくれた額から、忘れていた たいせつな思い出を、蘇らせることができた。
書棚の奥に眠っていた<一休の書>を取り出してきて、「諸悪莫作、衆善奉行」という字を いま、ゆっくりと眺めて、楽しんでいる。
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聖母たちのララバイ

2009-06-08 09:00:01 | Weblog
口元が 表情をゆたかにする大切な部位であることを、このたびの新型インフル騒動で 思い知らされました。
悪事をはたらくときや後ろめたい行為にでるとき、目出し帽や頭巾をかぶる心境が、マスクをしていて また マスク顔に囲まれて、なんとなく理解できました。
口は、しゃべらなくても いろんな情報を発しているんですね。

神戸・大阪の街がマスク一色となった 先月の23日、大阪ザ・シンフォニーホールで 京都フィルハーモニー室内合奏団と岩崎宏美のコラボコンサートがありました。
誕生日が近い家内とわたしの ささやかな自分達の誕生日祝いにと、家内がだいぶ前から そのチケットをとっておいてくれました。
公演中止か危ぶまれましたが、直前の電話確認でOKとのことで、厳重にマスクをして出かけました。

岩崎宏美の「聖母たちのララバイ」がヒットしたころ、わたしは淡路島での線香製造ラインの仕事に没頭していました。
明石大橋はまだできていませんでしたから、阪神高速の須磨で下りて フェリーで淡路島の大磯へ45分間の船旅でした。
車から離れて 海風に肌を撫でられる このフェリー上での45分間は、ゆったり流れていた学生時代の贅沢な時間を いっとき 懐かしく思い出させてくれたものです。
ところが シーズンになると、このフェリーは大変な混みようとなりました。
淡路島での泊りがけの仕事を終え、へとへとになって大磯のフェリー乗り場に着いて、それから2時間待ち3時間待ちは ザラでした。
長い長い待ち時間、車の中で「聖母たちのララバイ」をなんど聴いたことか。

この曲に癒された“戦士”たちが いかに多かったか、当時のヒットチャートの度数が それを証明しています。
作詞者の山川啓介という名前は、当時まったく認識なかったのですが、作詞者はたぶん同年輩の男性だろうと思っていました。
あんな男本位の歌詞を 女性が作るはずがない、そう思いながらも 岩崎宏美の透き通るような歌声に、こんなマドンナの胸に抱かれてみたい夢想に酔ったのです。
ちなみに 山川啓介氏は、青い三角定規が歌っていた「太陽がくれた季節」や 中村雅俊の「ふれあい」の作詞者なんですね。
なんとなく 納得しました。

公演は、ちょっと異様でした。
観客席みんなマスク覆面姿。
ステージから 岩崎宏美も、「異様な雰囲気ですねぇ」とコメントしていました。
マスクのせいもあったでしょうが、静かな でも 心からの拍手の観客と、京フィルのでしゃばらない演奏と、そして 岩崎宏美自身の人間的成長の落ち着きから、しっとりした時間が流れるコンサートでした。
アンコール曲として歌われた「聖母たちのララバイ」は、27年前の高揚した感情に導くのではなく、あの頃の自分に対するレクイエム(鎮魂歌)のような、安らかな気持ちに浸してくれました。

「聖母たちのララバイ」に癒された あの当時の戦士たちは、ひょっとしたら とんでもない勘違いの目標に 翻弄されていたのかもしれません。
ただ そういった苦い過去への自己批判を飛び越して、「聖母たちのララバイ」は、ダサいといわれようが クサいといわれようが、間違いなく、母の愛を失った眠れない戦士たちの子守唄として 存在したのです。

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円空のほとけ

2009-06-04 12:49:54 | Weblog
30年ほど前のある時期、岐阜県大垣市出身の同業者K氏と べったり一緒に仕事をしたことがあった。
2歳年下の彼は 創造力と実行力に長け、私に欠けているすべてのものを持ち合わせていた(と思い込んでいた)ので、必要以上の信頼を寄せたために 仕事上でかなり痛い目を負わされた。
そんな曰くつきながら、思い出の中に 今でもK氏の魅力に負けている自分がいる。

その彼と名神高速を走って長良川にかかるころ、彼が熱を帯びて 決まって語る話があった。
俺のひいじいさんの話なんだが と前置きして、こう語った。

濃尾平野は 木曽川や長良川の恩恵を受けて肥沃な土地柄ながら、この川がいったん暴れだすと 人間のわざではとうしようもない災いをもたらす。
尾張の殿様は偉い方だから、木曽川も長良川も東側の土手を高くして 洪水がお城の方へ流れ込まないようにしてある。
ある大雨のとき その東側の堤も危なくなって、西側の堤を人為的に決壊した。
ひいじいさんの三番目の弟は、この洪水で溺死した。
大垣、羽島、安八の地域には、こんな話がいやというほど残っている。

K氏とは もう二度と会うこともあるまいが、もうちょっと違った形で 出会いたかった人物ではある。

さて、円空のほとけについて、語りたい。
学生時代の一時期 わたしは、一休さんの書と、円空さんのほとけに、魅せられていた。
一休さんは またの機会として、円空さんのことを急に語りたくなったのは、5月26日のNHKハイビジョン“プレミアム8”で放映されていた『円空、異形の仏12万体の願い』という番組を たまたまみて、円空のほとけを探し歩いた頃が 無性に懐かしくなったからだ。

円空上人は、江戸時代のはじめ、美濃国竹が鼻というところ、現在の岐阜県羽島市上中町に生まれている。
ちょうど 木曽川と長良川に挟まれた、農業のほかに生きる道のなかった、しかも 常に水の災いにさらされた地域だ。
父無し子であったが 母親にかわいがられ、7歳のとき その母を洪水で無くしてしまう。
あの番組の案内役 俳優の滝田栄が語っていたように、円空の生涯で この母への思いがどれほど重かったか、いやただ その思いひと筋だったのであろう。
20歳はじめのころのわたしは、ただ鉈彫りの魅力だけで 円空のほとけを追っていたが、この年齢になって あの番組をみて 初めて気づく、大きな共鳴である。

円空は、尾張の殿様を憎んだであろう。
だが 彼は、荒れ狂う川を鎮める竜神に ひたすら祈る道を選んだ。
自分と同じような みなしごがでませんようにと、竜神に祈りつづけるのである。
その祈りを木霊に込めて 非彫刻的な鉈彫り円空仏として、貧しい農民たちを布教していくのである。

1663年、北海道洞爺湖の南にそびえる有珠山が大噴火した。
当時のことだから、そのニュースが美濃の遊行僧 円空の耳に届くには、かなりの日数を要したはずだ。
1665年、33歳の円空は 遠く北海道に渡る。
渡らずにはいられない心境だったのであろう。
洞爺湖の中島にある観音堂に、円空仏としては初期の 観音像が祀られている。
まだ拝したことがない、是非一度 拝してみたい円空のほとけの ひとつである。
北海道の布教範囲は 道南に限られているが、ニセコの西 日本海に面した寿都(すつ)にまで遍歴し、ここにも円空のほとけ(観音像)を残している。
当時 まだ未開の地であった北海道に、仏教の心を布教して歩いた円空の功績は、計り知れない。

円空の遍歴の地は、じつに広い。

北海道を去った円空は、その後、青森県下北半島を尋ねている。
恐山にある円通寺という寺に 円空の観音像が祀られているのだが、この像のお姿は まことに神々しい。
円空仏後期の荒々しい彫りとは対照的に、浅くやさしく彫り込まれている。
母を思わすそのお顔は、円空の母への思慕が ひしひしと伝わってくる。

秋田県男鹿半島にも、円空の足跡が見られる。
男鹿半島の西南端の門前五社堂に、等身大の十一面観音像が祀られている。
にんまりと微笑む このお姿も、まちがいなく 円空のほとけである。

志摩半島は、円空が愛した地だ。
志摩の漁民たちと生活をともにした 円空40歳台前半の2年間は、円空の生涯で もっとも充実していた日々であったろう。
賢島に近い阿児町立神の薬師堂につたわる「大般若経」は、円空の指導で、写経の古本をもとに 巻経から折経に改められた。
折経を 勧進帳の如く パラパラと左から右へ流すことによって、長々とした大般若経を 全巻読み通すのと同じ効用がある、としたのである。
漁の仕事で忙しい漁師や海女にとって、これは 大いなる救いであったに違いない。
同じく立神の少林寺にも、また、志摩半島最南端の片田の地にも、同じような折経の大般若経が残されている。

濃尾平野へ戻った円空は、以後 尾張・美濃・飛騨地方をめぐっている。
飛騨での足跡は 実に多い。
円空は 飛騨一円の自然と人々を愛し、正確な数がわからないほど多数のほとけを 木霊から彫り出し、それらを飛騨の民衆に 分け隔てなく与えた。
いまでも この地方の村々には、円空のほとけを持ち回り地蔵として ひと月ごとに家々をめぐる風習が残っており、人びとの心のよりどころとなっている。

1689年には 近江との境 伊吹山に籠もり、同じ年に 東は下野(しもつけ)の国 日光を遍歴し、上野(こうづけ、今の群馬県)から武蔵・相模・駿河、西は肥前の国まで 脚を伸ばしている。
こうしたエネルギッシュな諸国遍歴を終えて 1695年、64歳で故郷の長良川畔で入滅するまで、「木っ端さま」と呼ばれている小さな仏像を含め、なんと 12万体もの仏像を彫っていくのである。

若い頃のわたしは、芸術家・円空を追い求めていたように思う。
縄文の土器や土偶にみられる 怪異な造型を、円空仏に見出して 悦にいっていた。
魔術師・円空に 勝手な期待のヴェールをかぶせていたのである。

円空自身 彫刻というものに魅せられていたのは、事実であろう。
しかし それは、現代の人間彫刻家の造型意欲とは 根底で違う。
伴藁蹊の『近世畸人伝』に、円空が 大きな立木に梯子を掛けて 像を彫り付けている挿絵がでている。
自然を畏れると同時に敬う心から、円空は 木に魂を見いだし、それを彫リ起こすことで仏像の形を与え、そのほとけの姿を通して 民衆に安寧と祈りを施していった。
円空においては、仏像の製作と伝道の精神が 完全に一致していたのである。

岐阜県関市洞戸にある高賀神社に、円空最後のほとけが安置されている。
2mを越す細長い十一面観音像を中心に、向かって右が 善女竜王像、左が善財童子像の三体仏。
番組『円空、異形の仏12万体の願い』では、これら三体の仏像が 同じ一本の大きな丸太から作られたことを教えてくれた。
十一面観音像を彫りとった残りの木から、円空の母の姿である善女竜王像と 円空自身の姿である善財童子像を 彫り出しているのだ。
映像では、これら三体の仏像を もとの大きな丸太として、抱き合わせて見せた。
わたしは、思わず嗚咽してしまった。
円空さんのほんとうの願いが、やっと判ったのである。
円空さんは、母とともに 観音さまに抱かれて、やっと安寧を得たのだ。

1695年、行脚するに耐える体力の限界を悟った円空は、長良川のほとりの弥勒寺で 断食に入った。
死をまじかに感じ取った円空は、弟子円長に 生きたまま長良川畔に埋めるよう指示して、細い藁管を銜えて座棺に入る。
幼くして母を奪われた長良川のほとりなら、いつまでも母といっしょにいられるとの思いからであったろう。
円空 64歳、入滅。

この世でやるべきことをすべてし終えて、そのとき まだ歩く体力と そして わずかな金銭的余裕があったなら、わたしは もう一度 円空のほとけを巡りたい。
いま そう、強く思っている。


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グラン・トリノ

2009-06-03 14:26:55 | Weblog
先日 朝日新聞の「いわせてもらお」という投書欄に、『風格』と題して こんな投稿が載っていました。
   クリント・イーストウッド主演の映画「グラン・トリノ」を見た。
   傑作で、老境の男を演じる彼も すばらしかった。
   「イーストウッドは、立ってるだけで さまになるよ」。
   さっそく 電話で姉にも薦めた。
   姉は、「うちには、立ってるだけで 邪魔になるのがいるけどね」。

立ってるだけで さまにならなくても、せめて邪魔にならないようにするには イーストウッドに会いに行かなくては と、一日一回きりの上演になってしまった「グラン・トリノ」を 急いで観にいきました。

昭和38年、私の頭は 大学受験で占められていました。
テレビ西部劇「ローハイド」をみている間だけ、受験から解放されました。
もちろん 白黒です。
フランキー・レインの響きわたるような歌声が テレビから流れると、他のことは一切忘れることができました。
テキサス州からカンザス州までの長い道のりを、数千頭の牛を引き連れて旅をするカウボーイたちの物語。
クリント・イーストウッドが若かった。(当時 あのカッコイイ若い衆がイーストウッドだなんて まったく認識なかったですが・・)
毎回 最後の場面、隊長が「しゅっぱーつ」と叫ぶと同時に、フランキー・レインの歌が流れる。
ああ もう終わってしまった、この歌で現実へ戻らなくてはならない。
土曜日の午後10時からの1時間が、あの頃の私の ゴールデンアワーでした。

その後、マカロニウェスタンの 呼称B級洋画で見たイーストウッドは、ローハイドのロディ役が印象に残りすぎてか、私をクレージーにさせるほどではありませんでした。
ただ、それまでのハリウッドスターにはない、いかがわしさのなかにキラッと光る人間くさい温もりがあり、あれっ イーストウッドって ちょっといいじゃん、そんな感じでした。
ハリウッド映画が たそがれ出した60年代後半から70年代にかけて、イーストウッドという俳優は、私にとって ちょっと気になる存在だったのです。

80年代 90年代と、私の生活から 映画は遠いものになっていました。
イーストウッドの話題作「許されざる者」も 「マディソン郡の橋」も、みていません。
イーストウッドという名前が ふたたび私の心をとらえたのは、2004年の正月にみた「ミスティック・リバー」という 彼の監督作品です。
イーストウッドって こんなすごい映画を監督するんや、これは ちょっとしたカルチャーショックでした。

このときからのち、スクリーン上で男の生きざまをリーディングしてくれる 15歳上のイーストウッドに、惚れ込んでいきました。
「ミリオンダラー・ベイビー」での老ボクシングトレーナー役も すばらしかった。
老いに対する憧れというか、一種の尊い風格を見いだしました。

そして 今回の「グラン・トリノ」。
冒頭の投稿とおり、立ってるだけで ほんとにさまになっているイーストウッド。
グラン・トリノとは フォードのクラシック車種名だということすら、映画をみるまで 知りませんでした。
この題名が暗示しているように、内容は アメリカのいまを突き、矛盾と虚構に対するさまざまなことを考えさせられますが、そんなことを遥かに飛び越して、この映画のウォルトという老人の姿を借りて訴える、イーストウッドという ひとりの老人の生きざまに、私は限りない共感を覚えました。

「生きることとは 納得の死に場所を見つける旅」。
誰かの受け売りなのか、自分が強くそう感じたのでしょう、青年期の日誌の見開きに 私はそう自筆しています。
ラストシーンを飾る ウォルトの死にざま。
これこそ、私が青年期から追い求めていた 死に場所です。
現実は もちろん、そう甘くはありますまい。
しかし、死という 人間が授かった最後にして最大の切り札を どうするか。
これは、誰もがいつかは真剣に対峙しなければならない、不可避課題です。
その一つの理想像を、イーストウッドは示してくれました。
自ら宣言しているように、俳優として最後の作品となるであろう この映画のラストシーンを、文字通り 死に場所としたのです。

クリント・イーストウッドに 心から拍手喝采です。

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