日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

「ホームレス暴行事件」から私が学ぶこととは

2020-05-01 | エッセイ
「ホームレス暴行事件」から私が学ぶこととは

どういうわけなのか自分でもわからないのだが、気になる記事があったので、以下に張り付けた、少し「面倒」かもしれないが、お付き合いしてほしい。

(引用貼り付け、始まり)

ホームレス暴行死で飛び交う臆測、SNSで逮捕少年特定の動き…専門家「刑法に抵触も」 読売新聞 2020/05/01 11:07

渡辺さんが暮らしていた河川敷に手向けられた花(30日、岐阜市河渡で)c 読売新聞渡辺さんが暮らしていた河川敷に手向けられた花(30日、岐阜市河渡で)
 岐阜市の路上でホームレスの男性が襲われて死亡した事件は、少年5人の逮捕から30日で1週間となった。男性は事件前にも相次いで投石を受けており、岐阜県警は逮捕した5人を含む約10人が過去の投石に関与したとみて、暴行をエスカレートさせた経緯や動機の解明を進めている。

 県警の発表によると、5人は3月25日未明、岐阜市寺田の路上で、住居不定、無職渡辺哲哉さん(81)に石を投げつけるなどの暴行を加えて殺害、または死なせた疑い。

 殺人容疑で逮捕された少年3人は、逃げる渡辺さんを数百メートルにわたって追い回した上で、頭に致命傷となる暴行を加えたとされる。県警は3人に殺意があったとみて捜査しているが、認否は明らかにしていない。

 捜査関係者によると、防犯カメラには事件当日、渡辺さんを追いかける少年らの姿が映っていた。渡辺さんは3月中旬以降に4回、「石を投げられた」と110番。逮捕された5人を含め、過去の投石には男女10人ほどが関わっていたとみられている。

 一方、SNSでは事件の臆測が飛び交い、逮捕された少年を特定しようとする書き込みが目立つ。専門家はこうした行為は刑法に抵触する可能性があると警鐘を鳴らしている。

 傷害致死容疑で逮捕された2人は、朝日大学の硬式野球部員で、殺人容疑で逮捕された3人のうち2人は元部員。事件と無関係の部員が犯人視されたり、事実と食い違う内容の誹謗(ひぼう)中傷を受けたりしている。大学側は「事件と関係のない野球部員も迷惑を受けていることは把握している。大学として、心のケアに取り組んでいく」としている。

 野球部と無関係の学生も困惑している。ある部活動のSNSには「同じ大学で恥ずかしくないのか」と嫌がらせの書き込みが見つかった。所属する学生は「部員の逮捕でショックを受けただけでなく、誹謗中傷を受けて悲しい」と肩を落とす。

 インターネット問題に詳しい千葉大の藤川大祐教授(教育方法学)は「『自分たちの力でやってやろう』という私的制裁が、ネット社会になったことでより容易になった。制裁したいのに相手が決まらないとモヤモヤするため、無責任に犯人を決めつけて攻撃することで願望が満たされる」と指摘。「少年事件に限らず、これまでも加害者が特定されないと、こうした事例は繰り返されている。刑事罰や損害賠償の対象になり得る行為で、許されるものではない」としている。

(引用貼り付け、終わり)

こんな事件があったということを、また「渡辺さん」という81歳の方が、哀れなことに、何度も半殺しの目にあいながら、その間、警察に何度も訴え相談していたにもかかわらず、ポイ捨てみたいな扱われ方によって、私を含めた多くのシステム人の「暴力」によって、この世に別れを告げざるを得なかったことに対して、何も言えないものの、それでも読者とともに、ここまで想像力を働かせて、ほんの一瞬だけでも、システム人としての人生を振り返らせてもらいました。ただただ合掌しかありません。

ところで、この記事からだけでは、とても「全容」というか「全貌」は掴めないのは、勿論のことだが、これまでにも似たような事件は繰り返されてきた。そして、その都度、私の中に何かやりきれない思いが積み重なってきたことから、今回の記事に、敏感に反応したに違いない。

それにしてもだ。これでは全くの「殺され損」ではあるまいか。しかも殺した相手が、「どうにもならないくず」だから、何も浮かばれない。それでは、ここで急いで付言しておきたいのだが、いま私は「どうにもならないくず」と、加害者の男女、とくにここでは3人が取り上げられているが、どうして、私はそんなことを臆面もなく述べてしまったのだろうか。

それでは、安倍内閣によって殺されてしまった財務省近畿財務局の元職員であった赤木さんはどうだったのか。やはり、「どうにもならないくず」によって、殺されてしまった、と言わざるを得ない。その理由は一体、何であろうか。

私は、そこには人の命をなんとも思わないような、そんな「輩(やから)」のことをさしてつかっている、と確信している。ここで、はっきりと今でも思い出すのは、小出裕章氏が、氏の著作『隠される原子力・核の真実―原子力の専門家が原発に反対するわけ『』において、「人を人として扱わない社会」云々の一文であった。それは原発に関連した著作であったが、私も含めて、原発作業員が常に放射性物質による死の恐怖の中で日々生きていることをどれほど想像力をもって、思い至れるのだろうか。

彼らは、通常の数値をはるかに超えた「ところ」で、働いている。今のコロナ禍の医療現場に近いのかもしれない。いやそんなものとは比較しては駄目だとの声も聞こえてくるが、私がここで言いたいのは、ずっと以前の「現代の奴隷」に関するブログ記事でも指摘していたように、私たちは、先の小出氏の言葉にもあるように、「人を人として扱わない」、すなわち差別と排除の関係を当然とする社会の中で生きてきたし、今もそうではあるまいか。

先の小出氏の著作に関連して言うと、氏には『原発と憲法9条』の著作もあるようだ。先の著作において、氏は「人を人として扱わない社会」に対して、第9条を武器として戦う旨の話をされていた。私は、この点に関しては真っ向から対立するものの、原発をなくすことに関しては一致している。

「人を人として扱わない社会」は、私からすれば、まさに近代憲法が旨とする社会の実現において、普遍的価値や普遍主義を当然とする社会の実現に際して、必然的につくり出される社会であった、と私はこれまで論述してきたのである。残念ながら、政治学の「定義」で述べられている「民主主義」社会を実現する際には、その実現過程において、差別や排除の関係の下で、人権弾圧をされたり、植民地や従属地に甘んじることを余儀なくされる多くの共同体とそこに暮らす人々が生み出されたのである。

ところが、おかしいことに、そんな社会であるにもかかわらず、私たちは決まって言うのだ、「人を差別してはいけませんよ。人間は平等ですよ。」、と。こんな教育を受け続けた挙句が、とんでもない、ろくでもない社会の中に放り出されてしまい、誰も助けてくれないということに、気が付き絶望していくのだ。家族でさえ、お互いを支え合い、救えないのだ。「家族崩壊」という言葉が一時期、流行していたが、それ以降も、その傾向は続いているのだ。

話が横にそれてしまった感もするが、私たちは、今や相当のレベルの「くず」だという自覚をするべきではなかろうか。私がいつも言う「システム人」は、そうなってしまうのだ。ところが、そんな中でも、やはり、くずはくずなりの「掟」をもとに生きていかなければならないだろう。その掟とは、もはや普遍的人権が同のとか、平和憲法の下での権利や義務がどうのではあるまい。

というのも、自由、民主主義、人権、平和、法の支配といった、私たちがこれまで後生大事に守り続けてきた普遍的価値と、それらの価値を世界の済み済みにまで教化させようとする普遍主義の「花開いた」私たちの社会において、「人を人として扱わない」状態が恒常化していることに対して、私たちは決して背を向けてはならない。そうする限り、私たちの身の回りで、枚挙に暇がないほどに、「どうにもならないくず」同士の殺し合いはとめどもなく続いていくだろう。

それでは、現在の、「どうにもならないくず」とは、はたして誰だろうか。そのくずを「野放し」にして、彼らのやりたい放題にさせながら、そうしたくず共を必死になって探し出し、彼らに「天誅」を加えようとする者までも、あっさりと切り捨ててしまい、結局のところ、加害者のくずを、場所と形を変えたままで、再生産することに手を貸すだけの繰り返しとなれば、怒りの矛先も見失い、どうにもならないいら立ちだけが募るのは、私一人だけだろうか。

そして、最後は、いつまでたってもここにある大学の先生のような、1周も2周も遅れたコメントを聞かなきゃならない私は、それこそご愁傷さまではあるまいか。どうにもならないくずを許してはならない。くずにもくずなりの誇りはあるのだ。末端のくずは、見せしめ的なやり方で取り締まりを受け、それなりの罰を与えられるのに対して、安倍政権やその取り巻きに鎮座しているどうにもならないくず共は、出世の階段を這い上がっていくのだから、しかも、マスコミは彼らのようなくずに対しては、ここで紹介されたくずとは異なり、恐れおののく始末ではあるまいか。

さらにどうにもならないくず共は、覇権システムの、いや正確には「システム」だが、そのトップに君臨する連中ではなかろうか。彼らこそ、ヒトの命など虫けら同然に扱うのを何ら躊躇もしない。それどころか、次から次へと災厄を引き起こすことで、カネもうけに邁進していくのだから、私たちはこのくず共を許してはならないだろう。彼らは、「原子力村」というか「原子力マフィア」の頂点に位置し、世界のありとあらゆる鉱物資源や生産拠点を所有し、世界的投資銀行家や多国籍企業の大株主でもある。

そのためにも、彼らを守り続けてきた普遍的価値や普遍主義に対して、これでもかと懐疑の念を募らせていくと同時に、そうした態度を涵養し続けることは、私のようなシステム人のくずであっても、忘れないで生きたいものである。


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