日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

私の「システム論」からグレアム・アリソン著『米中戦争前夜』を読み直すとき

2020-05-28 | エッセイ
私の「システム論」からグレアム・アリソン著『米中戦争前夜』を読み直すとき

私たちは一体、何をしているのだろうか、何がしたいのだろうか。ただ直ぐに言えるのは、「開いた口が塞がらない」ということだ。

久しぶりに記事を書いている。少しコンを詰めすぎて、書いてきたのがやわな体に響いたのかもしれない。帯状疱疹の再発?に苦しんでいた。2年前とは異なり、痛みは我慢できるのだが、どうにも体がいうことをきかなくて、困っているのだが、やっと少しものを書く気力は出てきたところ。ただし、無理はできない。とにかく、辛い毎日が続いている。

それにしても、ほんとに驚いてしまう。と言うか別に驚くことはないのだが、これほど見事にマスコミ各社が朝から晩まで同じ情報を垂れ流し続けるのだから、もう「洗脳」されっぱなしだ。文句があるとすれば、やはり筋書きが最後までわからないようにお願いしたいということ。

それにしても面白い。いや面白くはない。オリンピック開催までは何とかして、ごまかそうと努めていたが、それが「延期」となるや、ぞろぞろと感染者の数が増加して、ついには、あれほど日本は中国やその他の医療後進国とは違って、万全の態勢ができている云々の専門家のご託宣となった。

しかし、事態が進行するにつれて、東電原発事故と同様の話の連続。民主党ではなく自民党であったが、もうひどいを通り越してあきれてものが言えないところに、また例の責任転嫁宣言だ。言った言わないの繰り返しから、病床数が不足している、と。これまた最初から分かることを正直に言わないことの明々白々となるのだから、こんな日本で死ななくてもよかった感染者は本当にお気の毒だ。

するとまた、そこにこう付け加えるのだ。日本の致死率は他の国と比較しても低い、と。聞いている私は、もう慣れっこになっていて、何も独り言さえ言わなくなっているから、これも怖ろしいことだ。そうこうする間に、マスコミは政府のお先棒を担いで、経済と人の命がどうのこうのと言ったと思いきや、最初の頃の報道とは打って変わり、経済がコケては命さえ守れない云々の話となる。

相当に恐ろしい話を、もうこの頃には国民も愛想疲れというか、どうにでもなれといった徒労感からか、それこそ「いいじゃないか」の流れとなってきた。この流れは、もう何度も経験してきた話だ。水俣病を始めとした公害問題でも、命も大事だが、日本経済の力をそいではならない、災害補償を厚くしながら経済にアクセルを踏みなおそう、と。原発事故直後は、事故原因の究明や東電の補償問題等に関して、しおらしい話をしていたかと思いきや、ここでもまた再稼働に踏み切り、なお原発事故で苦しむ多くの人々が存在しているにもかかわらず、今では事故は風化してしまった感が強い。勿論、誤解のないように言えば、再稼働に導いたのは、国民だったということを忘れてはならないだろうが。

おそらく、こうした流れを、私たちは繰り返すのかもしれない。そしてその責任の所在も明らかとされないままに、また次の話となるのだろう。それにしても、これほど命が軽く扱われてしまっていいのだろうか。当然ながら、私自身の命も、そのように扱われているのは間違いない。と同時に、このままでは、どうにもならないのは確かなことだが、さりとて、どうにもならないことにああだ、こうだと言っても、これまたどうにもならないだけなのだ。

ただし、過去の歴史からわかることは、5年ないし10年も経てば、あの時はああだったとか、こうだったという話ができるかもしれないし、20年も経てば、状況は今よりははっきりとしているに違いない。そうなったらなったで、今度はまた腹が立ってくるかもしれないが、おそらく今の米中覇権戦争の帰結も見えてくるだろう。

BSのNHK特番で「ファーウェイ」特集をしていたが、その最後でハーバード大学教授のアリソン氏が米中覇権戦争に関して彼のコメントが少しだけ紹介されていた。アリソン氏と言えば、『米中戦争前夜』の著者として知られている。私は、これまで覇権国の興亡史に関して、「システム論」の観点から論述してきたことから、この手の話には興味がある。とくに、私の描き方との違いに関して、拘らざるを得ない。

歴代の覇権国と次期覇権国の地位を狙う№2の新興国との覇権争いを、私はアリソン氏とは異なり、ポルトガル、スペイン、オランダ、イギリス、そしてアメリカまでを、{[A]→(×)[B]→×[C]}(省略形、共時態モデル)のAグループに見出す一方で、他方、次期覇権国の地位を狙う中国を、{[B]→(×)[C]→×[A]}(省略形、共時態モデル)のBグループに見出している。

ここにみられる「断絶」の意味は非常に重要であるが、アリソン氏には等しくポルトガルから中国までが「連続」した流れとして理解されている節がある。そもそも、なぜAグループからではなくて、Bグループから、次期覇権国候補が登場してきたのか。この問いかけにアリソン氏は答えられない。さらに、どうして現覇権国と次期覇権国を狙う№2の国家間において、覇権戦争が引き起こされるのだろうか。

私の見るところ、ポルトガルからアメリカに至る№1と№2の覇権戦争は、先の図式で示したA、B、C間から構成されるシステムとその関係の歩みを強固にするための争いであったのに対して、アメリカと中国との覇権をめぐる争いは、B、C、A間から構成される1970年代以降に形成され、発展の歩みを辿るシステムとその関係の歩みを定着させていくための覇権戦争であったと、私はみているのである。もう少し踏み込んで言うならば、米中覇権連合の形成と発展と、またそうした覇権連合の歩みの中で繰り返される「夫婦喧嘩」にたとえられるものだと、私はこれまで論じてきたのである。

覇権をめぐる№1と№2の国家間の争いは、システムとその関係の歩みの「高度化」を目指すための者であり、その高度化によって、システムとその関係の歩みは、その本来の「金の成る木」としての役割を果たすことができたのである。ところが、1970年代を境として、次第にシステムとその関係の歩みは、その本来の役割を果たせなくなっていくのである。つまり、「金の成る木」としての役割を担うことが、もはや従来の{[A]→(×)[B]→×[C]}のシステムとその関係の歩みにおいては、「限界」に達していたということである。

少しここで補足しておきたい重要な話がある。これまた何度も述べてきたのだが、「金の成る木」としてのシステムとその関係の歩みは、「戦争」を必要とする。歓迎する。面白くない話だが、「高度化」には手っ取り早いのだ。そのために人の命が何人失われようとも、システムは平気なのだ。そのシステムを担う「システム人」としての「私」も、そうした見方をいつしか、当たり前のようにしてしまうから、怖ろしいのである。

「金の成る木」としてのたとえ話として、私は「濡れタオル」という物言いをしたことがあるが、もうこれ以上はいくら絞ったとしても、何もお金が産み落とされないという「段階」に来てしまったことから、従来のシステムとその関係の歩みは、1970年代以降において、新たな「金の成る木」としてのシステムとその関係の歩みを創らせるということになったのである。それが、{[B]→(×)[C]→×[A]}の金の成る木、すなわち、70年代から今日に至る「濡れタオル」ということなのだ。

その具体的実行者は、キッシンジャー博士であり、1972年のニクソン訪中となっていく。そして、1978,79年には中国は、西側資本の協力を得て、改革開放を迎え、世界の工場へと駆け上がっていくのである。こうした流れを踏まえるとき、米中覇権戦争は、もう少し複雑な歴史の意味と意義を、その中に含んでいるのではあるまいか。もしお時間のある方は、拙著『民主化の先進国がたどる経済衰退』(晃洋書房 1995年)にお目をとおしてほしいと願うばかりである。

「日本」と「日本人」にとっては、米中覇権戦争は相当に深刻な影響を及ぼすだろう。あまり面白い話ではないが、第2次世界大戦後の日本と米国の関係が、今度はその米国に代えて、中国との関係に取って代わるという話となる、と私はこれまた何度も語ってきたことである。これについては、拙著『「日本」と「日本人」と「普遍主義」』(晃洋書房 2014年)を参照してほしい。

読者の皆様には、これまでお付き合いありがとうございました。正直、体調がすぐれませんので、しばらく休ませてもらいます。



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