日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

「システム論」から馬淵睦夫氏の説く、〈世界は「三つ巴の戦争状態へ」、コロナ戦争であらわになった新しい世界秩序(「ひとりがたり」44回から)〉を捉え直すとき

2020-05-05 | エッセイ
「システム論」から馬淵睦夫氏の説く、〈世界は「三つ巴の戦争状態へ」、コロナ戦争であらわになった新しい世界秩序(「ひとりがたり」44回から)〉を捉え直すとき

久しぶりで、馬淵氏の話を「ユーチューブ」で聞いたところ。『阿修羅』の「総合アクセスランキング(瞬間)」のとある記事での「コメント」を散見しているときに、見つけた次第。

以前に、拙論・拙著において、馬淵氏の著作と「ユーチューブ」での話を、藤井聡氏の著作(『グローバリズムが世界を滅ぼす』)と絡めて論述したことがある。両氏ともに、刺激的な論説を展開されてきている。巣ごもり状態の私には、とてもうらやましい限りだ。

いろいろなことをご教示いただいているが、どこか少しというか、大きく見方を異にしている。もっとも、それがいけないとか、悪いという話では、勿論ないことは言うまでもない。私に言わせれば、いつもそこから先がぼかされているような感じなのだ。ただし、誰かと「コラボ」して、自説を鍛え直したいとすれば、必ずコラボに参加をお願いしたい論客のお二人であることは間違いない。

そこで、今回は、馬淵氏の最初に示された「三つ巴」の話を、私の「システム論」とコラボさせながら、論を展開してみたい。

馬淵氏は、今のコロナ戦争で激化している、あらわとなった「三つ巴の戦争状態」を以下のように整理している。

①中国の覇権掌握に向けての動き

②「ディープ・ステート」による「一つの世界」実現に向けての統合化の動き

③トランプ大統領の説く「自国第一主義」へと各国政府が向かう動き

なお、馬淵氏は、日本政府が、③を選択することを願っている。

それでは、こうした馬淵睦夫氏の説く「新しい世界秩序」の構築を目指した、「三つ巴の戦争状態」が世界で始まっている云々の話を、以下のように問い直すことによって、捉え直してみたいのである。

すなわち、「新しい世界秩序」の下で、世界(セカイ)の「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の「営為」とその「関係」はいったい、どのような形となっているのだろうか、ということである。

私は、これに関しては、コロナ戦争以前から、同時にまたコロナ戦争後も、一貫して1970年代を分水嶺とした70年代以降に形成され、発展の歩みを辿っている〈「システムとその「関係の歩み」〉が、すなわち、{[B]→(×)[C]→×[A]}(省略形、共時態モデル)に描かれるシステムとその関係の歩みが、ますます強固となって、発展しているとみている。

Bの先頭を次期覇権国の中国が担い、Aの先頭にこれまでの覇権国であった米国が位置する、そうした関係である。ちなみに、Aの中位以下に今の日本は位置しているものの、さらに、その地位は下降することを免れない、と私は論じてきた。

こうしたB、C、Aから構成される「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係を、①,②、③の動きは、それぞれが相互に対立・衝突するように見えながらも、支え合う、支え合わざるを得なくなっているのだ。

早い話は、「腹がへっては戦ができない」し「服も着ないで、それこそプリンならぬプリーーで、戦えないだろうが。女性蔑視となるから、そこはパスした。しかし今の時代なら、これもまずいよな、男性蔑視で批判されるだろうが、お行儀良く述べると、伝わらないと思ったので、悪しからず。後で、またーーでごまかした。

①と②の動きは、何ら「矛盾」などしていない。それどころか、相互にお互いを利用しながら、先の営為を担い、支えていることは間違いないのである。

また、③のように、たとえ、自国第一主義を唱えていても、未だにA(グループ)の米国は、B(グループ)の中国やロシア、そしてC(グループ)の中東やアフリカ諸国との「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為とその関係から、足を洗うことはできないままなのだ。勿論、日本もその例外ではない。つまりは、自国第一主義を説く前に、B、C、Aの関係から成る「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為とその関係を、まさに「第一」としなければならない、「自国第一主義」にならざるを得ない、と言うことを銘記しておかなければならないのである。

石油をはじめ、鉱物資源、食糧、その他の生活必需品に至るまで、輸入と輸出の経済活動を閉ざすことは容易ではない。③は、あくまでも「ポーズ」となる以外の何物でもあるまい。日本の小泉や安倍政権下の腰砕け外交を見れば、失礼、そもそも腰などなかったわい。

いずれにしても、何が私たちにとって問題なのかを、問題とすべきなのかを考えるとき、馬淵氏の議論は、また藤井氏もそうなのだが、「そこから先」の話がぼかされているのではあるまいか。もっとも、私のような議論を展開する者は、読者に嫌われてしまうのだ。ほどほどでいいのだ。どうせ何を言っても、何をしても「どうにもならない世の中」だから、ほんのひと時でもいいから、留飲を下げてくれる、そんな読み物で丁度、都合がいいのだろう。批判する者と批判される者がバランスよく共生・共存できるのだから、めでたし、めでたしではあるまいか。

しまった。「子供の日」の「子供」にも満たない私なのに、またエラソーなことを。
ついでにあと一言。
「新しい世界秩序」をつくり出すのは、{[B]→(×)[C]→×[A]}の〈「システム」とその関係の歩み〉それ自体である。システムとその関係の歩みの中から、①②③の動きがつくり出されるのである。この逆ではないことを、念のために述べておきたい。中国も、国際団体も、米国を始めとした各国政府も、システムには逆らえないのである。

誤解のないように、またまた一言。だからと言って、それでは何もできない、と私はサラサラいうつもりはない。これに関しては、拙著『覇権システム下の「民主主義」論』の「伊予エスニック・グループ」「伊予共同体」ナンチャラを斜め読みお願いしたい。なんか、ここにきて、土クサイ、田舎のニオイがしてきたようで、正気になったようだ。

ここまで、お付き合い、ありがとうございました。
今また、少し加筆修正したので、「現在の日時」に直して、投稿している。
[日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える]2020年5月5日のブログ記事より

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