日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

そもそも、私たちにここが「日本」であるとか、あなたは「日本人」であるとかの「枠」に私たちを閉じ込め

2024-06-28 | 日記
そもそも、私たちにここが「日本」であるとか、あなたは「日本人」であるとかの「枠」に私たちを閉じ込めているというか縛り付けているのは、いったい何なのだろうか。もしそれは日本だとか日本人であるというのであれば、それこそ「トートロジー」であり、何も設問に答えられるものではあるまい。その答えとなるのは、言うまでもなく、私の語る「システム」(〈「システム」とその関係の歩み〉)に他ならない。それゆえ、どうしても「システム」について知ることが不可欠となる。ー私の語る「システム」論から、{[B]→(×)[C]→×[A]}のモデルで描かれる〈「システム」とその関係の歩み〉の中で生きている「意味」を再考するとき(続・続・続・続・続・続・続・続)




(最初に一言)


今回記事のタイトルも少し長くなったのだが、その意味するところは、日本とか日本人を語る際、いつもその思考の起点となるのは、「システム」であるということである。それは「東京都」であろうと、「都民」であろうとも、また然りであるということだ。都政(地方政治)と国政を一緒にしてはならない云々の話は、それゆえナンセンスな戯言でしかない。すべて「システム」と「システム人」の観点からとらえ直して議論されるべきはずなのだが。




 それでは本論に入るとしよう。まあ、こんなことを、選挙演説で話そうでもすれば、「お前は宇宙人か」、と相手にもされなくなるだろうから、都民や国民が食いつきそうな話をせざるを得ないのは仕方がないとはいえ、それにしても何か空虚な感しか覚えないのは私一人ではあるまい。それを噛みしめながら、さらに論を展開していきたい。 


 今回のタイトルで私の言わんとしているのは、次の点である。日本とか日本人を語る際に、これまでの私たちの見方は、たとえば丸山眞男氏の「超国家主義の論理と心理」(『世界』岩波書店、1946年)において、戦争行為に際して、日本の軍人がその最終的責任の所在として、神武天皇にまで遡る云々の話にも垣間見られるように、実は私の語る「システム」から位置づけ理解する日本と日本人ではなかったということである。それは、開国以降の日本と日本人は、それまでのいわゆる神武天皇から綿々として続く皇室の血統が明治維新の前後において「断絶」してしまったとは考えてはいない、ということを意味している。換言すれば、開国以降そして明治維新以降の日本と日本人は、「システム」によってつくり直されたのであり、それ以前の日本「固有」というか「独自」とされている歴史は消滅してしまったとは考えてもいなかったということである。


 こうした見方に立つ限り、おそらく今回記事の私のタイトルの意味は到底理解することはできないに違いない、と私はみている。それは、歴史を語る際に、神武天皇に端を発する日本と日本を主人公とする立場に立つことを意味している。それに対して、「システム」を主人公とする場合には、開国以降の、とくに明治維新以降の日本と日本人の歴史は「システム」がつくり出したというか、つくり直したとみる立場にあり、その意味では、明治維新を分水嶺として日本の歴史は「断絶」したものと位置づけ理解する立場にあるということである。


 付言すれば、それを踏まえて、「大日本帝国憲法体制」期と「日本国憲法体制」期の二つの憲法体制を、連続しているとみるか、あるいは連続していないとみるかの立場にさらに区分される、と私はみているのだが、ここでもさらに注意を要する問題がある。それは、明治維新以降の歴史を神武天皇から続くとする立場と、それが断絶した歴史であるとして理解する立場に分かれるということである。後者の観点に立つ人の中には、いわゆる「明治天皇すり替え説」を主張する論者が含まれている、と私はみているのだが、ここでも注意すべきは、そのすり替え説の論者が、明治維新の主人公を「システム」とみているかどうかの識別を要するということである。ただ単に、すり替えをしたとして、あくまでも神武天皇から続く系統の存続を前提とする論に立っているとすれば、その意味するところは、やはり異なってくるといわざるを得ない。


 ここまで少しややこしい話をしてきたのだが、私の強調したかったのはもうそろそろ「システム」を論の起点として、世界や日本を俯瞰する議論を盛んにすべしとの私の思いがそこには込められているのだ。今回の都知事選の選挙戦もそうだし、おそらく次回の国政選挙のそれもそうであると察するのだが、私たちが重要であると考える争点は何も語られないのだ。それはそれでいい?としても、少なくともいま日本が置かれている危機的状況・状態に関する真摯な議論が議会で行われないとすれば、これはもうーーー。「システム」から世界を日本を捉え直すとき、私たちが向き合うべき重要かつ大変な問題がすぐそこにあることに気が付くに違いない。


 もし「システム」論を前提とすれば、覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムの三つの下位システムから構成される一つの「システム」の存在を、否が応でも受け入れざるを得なくなる。何か難しく思われるかもしれないのだが、「システム」は、簡単に言うならば、「親分ー子分」関係を前提として、その時代を支配する時の親分に都合のいいように「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為のグローバルな関係がつくり出されるという話であるということだ。ここで、親分を覇権国と非覇権中心国に、子分を半周辺国と周辺国に置き換えて考えてほしい。また「衣食足りて(足りず) 礼節を知る(知らず)」の営為のグローバルな関係に関しても、その中の「衣食足りて(足りず)」の営為の関係を世界資本主義システムに、また「礼節を知る(知らず)」の営為の関係を世界民主主義システムに置き換えて考えてほしい。


 今のというかこれまでの親分の覇権国の米国が中心となってつくり出してきた「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為のグローバルな関係の中で、日本と日本人は組み込まれて生きてきた。それがこれから先には、その親分が中国へと替わろうとしているのだ。今はその移り変わりの時期としての米・中覇権連合の時代である、と私はみている。いずれにしても、これからの日本と日本人が向き合う相手はとても敵いそうではない親分となることは間違いないのだ。それゆえ、こうした親分連中とどのように付き合うべきなのかという問題は、いつも選挙のたびに争点にされてもしかるべきなのだが、それが全くと言っていいほどに何もおこらないのだ。


 これはいったい何を意味しているのだろうか。すぐわかるのは、「システム」を起点として議論することなど毛頭考えてはいない、考えられないということであろう。「システム」はその発展と存続のために、必ず「システム」に貢献する国を、すなわち覇権国をこれは歴代の覇権国の興亡史を紐解けば見えてくるに違いない。(これに関しては、特に『民主化の先進国がたどる経済衰退: 経済大国の興亡と自由民主主義体制の成立過程に関する一仮説 』晃洋書房 1995年を参照されたい。)その際、現覇権国と次期覇権国の間には覇権連合が形成され発展する歩みが見られる。そしてそれが何度も私の言う米・中覇権連合である。私たちはメディアを介して、こうした流れを何度も確認しているはずなのに、何故なのかそれを知覚できないままにあるのだ。試しに米中の政治的、経済的、軍事的、またその他の数多くの分野における交渉(会談)が、これまで数え切れないくらいに開催されたことを、私たちはどのように位置づけ理解しているのだろうか。まさか、それらは米・中覇権連合の形成と維持・発展には何も関係などはしていないと言うのだろうか。


 さらに、これが一番大事な話なのだが、「システム」は〈金の成る木〉としての存在をその最たる理由としていることから、いつも絶え間ない内乱や戦争を必要不可欠としている。その際、覇権国のバトンの受け渡しの時期において、大きな大戦が用意されるのである。そこには、「システム」の高度化の段階へと向かう歩みが大きく与っている。そして今がちょうどその時期に入りかけている、と私はみている。そして、その戦争では、米中は手を結ぶのは自明の理である。その米中両国の関係から、それでは弾き飛ばされるのはいったい誰であろうと推察するとき、蓋然性の最も高い国が日本ということなのだ。(これに関して詳しくは拙著『「日本」と「日本人」と「普遍主」』(晃洋書房 2014年を参照されたい。なお、このブログでも以前の記事で論及しているので、よければ参照してほしい。)勿論、これは私の「仮説」に過ぎない。私が残念なのは、国会や地方議会において、こうした論議が巻き起こらないことである。たくさんの仮説をぶつけあいながら、どうすれば私たちの命と暮らしの安全保障のレベルを高めることができるかを、必死になって考察すべきなのだ。




(最後に一言)


 今回記事もまた、詮無いことをここまで書いてきた。親分の米国との関係を子分の日本人がとやかく論じることなど、できやしないのは当然である。その意味では自公政権に奉仕する日本の政治家や官僚、メディア関係者、学識者に、ああだこうだと論難しても仕方のないことだろう。彼らは私たち以上に、子分として親分に従うことが求められているのだから。問題は、やはり私たちということになる。その私たちはと言えば、今や全国に拡散しつつあるクマ襲撃問題報道を見ていると、日本と日本人にはクマ対策もままならないようなのだ。こんなお粗末な人間集団に、どうして米国や中国の親分との向き合い方など論じることができようか。クマに対する私たちの向き合い方は、憲法第9条の文言を彷彿とさせるようなそれであり、これでは全く私たちの命と暮らしを守ることさえままならないだろう。


 誤解のないように、ここで急いで付言すれば、それではその9条を、その第2項を削除して自衛隊云々の文言をを明記すべきであるとか、あるいはまた、憲法それ自体を改正すべきであるとかの議論に対して、私は賛同しない。その理由は、日本国憲法は、また第9条は、米国から「押し付け」られた、と私はみている。その米国に、その憲法を第9条を日本に押し付けるように仕向けたのは、「システム」(の存在)であった、と私はみている。それゆえ、米国からいろいろと難癖をつけられて、第9条や憲法の修正や改正を指図されることがあったとしても、その米国の上位に位置する、つまりは日本国憲法や日米合同委員会や米国政府のさらに上位に位置する「システム」に「お伺い」を立てない限りは、おいそれと動くことは、はなはだ危険極まりない、と私はみているからである。ところで、その「システム」は敗戦後の{[A]→(×)[B]→×[C]}のそれではなく、今や{[B]→(×)[C]→×[A]}へとと様変わりしている最中なのだ。そうであればなお更のこと、米国だけではなく、中国は無論のこと、ロシア、インドやブラジル、アルゼンチン、南アフリカを始めとしたグローバルサウスとの意見交換は最低限、必要となるのは言うまでもなかろう。これらのことは、たとえ親分の米国に頭の上がらない子分であったとしても、何とか対応できる問題であると私は考える。
ただし、今の政治家や政党の惨状を見る限り、それは到底望むべくもない。決して子分であるから云々との理由だけでもないことを、私はここで強調しておきたいのである。



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たとえ人口減少によって日本国家が消滅したとしても、「システム」にはなんの問題にもならないのだ。

2024-06-24 | 日記
たとえ人口減少によって日本国家が消滅したとしても、「システム」にはなんの問題にもならないのだ。「システム」から日本の少子化問題や日本国家の存亡を捉え直すならば、もはや「産めや殖やせよ」的〈政治〉は時代錯誤もいいところなのだー私の語る「システム」論から、{[B]→(×)[C]→×[A]}のモデルで描かれる〈「システム」とその関係の歩み〉の中で生きている「意味」を再考するとき(続・続・続・続・続・続・続)


*誤解のないように最初に強調しておきたいのは、「自滅」だろうが、「消滅」だろうが、それはそれでどうしようもないことであるし、従容として受け入れることである、と私はみている。騒ぎ立てる問題でもないし、ましてや国政や地方自治体の選挙を利用して、公(私)的権力の名の下に、「適齢期」の女性や男性に少子化問題を引き受けさせることなど言語道断だ。少子化や高齢化云々とは関係なく、誰もが生きやすい社会の実現とそれを可能にする〈政治〉を目指すべきなのだ。


(最初に一言)


 それでは早速、前回記事の続きと行きたい。


 都知事選挙を巡る話題は尽きないものの、いつも通り私たちに大事な問題が議論されることはない。それはさておき、私にはいわゆる「異次元の少子化対策」という訴えが「異次元の〈セックス〉対策」として響いてしまい、どうにも仕方がないのだ。公的権力というか、その仮面を被った私的権力によって、異次元のレベルにおける諸個人のプライベートな「秘め事」までも徹底的に管理し支配すると宣言しているわけだから、これはもう、たまったものではなかろう。ところがなのだ。そうした宣言というか声明を私たち国民の多くは安易に受け入れてしまっているではないか。これは何を意味するのだろうか。


 私は既に何度も私の語る「システム」の中で、私たちはシステム人として「システム」を担い支えて生きていると言及してきたことから、それほど驚くようなことでもないはずなのだが、それにもかかわらず、やはり驚愕?するしかない。私たちが喜んで権力、それも「システム」の維持と発展そしてその存続に与るグローバルな利権・利害関係者層を担い手とする私的権力の中に、自ら率先して一体化しようと突き進んでいるように思われるから、驚きなのだ。普通のあまりおカネのない人たちが、ただでさえシステム人としての日常生活の厳しさを痛感しているはずなのに、そうした境遇に陥れているはずの「システム」の提供する私的権力に対して、無防備というか過鈍感すぎるのは、やはり問題ではあるまいか、と私はつくづく思うのだが、どうもそうではないらしいのだ。 


 考えるまでもないのかもしれない。私たちは日夜、監視カメラを始めとして生活の至る所で丸裸にされて生きていることから、もう慣れっこになっているのかもしれない。私にはその神経がわからないのだが、今の若者はSNSに自らの情報を発信して、それをどこの誰かもわからない不気味な人間集団と共有して楽しんでいるように思えるのだが、これもまた怖い話ではあるまいか。不気味な段階ならまだしも、それを超えて犯罪集団へと変貌する可能性も否定できないはずなのに、それがわからないのだから。少し周りを見渡してみても、私たちの日常生活は、毎度これでもかと思えるほどに凶悪な犯罪のオンパレードではあるまいか。誰かが誰かを陥れて、犯罪へと引き込み、そこから何某かの犯罪とその集団が生み出されると同時に、また次の犯罪と集団をつくり出している。正直、もう取り締まることも難しくなっているのが今の私たちの社会の現実ではなかろうか。


ところがそんな社会の現実を目の当たりにしても、私たちの対応はすこぶる鈍いし、その鈍さに対する反応もそれほど取り立てて急ぐこともないといった感なのだ。どうしてなのだろうか。その大きな原因の一つとして、私たちが「システム」を担い支えるシステム人であることが挙げられるのではあるまいか。「システム」の中では、私たちの生き方の鉄則は、尾崎豊の「僕が僕であるために」の歌詞にあるように、「私(僕)が私(僕)であるために勝ち続けなきゃならない」のである。これは諸個人(間)、諸集団(間)、諸国家(間)レベルのいずれにおいても、まさに然りである。それこそ、私たちは自己決定権の獲得とその実現のために、常に覇権システムの中で相手よりも少しでもより優位な地点に立とうとして悪戦苦闘しているのだ。そしてその舞台となるのは、1970年代までは、{[A]→(×)[B]→×[C]}のモデルで描く「「システム」とその関係の歩み〉であり、1970年代以降から今日にかけては、先述したように{[B]→(×)[C]→×[A]}のそれである。


 この「システム」の中での生き方は、たとえて言えば、私たちの「受験センソウ」のそれに類似している。私の語る「システム」は、自己決定権の獲得とその実現を巡る争奪戦を介してつくられてきた差別と排除の関係を前提としていることから、自己決定権の能力を少しでも高くして、差別され排除される側ではなく、差別し排除する側につこうとするのは、これまた人情ではあるまいか。その関連から言えば、私たちの受験教育も、まさしくそうした差別と排除の関係を強めることはあっても弱めることはない。受験教育を介した受験センソウを潜り抜けた者は、少しでもより優位となる地点を目指して生存競争を生き抜く。彼らの目は、中小企業よりも大企業に向けられていくのは当然である。その意味では、三井不動産と都政の癒着云々の批判は、彼らとその親たちにはさほど問題とはならないに違いない。そうした態度は、これから受験センソウに巻き込まれる者とセンソウを既に体験したその親にも共通するのではあるまいか。


 こうした点を鑑みるとき、私たちの社会が抱える理不尽かつ不条理な問題への批判力は少なからず抑えられるのは間違いなかろう。ましてや今や国民総投資家化時代の渦中にあることを踏まえれば、少しでも自分だけは何とかしてうまく世の中を生き抜ければとの思いで一杯となっている感が強い。またそうした背景として、1970年代までの「システム」においては、Aに位置する者は、たとえAの上位ではなくとも、B、やCに位置する者と比較して、より多くの自己決定権としての「自由」を、手にできたということが関係していたであろう。ところが、1970年代以降から現在においては、Aの上位に位置するものは、確かにそのAの中位や下位に位置する者と比較してより多くの自由を手にする蓋然性は高いとはいえ、以前のA、B、Cから構成される「システム」の時代に手にしていたようなより多くの自由を、もはや手にすることはできないのである。Aの中位は元より、下位に位置した者たちの手にし得る自由の度合いは、推して知るべしであろう。勿論、このくだりは、言うまでもなくあくまでも一般論であることを断っておく。


 こうした私の語る「システム」とその担い手の立ち位置を考慮するとき、今回の都知事
選挙での各候補者の訴えはどのように有権者に伝わるのだろうか。少なくとも、私たちの多くは「寄らば大樹の陰」的生き方を選好することは否めないから、大企業や世界的多国籍企業が、たとえどれほど私たちのなけなしのカネ(税金)を巻き上げようとも、大目に見てしまう傾向が大なのだ。その企業にできれば就職したいと願いながら、受験勉強をしてきた者とそれを応援してきた家族にとって、企業を批判することさえ、考えられないのではあるまいか。こんな私たちには、もはや外国資本が日本を荒らしまわっている云々なんて、あまり興味のないことかもしれないし、それこそ、私的権力が公的権力を僭称している等々の話など、もうどうでもいいはずであるに違いない。


 私は、私の語る「システム」論で語るように、日本とか日本人にそれほどのこだわりを感じてはいない。だが、私と私の周りで一緒に生活している者同士が、もし何かの危険に巻き込まれているとしたら、何とかしてその危険から身を守ろうとしたいと願うのは、それこそ人情ではあるまいか。そうした観点から、私がこれまでお世話になったこの風土やそこに暮らす身近な者に対する親近感を禁じを得ないことから、もし彼らを害するような私的権力の不当な行使を目の当たりにしたときには、非力ながらもなんとか声だけでも発したいのだ。その権力は、日本国家・政府だろうが、外国のそれであろうが等しく抗う対象である。私の語る「システム」は、ある時は日本の権力を使い、またある時は外国の、そして今やそれらの連合的私的権力を使って、私たちにその牙をむいて攻撃を仕掛けているのだ。ところが、肝心な私たち日本に暮らす者たちが、その牙や相手の顔を見ようとしない有様なのだ。


 それが今の東京都の都知事選挙にも見事に垣間見られるのではあるまいか。同時にまた、閉会したばかりの日本の国会での、あのテイタラクな様を見てもそうなのだ。いつものことだが、国会では、私たちの生活に致命的な影響をもたらしかねない重要法案が、さほどの注目もなく、次から次にあっさりと可決してしまうのだ。今回に限って言うならば、それは自民党の政治家とおカネの問題に、国会開会中の審議時間を、専ら集中させることによって、「システム」の思惑通りに可決させたのだ、と私はみている。どうしてかと言えば、それらの重要法案には外国政府・企業の利権・利害関係が含まれていると同時に、米国がらみとなれば、日本の政治力では太刀打ちできないことから、そんな日本の政治の現状を、国会審議でもって国民の前に今更さらけ出すことなど、政権党にはできないという相談であろう。


 もしそれが白日の下にさらけ出されたとすれば、国会や政党や政治家など、そもそも不要だということになるのは必至となる。本当に現実はそうなのだ、と私は言わざるを得ない。もはや与党や野党の存在価値など何もないのだ。さらに、財務省、外務省、防衛省、厚労省の各省とその官僚は、米国や米国の世界的多国籍企業に逆らえないどころか、彼らの言いなりなのだ。日本の警察・検察をはじめ司法も同じなのだ。どうしても、私にはそうみえるのだ。だが、ここで注意すべきは、私たちにとってはたとえ不要であるとしても、金の成る木としての「システム」にとっては、なくてはならない存在だということである。もしそれらがなくなりでもすれば、「システム」は私たちの税金を巻きあげるための正当的・合法的手段を失うことになるからだ。それでは元の木阿弥だ。


 それこそ絶対に避けるべきことなのだ。あってはならないのだ。それゆえ、「システム」は選挙の大切さから始まって、政党政治や政治家の使命、普遍的価値を体現した市民的自由の大切さ、議会制民主主義の重要性を、「システム」ご用達の学識者やメディア関係者を総動員して、国民を洗脳するのだ。その努力というか熱心さは、逆に言えば、私たちがこれまで常識としてきた政治の、すなわち「手続き的民主主義」の宿痾を物語っている、と私は感じている。これらの点を踏まえてさらに言うならば、国会での私的な外国権力・利権がらみの重要法案の審議ともなれば、すぐ上で指摘した日本の政・官・学・メディアの彼らとの癒着構造というか「親分ー子分」関係の下に組み込まれているのがはっきりと見えてしまい、もはやどうにもならないことを、私たち国民の知るところとなるのだ。


 だが、私たち国民はそんな政治を前にしても、暴動に出ることもないし、取り立てて何かの行動に打って出ようともしない。そこには、そうした現実の力関係を嫌というほどに国民は感じている・受け入れてしまっているのかもしれない。すなわち、もうどうにもならない、と。誰が政治を担っても、そうそう大差のないことを、知っているのだ。そんな国民に対して、政党や政治家は満足のいくような政治の話がもはやできないのだ。それも国民は知っているのだ。 ある意味で、日本の国民はかわいそうな人間集団だ。もっとも、これは日本にのみ限られた話ではあるまい。




(最後に一言)


 それにしてもなのだ。もう相当に、私たちは私たちの情報を丸裸にされてしまっているのだ。そんな私たちが、何をいまさらの話ではあるのだが、公的空間で、堂々と「異次元の〈セックス〉対策」と声高に叫ばれても、その恐怖を感じなくなってしまった私たちは、それこそ国が戦争へとゴーサインを出したときに、抵抗もなく権力と合体しそうな雰囲気にあるのではあるまいか。


*これまた何度も述べてきたことだが、私の「システム」論はあくまでも「仮説」に過ぎない。だが、私の危惧するのは、現実が私の描く仮説の世界・セカイにどんどんと近づいてきていることなのだ。そのうち、いつの間にか仮説を通り越して、現実となってしまうとすれば、それこそ恐ろしい話ではあるまいか。だが、過鈍感な人々には、そんな声すら届かない。残念なことだが。


*今日のネット記事で、NNAと読売の世論調査(2024、6月21~23日)の記事を読んだ。私も、おそらく選挙結果はそのようになる可能性が大であると懸念してはいるのだが、これまた、どうしようもない。つらいを通り越して、これが現実だということを、今更ながら思い知る。私の語る「システム」論の語り手であるならば、何を今更なのだが、これまた致し方ない。



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都知事選挙の主要候補者の公約から垣間見られる虚偽と矛盾と欺瞞に満ちた私たちの生き方ー「主権・国民・

2024-06-20 | 日記
都知事選挙の主要候補者の公約から垣間見られる虚偽と矛盾と欺瞞に満ちた私たちの生き方ー「主権・国民・国家」とその背後に控える私的な利権・利害関係はどのように結びついているのかー私の語る「システム」論から、「〈開かずの間〉としての政治領域」の黙認によって、「日本」と「日本人」の自滅へと至る歩みは加速する-私の語る「システム」論から、都知事選関連報道を介して垣間見られる「自滅」へと至る身近な問題を考えるとき(続・続・続・続・続・続)




(最初に一言)の前に、前回記事の続き


 私たちはそれぞれの主権国家の中で国民として生きているのだが、その国家を巨大な私的利権・利害関係集団とそのネットワークが支配しているとすれば、その空間における「私」と「公」の関係はどのように捉え直す必要があるのだろうか。前回記事でも指摘していたように、明治の日本という主権国家は大英帝国として存在する英国とその英国を背後で操作するロスチャイルド財閥・企業によって創造されたとすれば、私たち日本国民と主権国家としての明治国家の関係は、一体どのように描かれ直されるのだろうか。


 それぞれの国家間の背後に控える私的利権・利害関係集団は、どのように関係しているのか。彼らは相互に対立衝突しながらも、同時にまた巨大な一大利権・利害関係の世界的なネットワークをつくり出して、すなわち私の語る「システム」であるが、そのネットワークのさらなる発展とその維持・存続のために、それぞれの主権国家をその時々の戦争へと巻き込むとすれば、諸国民は哀れな存在でしかないということになる。一つのグローバルな巨大な利権・利害関係集団として存在する「システム」は、その支配に属する各々の私的な利権・利害関係集団を使いながら、それぞれの属する国家の間で、経済交易関係を維持・発展させるとともに、それぞれの諸国家間を対立・敵対・衝突させながら、「システム」の思い描くシナリオどおりに、私たちを誘(いざな)う、と私はみている。


 ここまでのくだりを踏まえて簡単に要約すれば、以下のとおりになる。私的な利権・利害関係集団によって、いわゆる市民革命という詐欺的手法によって絶対王政を廃棄すると同時に、彼ら特権層の私的利害を調整するための道具にすぎない私的な利権・利害集団が差配する「委員会」が、それこそ公的な装いをとりつつ、主権国家として再生する、つまりは絶対主義国家を乗っ取ったとしたならば、私たちの公的空間はほとんど虚偽と欺瞞に満ちた「私」と「私」の果てしなく拡大・延長し続ける矛盾の関係であると言わざるを得ない。そこには、「公」的関係など何も存在していないのだ。


 それゆえ、もしそうした事態へと私たちが巻き込まれるのであれば、私たちもそうした「システム」の動きに対して身構えるのは、私たちの生存のためにも必要不可欠であろう。そのためには、先ずは何よりも私たちの思想・哲学を練り直すことからやり直すことが大切であろう。こうした観点から、今夏の都知事選挙の主要候補者の公約を参照することは有益であると私は考えている。その際、彼らの公約から、私たちの生き方がどれほど虚偽であり、欺瞞に満ちているのかを、あらためて思い知るのではあるまいか。本論に入る前に、少しそれについて箇条書きの形で述べておきたい。


①当然と言えばそれまでだが、都民が引き受けている(押し付けられている)日米関係の抱える問題が見事にスルーされている。たとえば、横田基地を始めとした在東京米軍基地の返還要求と東京の空の航行の自由権問題等。候補者はほとんど積極的に関与しようとは見えない。こうした日米関係を前提として、米国側から無理難題が押し付けられてくる。その米国側には、米国政府は勿論のこと、世界的な米国の多国籍企業が含まれている。彼らと一緒になって、日本の大企業が私的な利権・利害関係を、都政や国政といった公的装いの下で肥大化させていく。


*この日本企業の中で都政に足を深く突っ込んでいる大企業があるとすれば、それこそ都民の財布はたまったものではなかろう。都政の問題として強調されている物価高問題や福祉問題を始めとしたオカネに関わる問題の多くは、日米関係における差別と排除の関係が切っても切り離せないということに、都民は国民は気が付くべきなのだ。政党や政治家はこうした問題に蓋をするのは最初から見えているから、なおさらである。


②あまりにも小手先だけの、その場しのぎのご都合主義的福祉対策。差別と排除の関係を前提としてつくり出される私たちの社会を変革するためには、そのための思想・哲学を提示する必要があるはずなのに、ただ単に「弱者」「低所得者層」「非正規雇用」「高齢者」等々の表面的問いかけだけで、私たちの社会の不公平・不条理差には切り込まないままなのだ。これほどおかしなこともなかろう。国民は元より、都民を構成しているのは多種多様な人間集団であるはずだから。


③私が一番の違和感を覚えるのは、いわゆる「少子化対策」問題だ。出生率が「1」を切ったとか、女性が子供を産み育てやすい環境づくりの整備が急務であるとか、そのためには若者の安定した雇用と生活できる給料が保障されなければならない云々。私にはわからない。権力者がプライベートな諸個人の思想・信条とも密接に関わる領域に、いとも簡単に土足で踏み込んで、「産みや殖やせよ」的な強圧的物言いを未だに繰り返す始末だ。彼らに人権など語る資格はない。異次元の少子化対策を始めとしたあれやこれやの対策は。、生殺与奪の権力を独占・行使できる政治家による女性そして男性に対する暴力そのものであるのだが、過鈍感な私たち国民には、過敏症の私のこの物言いは一笑に付されるかもしれない。


④諸個人の生き方は、各人の意志(思)と能力に従って選択すべきである。それがそもそも、今の私たちには許されてもいないし、保障されてもいないのではあるまいか。ここには、トマ・ピケティの『21世紀の資本』でも指摘されていたように、私たちの富の格差は、フランス革命前夜から21世紀に入ったこの時点においても、二つの短い例外的な時期を除いて、ほとんど変わっていないのだ。こうした構造を前にしたとき、私たちに求められているのは、やはり新たな生き方に関する思想・哲学ではなかろうか。


⑤そうした問題の背後には、私の語る〈「システム」とその関係の歩み〉が大きく与っていると私はみている。ピケティの言う〈r>g〉だけの問題ではないのだ。そこには覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムの各々のシステムに共通した自己決定権の獲得とその実現に際しての力(暴力)と力(暴力)のぶつかり合いの争奪戦を介してつくり出されてきた差別と排除の格差関係が存在しているのだ。


⑥そうした関係を是正あるいは変革・改革するためには、私たちの存在は、すぐ上で述べたように、いつも差別と排除の人間関係を前提として作り出されてきたのであり、富の格差はそうした関係から獲得されたのだということを、何はさておきしっかりと理解することが大切となる。そこには、マルクスの唱えた剰余価値説と労働者に対する富の再分配云々に関係なく、「システム」の中で生きている者すべては、力と力の格差関係の下で、各人が本来、手にしたに違いない物心両面における収奪された取り分を、当然のこととして社会に要求できるということを、私は主張したいのだ。


⑦それゆえ、ケインズ主義的富の再配分とそれに依拠したかつての福祉政策にも私は異を唱える。それは私の語る差別と排除の関係を前提として実現されたものだからである。付言すれば、マルクスの剰余価値説に由来した取り分の請求権も、そうした関係を前提としていたのだ。私はそれらを踏まえて、差別と排除の関係の中でつくり出された富の格差は、「累進課税」を前提とした社会のつくり直しによって、是正されなければならないと考えるのだ。誤解のないように付言すれば、この場合の累進課税は、ケインズ主義的思索から導かれるそれとは異なることを、念のために強調しておきたい。


⑧こうした私の論を前提としたとき、都知事選の候補者は簡単に逃げているとしか言いようがない。現都知事もそうであるのは言うまでもないのだが、こうした候補者の訴えとメディアの情報操作も相まって、都民はもとより私たち国民の医療・教育・年金問題等々を含む社会福祉に対する見方も、その場しのぎのご都合主義的な捉え方に終始するのは致し方なかろう。


⑨Mrs.の新曲「コロンブス」のMDが植民地主義にあまりにも無頓着?な内容である云々と非難・批判されている。その一方で、私たちは欧米諸国における難民や不法移民に対する反発と嫌悪の情が高まり、それが極右勢力・政党を勢いづけている様をメディアを介して知るのだが、そうした光景は欧米諸国におけるかつての、また今も続いている?植民地主義との向き合い方が今なお清算されていないことを教えられるのではあるまいか。そこには、私たちと私たちの生きる社会の虚偽と矛盾と欺瞞が浮き彫りとなっている、と私はみている。
   
⑩その関連から都知事選の各候補者の公約を見直した場合に何が見えてくるのだろうか。たとえば東京都内にはどれくらいの移民や難民が暮らしていて、移民や難民問題に対する候補者の考えはどのようなものなのか。また都民はどのように接しているのか。今後のことも考えれば、こうした問題も当然ながら、選挙時での重要な争点として掲げられても不思議ではないはずではあるまいか。




(最後に一言)


 私は前回記事でも述べていたように、今度の都知事選挙では小池都政の終幕を祈るばかりだが、さりとて都政の顔が新たに入れ替わったとしても、ほとんど期待もできないというのが偽らざる私の心境である。取れそうな層から票をとる。そのために公約をそれに合わせて書き換えるといった感がぬぐい切れないのだ。選挙は勝たなければならないから、それは仕方がないとはいえ、あまりにも小手先ばかりの、ご都合主義的対応では、先はないとしか言いようがない。誤解の内容に付言すれば、この場合の先とは、あくまでも私たちのそれであり、東京都とか日本国とか、自民党、公明党、立憲民主党、共産党その他の政党のそれではないのだ。


 次回記事では、今回記事の内容を踏まえながら、さらに論及したいと考えている。




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「主権・国民・国家」とその背後に控える私的な利権・利害関係はどのように結びついているのかー私の語る

2024-06-15 | 日記
「主権・国民・国家」とその背後に控える私的な利権・利害関係はどのように結びついているのかー私の語る「システム」論から、「〈開かずの間〉としての政治領域」の黙認によって、「日本」と「日本人」の自滅へと至る歩みは加速する-私の語る「システム」論から、都知事選関連報道を介して垣間見られる「自滅」へと至る身近な問題を考えるとき(続・続・続・続・続)


(最初に一言)


 今回記事では、前回記事で論述できなかった重要な論点について補足しておきたい。




 その前に、前回記事に関するごくごく簡単な補足説明をしておきたい。私の素朴な思いというか疑問を前回記事で述べていたのだが、それは日本の国家・政府の後押し?を受けた日本の大手銀行や大企業を介した中国への日本国土(領土)内にある動産・不動産の売り渡し感の強い活発な経済・交易活動は野放しであるのに対して、領海や領空への中国艦船や戦闘機による度重なる侵犯には目を怒らせるかのような反応を示すことである。私にはこの両者の出来事とその関係が見えにくいというか、あまりにも国民を愚弄する日本の政治・外交ではあるまいかと言わざるを得ない。もっとも、こうした出来事とその関係は、日本だけに限定されない。米国と中国においても、またEU諸国と中国との間でも見られるのである。


 中国に対する激しい反発や嫌悪を示す日本の国家・政府さらにはその背後にいる国民は、中国との経済・交易関係をやめてしまえばいいはずなのに、それをしようとはしない。すべてを国内で賄えるように、鎖国時代の日本に戻ればいいはずなのに、と皮肉を言いたくもなる。ところが、私の見る限り、私の疑問は、多くの国民には共有されていないかのように思われて仕方がない。そんなに嫌いな中国ならば、と私は感じるのだが、どうも商売というか経済と政治は切り離しているようである。いわゆる「経済と政治は別物」という考え方である。この種の見方は一見したところ、非常に便利に棲み分けできる範疇として位置づけ理解できるとしても、それは危険な見方である、と私は言わざるを得ない。ここにも、経済と政治の両者を、その背後で結び付けている世界・セカイとそこでの戦争・センソウの舞台である覇権システムが見えていないのである。


 それに関して付言すれば、以前にもこうした議論が流行したことがある。日米貿易摩擦・戦争と呼ばれた時代に、日本を称して、経済は一流、政治は二流と言われ、その一流と二流の両者の関係を問う議論はほとんど顕在化しなかった。さらに、日本の高度経済成長期において、またその後のバブルがはじけて米国との関係がぎくしゃくし始めるまで、日本は米国の半植民地であるとか属国云々の議論はメディアや論壇でもさほど話題にされてはいなかったように、私には思われる。経済は一流の時代においても、日本は米国に頭が上がらないままであり、米国あっての日本であったのだ。それゆえ、政治も経済も一流とか二流云々の話以前に、日本は主権国家として存在しているのかを自問自答するべきであったのだ。


 それを踏まえるとき、ずっと私たちは私たち自身に対して嘘をついて生きてきたということである。そんな私たちだから、もう嘘には相当に寛容なのかもしれない。安倍元首相時代の彼とその取り巻き連中の数限りない大嘘を、私たち国民は野放しにしてきた。無論、そこにはメディアやそのお雇い知識人や芸能人たちの洗脳云々が関係していたことは否定できないものの、私たち国民の多くが総選挙で彼を信任することによって、嘘にうそをつき通してきた張本人とそのお仲間連中に無罪放免のお墨付きを与えたこと、これこそ諸悪の根源ではなかったろうか。そして、今また東京都知事選挙における小池学歴詐称問題が問われているのだが、これまた無罪放免となってしまうのか。これまた今更なのだが、本当に私たちはダラシナサを通り越しているのではあるまいか。


 前回記事での「日本は終わっている」云々の話は、こうした問題とも関連するのは言うまでもない。だが、問題はさらにもっと別のところにある、と私は思うのだ。私は今も考えているのだが、どうも私自身を納得させる論の展開は、なお十分にはできていないので、当然ながら、読者にもどれほど私の考えていることが伝わっているか、それは心もとないのだが、とにかく、もう少し以下に論を展開しておきたい。何よりも私が一番感じていることは、前回記事との関連でいえば、蓮舫氏が以前に批判のやり玉にされた「二重国籍」問題とも関連するのだが、そもそも私たちは「一国家・一国民」という考え方の下で教育されそれを当然のこととして生きてきたのだが、果たしてそれは本当に間違いのない生き方であると、どこまで心底言い切れるものなのだろうか。


 そもそも、この「一国家・一国民」の在り様は、どのような社会(世界・セカイ)の仕組みの中でつくられたものなのだろうか。その一国家・一国民という生き方には、いわゆる「正義」はあるのだろうか。本当に、一国家と一国民を創造したのは一国家と一国民の力だけで実現できたのであろうか。その際、例えば、中国は56の多民族によって構成されているものの、その多民族から一つの中華民族と、それが担い手となる一国民としての中国国民が誕生するとしても、果たして中国という国家は、また中国国民という国民は、中国一国家と一国民の存在の力だけで創造できたのか、と私は問い直したいのである。その問い直しは、日本や英国にも米国や仏国あるいはその他の国に対しても向けられる問題であるのは言を俟たない。


 また、この問い直しと関連する問題にいわゆる「私」と「公」の関係がある。一個人として存在する「私」は、別の複数以上の「私」との関係において、「公」としての関係に転化すると言われてきた。それに対して、私はこのブログ記事でも指摘しているように、「私」という個人がたとえ複数以上集合したとしても、それはやはり私であり、それ以上の存在にはなり得ない、と述べていた。「私」が「公」に転化するためには、その私的存在を超越する何かが加わる必要があるとして、その際に付言していたのである。そこには、巨大な私的権力を行使できる「私」と、自分の命と暮らしを維持することさえままならぬ「私」の存在を前提としたとき、そうした私の構成する集合体を公としてしまっては、私的な巨大権力と、その存在を前にして何もできない無力な一人の存在でしかない無数の私の集合体を公として位置づけ理解してしまうならば、トドノツマリは、公的空間を独占し、支配できる私的巨大権力の力(暴力)を公的存在として、正当化・合法化する危険性を生じてしまう、と危惧したからである。今まさにグローバル化の時代の中で、そうした私の危惧した状況・状態が世界において、また日本において常態化しているのではあるまいか。


 そんな私と公の関係を鑑みるとき、国民や国家をただそれだけの存在でもって公的存在としてみなすことは、あまりにも危険極まりない思考の在り方ではあるまいか。こうした私自身の問題意識を前提としたとき、「一国家・一国民」的生き方を、正義の御旗として掲げることには違和感を禁じざるを得ないのだ。それゆえ、既に拙著『21世紀の「日本」と「日本人」と「普遍主義」ー「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウ』(晃洋書房 2014年)において詳しく論述しているのだが、行論の都合上、ここで再度いわゆる主権国家・国民国家の創造に至る流れを簡単に要約しておきたい。


 私たちは歴史叙述の神話の呪縛の下にフランス革命とともに、一国民国家・一国民が誕生したと教えられてきた。私はこうした見方に対して、もしそれを認めるとしても、いきなりそうなるのではなく、覇権システムの形成と発展の歩みの中で、先のフランス革命に至る歴史を捉え直す必要性を語ってきた。いわゆるポルトガル、スペイン、そしてオランダからイギリスへと続く覇権国家の興亡史の歩みの中で、主権国家の誕生を見るのだが、その際、どうしても子の興亡史の歩みを押さえておかない限り、主権国家からそれを前提として誕生する国民国家へと向かう歩みを語れない、と私はみているのである。


 そうした点を踏まえて提示されたのが、私の語る「システム」論で描かれる〈「システム」とその関係の歩み〉とそのモデル({[A]→(×)[B]→×[C]})に他ならない。(*なお、モデルは共時態型・省略形である。詳しくは前景拙著または以前のブログ記事で紹介しているくだりを参照されたい。)私がそこで強調したのは、主権国家、そして国民国家と国民は、そのモデルで描かれるA、B、C間の差別と排除の関係を前提とすることによって、初めて実現できたということであった。そこから私が読者に是非ともお伝えしたかったのは、たとえばフランスの主権国家、国民国家と国民の誕生は、フランス一国家だけの、一国民だけの力では到底、実現するのは困難であったという、まさにA、B、Cの関係を前提とすることによって初めて実現可能であったという話であった。


 それゆえ、こうした自己決定権の獲得とその実現のために繰り返される争奪戦を介してつくり出された差別と排除の暴力関係を前提として誕生した国家や国民を公的象徴とすることは、私のモデルで描く差別と排除の関係を正当化合法化することに手を貸してしまうことを意味する。さらには、そうすることで、この差別と排除の関係の形成と発展そしてその維持と存続にい大きく与った王族や貴族、大商人、聖職者を始めとする私的特権層の私的利権・利害関係を、公的な装いの下に隠蔽する、見えなくしてしまうのだ。それは今まさに、私たちの眼前に展開されている光景ではあるまいか。都知事選に絡めていえば、小池氏が手掛けた一連の都民の生活をより豊かにする云々の施策は、見事に私的な利権・利害関係勢力を肥え太らせてきた都政を如実に反映したものというしかあるまい。




(最後に一言)


 それでは、小池氏とその取り巻き連中が悪いのだろうか。勿論、そうではなかろう。悪いのは都民の中の、資産をあまり持たない普通の庶民であり、選挙にもいかない力のない「私」である。結局は自業自得というしかないのだ。小池氏を取り巻く連中は、巨大な私的権力集団を構成している。それは動かない事実であり、また私たち?にとっての壁でもある。だが、力のない私という存在は数では勝っているのもこれまた事実なのだ。都知事選挙で、たとえ蓮舫氏が勝利したとしても、またその余勢をかって、次の総選挙で立憲と共産党と社民党と令和新撰組が勝利したとしても、私の語る「システム」はほとんど微動だにしないに違いない。


 それは確かにそうだろうが、それでも、もうそろそろこの辺で自公政権とは、たとえ表面的なものに過ぎないとしても、少しは毛色の違った政治を選択してもいい、と私は思っているし、切に願っているのだ。私のできることはそれこそほとんどないのだが、それでも何とかできる範囲で、記事を書いていきたい。(続)



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「沖縄が危ない!」とのこと。それならば「東京は危ない!」を通り越して「日本はもうとっくに終わって

2024-06-11 | 日記
「沖縄が危ない!」とのこと。それならば「東京は危ない!」を通り越して「日本はもうとっくに終わっている!」のではあるまいかー私の語る「システム」論から、「〈開かずの間〉としての政治領域」の黙認によって、「日本」と「日本人」の自滅へと至る歩みは加速する-私の語る「システム」論から、都知事選関連報道を介して垣間見られる「自滅」へと至る身近な問題を考えるとき(続・続・続・続)


(最初に一言)


 それにしても次から次へと「中国脅威」論を煽る?ネタは尽きない。今回は仲新城誠(なかしんじょう・まこと)氏による
〈「沖縄が危ない!」本島よりも「リアルな国防最前線」八重山諸島、首長らの切実な声…かき消すメディア、悪と「戦う覚悟」なしに生命や財産を守れるのか〉(2024.6/8 10:00)と〈「沖縄が危ない!」沖縄・玉城知事〝独自の地域外交〟の危険 訪中も領海侵入には一切抗議せず 中国の「駒」に替えられる親中外交に過ぎない〉(zakzak by夕刊フジ / 2024年6月9日 10時0分)の二つの記事を読みながら、私なりに感じた思いを少しだけ述べておきたい。他の記事も含めて、記事の全文を知りたい方は、先の記事タイトルを検索してほしい。


 行論の都合上、少し気になったことがあったのでそれについて先ずは述べてみたい。それは上で紹介した二つ目の記事の中でのあるくだりだ。すなわち、ーーー沖縄県・尖閣諸島周辺の領海に7日、機関砲のようなものを搭載した中国海警局の船4隻が相次いで侵入した。中国海警局は同日、「主権を守るための法に基づく活動だ」「管轄海域でのパトロールを今後強化する」との報道官談話を発表した。「台湾有事は日本有事」といわれるなか、中国の野心は確実に沖縄にも向けられている。こうしたなか、沖縄県の玉城デニー知事は昨年、「親中派の重鎮」である河野洋平元官房長官らと訪中していた。八重山日報編集主幹、仲新城誠氏は、玉城知事が進める「独自の地域外交」の危険に迫った。ーーーである。


 このくだりは中国の露骨な対応を指摘しているはずなのに、どういうわけなのか、「沖縄県・尖閣諸島周辺の領海に7日、機関砲のようなものを搭載した中国海警局の船4隻が相次いで侵入した。」にあるように、「侵入」とある。私ならこの状況説明の流れからすれば、また後の記事の内容を踏まえれば、当然ながら「侵犯」としなければ不自然ではないかと思うのだが、そうではない。これとの関連からさらに言えば、日本は「領空」「領海」はもとより、「領土」も中国によって「侵犯」されているはずではあるまいか。もっとも、そんなことを言えば、日本の領土は中国のみならず米国やその他の国の多国籍企業によって、目を覆いたくなるような「惨状」であるに違いない、と私ならば、このような立場の論者ならそのように述べるはずだが、と推察するのだが、そのようにはいかない。まるで安倍元首相の言動とそっくりなのだ。勿論、これは安倍氏だけに限定されるものでもない。


 日本の領土における侵犯は、侵入でもなく、当然の経済活動における、それこそ市民革命以降、全世界にわたって宣言された交易と経済活動の自由、そしてそれを介した私的財産を天文学的な額へと太らせることのできる自由権とその活動の権の保障。これらの活動は侵犯でも侵入でもなく、普遍的人権によって保障されたものであり、その活動は無罪放免とされるのだ。私には、こちらの問題の方が、私たち国民の命と暮らしを守る安全保障にとっては、はるかに大打撃を与える、まさしく圧倒的な軍事力にも匹敵する攻撃ではあるまいか、とまたまた過敏症の私はそう感じてしまうのだが。本当におかしいものだ。


 日本にとって、諸外国との交易・経済活動は必要不可欠なはずだから、そのためには領海や領空の通行を認めざるを得ない。それゆえ、(中国による)軍艦や潜水艦、ミサイル・戦闘機による行動は侵犯とされるのに対して、(中国による)経済活動のそれは合法的かつ正当化されなければならなくなるはずだ。こうしたいわゆる「ネジレ」の関係を、私たちはいとも簡単に受け入れてきたのだが、どうしてそんなことが可能となったのだろうか。この関係にこそ、私たちは目を向けるべきなのだが、どうもそうはならないのだ。


 ここで急いで付言すれば、「ネジレ」として位置づけ理解される関係は、見方を変えれば、ネジレではなく、経済活動と私的財産の肥大化を可能とさせる交易の自由と私的財産権の自由を保障するものである。それゆえ、相互に補完しあう関係でもあるのだ。諸外国からの軍事的脅威を煽りながら、同時にそれに対抗する軍事力の整備・増強の必要性を訴えることによって、軍需産業・軍産複合体の発展が導かれることで、経済活動とそれに伴う利権・利害関係の拡大・拡張となる。両者は共存共栄の関係にあり、こうした関係からつくり出された私の語る「システム」の下で、先述したネジレの関係は合法化・正当化されてしまうのだ。


 だが、この関係を、「システム」は、「システム」ご用達のメディア関係者や学識経験者を総動員しながら、ネジレの関係として国民に教育するのだ。それはまさに、「民主主義」(平和)と「帝国主義」(戦争)の関係を「水」と「油」のネジレの関係として世界中の人々を洗脳し続けてきたように、である。そんな関係の中で一番割を食うのは、私たち普通の国民であり、今のウクライナでの線上でたたかわされているロシアとウクライナの兵士とその家族である。また海外からいろいろなルートを介して「調達」された多国籍の傭兵とその家族である。そして今後の情勢の変化に伴い、新たな戦火の拡大によって、今の日本人の中からも、その予備軍として「計算」されている人たちがいる、と私は残念ながら思うのだ。


 こうしたネジレでもない相互に補完しあう関係を、あたかも水と油のように、ねじれた関係として位置づけ理解する思考の在り方は、「沖縄が危ない」以上に、私にははるかに危ないのだが、どうもそんな関係を俎上に載せて侃々諤々とはならないのである。本来ならば、都知事選においても重要な争点として候補者は訴えてもおかしくはない争点となるはずだが。勿論、もしそんなことがおこりうるならば、まだまだこの日本も大丈夫であると私は思うのだが、そんな風には決してならない。まあ、こんな詮無いことを言うのはもうやめて、そろそろ本論?に入っていくとしようか。。




 私は、仲新城氏の述べるように、確かに「沖縄は危ない」と感じている。だからこそ、東京はもっと危ないし、日本は既に終わっていると感じるのだ。私が不思議に思うのは、中国からの沖縄に対する脅威を感じる感性の持ち主ならば、米国からの東京に対する、そして日本に対する脅威を、沖縄と同等に、否それ以上に感じてもいいはずなのだが、どうしてなのかそのような脅威を感じることはないのだ。米国にはあまりにも甘すぎるのに、中国には逆にあまりにも辛すぎる、そんな評価を下して本当にバランスある外交なり政治ができるのだろうか。


 東京の横田基地を含む在日米軍基地を拠点として、日本は米国の支配・管理下に置かれている。こうした事態はもう危ないどころか、終わっていると言っても過言ではあるまい。読者に誤解を与えてはいけないので、ここで少し付言しておくならば、私はだからと言って、憲法を改正して必要であると判断されたときにはすぐさま専守防衛に必要な専守攻撃?をも可能とする国家へと変革すべし云々と主張しているわけではない。米国に対してと同様に、中国に対しても同じように「小日本」の態度でもって向き合うべきであると、先ずは言いたいだけなのだ。


 ところが、どうしてなのか、こうした「二正面外交」とはいかないのだ。中国脅威論を説く人たちにはできないのである。もっとも、米国は日本にこうした外交を許そうとはしないから、どうしてできないのか云々ではなく、最初から分かり切ったことなのだが。こうしたおかしな否、愚かしい外交を臆面もなく日本の安全保障のためである云々と嘯(うそぶ)き、日本国民を騙し欺くから、これもオレオレ詐欺の一種である、と私は軽蔑するのだ。正直に、日本のためではなく、自分の保身のために、自分がこの世界で生き残るために仕方がないというのならまだしも、なのだ。勿論、私も偉そうなことを言うつもりもないし、そんなことはシステム人として存在する以外に手立てのない私の言えることでもない。だが、どこかに後ろめたさの漂う人間ではありたいものだ。


 沖縄の歴代の県知事は、日本本土の自公政権の支持をたとえ得ていたとしても、それでも彼らの米国政府に対する「距離」は、日本の政治家と比較してもその隔たりは大きい、と私は感じている。沖縄の現知事の玉城氏は在沖米軍基地の返還運動に際して、日本政府と交渉しているというよりはそのバックに控えている覇権システムの親分の米国を念頭において、ひたすら交渉し続けている、と私はみている。だからこそ、彼は中国を引き込む必要性を感じるのであり、それは沖縄の安全保障のみならず、日本の安全保障にもつながる動きなのだ。こうした点を鑑みるとき、日本本土の政治家連中の中に、特に国会銀の中で、どれほどの者が東京をはじめとした本土の米軍基地の返還を自らの政治家としての重要な任務であると自覚しているのか。私にはほとんど絶望的な思いしか浮かばない。もはや、彼らにはそうした思いすら皆無かもしれない。米国と米軍に媚びへつらい、米国をもはや宗主国として受容する他には何も考えられなくなってしまった本土の政治家に、そもそも安全保障など語る資格はないはずなのだ。


 それにしても、沖縄においても物騒な物言いを平気でする首長を前にして、私は驚愕してしまう。たとえば、上に紹介した一つ目の記事に以下のようなくだりがある。ーーー沖縄県・八重山諸島は台湾に近い国境の島々で、尖閣諸島も抱え、今や日本の安全保障問題を一身に背負い込むようなホットスポットになっている。そうした危機感を背景に、最近、八重山の首長から独自の発信が相次いだ。ーーー憲法記念日の5月3日、日本最西端の島・与那国町の糸数健一町長は、東京で開かれた「『21世紀の日本と憲法』有識者懇談会」(櫻井よしこ代表)のフォーラムに出席した。憲法を改正して交戦権を認めてほしいと求め、「平和を脅かす国家に対して、一戦を交える覚悟が問われている」と訴えた。ーーー


 この発言は、米国が日本と一緒になって中国と対峙してくれることを当然ながら大前提としているに違いない、と私はみているが、それはいつでも可能なわけではなかろう。たとえば、今のウクライナ情勢のさなかに、米国の支援を期待するのは難しいだろう。米国は対ロシアとの軍事的対立を踏まえるとき、中国を公然たる敵対勢力へと追い込む政治外交策は回避したいはずだ。そんな国際情勢の目まぐるしい変化の中で、日本は勿論のこと米国の安全保障にも害を与える先の首長による発言に対して、不快の念を近似を得ないはずだ。だが、同時にまた、この種の無謀な発言を米国は喜んでいるかもしれない。と言うのも、米国は中国が最前線に出てきた瞬間に、引き下がることができるからだ。あくまでも発言は沖縄からの、また日本側からであると主張できるからだ。


 それにしても危ない。中国云々の前に、日本の中から私たちを窮地に追い込む言動が後を絶たないのだ。対中関係を、陰でヒソヒソと各々の私的利権・利害関係の拡張にもっぱら利用しようと勤める感しかしない自公政権のお偉方さんよりも、玉城氏のオープンな対中友好外交の方がどれほどましであるか、少し考えてもわかることではあるまいか。その玉城氏を中国の「駒」というのならば、それこそ小泉、安倍、菅、岸田に続く政権は、米国の走狗ではなかったか。この「駒」発言に関して、今回記事で紹介した先の記事を見るとき、以下のようなくだりが出てくる。すなわち、ーーー玉城知事が言う「独自の地域外交」なるものは、実際には「親中外交」でしかなく、沖縄を中国の「駒」につくり替えてしまう。「外交」と称し笑顔と握手を振りまけば万事丸く収まるような幻想を、県民に与えた罪は大きい。ーーーとあるのだが、果たしてそうだろうか。


 そもそも、主権国家としての日本の誕生とその担いいてとしての日本国民の創造の起源を求めるとき、開国以降の歩みの中での明治維新に行き着く。その明治維新を背後で導いたのは当時の覇権国家である大英帝国とその背後に控えたロスチャイルド財閥ということになる。既にこのブログ記事でも書いているように、その文脈で言えば、国家や国民は、「私」的存在でしかなく、決して「公」的な存在ではない、と私はみている。その意味では、私たちは本来公的な関係としての国家や国民などではないのだ。米国をつくり出したのは、この文脈の関連でいえば、英国や仏国と同様に、あくまで私的な利権・利害関係勢力をその中核としてつくり出されてきた私の語る「システム」なのだ。。


 そうした「システム」の下で、私たちは「歴史叙述の神話」としての〈「私」と「公」の関係〉を信じ込まされてきたのである。「私」をいくつ集めてみたところで、それは「私」の域を出ることはできないのである。それでは困ると考えた一群の巨大な指摘利権・利害関係者によって、本来であれば私的な利権・利害関係を表すだけの関係を、あたかもそれを隠蔽するかのように、その表面をカムフラージュする形で、創造されたのが、国家であり国民という創造物であったのだ。それゆえ、そもそも国を守るとは、私的な利権・利害関係とその勢力を守ることを意味しているだけなのである。


 おかしな話に聞こえるかもしれないが、私はそのような結論にたどり着いたのだ。こうした私のような見方からすれば、中国であろうと、米国であろうと、また日本であろうと、私には相当に脅威であるのは言うまでもない。だが、同時にそうした私的なネットワークの中で生き残りをかけて悪戦苦闘せざるを得ないから、「こっちの水は甘いぞ。あっちの水は辛いぞ」的な二項対立図式に騙されたくはない。もっとも、この日本で生きていくためには、誤解を恐れずに言うと、今の米国ヨイショ政権に嫌々ながらも、媚びへつらうことも致し方ないのだが。それはまた米国にも中国にも、その他の国に対しても同じ態度で接するべし、を意味している。相当に神経の参ることだが、私たちはこうした私的な利権・利害関係とそのネットワークのいずれかの中で、生きることを選択するように迫られているし、事実そうして生きているのである。だが、私はいずれの関係に対しても、必要以上に礼賛したり、ましてや心中するつもりなど毛頭ないし、できない相談だ。あくまでも、生きるために、である。


 こうした関連から蓮舫氏の「二重国籍」問題に関して付言すれば、私に能力があるならば、多国籍企業と同様に、二つ以上の国籍を持ちたいものだ。戦争に巻き込まれる危険を避けるためにも、それは必要不可欠な最低条件でもある。世界中の国民が多国籍的な生き方が可能となるのならば、それこそ戦争はプーチンとバイデン、そしてその両者の取り巻き連中だけが直接対峙して戦うことになるに違いない。今よりも、どれほど「平和」になるだろうか。もっとも、それを許さないように、「システム」は一つの国籍を保持するのは国民の当然の守るべき義務であるかのように、これまた歴史叙述の神話から逃れられな
いように、国民を教育・洗脳するのだ。このように、私はそうみているし、また論述してきたのである。(続)



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