日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

私の語る「システム」論から、改めて中国共産党第20回全国代表大会に関するメディア報道を振り返るとき

2022-10-25 | 日記

私の語る「システム」論から、改めて中国共産党第20回全国代表大会に関するメディア報道を振り返るとき


(最初に一言)

 第20回全中大会が閉幕した。メディアでの報道は習近平体制が異例となる3期目を迎えると、その強権的集権的独裁体質をこれでもかと浮き彫りにしていたように、私には思われた。だが、その一方で、米国のバイデン体制とどこが異なるのかと改めて感じた次第である。


 私たちの議論でいつも私がおかしいと思うのは、全体像の中で「自由と民主主義」の社会を論じようとはしないということだ。すなわち、圧倒的な軍事力と経済力に支えられた自由であり、民主主義の社会という点を私たちは忘れてはならない。その関連で言えば、中国の専制的独裁的体制も、米国と鎬を削るほどの巨大な軍事力と経済力によって裏打ちされている。こうした覇権システムにおける覇権国であった米国と次期覇権国と目されている中国の軍事力と、経済力を前提としながら、自由な民主主義体制も専制的な独裁体制もつくり出されているという点に注目するならば、そこから私たちは何を見出すことができるのだろうか。

 それは、私がこれまで何度も述べてきたように、私の語る「システム」のどの地点に私たちは位置しているかを、確認しなければならないということである。覇権国となる国家は、最初から開かれた政治体制ではない。強権的で専制的であり、覇権システムに対立・敵対するじゆうやみんしゅしゅぎを抑圧しようとする傾向が強い。これに関しては、1820,30,40年代頃の英国も、1920,30,40年代頃のの米国も例外ではない。両国ともに、海外植民地の獲得とその維持に狂奔していたし、その結果として常に戦争と背中合わせの関係にあったことを看過してはならない。

 英国は当時の清朝中国をインドの次に植民地化する狙いでアヘン戦争を仕掛けた。米国も、中南米諸国をはじめ、アジアや中東へ触手を伸ばし、その結果として、アジアの植民地化を進めていた大日本帝国の日本との衝突が必至となるのは明らかであった。今の中国の東シナ海、南シナ海をはじめとした巨大な海洋圏の確立・確保の動きと酷似している。

 かつての英・米覇権国は、その覇権の地位を確立した後で、(*覇権システムと矛盾しないばかりかそれを前提としてつくり出された世界資本主義システム、世界民主主義システムの中で、)いわゆる民主主義体制の定着を図ったのだが、同時に忘れてはならないことは、そうした政治体制を支えた巨大な軍事力の存在である。その力は「システム」の高度化から低度化へと両国の位置する段階の変化とともに、弱体化するのだが、そうした動きに呼応する形で、英国の次に米国が、その米国の次に中国が覇権国となるように、覇権システムの維持と発展を担い支え続けている。そのために中国は目下、その軍事力をさらに増強させることを、「システム」によって要請されているのである。

 こうした「システム」からの指令に応えるためには、中国の政治体制はいましばらくは自由な民主主義体制を許されないのだ。その政治体制は専制的独裁的体制とならざるを得ない。それと同時に、中国の政治指導者の強権的リーダーシップも当分の間は続くことが予想される。それはロシアも同様である。プーチンの次の指導者も同じような強権的体質を免れない。それは、{[B]→(×)[C]→×[A]}の「システム」とその関係の歩みを担い支えるBとCに位置する諸国の政治指導者にも、その程度差はあるものの、等しく見いだされる体質である、と私はみている。

 こうした「システム」の高度化におけるB、Cの政治指導者の強権的体質と同じように、かつての先進諸国のAグループの政治指導者も、「システム」の低度化に伴う民主主義の低度化によりが導かれる様々な政治経済問題の発生とその解決に対処するために、自由な民主主義的司法ではなく、強権的政集権的な政治手法を採らざるを得なくなる。その意味では、「システム」の高度化と低度化に直面したB・CとAとの両者の段階の違いはあれ、両者ともに、表面上は類似した政治手法を選択せざるを得ないことになる。


(最後に一言)

 今回記事も、これまで論述してきた内容とあまり変わり映えのないものである。それはそうなのだが、私にはとてもつらい話である。というのも、あまりにも私たちのウソ話がひどすぎて、正直もうテレビの番組は「アンパンマン」ヤ「日本昔話」等々のごく限られたものとならざるを得ない。今さらながら、メディアの提供する情報は偏向した内容が多く、それに奉仕する専門家の話も当然ながら、緊張感の欠如したものばかりとなる。

 最初から、どちらの陣営に属して話しているかがわかることから、面白くも何も感じられないのだ。正直に生きれば生きるほどに、どちらの陣営などあるはずもない。どちらにも与するのも難しくなる。それでも、生きていくために仕方なく、どちらかに従って生きていくしかないのだ。それはとても耐えられないはずなのだが、それでもそうせざるを得ない、生きていくために。

 専門家と称される人たちは、こうした苦汁を舐めながら生きているはずに違いない。そんな彼らの顔はいつも明るくはないはず、暗くて当たり前なのだ。私もかつてはそんな時期があったのだが、それはーーー。まぁ、こんな話をしても意味はないのだが。

 

 


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私の語る「システム」論から、改めてロシアによる「ウクライナ侵略戦争」を考えるときーここまで来ると、何が・誰がロシアとウクライナをたきつけているのかという話にならざるを得ない。

2022-10-20 | 日記

私の語る「システム」論から、改めてロシアによる「ウクライナ侵略戦争」を考えるときーここまで来ると、何が・誰がロシアとウクライナをたきつけているのかという話にならざるを得ない。


 (最初に一言)の前に、是非とも述べておきたいこと

 タイトルにある「何が」、「誰が」のいずれかに重きを置くかによって、描かれる「物語」は自ずと異なってくる。「誰か」となれば、それはDSとか世界的大富豪が云々となるだろう。「何が」と言えば、それは何らかの仕組みとか構造(関係)から語られる話となるだろう。この点を先ずは押さえておきたい。

 次に、米国の覇権の衰えとそれに伴う世界のある種の無法状態、無秩序化を見て、「多極化の時代」(そこには以前に流行していた「ポスト・覇権システムの時代」も含まれる)を説く論者が多数現れてきた。彼らは、それによって何が言いたいのか。あるいは、何も語れないことを示しているのか。

 1870年代から1940年代に至る英国から米国への覇権の交替の間、ある意味においてはこの時期も多極化の時代と呼ぶことも可能であった。もし米国が覇権国として台頭することがわかっていないならば、そう呼んでも仕方がないのだが、覇権国の興亡史を理解できていたならば、決して多極化の時代などとは呼ばなかったであろう。

 付言すれば、20世紀の両大戦間期を、「危機の20年」として、もっぱら位置づけ理解することもなかったであろう。その時期は、いわゆる「帝国主義の時代」の戦争もも含めた、英国から米国へと覇権国が交替するために必要とされた戦争の時期として、改めて捉え直さなければならなかったはずなのだ。同時にまたそこからわかるのは、今のロシアの戦争は、湾岸戦争から続くアメリカから中国へと覇権国が交替するために必要とされた戦争の一環として、捉え直すことができるに違いない。相当に恐ろしい話であり、聞きたくもない話だろううが、これこそが私たちの歴史の真実だということである。

 それでは、一体どうしてこのような戦争が繰り返されるのか。それは、私の語るあの「システム」とその関係の歩みに原因があるということである。中国が覇権国として登場するということは、B、C、Aの関係から成る「システム」がその成熟期を迎えるということであり、それはまさしく一帯一路構想がその実現・完成の時期を迎えるということを意味している。

 それでは、その「システム」をこの21世紀の今、成熟期へと導いているのは何であろうかと問うならば、それはA、B、Cの関係から構成される「システム」とその関係の歩みをB、C、Aの関係から構成される「システム」へと構造転換・変容させた「何か」であるに他ならない。 それはまた1970年代に至るまで、A、B、Cから構成される「システム」とその関係の歩みをつくり出してきた何かである、と私は理解している。

 その何かを辿っていくとき、そこに私は覇権システムをつくり出してきた世界各地域における諸共同体をその担い手としたナショナリズムの歩みを見出すのである。それら諸共同体は、その自己決定権の獲得とその実現のために、力(暴力)と力(暴力)のぶつかり合いを介した争奪戦を繰り返す中で、いつしか「親分ー子分」関係を前提とした覇権システムをつくり出すのである。

 いわゆる、大航海時代におけるポルトガル、スペインに端を発しその後、オランダ、英国、米国へと至る覇権国の興亡史の歩みの中で覇権システムはつくられてきた。同時にまた、そのシステムの「親分ー子分」関係を基にして、親分に都合のいいように、「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係がつくられてきた、と私は理解している。何度も述べてきたように、その関係の中の「衣食足りて(足りず)」の営為の関係を、私たちが言うところの世界資本主義システムとして、また「礼節を知る(知らず)」の営為の関係を、私が説く世界民主主義システムとして、位置づけ理解できる。

 ここにある覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムの三つの下位システムからなる一つの「システム」がA、B、Cの「システム」を担い支え続けてきたということなのだ。そしてこの「システム」の「自己完結運動」の結果として、1970年代を分水嶺とするかのように、「システム」の構造転換・変容が導かれ、そこから今の私たちがその担い手として支えているB、C、Aの「システム」が発展とその成熟期を迎えるために、今まさにその高度化の道を歩んでいるということである。

 そのために、21世紀のこの地点ににおいて、19-20世紀の転換期から20世紀の両大戦間期において必要とされた戦争が、今まさに繰り返されているということなのだ。愚かと言えばそれはそうなのだが、私たちは、この愚かな歴史を何度も繰り返しているのである。それゆえ、それを避けることを、私たちはどうしても考えなければならないのは言うまでもないだろう。

 そのためにも、ロシアのウクライナに対する「侵略戦争」を考察することは大切であるのは間違いないことではあるが、今の言論空間で展開されている議論は、とてもではないが愚かな歴史を繰り返させないための議論には到底なり得ない、と私はみている。その原因については、これまでの拙論においても論及してきたことだが、今回記事のここまでの私の話を踏まえながら、もう少し論を展開しておきたい。


 私の「システム」論に関する上述のくだりを踏まえるとき、冷戦崩壊以降のソ連の解体とロシアのその後の戦争へと至る歩みは、「システム」の(自己完結運動の歩みの)下で「必然的に」準備されたと言っても差し支えないだろう。たとえば、「システム」はそのために、ロシアと約束していたNATOの東欧諸国への拡大を反故にしたり、米国政府やCIAやジョージ・ソロスやヌーランド女史を使いながら、ウクライナとロシアの約束事をことごとく踏みにじることで、ロシアのウクライナ侵攻を不可避とさせる等々の動きを導いていくのである。さらにはノルド・ストリウムやクリミア大橋の爆破をはじめとした数々の破壊工作も、ロシアをさらなる戦争に引きずり込むためである。

 「システム」にとっては、民主主義も全体主義も何の意味もない。ロシアもウクライナも米国も、日本も意味などない。それは覇権国として台頭している中国にも該当する。「金の成る木」としての「システム」からすれば、それら諸国はただのコマでしかない。使えるだけ使ったら後は捨てるだけとなる。

 この厄介極まりない「システム」は、自らに火の粉が及ばないために、あらかじめ予防線というか防波堤をつくっている。「システム」の戦争であるにもかかわらず、ロシアの戦争に差し替えている。「システム」による侵略にもかかわらず、ロシアのそれにしている。しかも、その戦争を脚色して、自由と民主主義を独裁と専制主義から守るための戦争としている。「システム」の提供する民主主義と全体主義であることを、間抜けな専門家には見抜けるわけもないから、「システム」の差別と排除の関係はずっと温存されたままである。

 私たちが本来向き合わなければならない差別と排除の関係から、私たちは目をそらせたままであり続けている。それが証拠に、自由や民主主義を世界に喧伝する国がどうして他国を犠牲とするような暴力支配を続けるのかという問題に対して、それはネオコンの仕業であるとか、左翼リベラルの誤った「正義」の実現の仕方にある云々との、皮相的な解釈を提示するばかりで、本丸である「システムとその関係の(自己完結運動としての)歩みを俎上に載せて糾弾するには至らないままの知的惨状を呈するのみだ。

 今回はこの辺で失礼。

(付記)

 今回記事の関係から、以前の記事を貼り付けておきたい。もし興味のある読者がいれば、斜め読みしてほしい。そこで述べられているのは次のような話にまとめられる。

 それにしても不思議と言えばそうだが、戦争は「やらせ」としか言いようのない局面に差し掛かっている。ロシアを追い詰めるわけでもなく、またウクライナを滅亡へと追いつめるわけでもなく、双方が誰かに・何かに操られているかのように、一進一退の様相を呈している。だが、その戦争の一番の目的は、ロシアはもとよりEU・NATO加盟諸国を弱体化させて、誰かに助けを求めることを余儀なくされるかのように、これら諸国は今やまさに、国家存亡の渦中に置かれているのではあるまいか。そんな戦争が継続中である。

 その戦争は一帯一路構想の実現・完成のための戦争ではあるまいか。それは{[B]→(×)[C]→×[A]}の「システム」とその関係の歩みの高度化とその成熟を導くためのそれである。そしてその時こそ名実ともに、中国が覇権国として、親分として世界に君臨するときである。この時点において、「金の成る木」としての「システム」は、その格差バネを最大限にフル稼働させながら、「濡れタオル」として譬えられる世界の富を搾り出すことができるのだ。
ーーー

引用張り付け、記事

(2022,2,25)

私の語る「システム」論から、「現下のウクライナ危機」問題について考えるとき(続・続・続)ーロシアとドイツ間の天然ガスパイプライン事業「ノルトストリーム2」の稼働認可手続き停止を、B、C、Aから構成される「金の成る木」としての「システム」が、その高度化実現のために推進中の中国主導の「一帯一路」構想実現の歩みと結び付けて捉え直すとき


(最初に一言)

前前回の記事〈B、C、Aから構成される「金の成る木」としての「システム」が、その高度化実現のために、「米・中覇権連合」を使って用意周到に練り上げられた戦争プランとして捉え直すときー私の語る「システム」論から、「現下のウクライナ危機」問題について考えるとき(続・続)〉(2022,2,20)において、私は次のように述べていた。すなわち、ーーーそれはB、C、Aから構成される「システム」の高度化を実現するために、米・中覇権連合が中心となって、EU諸国を巻き込む形で推進された戦争計画の一環として、私は理解している。/その狙いは、あくまでも中国主導の「一帯一路」構想の実現のためである。今回のウクライナ危機によって、ロシアやEU諸国の中国への依存度はますます高くなることが予想されるのではあるまいか。その関連からいうと、中東やアフリカ諸国の戦闘は、中国の一帯一路構想の実現と結びつけて考えるとき、わかりやすくなるのではあるまいか。ーーー


行論の都合上、ここで、前回のブログ記事〈私の語る「システム」論から、気になる社会の「出来事」を再考するときー「トー横キッズ」、「個人請負という名の過酷な偽装雇用」、「現代の奴隷制と化したコンビニ」、そして「露・独間の天然ガスパイプラインの稼働認可手続きの停止」問題に関してー(2022,2,24)〉から、その一部を引用張り付けておきたい。

ーーー

(引用張り付け、開始)

今日のウクライナ危機を、そのB、C、Aの関係から構成される「システム」と結び付けて考えるとき、1970年代以前においては、個人間、集団間、共同体間の自由や主権といった自己決定権の獲得と実現は、{[Aの衣食足りて→礼節を知る]→[Bの衣食足りて・足りず→礼節を知る・知らず]→[Cの衣食足りず→礼節を知らず]}の営為のインターナショナリゼーションの関係のネットワークを前提として、その「システム」の枠の中で行われていたのに対して、70年代以降から今日においては、{[Bの衣食足りて→礼節を知る]→[Cの衣食足りて・足りず→礼節を知る・知らず]→[Aの衣食足りず→礼節を知らず]}の営為のグローバリゼーションの関係のネットワークを前提として、個人間、集団間、共同体間の自由や主権といった自己決定権の獲得と実現が行われているのである。

付言すれば、このモデルで描いているようには、B、C、Aの関係は実現してはいない。なお、2,30年の歳月を必要とするに違いないのだが、それでも確実に、着実にB、C、Aの関係から構成される「システム」はその高度化の段階の歩みを進んでいる、と私はみている。Bの先頭には、次期覇権国となる中国が配置されるように、Aの先頭に位置しているこれまでの覇権国の役割を担ってきた米国が、米・中は県連合の形成と発展の歩みの中で、そのBの中国の位置を不動のものにするべく努めている。

B、C、Aの「システム」の高度化の段階を首尾よく上昇させることが、「金の成る木」としての「システム」においては何よりも重要な役割だが、そのためには、中国指導の「一帯一路」構想の実現が至上命題となる。その実現を妨害、阻止する諸国の動きに対しては、米・中覇権連合は神経をとがらせながら、それに対する対抗策を講じている。

たとえば、中国の「一帯一路」構想の実現は、ユーラシア大陸のみならず、北は北極海(北極圏)を、南はアフリカ諸国をも含む巨大な経済圏構想であるから、当然ながら、その実現に向けて、いろいろな横やり、介入、干渉、あるいは一時的な計画の頓挫を強いられるのは明らかである。

中国の計画実現をすべての国が喜んでいるわけではない。それはロシアも例外ではない。ロシアはドイツとの天然ガスのパイプラインの稼働認可手続き開始に向けた動きを進めていたが、この実現は、米・中覇権連合を推進する利害関係には、彼らの計画実現の妨げとなるように思われても仕方あるまい。ドイツがEU圏内でのさらなる力の増大・増強ともなれば、それは中国のEUへの浸透力に影響を及ぼすのは必至となる。また、そのドイツの力を借りたロシアの力の増大は、Bグループ内でのロシアと中国の覇権争いを勢いづかせることにもつながりかねない。さらに、そこから中国のアフリカ支配に対する力を弱めさせることにもなりかねない。

米・中覇権連合は、こうした動きを見定めながら、現下のウクライナ危機を演出したと考えた方がいい。と同時に、ロシアもその動きに自ら進んで乗ったとみていい。ロシアにおいても、いまだに覇権国への夢を捨てたわけではない。「システム」が、米・中覇権連合を使って、「冷戦」崩壊後のソ連解体に伴う中国とロシアの力の優劣関係を考慮して、ロシアからウクライナを引き離して、当分はロシアを第一次産品国としての資源提供国の役割に甘んじさせるシナリオ通りに進めてきた対ロシア工作を、無駄にしてはならないはずなのだ。中国が、あともう少し、盤石の国家として、そして覇権国へと雄飛するまでは、ロシアやEU諸国の力を押さえておく必要があるのだ。

なお、ウクライナ危機に関しては、またドイツとロシア間の天然ガスパイプラインの稼働認可手続き停止に関しては、〈G7、露の独立承認を「国際法違反」と強く非難…制裁へ緊密連携で一致〉(2022年02月22日 22時45分 読売新聞)と、「阿修羅・総合アクセスランキング(瞬間)」に投稿掲載された〈「ウクライナ危機」はウクライナとは何の関係もない(メモ・独り言のbrog)/http://www.asyura2.com/21/kokusai31/msg/447.html投稿者 こーるてん 日時 2022 年 2 月 22 日 10:43:52: hndh7vd2.ZV/2 grGBW4LpgsSC8Q/http://takahata521.livedoor.blog/archives/12863846.html#moreより〉を参照されたい。

とくに、後者の記事は、私の語る「システム」論にも、大変にに有益な示唆を与えてくれる内容を含んでいる。同記事によれば、今次のウクライナ危機を、米国が、米国の石油・天然ガス関連企業の利益の確保のために、ドイツとロシア間の天然ガスパイプラインの稼働認可手続き開始の頓挫を狙って仕組んだ戦争であると指摘している。それに対して、私は、そこに米国の企業の利益のみならず、B、C、Aから構成される「システム」の発展を推進する「米・中覇権連合」とその利害関係勢力によって、企図された戦争の一環として理解している。

(引用張り付け、終わり)

ーーー


(最後に一言)

今回記事での私の話を、正確には、(最初に一言)で引用貼り付けていた話、すなわち、
ーーーそれはB、C、Aから構成される「システム」の高度化を実現するために、米・中覇権連合が中心となって、EU諸国を巻き込む形で推進された戦争計画の一環として、私は理解している。/その狙いは、あくまでも中国主導の「一帯一路」構想の実現のためである。今回のウクライナ危機によって、ロシアやEU諸国の中国への依存度はますます高くなることが予想されるのではあるまいか。その関連からいうと、中東やアフリカ諸国の戦闘は、中国の一帯一路構想の実現と結びつけて考えるとき、わかりやすくなるのではあるまいか。ーーーであるのだが、ここでの私の指摘を、さらに具体的に補強してくれる次の記事を、最後に紹介しておきたい。

その記事とは、〈ウクライナ危機で幕開けた「米ロ新冷戦」、ひとりほくそ笑む中国
 近藤 大介 2022/02/24 17:00 〉である。以下に、とくに私の話と関連している記事のくだりを、以下に引用貼り付けておきたい。

ーーー

(引用張り付け、開始)

ロシアへの制裁が始まれば潤うのは中国
 もう一つ指摘したいのは、アメリカが段階的にロシアに科す予定の金融制裁に関してだ。例えば、アメリカがSWIFT(国際銀行間通信協会)からロシアを締め出し、アメリカドル決済を禁止したらどうなるか。そうなると、ロシアは自国の経済を、かなりの部分、中国に頼らざるを得なくなる。

 中国は今年を「デジタル人民元元年」と定めていて、周辺諸国との貿易を人民元決済にし、近未来にデジタル人民元決済のシステムを整備しようとしている。アメリカによるロシアへの金融制裁は、結果としてこの動きを加速させることになるだろう。

『台湾vs中国 謀略の100年史』(近藤大介著、ビジネス社)c JBpress 提供 『台湾vs中国 謀略の100年史』(近藤大介著、ビジネス社)
 他にもEU圏も、ロシアとの対立によって、コロナ禍に輪をかけた景気の後退が予想される。そうなると、やはり経済は中国との貿易頼みということになってくる。例えば、ドイツ車は昨年、中国で448万9384台も売っているのだ。これはヨーロッパ30カ国でのドイツ車の販売台数448万1453台を、わずかながら上回っている。

 いずれにしても、米ロの対立の中で、漁夫の利を得るのは中国ということになる。少なくとも短期的には、アメリカによる中国叩きも弱まることになるだろう。北京では、「分久必合」(久しく分かれれば必ず合う)という言葉も飛び交い始めている。

(以上、引用張り付け、終わり)

ーーー

(2022,2,20)

B、C、Aから構成される「金の成る木」としての「システム」が、その高度化実現のために、「米・中覇権連合」を使って用意周到に練り上げられた戦争プランとして捉え直すときー私の語る「システム」論から、「現下のウクライナ危機」問題について考えるとき(続・続)


あまり面白くない話を述べるのは気の滅入ることだが、ロシアとウクライナの一触即発的状況とすでに戦争状態と化している両国関係を、私の語る「システム」論から捉え直すとき、それはB、C、Aから構成される「システム」の高度化を実現するために、米・中覇権連合が中心となって、EU諸国を巻き込む形で推進された戦争計画の一環として、私は理解している。

その狙いは、あくまでも中国主導の「一帯一路」構想の実現のためである。今回のウクライナ危機によって、ロシアやEU諸国の中国への依存度はますます高くなることが予想されるのではあるまいか。その関連からいうと、中東やアフリカ諸国の戦闘は、中国の一帯一路構想の実現と結びつけて考えるとき、わかりやすくなるのではあるまいか。

いずれにしても、「システム」は、米・中覇権連合を使いながら、紆余曲折はあれども、着々とその構想実現を目指していることは確かである、と私はみている。そのために、哀れなのは、ロシアやウクライナ、そしてEU諸国や中東、アフリカ諸国に暮らす名もなき貧しい人々である。ただでさえ、コロナ禍で苦しんでいるときに、そこにさらに追い打ちをかけるように、「金の成る木」としての「システム」の執念は凄まじい限りである。

勿論、これまで何度も指摘してきたように、誤解のないように付言しておくと、そうした私の語る「システム」にそこまでの力を与えているその張本人は、名もなき貧しい私たち「システム人」の存在だということなのだ。このことだけは、まず何よりも、自覚・自戒しておく必要があり、それは最低限の私たちの「道徳」である、と私は強調しておきたい。

その自覚・自戒のない者が、いくら世界の大富豪の金もうけの仕方や今日の格差社会を非難・批判したところで、それは所詮は、お里が知れているとしか言いようがない。こんな物言いを、本当は私はしたくはないのだが、あまりにも他人事感覚で語る人が多くなっていることを鑑みれば、致し方なかろう。当然ながら、日本に暮らす私たちにとっても、現下のウクライナ危機は他人事では、到底済まされなくなるだろう。

申し訳ないのだが、もうこの辺でやめておきたい。中途半端な記事の展開で終わらせてもらうのだが、それでも私の今回記事で伝えたかったことは、その少しは述べられたのではないかと思っている。

 

(2022,2,4)

(加筆・修正版)私の語る「システム」論から、「現下のウクライナ危機」問題について考えるとき(続)ー中東・アフリカ諸国に対する中国の支配・浸透力が20-21世紀転換期頃にかけて、強まっていく背景を再考するとき、またそれと軌を一にするかのように、同地域での米・ソ両国の支配・影響力が、著しく弱体化していくのを確認するとき


(最初に一言)

前回記事において、私は次のように述べていた。すなわち、ーーーそうした過程において、中国は世界の工場となり、世界の市場となり(改革開放路線の下で米国に代表される西側先進国からの外資導入の下で人件費の安い中国人労働者の手による安価な製造業製品を洪水のように世界中に輸出する中で、その主要な原料供給地であると同時に、中国製品の受け入れ地でもある中東やアフリカ諸国の経済発展は、中国の経済発展の下に組み込まれることにより、ますますソ連の、あるいは米国の中東やアフリカ諸国に対する支配力、影響力は低下すると同時に、ソ連(あるいは米国)自体の国力の低下を導くのである。ーーー


上のくだりで紹介している中国の中東・アフリカ諸国に対する支配・影響力が強まっていく背景について、今回記事では、もう少し詳しくみていきたい。行論の都合上、ここで私の「仮説」を紹介しておきたい。前回記事と重なるところもあるが、それを断ったうえで、ここに紹介しておく。


①「私の仮説」

<なぜ冷戦崩壊の直後にソ連邦は解体したのか。ヨーロッパにおいて、EUに向けての動きが1992年のマーストリヒト条約の締結により固まったが、これは冷戦崩壊とやはり関係があるのではないか。さらにすぐ後の付言した出来事とも関係があるのではないか。と同時に1970年代以降の「システム」の再編、変容の歩みの中で、EUにつながる流れが導かれたのではないだろうか。Bの中国の経済発展を介して中国を世界の工場へと導くために、その中国製品の輸入先としてのヨーロッパ市場と、かつての東側諸国を含む地域から中国に向けての原料や天然資源の輸出をとおしてAの経済発展とBの経済発展の関係をとおして、{[B]→(×)[C]→×[A]}のセカイの形成と発展の歩みをさらに強固にするために、EUが発足した(EUを発足させる必要性を「システム」は理解した)とみることも可能ではないか。(付言すれば、米国も覇権国として全世界を統合する力を急速に失うのはなぜか。確かにアフガニスタンやイラクに対する軍事介入はその圧倒的軍事力行使において「ユニラテラリズム」の表れとして多くの論者により位置付け理解されたのだが、裏返せば、そこまでしないと、米国の言うことを聞かせることができにくくなった、ということではなかったろうか。)アフリカにおいて、なぜ冷戦崩壊後、部族関闘争や内戦が激化していくのか。なぜ冷戦崩壊後、中東おいて戦争がはじめられたのか。>?これら三つの「なぜ」の問題(拙著『民主化の先進国がたどる経済衰退』の序章の「三つの何故」参照)を「システム」の再編と変容といった観点から読み解いていきたい。同時に、それらの問題に関連して、今日の様々な政治的出来事(イギリスのEuからの離脱、Euにおける「右傾化」の加速、アメリカにおける「内向き」傾向とトランプ大統領の誕生、日本のロシアへの接近と、アジア諸国での対中国封じ込め外交の顕在化等々)に関しても同じく「システム」の再編と変容といった観点から接近していきたい。

このようにみてくるとき、様々な出来事が、あたかも一本の鎖の輪を構成するかのように位置づけ理解されるのだが、その源は、まさにニクソン訪中と改革開放路線を推し進める米中覇権連合の形成と発展に端を発している。


②「私の仮説」

何故、「アラブの春」は、2010年代に、もっと広げて言えば、2000年から2010年前後に、起きたのか。この問題は、コンゴ民主共和国の「悲劇」に象徴されるアフリカの戦争が、やはり同じ時期に起こっていたことと、何か関係があるのではないか。

この理由とその説明に関しては、は。ネット検索を介して見ても、いくつか出てくるある。(尚子先生教えて下さい)等等。しかし、それらの説明は、「比較政治学」の観点からの説明ではない。たとえば、「アラブの春」を民主化や民主主義の発展の観点から捉え直すとき、それでは、どのような理由説明が行われてきたのだろうか。私の見るところでは、これらの政治学からの解答も十分ではない。と言うのも、民主化や民主主義の発展に関する、「静態的」研究はあっても、「動態的研究」はないのである。その関連で言えば、「何故いまロシアはシリア空爆を行ったのか」に関する国際政治学や比較政治学からの〈学〉的説明、すなわち、民主化や民主主義の発展との関係・関連からの説明は、聞かれない。こうした点を踏まえて、私は私の民主化、民主主義の発展に関するモデル、すなわち、私の語る「システム」論で提示されている構造モデルと時系列モデルを使って、いろいろな問題に論究していきたい。


ところで、私の語る「システム」論で紹介されている「普遍的価値」の実現の歩みとして位置づけ理解される「普遍主義を構成する「経済発展」(「衣食足りて」の営為)と「民主主義の発展」(「礼節を知る」の営為)の関係(史)は、1970年代以前と70年代以降において、その構造転換・変容をみることに注意してほしい。

この変容なり転換の関係が理解できない限り、たとえば何故、1970年代、80年代あるいは1990年代の初期ではなくて、(何故)1990年代の中頃以降に「コンゴ民主共和国」に見るアフリカの大戦争、悲劇が生起したのかが理解できない、と私は見ている。*〈参照、〈第8回 世界最大のコンゴ紛争 私たちとのつながり〉〈コンゴ民主共和国 無視され続ける世界最大の紛争〉、大阪大学グローバルコラボレーションセンター、ヴァ―ジル・ホ―キンス〉


私は何故、それが1990年代中頃以降において生起したかを、私のモデルのセカイの関係史で描く関係が、その関係における緊張と抑圧の強度が、セカイの関係の歩みが70年代、80年代、そして90年代と時を経るごとに、「順調に」形成、発展させたいと願う覇権システムの、そしてまた「システム」の維持と発展の歩みによって、深化してきたこと、換言すれば、それだけ1970年代以降においてその形成と発展とその維持と安定が望まれる「システム」それ自体の関係史が、より強固になってきた、と私はみている。

「改革・開放」以後のBの中国に対する、Aの先進国の、特に米国の直接投資の増大による中国国内における爆発的な工業化とそれに伴う中国の世界の工場、世界の経済市場への発展は、中国国内における工業製品の諸原料に対する需要を高めることとなる。その供給先として注目されたのが中東やアフリカ諸国であった。同時にまた、それらの地域は中国製品の受け皿としても期待されたのは言うまでもない。

それゆえ、そのことは中東やアフリカ諸国における紛争を惹起させることとなった。たとえば、中国の台頭を面白く思わない勢力や、中国への天然・鉱物資源を供給することで利益を独占しようと考える経済利害は、中東やアフリカにおける自らの仲間たちと呼応しながら、敵対勢力を排除しようと企図とするであろうし、事実そのように行動したのである。こうした資源の争奪戦の過程で、中東やアフリカ諸国において、多くの戦争が勃発することとなった。そうした繰り返される戦争を経て、ますます1970年代以降の世界・セカイの関係史のさらなる発展とその安定が進展していくこととなる。

こうした観点から、中東とアフリカの紛争を回顧するとき、1970年代以前の紛争・戦争は、{[A]→(×)[B]→×[C]}のセカイを形成、発展させるためのものである(あった)ということ、同時に、1970年代以降から今日に続く紛争・戦争は、{[B]→(×)[C]→×[A]}のセカイを形成、発展させるために引き起こされたものである(あった)ことが理解されるのである。

ところで、1970年代以降から今日に至るB、C、Aから構成される「システム」の形成と発展は、さらに以下のように、(1)から(12)の時期に、それぞれ区分されると同時に、その時期ごとにおいて、B、C、Aの各々の地域における世界史的出来事が導かれ、それらがやがては全期間を通して、B、C、Aから構成される「システム」の形成と発展を支持・強化する歴史的な一つの「統合・統一的」出来事として、位置づけ理解されるのである。

そうした一つの「統合・統一的」出来事を描き出すことが私の当面の課題となるのだが、ここでは、ごくごく簡単な(1)から(12)の時期に区分されたB、C、Aから構成される〈「システム」とその関係の歩み〉に関するモデルの提示だけにとどめておきたい。

(1)1970年代初期の頃の{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係、

(2)1970年代末頃の{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係、

(3)1980年代中頃の{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係、

(4)1980年代末頃の{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係、

(5)1990年代初期の頃の{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係、

(6)1990年代中頃の{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係

(7)1990年代末頃の{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係

(8)2000年代初期の頃の{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係

(9)2000年代中頃の{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係

(10)2000年代末頃の{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係

(11)2010年代初期の頃の{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係

(12)2015年から現在に至る頃の{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係


以上、ここまで(1)から(12)にかけてのB、C、Aの「システム」の形成と発展に関するモデルを提示したのだが、ここで私が読者に伝えたいことは、こうした流れの中で、1970年代以降から今日に至るまでに、B、C、Aから構成される〈「システム」とその関係の歩み〉は、紆余曲折を経ながらも、それにもかかわらず、着実にその確固たる基盤を築いてきたということである。

それに関して付言すれば、1970年代以降から今日に至るまで、Bの中国とCのアフリカ諸国と、Aのアメリカと日本における「経済発展」と「民主主義の発展」の「段階」は、私のもう一つの通時的モデルが示すように、BとCにおいてはその「高度化」に向けての、Aにおいてはその「低度化」に向けての歩みが「進化(深化)」していることを、換言すれば、BとCとAの間における「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係がますます、その紐帯を強めていることを銘記しておかなければならない。

こうした点を鑑みるとき、たとえばCのアフリカ諸国が置かれている深刻な状態、状況を知ることは確かに知らないことよりも大切ではあるが、もし物事を正確に知ろうとするのであれば、私はやはり私のモデルで描くあのセカイの関係史の全体像を理解しながら、その枠の中でCのアフリカ諸国の現状を知るべきではないかと考えるのである。

これらを踏まえて、さらに重ねて付言すれば、「中東・アフリカの戦争」を分析する際に重要な視点は、B、C、Aの相互の関係を前提とした枠組みを元に分析することである。1970年代以降、現在にかけてこの関係が相互に深まり、強化されてきたが、こうした関係の深化の中で、中東やアフリカにおける紛争が導かれてきたとの「仮説」を、前提としている。なお、今回記事では、上述した(1)から(12)のモデルとの関連も含め、これらに関する具体的出来事の紹介ができていないことを、ここで断っておきたい。


(最後に一言)

前回記事も、また今回記事も、すでにこのブログ記事において述べていた内容であるのだが、ここにきて、もう少しその語り口というか語り方を、少し変えながら、これ、までの拙論を整理しなおしていることを、ここでも断っておきたい。


(付記)

前々回の記事(2022,1,30)の(付記)を、昨日改めて読み返していた時、もう少し丁寧に私の考えを述べておいたほうがいいと判断して、(付記)の下に、さらに*から******を付けたくだりを加筆し手、(加筆・修正版)として記事を投稿しなおした次第。その加筆したくだりをここに貼り付けておくので、よければ目を通してほしい。


*(付記)

それにしても安倍政権のやらかしたことは、日本に相当のダメージを与えた、と何度言っても、言い過ぎにはならないだろう。あれ以降、とにかく、力があれば、何でもできるる、何をしても許されるといったよどんだ空気が、日本社会を覆いつくした感がある。煙草をふかしながら、優先席に寝そぶっていた、どうしようもない「ダメ男」に対して、注意した勇気ある高校生がボコボコにされても、見て見ぬふりの私たち。

どこか似てやしないか。あの財務省職員だった赤木さんが、それこそ安倍やその取り巻き連中に、ボロボロにされて、挙句は自死へと追い込まれても、私たちはみて見ぬふりなのだ。これは、沖縄県民が、とにかく基地問題を何とかしてくれと、在沖米軍に対して、何度も何度もボコボコにされながらも闘い続けているのに、それを見て見ぬふりの私たち。

私もエラソーに言えるものではないと重々承知しているのだが、それでも私自身の卑怯さを、私自身に対する恥辱として、受け止める自覚だけは、今も持ち合わせている。それを多くの人が共有していれば、テレビ番組における度を越した「あほの競い合い」は少しは改善されるはずだろうが。何か、今の日本社会の風潮は、私たちの卑怯な振る舞いを見ないでも済むように、行動しているようで、私には、それこそ気色が悪いのだが、今やもうそんな恥じらいさえ、忘れてしまったかのように思われて、なんとも残念である。


*後日というか、今日(2022,2,3)またこの少し上の(付記)のくだりを読みながら、もう少し補足しておいたほうがいいと思ったことを述べておきたい。

**それは、「見て見ぬふりはやめて、現状を直視すること」は大切だとしても、それにもかかわらず、私たちが、「親分ー子分」関係を基本とした覇権システムの中で生きていることを忘れてはならないということである。それは、たとえば、公的空間の中での「非道」を目の当たりにした際に、すぐさまそれを糾弾する代わりに、少し間をおいて、周りの状況に目を配ると同時に、その非道の主との「力」関係を、見定めることが、まずは何よりも必要だということである。

***それを無視したり、自覚しないままの行動は、かえって非道の主からの反撃にあって、糾弾する者が、肉体的精神的ダメージを負いかねないような事態に追い込まれることも多々、考えられるだろう。さらに、その周りの者たちへの被害をもたらす可能性も否定できない。

****こうした点を鑑みるとき、私たちは自らの力を、どのようにして獲得するかについて常に考えておかなければならない。その力を単独で、あるいは多くの者の協力を得て得られるとの保証がないのであれば、たとえ、その行いが卑怯だ、と後ろ指をさされることになったにせよ、あえてその非難・批判を甘受しなければならないだろう。それは、どうしようもない、仕方のないことである、と私は言わざるを得ない。

*****だが、それを踏まえた上で再度、言うならば、常に現状の非道な・理不尽な力の行使を直視しながら、それへの対抗策としての力をどのようにして獲得するかについて、目を背けてはならないということに尽きるだろう。

******勿論、これも言うは易し、行うは難しであるのは、無論のことだが、「システム」の、そして覇権システムの中での「親分ー子分」関係と、そこから導かれる差別と排除の関係を、もし私たちが何とかして、少しでもそれを是正しようとするのであれば、私は力というか自己決定権の獲得とその実現に向けての何らかの方策を、絶えず思案することが必要である、とここでも強調しておきたいのである。第9条論者の、そして戦後の日本人の「まやかし」は、まさにこうした力の獲得に関する考察に目を閉じてきたということではあるまいか。


(付記)の(付記)野又(付記)

*******昨日の記事投稿後に、すぐ上の******で、私の意味する「力」に関して、それを物理的暴力というか軍事的暴力として理解される「読者」がいれば申し訳ないと思い、ここで念のために一言、述べておきたい。勿論、私の読者にはそんな誤解をする者はいないだろうが。

私の言わんとする「力」とは、これまでの記事を踏まえて簡潔に言うならば、それは「イワンの馬鹿」的生き方から醸し出されてくる「力」である。悪魔でさえ驚嘆して恐れ慄いて退散してしまうような力なのだ。こうした力を共有する構成員が集う共同体であれば、それこそ森友・加計問題などは起こりようもなく、ましてやたとえ起こったとしても、あんなふうにわけのわからないような幕引きなど許されなかったであろう。

私がこだわるのは、「第9条」と「イワンの馬鹿」的生き方を結び付けるとき、どのような日本社会の姿が浮かび上がってくるのかということである。これに関しては拙著(『21世紀の「日本」と「日本人」と「普遍主義」-「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウ』(晃洋書房 2014年)の序章?を参照されたい。


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①この時期はニクソン訪中、その中国はなお、文化大革命の最終局面。米国は、ベトナム戦争の最終局面。中東では、イスラエルとアラブの第4次中東戦争。イラクとイランの対立から、ホメイニ師の下でのイラク・イランの友好関係と米国との対立構図。イランの背後にソ連の存在。アフリカでは、植民地独立後の米・ソによる新たな支配

②この時期は改革開放期?この時期から始まる中国の世界の工場に向かう動きとそれを支えたAの先進国からの中国への外資流入とそれを基にした安い人件費の下で生産された安価な中国製造業品の世界中への輸出攻勢は、その原料を提供するCの中東やアフリカとの関係をますます深化させていくと同時に、Aの地域に対する大きな影響力を増していく。その象徴として先進国における雇用の喪失と中間層の解体、失業、貧困問題の顕在化による格差問題、そうした格差に伴う国民の不満と移民労働者への反感と彼らの不満を吸収しながら躍進する「極右」政党とそこで展開される「ポピュリズム」4の動き等々。それらの動きと関連する形で、Cの中東諸国やアフリカ諸国においてもBの中国の台頭とその影響力の下に置かれていくAの先進国との関係の下で、内紛、内戦や地域間での戦争といった争いが繰り返されていく。CやAにおけるこれらの状況や状態は、70年代末以降のシステムの発展の中で、相互に関係を深化させていく。?BとCの経済発展と民主主義の発展の関係の歩みの深化がAの経済発展と民主主義の発展の関係に影響を与えると同時に、Aの関係がさらにBとCの関係に影響を与える。そしてまた―――繰り返されていく。こうした歩みの中で1970年代以降にその改編と変容の歩みを見た新たなるシステムの確固とした仕組みがつくり出されていくのである。

1978年 - イラン革命
アメリカがイランへの影響力を失う。

1979年 - ソ連のアフガニスタン侵攻

③この時期はプラザ合意の時期。中国の経済発展はさらに目覚ましく、そのことが中東やアフリカ諸国に対する中国の支配。影響力を強めると同時に、それに伴い、従来の米・ソ両国によるこれら地域への支配。浸透力を弱体化させていく。米国とソ連の冷戦関係が最終局面を迎える。ソ連邦の解体へと向かう歩みが顕在化。

④この時期は冷戦の崩壊期。ソ連の解体とそれに伴いロシアの誕生。ウクライナのロシアからの分離。Bグループ内のロシアの国力の低下と、中国の国力の増強・増大する時期。中国の中東・アフリカに対する支配・浸透力はさらに強まっていく。その関係から、これら地域における米ソの支配・影響力はさらに弱められていく。

1989年にAPEC発足。

⑤この時期は冷戦の崩壊期。1991年、ソ連の解体とそれに伴いロシアの誕生。ウクライナのロシアからの分離。Bグループ内のロシアの国力の低下と、中国の国力の増強・増大する時期。

第1次湾岸戦争の勃発。米国によるサダム・フセイン指導のイラクに対する空爆開始と、フセイン政権の打倒と新生イラク国家の建設。

ヒューストン・サミット、新たな国際秩序の形成に向けての動きが本格化していく。

ヨーロッパではマーストリヒト条約の締結とその発効によりEUの誕生。

中国の中東・アフリカに対する支配・浸透力はさらに強まっていく。その関係から、これら地域における米ソの支配・影響力はさらに弱められていく。

⑥1995年、WTOの発足。

⑦1997年、イギリスから中国へ香港返還。
1999年、ポルトガルから中国へマカオ返還。

⑨2006年にTPP発足。

⑪2013年、習近平により壮大かつ巨大な経済圏建設に向けての「一対一路」構想が打ち出される。以後、今日に至るまでその歩みは継続中。

⑫2015年、中国主導によるアジアインフラ投資銀行の発足。日本もそれを支援する動き。
2021年、中国のTPPへの加入申請の表明。


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(2022,2,1)

私の語る「システム」論から、「現下のウクライナ危機」問題について考えるとき


(最初に一言)

現下のウクライナ危機の起点は、キッシンジャー、そしてニクソン訪中に、そしてその中間点は、中国の「改革・開放」路線とソ連のアフガン侵攻の「同時並行」的な始まりに、そしてその終点は、中国の世界の工場、そしてその後の覇権国へと向かう歩みと、その流れに呼応する形でのソ連の「解体」とそれに伴うロシアからのウクライナ分離工作の「成功」と、「産物の国」としてのロシアの限界露呈に、(それぞれ)端を発している。


行論の都合上、前回記事(2022,1,30)のあるくだりを以下に引用しておく。


ーーーさらに、いま私たちが生きている「システム」は、B、C、Aの関係から構成されるそれであり、Bの中国やロシアは、今後ますます自らの自己決定権の獲得とその実現に向けて「努力」を惜しまないはずだ。ーーー


B、C、Aから構成される1970年代以降から今日へと至る〈「システム」とその関係の歩み〉の性格上、上記のような動きを中国もロシアも示すのは当然だとしても、ロシアには屈辱としてしか受け止められないようなる苦い記憶が、絶えず蘇るはずであり、そこから今一度、強いロシアを目指すのならば、どうしても、「産物の国」から脱して「製物の国」へと転換しなければならない。そのためには、ソ連のかつての重化学工業地帯を構成していたウクライナを、是が非でも傘下に置くことが必要となるのだ。

元々は、〈「システム」とその関係の歩み〉の下で、換言すれば、〈「システム」とその自己完結運動の歩み〉下で、中国をBグループのトップに位置付けようと、覇権国であった米国が中心となって、中国の後塵を拝するように、ロシアを位置付けることに躍起となっていたのだが、それにもかかわらず、プーチンの指導するロシアは、そうしたロシア包囲網を打ち破るべく、着々と準備を進めてきたということである。


こうした点を踏まえながら、現下のウクライナ危機の起点から終点に至る流れを、B、C、Aの「システム」の形成と発展という観点から、もう少し広い文脈の中で位置付け直してみるとき、以下のように要約できるのではあるまいか。そしてその際に、私がとくに強調したい、注目してほしい箇所は、*と**のくだりである。


「現下のウクライナ危機」の起点からその中間点、そして終点に至るまでの簡単な要約


1970年代以降の〈「システム」とその自己完結運動の歩み〉を語る際に注目すべき点は、中東・アフリカの支配をめぐり繰り返されてきた従来の米・ソの対立、敵対と、両地域における米・ソの子分間の代理戦争、衝突とそれを介した地域の支配権の確立を巡る抗争といった図式が、米・中のそれに置換されることとなる。しかしながら、冷戦崩壊という事態が発生してから、いきなりというわけにはいかないことから、その準備が必要であろうことは誰にも推察できるだろう。

しかも米・ソ対立といってもその内実は米国がAの先頭に位置しながらBのソ連と対峙する構図であったように、米・中の対立といっても未だ中国の力は十分ではないことに目を向ける必要がある。さらに重要なのは、米国はその敵対、対立する中国を米中覇権連合の形成と発展の歩みの中で創りだしてきたと言うことである。もちろん、それを演出させたのは「システム」とその自己完結運動の歩み〉に他ならない。

以下でも述べるように、ニクソン訪中からベトナム戦争の終結と文化大革命の収束、改革・開放政策の展開、先進国における「小さな政府」の出現、ソ連のアフガン侵攻と米国のタリバン・イスラム勢力に対する支援、冷戦の崩壊、湾岸戦争へと続く流れは、まさにCグループの中東、アフリカ地域の支配権をめぐる従来の米・ソから米・中の構図に置換させるための〈「システム」とその自己完結運動が準備した壮大な歴史的演出であった、と私は理解している。

そうした過程において、中国は世界の工場となり、世界の市場となり(改革開放路線の下で米国に代表される西側先進国からの外資導入の下で人件費の安い中国人労働者の手による安価な製造業製品を洪水のように世界中に輸出する中で、その主要な原料供給地であると同時に、中国製品の受け入れ地でもある中東やアフリカ諸国の経済発展は、中国の経済発展の下に組み込まれることにより、ますますソ連の、あるいは米国の中東やアフリカ諸国に対する支配力、影響力は低下すると同時に、ソ連(あるいは米国)自体の国力の低下を導くのである。

*そうした中国と中東・アフリカの関係に加えてソ連のアフガン侵攻による軍事的、経済的力の失墜は覇権システムの下でのソ連の支配力の低下を招き、冷戦崩壊後のソ連邦の解体へと向かう流れに対して、どうすることもできないままに、結局のところ、ソ連の解体を招くことになる。

**ソ連自体の解体はその後のロシアから製造業の基盤を構成するウクライナのソ連からの離反を招くと同時に、解体後のロシアの経済発展が第1次産業に、とくに石油や天然ガスの開発といった天然資源に特化した「産物の国」としての産業構造を育成することに向けさせるのである。ここに中国が世界の工場となりそうした歩みの下で国力を増大させていく中で覇権国となっていく、そしてBグループの先頭に位置する「お膳立て」が出来上がるのである。

勿論、それも〈「システム」とその自己完結運動の歩み〉がそうさせるのである。また、西側のヒト・モノ・カネの大移動の受け皿となる中国は、Bグループの先頭に位置しながら、米国の支援の下で、中国は新たな「システム」の高度化を目指すのである。こうして、米中覇権連合の形成と発展の歩みが進行していくことになる。

その際、「システム」の高度化は、いつも「システム」内の構成員の差別と排除の関係を前提としていることから、1970年代以前のシステムの高度化においてはBやCにおいて、とくにCにおいては低度化の歩みが長期間にわたり維持されだが、70年代以降から今日にかけては、CとAにおいて、とくにかつての先進国が位置していたAにおいて低度化の進展は免れないし、事実その傾向はますます強まっている。

こうした〈「システム」とその関係の歩み〉の中で、中東やアフリカではⅠ期([権威主義的性格の政治→経済発展])の「段階」の前期から中期へ、そしてさらに後期の段階へとその歩みを進めている。そのために同地域では地域内での紛争や戦争が繰り返されている。その原因としてまず考えなければならないのは、70年代以降の「システム」の再編と変容であり、その「システム」の先頭に位置するBの中国とロシアの動向である。

中国がⅠ期からⅡ期の段階へとその歩みを高度化させながら、今や2基の段階の特徴である[経済発展→分厚い中間層の形成]の段階の前期から中期へとそして後期の段階を目指すところまで高度化している。こうした中国の経済発展と民主主義の発展の関係における高度化は21世紀に入ってから2040、50年頃に、明らかなものになってくる。改革・開放路線の開始からおおよそ60年から70年くらいの月日を要している。

中国の発展の段階が高度化するに従い、差別と排除の関係も同様に強化されることから、Cの中東やアフリカにおいて政情不安が高まるのは必至となる。Cにおいては多くの衝突や内戦が21世紀に入って顕著となるが、その理由は同地域の宗教的、民族的対立が直接の原因ではない。「システム」の再編と変容の歩みが直接的原因である。ーーー


さて、ここまでの「要約」を踏まえながら、今度は、以下に示しているように、論の展開を少し変えながら、さらに「現下のウクライナ危機」についての考察を進めてみよう。その際、私は、〈「システム」の自己完結運動の歩み〉から、「歴史」の「IF」を考えてみたいのである。

もしあの時、―――ならばとか、逆に、ああ、そのように歴史は動いていたのか、そしてこのように、つながるのか、というような「不思議さ」を見い出すことができるのではあるまいか。それと同時に、歴史には、私たちがよく人生において感じるような「IF」はないのではあるまいか。

そこには、いつも「必然性」があるのではなかろうか。たとえば、1992年のマーストリヒト条約によるEU市場の発足を、1989年の冷戦の崩壊と1991年のソ連邦の解体と結び付けてみるとき、歴史年表に多少の誤差があったとしても、そこにはいくつもの因果関係を確認できるのではあるまいか。→すなわち、ソ連邦の解体を受けてのEUの発足という流れとなるのか、あるいは逆に、EUの成立の流れを受けてのソ連邦の解体へと至る流れとなるのか、という具合にである。

また、以下に見る中国の改革開放路線の下での中国の世界の工場への歩みは、EUの発足による中国製品の受け皿としてのヨーロッパ市場の成立を促す歴史を構成したのかもしれない。ここにも明確な因果関係を確認できるのではあるまいか。もっとも、EECからECへの流れと、ECからEUへの流れは、連続した発展の歩みとして位置づけられない、と私はみている。前者は1970年代までの私のモデルの世界・セカイの歩みと、後者は1970年代以降の世界・セカイの歩みと結び付けて理解される必要がある。
  
そうしてみれば、ソ連邦の解体は、冷戦の崩壊を受けての「その後の出来事」となるだろうし、ロシアの成立は、ソ連邦の解体の後になるだろう。それは、もしソ連が解体していなければ、ロシアの成立には至らなかったであろうし、冷戦の崩壊が起こらなければ、ソ連邦の解体もなかっただろう、という話につながる。

そこから、話を大胆に飛躍させていくならば、1972年のニクソン訪中が、もしなかったならば、1978,79年の改革開放もなかったであろうし、1985年のプラザ合意もなかったのではあるまいか、ということになるし、そこからまた、ソ連邦の解体も起きなかったということになる。そこから今日のウクライナ問題も別の形に導かれたかもわからない。こうした出来事の背後には、必然的な因果関係が存在しているのではあるまいか。

さらに、大胆に飛躍させて語るならば、大航海時代がなければ、スペインの覇権国への道はなく、それがなければ、オランダ、イギリス、アメリカ、そして中国へと至る覇権国の興亡史の歩みもなかったであろう。そこから1970年代までの私のモデルの世界・セカイの歩みも、すなわち、{[A]→(×)[B]→×[C]}(共時態モデル、省略形)も見られなかったであろうし、それゆえ1970年代以降のセカイの歩みも、すなわち、{[B]→(×)[C]→×[A]}(共時態モデル、省略形)の関係の形成と発展の歩みも導かれなかったであろう。


ここまでの話を踏まえて、さらに言及すれば、私のモデルで描く世界・セカイの形成と発展のために、1970年代以降の「システム」は、いくつかの出来事を準備したと考えられる。EUの創設、単一市場の下で、中国の経済発展を助ける。そのことが、やがてはソ連の崩壊を導くことになる。

レーガン政権下の「スター・ウォーズ計画」は、中国の改革開放政策の実現に、貢献したのではあるまいか。また、中国の経済発展を助ける、そうした流れを、日本ではプラザ合意が担ったのではないのか。このように、ヨーロッパ(EU)、米国、そして日本の出来事が、中国の経済発展を助け、そのことが1970年代以降の「システム」の歩みを、確固たるものにしていったのではないだろうか。

こうした出来事は、ソ連でもアフリカでも中東でも見られる。ソ連のアフガン侵攻。それが今日のISにつながる。また、アフリカでの内乱、内戦の頻発によって、「金の成る木」としての「システム」の高度化を促進する。これらの出来事は、一見したところ、今日のウクライナ危機とは無縁であるかのように思われるかもしれないが、そもそもウクライナ危機は、B、C、Aの〈「システム」とその関係の歩み〉の下で導かれていることを鑑みれば、両者の間には、密接な関係がある、と私は理解している。

さて、1972年のニクソン訪中について、もう少し触れてみたい。ニクソンを中国へと向かわせたのは、「システム」の歩みと、その「システム」の歩みにおける「段階」がそうさせたのだと、まず理解することが大切である、と私は強調しておきたい。。こうした私の見方に対して、キッシンジャ―と彼が奉仕するウォール・ストリートの国際金融勢力の存在を、ニクソン米国大統領を訪中させた最重要の理由として挙げる論者がいるが、それは一面的な答えとはなっても、そのすべてを説明するには至らない、と私は言わざるを得ない。

それでは、このような私の指摘を踏まえて、それでは、〈「システム」とその関係の歩み〉をもとに、ニクソン訪中について、さらに考察してみたい。「システム」の歩みは。なぜ1971年、72年頃に、米国(中国)を中国(米国)に結び付ける動きをしたのか、しなければならなくなったのかについて、「システム」の自己完結運動という観点から考えてみたい。

また、こうした観点から、以下の問題についても指摘しておきたい。すなわち、1970年代までの〈「システム」とその自己完結運動の歩み〉は、何故ある時期(段階)において、先進諸国で分厚い中間層をつくろうとしたのか、という問題である。

その理由としては、彼らがシステムの中心的担い手となって、差別と排除の関係(仕組み)の高度化を推進するためであったことが考えられるだろう。そのことが、「システム」の「金の成る木」としての大切な目的を実現させることに与るからである。そのために、戦争は重要な役割を担う。戦争によって、「システム」の高度化が、さらに促進されることになる。

しかし、「システム」の高度化は、ある段階で(ある時期に)、行き詰まりを見せることになる。その理由としては、「システム」がこれ以上、分厚い中間層を育成できなくなるからだ。育成する力を「システム」が失うのだ。その力を発揮させてきたのは「システム」内における覇権国であるが、覇権国がその力を失うのである。そのため、「システム」は、その力を担うことのできる次期覇権国を探し始める。そこから1970年代以降の新たな「システム」がつくり出されていく。

ニクソン訪中から改革開放路線の開始される1978年、79年の間に、ベトナム戦争の終結の兆しが見えてきた1975年から78,79年にかけてベトナムとカンボジアが戦争状態にあったことを、とくに「システム」の新たな再編の動きを踏まえるとき、どのように理解したらいいのだろうか。それぞれの背後には、ソ連と中国が控えていて、中国の背後には米国が控えていたことも考慮しておく必要がある。

さらに、ベトナムとカンボジアの戦争状態と並行して、アジアにおいては開発独裁政権下の下での経済発展がみられていた。いわゆる「雁行的経済発展」として知られていた。こうした出来事を重ね合わせてみていくとき、私はやはり、{「B」→(×)[C]→×[A]}の世界・セカイの形成と発展に向けての準備が、米中覇権連合の歩みの進展の下で、進められていたのではないのか、と考えるのである。


(最後に一言)


前回記事において、(最初に一言)では以下のように述べていた。すなわち、ーーーあるテレビ局の番組で、ロシアのウクライナ侵攻の可能性云々についての報道とそれを巡る解説を聞きながら、私は唖然とした次第。その理由は至極簡単だ。そこでアナウンサーが、「ロシアはどうしてウクライナに進攻しようとしているのか」、と問うていたからだ。それに対してのあるコメンテーターの解説に、また驚いた。かれいわく、うくらいながNATOに組み込まれたら、ロシアはウクライナという「緩衝地帯」を失い、すぐ横に敵対勢力が位置してしまうことから、ロシアの安全保障には深刻な問題となる云々。ーーー


それを今一度、確認した上で、今回記事において、私がとくにこだわったのは、手前味噌ながら、いま世界で起きていること、これから起こるであろう出来事を論じる際には、私の語る「システム」論で提示された1970年代以降から今日に続くB、C、Aから構成される〈「システム」とその関係の歩み〉と結び付けて、論じ直してほしいということである。私のモデルを前提として、それと結び付けて、これから引き起こされるであろう世界的な出来事を捉え直すならば、おそらくそれほど的外れな議論とはならないことを、私は確信している。またまた、エラソーな物言いで、申し訳ないのだが。

ここまでの話を踏まえるとき、「現下のウクライナ危機」の原因を探求していくとき、そこには、すぐ上で引用した前回記事の(最初に一言)で紹介した話などでは、とても済まされない、数多くの歴史的出来事から構成される、はるかに大きなパノラマが展開していることに、改めて気がつくのではあるまいか。もとより、それが理解できるのは、私の語る「システム」論を手掛かりにしたとき、なのだが。

それを踏まえて、最後に一言だけ付け加えるならば、ロシアとNATO(米国EU)連合勢力の対立・対決構図の下で、世界情勢はその緊張の度を深めているのだが、私には、それ以上に、今後の動向として、中国対ロシアの対立・対決へと至る流れが不可避となるのではないかと、そちらの方が、もっと危惧しなければならない問題なのである。

それこそ、杞憂であってほしいのは、言うまでもないのだが。ウクライナにロシアがこだわる最大の理由として、私は、やはり次期覇権国としての中国の台頭を、その隣国に位置するロシアが一番恐れているからに他ならない、と考えているからである。何度も言うのだが、覇権システムの中で、自己決定権の獲得とその実現を巡る争奪戦を介した「親分ー子分」関係の中で、私たちは生きているということを、絶えず冷静に見据えておく必要があるのだ。

ーーー

記事引用張り付け、終わり

ーーー
ーーー


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私の語る「システム」論から、改めて「ナショナリズム」と「デモクラシー」との「幸福な結婚」論を捉え直すとき

2022-10-06 | 日記

私の語る「システム」論から、改めて「ナショナリズム」と「デモクラシー」との「幸福な結婚」論を捉え直すとき

*上記タイトルのデモクラシーを、断りのない限り、以下では「民主主義」と訳している。元より、この訳語は適切ではないのだが、訳語が適切ではない云々の議論以上に、そもそもデモクラシーの抱える不適切さを考える上で、私はこのまま訳語を使用していることを断っておく。


(最初に一言)

 前回記事で取り上げた丸山眞男(敬、省略)のナショナリズムと民主主義との幸福な結婚(論)を取り上げて、その抱える問題を考えてみたい。その関連から、「健全なナショナリズム」や「下からのナショナリズム」をはじめとしたナショナリズムがそもそも抱える宿痾に関する問題を、指摘しておきたい。


 フランスの歴史を回顧するとき、いわゆる市民革命以前の歴史において、フランスの絶対主義体制下の植民地活動の有無を確認するならば、フランスは、市民革命の母国とされてきたイギリス、あるいはオランダと同様に、海外に多くの植民地を獲得していたのがわかる。そしてそれらの植民地は、市民革命以後も、そのまま植民地として維持されたのだ。

 その際、私たちのおかしさは、こうした歴史を直視する代わりに、これら植民地はフランス革命時の理念を享受することによって、やがては独立していく。すなわち、革命の理念に倣って、あるいはその普遍的価値を「逆手に取って」云々の論だが、これらの論者に共通していたのは、その理念を提唱したフランスが、植民地支配をしたという加害者として位置していたという事実に対して、また同時に、植民地を獲得しないで済む理念をどうして提唱できなかったのかという問題に対して、残念ながら彼らの思考は及ばなかったということである。

 換言すれば、フランスやイギリスアメリカといった市民革命の母国とされた国々によって植民地や従属地とされた側は、たとえ「健全なナショナリズム」とか「下からのナショナリズム」を、こうした諸国に見習って実現したくても、彼らがそれを認めない、許さない状態にしているのだから、もはや何をか言わんやなのだ。さらに、驚くべきは、こうした私のような問いかけを、無視してきたということである。

*この点に関して付言すれば、それは前々回の記事(2022,10,4)で示した①の図式({[A]→(×)[B]→×[C]})で描かれる「関係としてのナショナリズム」という観点からナショナリズム論でこれまで提唱されてきた「健全」とか「したから」といった論を捉え直したならば、それらの論が抱えるおかしさというか問題点に気が付いたに違いない。なお、①の図式に関しては、先の記事を参照してほしい。

 いずれにせよ、そのことは、市民革命と幸福な結婚を共に経験したフランスとイギリス両国が、これらの植民地にはその結婚を許さなかったということを意味している。もう一つの市民革命の母国とされるアメリカは、本来は13州から構成される国家であったのだが、見る見るうちに領土を拡大していき、私たちが今日の地図で見る国家となった。そのアメリカの領土拡大運動は、インディアンの共同体とその領地を併呑する歴史に象徴されるように、これまた革命後の植民地拡大・、拡張であった。

 当然ながら、私たちは、問うべきなのだ。一体、どうしてこれらの市民革命の、それも幸福な結婚を伴って経験した諸国が、別の国家や共同体に対してはそれを許すことなく、植民地や従属地としてきたのか、それこそその因果関係を考察・究明しなければならないはずだ。

 ところがなのだ。先の丸山は、彼の論文の中で、幸福な結婚を経験した国と、そうでない日本を並列的に比較したうえで、日本も本来はその幸福な結婚を目指すべきであった、と説くだけで終わっている。その論の流れは、一国枠を前提としていることから、フランスの結婚は、誰にも迷惑をかけることなく実現できたとするものであり、それゆえ、日本がその実現ができなかったのは、日本国内の何かが原因であったとして、明治維新にみられた「封建制」や「前近代性」といった問題に目を向けることを、読者に訴えるのである。

 前回記事で私が語ったように、丸山は、イギリスやフランス、アメリカと日本のナショナリズムと民主主義との相互に関係した歴史の中で、日本の「ナショナリズムと民主主義との不幸な結婚」を捉えようとはしていない。もし、仮に丸山がアヘン戦争以降の中国のナショナリズムと民主主義の幸福な結婚の「不在」の歴史に目を向けたならば、それこそすぐ様、イギリスの幸福な結婚と、中国の不幸な結婚、否その不在との関係から、目をそらすことはできなかったはずなのだ。

 そもそも、当時の中国は、イギリスやフランス、アメリカをはじめとした欧米列強によって、領土を切り刻まれ、植民地状態にあった。その中国が市民革命発のナショナリズムに目覚めざるを得なくなって、中国の国民国家の建設に向けた歩みを開始しようとしたとき、それを妨害・阻止すべく先頭に立っていたのはほかならぬ幸福な結婚を経験した市民革命の母国とされた諸国であったのだ。こうした歴史は、他ならぬこの、明治維新期の日本にもそのまま該当するのである。

 ところが、残念なことに、これらの関係を、前回記事でも取り上げた司馬遼太郎の強調していたように、民族主義と民主主義と帝国主義との渾然とした関係を解き明かすことのできる分析枠組みを、私たちはこれまで手にできなかったことから、そのまま不問に付されてしまったのである。驚くべきは、今日においてもそれはまったく変わらない始末なのだ。


 だが、そこには大きな政治的圧力が介在していた、と私はみるのである。もし、これらの渾然とした関係が解きほぐされたならば、誰が一番打撃をこうむるだろうか。それは勿論、市民革命の母国とされた諸国であり、その際、世界に喧伝された普遍的価値と普遍主義である。さらにそこから、民主主義諸国と全体主義諸国との戦争から民主主義体制を守る云々の主張は、その力を劇的に失うことになり、連合国の勝利も色あせたものとなったにちがいない。そして、「冷戦」の話もおかしくなり、さらには今日のロシアのウクライナ侵攻での民主主義を独裁・専制主義から防衛する云々の話も、何かむなしく響くことになるに違いない。

 これらを踏まえて言えば、私たちの歴史叙述は、それこそ不都合な真実に彩られた不誠実な、間違っていた叙述であったということになる。私の提唱する「歴史叙述の神話」を打破すべきとの主張は、こうした話の流れを踏まえたものである。もっとも、私の試みは苦戦の連続であるのは間違いないことであるのだが、たとえ報われることの何もない研究であっても、事実そうだが、それにもかかわらず、私はそこにこそ何某かの生き甲斐を感じる・見出すことができるのだ。


(最後に一言)

 今回記事も、既にこれまで開陳してきた私の拙論を踏まえた「再論」でしかない。それを断った上で付言すれば、それでも今回記事において、少し読者にお分かりいただける形で話を展開できたのではないか、と私は思っている。言い出せばきりがないほどに、おかしな議論ばかりなのだが、それが私たちの目や耳に届かないのは、民主主義に関するこれまでの研究が、いわゆる市民革命の母国とされた諸国による、それこそ大本営発の情報提供であったからに他ならない。それは今回のロシアやウクライナ、NATO、EU諸国を巡る報道でも続いている。

 


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私の語る「システム」論から、改めて「システム」について考えるとき―DS論、ナショナリズム対グローバリズム、民主主義、戦争‐‐‐ー(2)

2022-10-04 | 日記

私の語る「システム」論から、改めて「システム」について考えるとき―DS論、ナショナリズム対グローバリズム、民主主義、戦争‐‐‐ー(2)


(最初に一言)

 前回記事に続いて、今回もこのタイトルで話をしたい。先ずは前回記事での馬淵氏の歴史の語り方について、私の見解を示しておきたい。


 歴史を語る際に、私が心がけているのは、因果関係を俎上に載せて分析、考察することである。たとえば、これからは中・露の時代であるとか、ブリックスの支配する時代だと言う際に、その理由を当然ながら語る必要があるだろう。私の見たところ、この理由に関して、ほとんどの論者は満足のいく論じ方を試みているとは思えない。それは副島氏の論も然りだ。

 馬淵氏は、私の記憶に間違いがない限りは、中国はやがて崩壊すると述べていた。付言すれば、三橋貴明氏は中国経済はやがて崩壊すると論じていた。それゆえ、このような言を弄する論者は中・ロの時代やブリックス云々の話はおそらく論外であるに違いない。

 馬淵氏のDS論で私の思うことは、たとえば氏が今回のロシアのウクライナ侵攻と、日本の「あの戦争」の背後には共にDSという影の支配機構が存在していて、それが仕掛けた戦争へと不可逆的に導く罠から抜け出せないままに、結局は両国ともども戦争に突入せざるを得なかった、と説くのである。

 果たして本当に、そうなのだろうか。もし仮に、馬淵氏の見解に従ったとしても、それではどうしてDSは日本やロシアを戦争へと導いたのか、その理由を知りたいものだ。当然ながら戦争によって法外な金儲けができるとの答え方もある。あるいは、DSが密かに、また公然と企てる「一つの世界」をつくり上げるためだとの答え方もできるだろう。そのために、そうした動きに対立・敵対する日本とロシアが邪魔であったから、両国を戦争によって滅ぼそうとした・弱体化させようとした云々の答え方となるのかもしれない。

 すべてが金貸しの金儲けであるとか、グローバリストを推進するユダヤ人による「ワン・ワールド」の世界政府を樹立するためだと答えたとしても、それはほとんど答えになっていないのではあるまいか。同時にまた、背後にはいつもDSが存在していて、彼らの仕業であると指摘したところで、これまたほとんど答えにはならないのではあるまいか。

 その最たる理由の一つに、DSという影の支配機構の中に、私たちが含まれていないからだ。誤解を恐れずに言うならば、DSと日本と日本人の関係が語られていない。たとえ語られたとしても、それはいわゆる一握りの最上層の人たちであり、私たちとは普段はほとんど関係のない存在である。それゆえ、私は馬淵氏のDS論の前で、いつも「ああ、そうなんですね、そんなことが仕組まれていたんですね、もっと注意して気を付けておかなければいけませんね」等々の話しかできなくなってしまう。もっとも、馬淵氏は、DSの仕業はすべて、資料として公表されている、それゆえ、知らなかったでは済まされない、気づきが必要云々と語るのだが。

 それでは、ここですべての国民がDSの存在とその企てに気付いたとしよう。その結果として、私たち国民はDSとどのように向き合うのだろうか。気づかない前と後ではDSとの対峙の仕方は何か異なるのだろうか。彼らの陰謀に気づき、それを暴くことを試みた際に、国民はどのような空間でそれを行い得るのか。

 おそらくは、私たちの国民の代表者が議論する国会であろう。そこで選ばれた内閣総理大臣が、もし仮に安倍元首相であったとするとき、彼は一体その国会で何をしていたのだろうか。森友・加計問題では数々のおぞましいとしか言いようのない悪行三昧を繰り返し、米国をはじめ海外のそれこそDSの息のかかった米国商工会議所をはじめとした圧力団体の声(たとえば、それは「年次報告書」として日本政府が受け取ってきた)には、これでもかと思われるほどに、売国奴的姿勢で迎合し続けていたのではあるまいか。

 もっとも、安倍氏でなくとも、私にはだれが首相を務めたとしても、結果は同じであったとみている。これは決して他人事の話ではない。つまりは、私たちが何もできないということを意味しているのである。もし、DSのそれこそ何十年もかけて練り上げた陰謀というか謀略に立ち向かい、それが用意周到に仕掛けた戦争の罠を見抜いて、上手く立ち回ることができたとしても、「親分」の力(暴力)の前には屈するしかない。それは親分との戦争であっても、同じことだというしかない。

 それはさておき(本来ならば、さておくことのできない問題だが、今回はこの問題は取り上げない)、その本人が、いくら国益を守るとか国益重視の政治をとか宣ったとしても、それはまったく国民の半数には届かないのは当然だろう。私がいつも口惜しく思うのは、私自身、馬淵氏からいろいろなことをご教授いただき、私の「システム」論のさらなる展開において、役立たせてもらってありがたく思っているのに、それがことさら安倍元首相を持ち上げ、挙句は彼こそがDSの推進しているグローバリズムに対峙できる可能性を有したナショナリストであるというのだから、さすがに私も、「馬淵さん、そこまで言ってはおしまいですよ」、と言わざるを得なくなるのだ。

 馬淵氏の安倍元首相のヨイショ論を踏まえながら、私には馬淵氏のDS論から、ナショナリズムとグローバリズムは対立・敵対しないことを学んだ。DSには勝てないナショナリズムの姿を学んだ。馬淵氏は、たとえ日米安保体制があるとしても、だからと言ってすべて米国の言いなりになってはならない、日本の国益を大事にしなければならない、とユーチューブの動画で語っている。

 その動画において、馬淵氏は今の岸田首相を批判しているが、それは安倍元首相に対しても、向けられるべき批判ではなかったろうか。*すぐ上の「それはさておき」にかかわる話だが、湾岸戦争当時の小泉元首相による米国追随外交が、日本の国益を害するとしてただ一人、小泉に反旗を翻して外交官の職を投げうった天木直人氏の言動を思い浮かべるとき、私には日米安保体制とその同盟国の親分の米国に対して、それほど簡単には逆らえないことが推察できる。私も正直、とてもではないが逆らえない。逆らうとすれば、戦争にしかならなくなり、それは自滅を意味する。だが、もう、日米安保体制の時代ではないのも、私には現実というか事実なのだ。しかしその見直し、破棄となれば、おそらく戦争となりかねない。このジレンマから抜け出せない。私のような何も米国政府や企業との直接的な利害関係にない者ですら、この始末なのだから、日本の直接的関係者は、ジレンマどころの問題などではなく、彼らの命と暮らしを考慮すれば、もうズブズブの関係を維持するしかあるまい。

 先の話に戻ろう。簡単に国益を守れというのだが、そもそも国益の「国」の中には、明治維新で樹立した日本国家を見てもわかるように、その国家の中には、私の語る{[A]→(×)[B]→×[C]}の「システム」が組み込まれていたということを肝に銘じておく必要がある。正確に言えば、この「システム」が開国以降の日本を呑み込み、この「システム」の中で、日本という国家が誕生したのである。

 それゆえ、その際の国益を重視するとは、この「システム」に組み込まれた日本を、何とかして、そこから「独立」させることであったと言えるだろう。すなわち、「システム」の中に組み込まれた日本と日本人を取り戻して「システム」の力が及ばないように「じゆう」にするということだ。元より、「システム」の提供する自由、すなわち市民革命に端を発した普遍的価値の一つとされるそれであるが、私が平仮名でいうじゆうは、それと区別するために使っている。

 確かに「じゆう」は大切だが、それは差別と排除の関係を前提としてつくり出されてきた「システム」の推奨する自由ではなく、それとは異なり、差別と排除の関係を「超克」するためのじゆうなのだ。同様に、「みんしゅしゅぎ」、「じんけん」、「ほうのしはい」、「へいわ」といった「ふへんてきかち」も大切だし、それらを世界の隅々へと浸透・拡張していく「ふへんしゅぎ」も大事である。

 ところが、それはとてつもないほどに難しくできない相談だったというしかない。それこそ、「システム」の「親分」になることもできない者が、えらそーに「システム」から独立などと言えば、笑い者になるだけであろう。それはこの世に生きている者ならば、当然のことであるから、そんな無謀なことはやめて、この「システム」の中で、Aを目指すことが、国益となったということなのだ。その理論家として、「システム」の御用論者として福沢諭吉が位置している。彼の著した『文明論之概略』はその代表的著作であった。


 ここで、先の「システム」に関して、福沢やI・ウォーラ―ステイン、竹山道雄等の主張を引き合いに出しながら、以前のブログ記事(2022,7,28)に依拠してもう少し詳しく論を展開してみたい。

 それでは早速、その記事を引用貼り付けておく。読者には、とくに「システム」の図式①②③と、それに関する私の説明のくだりに目を向けてほしい。なお、その関連からそれ以外のくだりは割愛しているので、もしよければ、直接その記事を参照してほしい。


ーーー

(記事の引用貼り付け、始め)


私の語る「システム」論から、改めて「民主主義」(論)について論じるときーこれまで誰もそれについてまともな議論をするのを避けてきた。私たちが護ってきた民主主義なるものは、差別と排除の関係を前提として初めて実現される、その意味では、決して指示できるものではないのに、それにもかかわらず、世界の知識人、ジャーナリストをはじめ、多くの人々がそれを礼賛し続けてきたのは、彼らが誰かの利益に奉仕するように、「マインドコントロール」されてきたからなのだ。


(最初に一言)の前に「少し長い前置き」

 今回記事をまとめるに際して、行論の都合上、またまたここでも、前回記事(2022,6,22)〈「一(国)枠」のナショナリズムを当然のこととして受容してきた日本と日本人である限り、戦争を拒否するのは容易ではない。一枠のナショナリズムをつくり出してきた関係枠としての「システム」のナショナリズムの中で生きてきた「システム人」としての確認と自覚ができれば、愛国(民)的ナショナリズムの包含する算術・打算的な戦争に、それほど簡単には巻き込まれることもない?ー私の語る「システム」論から、改めて「歴史叙述の〈神話〉」について考えるときーたとえば、自由主義、民主主義、民族主義、「公」と「私」等々に関する〈神話〉を事例として見た場合(7)〉のある個所を引用貼り付けておく。


ーーー

(引用張り付け、始め)

ーー

 ここで、福沢諭吉の『文明論之概略』の中の「製物の国」と「産物の国」についてのくだりを思い起こしてほしい。同様に、竹山道雄の「ハイド氏の裁判」で語られている「文明の世界では善良な様相のジーキル博士であるのに対して、「野蛮な世界では醜悪凶悪な様相のハイド」と変貌してしまう云々のくだりを思い出してほしい。私の目の都合で、正確な著作からの引用ができないことを断っておきたい。

 福沢の「製物の国」と「産物の国」の比較と関係でもって示されているのは、まさに世界資本主義の特徴であり、それが的確に描かれているところに注目したい。それに対して、竹山による「ジーキル」と「ハイド」の比較と関係は、世界民主主義システムの特徴を見事に言い表している。その意味において、両著作は相互に補完的内容を構成しているとみていい。

 そこで論じられているのは、どんな国も彼らが思い念じれば容易に、製物の国となり、同時にまた文明の世界のジーキルと成り得るのではなく、むしろ多くの国と国民は、産物の国に暮らす野蛮なハイドとして生きざるを得なかったということなのだが、その最たる原因となったものこそが、私の「システム」論で論及されている、関係枠としてのナショナリズムとして位置づけ理解される覇権システムであったということである。以下において、これらに関してもう少し詳しく述べてみよう。

 たとえば、前回記事で触れていた日本の明治維新以降の一枠的観点から描かれるナショナリズムというか国造りは、当時の覇権国であった英国を中心としてつくられてきたA、B、Cから構成される覇権システムによって、その大枠は決められていたとみて誤りではない。

 19世紀から20世紀初頭における覇権システムをA、B、Cグループに位置した諸国の一枠的ナショナリズムで簡単に図式して示すならば、次のようになる。

*{[A]→(×)[B]→×[C]}ーーー①

この図式の一番外側の記号{ }で示されるのが覇権システムである。その中に位置する[A]は一枠的ナショナリズムを示している。ここでのAは、Aグループとして複数の国を含んでいるが、わかりやすくするために、グループ全体をAとして示している。次の[B]の一枠的ナショナリズムは、Aほどには強固な基盤を持ち得ないとの意味を持たせるために、(×)をその前につけている。さらに、そのBよりも弱い基盤しか持てないCの一枠的ナショナリズムを示すために、その前に×の記号を付けている。

 この①の図式で描かれているのは、諸共同体間における自己決定権の獲得と実現のための力と力のぶつかり合いを介した争奪戦を繰り返す中でつくり出された結果としての諸国家間に見いだされる「親分ー子分」関係である。その関係は、一枠的ナショナリズムを基本的単位としながら、それが全体としての諸国家間の関係としてつくられた際には、関係枠の総体としてのナショナリズムとなって示されるということである。それが①のナショナリズムの関係として描かれたものであり、そのナショナリズムを一枠的なそれと区別するために、私はここでは覇権システムとして位置づけている。

 先の①の覇権システムの中に、明治維新以降の日本が開国を契機として、無理やり組み込まれていくのだから、後は、少しでもCの中でもできるだけ上に、できるものならばCよりはBへ、またBよりはAへと上昇することを至上命題としたんのは、それこそ理屈ではない。まさに「僕(日本)が僕(日本)であるために勝ち続けなきゃならない」であったということである。

 その日本が上昇するためには、富国強兵ではないが、先ずは①の中で、日本の一枠的ナショナリズムを首尾よく実現しなければならないということであった。ここで問題となったのは、どうやれば、日本という国家建設ができるのかということである。それこそ、福沢の文明論ではないが、当時の文明の階梯があり、それによれば、文明ー半開ー野蛮という関係がつくられていて、その階梯をモデルとして歩むことが理想とされた。

 だが、ここで厄介な問題に直面することになる。先に私が示した①の覇権システムにおける親分たちは子分との関係の中で、親分たちに有利なように、それこそ「衣食足りて礼節を知る」営為の関係のネットワークをつくり上げていたのである。先ず親分たちは子分との関係の中で、次の図式で示される豊かさを手に入れるための関係をつくり上げていた。

 それが次の②の図式で示される関係である。すなわち、

*{[Aの経済発展]→(×[Bの経済発展]→×[Cの経済発展]}-②

の関係で示される世界資本主義システムである。この場合も①の覇権システムと同様に、できればCよりは、B、へ、そしてBよりはAへと上昇できれば、日本にとってはありがたいのはやまやまであったのだが、既にAに位置していた諸国はそれほど好意的ではなく、同様に、B、やCに位置していた諸国や共同体も、好意的ではなかった。

 その理由は、この世界資本主義システムの関係は、覇権システムの「親分ー子分」関係を前提としてつくられていた差別と排除の関係であり、それゆえ、力の獲得をいずれの国家も最優先目標としていたことから、その力の獲得という面において、利用できない共同体は差別され排除され、その多くはCの植民地や従属地のままに据え置かれてしまい、世界資本主義システムにおいても、Cの経済発展の特徴である産物の国として、AやBの上位グループの製物の国の下請けを引き受ける役割を担わざるを得なかったのだ。

 それゆえ、日本の明治以降の経済発展は、この①②の覇権システムと世界資本主義システムの下でつくり出されてきた「制約」を受容しながら、それこそ死に物狂いで、余裕のない発展とならざるを得なかったのは言うまでもなかろう。そんな日本と日本人によって、さらに劣悪な境遇へと貶められた他の共同体のナショナリズムの歩みがどのような悲惨な道をたどったかは、押して導氏であろう。

 このような日本の覇権システムにおける位置とそれを前提とした経済発展との関係において、日本の民主主義の発展は世界民主主義システムとの関係において、さらに厳しい現実の前にさらされていたのである。ここで、その世界民主主義システムを図式して示すとき、それは、

*{[Aの民主主義の発展]→(×)[Bの民主主義の発展]→×[Cの民主主義の発展]}ーーー③
となる。ここでも注意すべきは、このシステムの前提となっているのは、世界資本主義システムと同様に、差別と排除の関係を基にしてつくられてきた覇権システムであったということである。

ーー

(以上、引用貼り付け、終わり)

ーーー


 この引用貼り付けた部分から、さらに下記のように、以下のくだりを抜き出している。すなわち、ーーーそれは、

*{[Aの民主主義の発展]→(×)[Bの民主主義の発展]→×[Cの民主主義の発展]}ーーー③
となる。ここでも注意すべきは、このシステムの前提となっているのは、世界資本主義システムと同様に、差別と排除の関係を基にしてつくられてきた覇権システムであったということである。ーーー


 上述した引用部分から、さらに以下の箇所を引用貼り付けているが、その中の、

〈*{[Aの民主主義の発展]→(×)[Bの民主主義の発展]→×[Cの民主主義の発展]}ーーー③〉
の箇所に注目してほしいのである。私がこれまで訴え続けてきたのは、私たちが礼賛してやまない民主主義は、この③の図式を前提としてつくられてきたものであるということである。その際、ここでは民主主義を、その構成要素である、「市民的人権」に置き換えて使っていることを、最初に断っておきたい。

 ③で描いた関係は、いわゆる大航海時代から1970年代に至るまでの国際関係における先進国、中進国、後進国の「民主主義の発展(市民的人権)」における関係を描いたものだが、その関係は国内の人間集団の関係にも該当している、と私はみている。すなわち、上流層、中流層、下流層における民主主義の発展(市民的人権)の関係として、描かれる。

 私たちは、こうした関係を前提として手にできる民主主義を、すなわちシムン的人権を、当然のことのように礼賛してきたのだが、それはとりもなおさず、私たちが差別と排除の関係を認めてきたということに他ならないのではあるまいか。そうした差別や排除の関係から構成される民主主義・人権を、知識人やジャーナリストをはじめ、多くの人々は、は何の疑問も呈することなく、これまで支持・礼賛してきたのだ。

 オカシイと言えば、本当におかしすぎる話である、と私はみている。それゆえ、これまで私は民主主義の抱えてきた差別と排除の関係を、これでもかというほどに問い続けてきたのである。いわゆる古代ギリシャのアテネのの民主主義も、近代の市民革命時の民主主義も、等しく③の図式が該当する関係を前提として実現される民主主義であったのだ。

 それがどうであろう。私たちは普段の生活において、「いかなる差別も許してはならない」云々と声高に叫んでいるのだが、私からすれば、もううんざりなのだ。嘘や詭弁ばかりの民主主義についての戯言は、もういい加減にやめるべきではあるまいか。私はそのように心底、切に願っている。勿論、私の願いは虚しく響くだけなのだが。


(最後に一言)

 私にははっきりとわかるのだ。世の支配者たちとそれにツルム者たちが、そうしたおかしな民主主義を、さもご立派であるかのように吹聴して回るのには、そうすることによって、彼らは何某かの、同時にまた相当な程度の、恩恵を賜れるからに他ならない。結局、彼らは差別と排除の関係に支えられた民主主義、人権を守ることを介して、覇権システム、世界資本主義システム、そして世界民主主義システムから構成される、私の語る〈「システム」とその関係の歩み〉を守ることに、積極的に与ることとなる。

 今のこの社会で、誰も偉そうなことを本当は言えないはずなのだが、恥を当に忘れた、唾棄すべき知識人や専門家、ジャーナリストと称されるアホな連中が、テレビ局をはしごしながら、視聴者の頭を洗脳し続けているのだが、彼ら自身も「システム」のマインド・コントロールの下に置かれていることを、果たしていつ思い知るのであろうか。おそらく、「システム」の恩恵を貪ることに忙し過ぎて、そんな自覚などできないであろうが。とにかくオメデタイ連中に変わりはない。

(以上、引用張り付け、終わり)

ーーー


 ここにある私の普遍的価値としての民主主義が現実に実現される「システム」における関係を鑑みるとき、私たちがこの「システム」からそれこそ「じゆう」となり得るのは、ほとんど絶望的であるとみても問題はないだろう。その最大の理由は、ほかならぬ私たちが「システム」の提供する「自由」を支持礼賛することによって、③で描かれる民主主義の発展の関係における差別と排除の関係を、担い支えてしまうということである。

 そのことは、さらにそこから②で描かれる資本主義とその経済発展の関係における差別と排除の関係を担い支えることになってしまう。そして。そうした②③の関係を担い支えるということは、結局のところ、自己決定権の獲得とその実現を巡る力と力の争奪戦を介してつくり出される①のナショナリズムの関係を、すなわち覇権システムを担い支えるということを意味するのである。

 私のモデルで描く「システム」を構成する①②③の関係を踏まえて言うならば、私たちの世界・セカイを悪くするのに手を貸しているのは、私たち自身だということなのだ。馬淵氏の説くDSだけではない。DSを影の支配機構として位置づけ理解したとしても、DSは決して見えない支配ではない。むしろ、私の「システム」の関係を担い支えるシステム人に他ならない存在なのだ。勿論、その存在は、普通の私のようなシステム人とは比較にならない力を持っていたとしても、「システム」に奉仕する存在であることには何ら変わりはないということである。

 もし、仮に馬淵氏のDS論に百歩譲って、氏の見解を受け入れたとしても、私たちがDSに対峙するためには、〈DSがつくり上げたとする影の支配機構〉として私が置き換えて位置づけ理解している当の[システム」とその関係を知らなければ、私たちが向き合うべき「敵」の存在を、正確には掴み切れないということになるのではあるまいか。それゆえ、いつも、すべての原因はDSということを理解したとしても、私たちはそれを気づく以外に、それ以上は先へ進めない、となってしまうということである。

 それゆえ、そこから何も知ることのできない私たちは、馬淵氏が今のグローバリズムに向き合える指導者はトランプやプーチンや安倍元首相のような政治指導者であると言われても、「ああ、そうですか」と言う以外には何も口にできないのだ。これでは、やはりダメであろう。確かにDSの存在に対しての気づきは大切だが、その先を踏まえれば、それだけでは十分なものとはならない。ましてや先述したように、安倍元首相の「政治」がどのような災厄を日本と日本人にもたらしたかを鑑みれば、とてもではないのだ。

 誤解の内容に一言。馬淵氏のDS論はそれはそれで構わないというか、そういう論の存在があってもいいし、上述したように、私も市の論から多くの示唆を得たのは間違いない。それを踏まえた上で、私の「システム」論との関係から、私が特に気になった印象、感想を述べさせてもらった次第だ。

 それを踏まえた上で、さらに言及すれば、グローバリズムの流れを導いたのは、インターナショナリゼーションと言われた当時のグローバリズムをつくり出していた、私の描くA、B、Cから構成される先の「システム」とその関係が1970年代を境として、B、C、Aの関係から構成される「システム」とその関係の歩みへと構造転換・変容するに至ったということである。そこには、1970年まで支配的であったA、B、Cの関係を前提とした「システム」では、もはや「金の成る木」としての魅力はなくなったということなのだ。

 換言するならば、そこには、もはや「システム」の「格差バネ」を有効に働かして、「金の成る木」としての「システム」の濡れタオルを、しっかりと搾り出せるAの力が弱くなったということが深く与っている。それは、覇権システムを構成する覇権国と中心国の力が弱体化するに至ったということでもある。そうした流れを導いたのは、他でもない先の「システム」とその関係の歩みにみられる構造転換・変容をつくり出した「システム」それ自体の自己完結運動に起因している。。

 すなわち、「金の成る木」としての「システム」は、自ら次の「システム」とその関係の歩みを準備するのだ。それがニクソン訪中から改革・開放、そして中国の世界の工場、さらには次期覇権国としての台頭を促すのだ。格差バネを有効に働かせて、新たな濡れぬれタオルを力強く絞り上げる中国が、そしてそこからブリックスが、「金の成る木」としての「システム」の下で用意されたということである。

 勿論、その背後には私たちシステム人が国民として①②③の関係を担い支えてきた結果によることを看過してはならない。すなわち、私たちがつくり上げた「システム」の差別と排除の関係において、これまで差別・排除する側に位置していたAの先進国グループを構成する諸国とそこに暮らす人々が、1970年代を分水嶺とするかのように、今度は逆に、差別され排除される側に回らざるを得なくなったということを意味している。それに対して、差別し排除する側に回ったのはBグループを構成する諸国である。その先頭に中国が位置していて、ロシアやインド、ブラジル、さらには南アフリカ諸国等から構成されるブリッツクス諸国である。

(*なお、これに関しては、拙著『覇権システム下の「民主主義」論―何が「英霊」をうみだしたか』(御茶ノ水書房 2005年)所収の第4章 「グローバリゼーション」と「民主主義」、第5章 「差別」を前提としてつくり出されてきた「民主主義」(「ナショナル・デモクラシー」を、とくに参照されたい。第4章において、私は田中明彦氏の『新しい中世:21世紀の世界システム』日本経済新聞社 1996年)を批判的に考察していたが、今のこの地点で改めて読み直すとき、おそらくいかに的外れな著作であるかがわかるに違いない。)

 そうすることによって、「金の成る木」としての「システム」は新しい濡れタオルとしての「システム」の魅力を高めることを目指していると言ってもいいだろう。それゆえ、馬淵氏が、この記事の冒頭で示したDSと今のグローバリズムと「あの戦争」との類似性というか、同じ「犯人」であるDSが仕組んだとする言に対して、私はその違いをどうしても強調しなければならないのだ。すなわち、「あの戦争」は、A、B、Cの関係を前提とした「システム」の下で引き起こされたのに対して、グローバリズムは、B、C、Aの関係を前提とする「システム」の下で推進されている、と私はみている。

 この両者の違いを的確に掴むことは、とても重要なのだ。その違いがもし理解できなければ、今の「システム」を構成するB、C、Aの関係によって作り出された覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムの関係が見えなくなるからであり、それゆえ、私たちが向き合うべき「敵」の抱える問題点を捉えることなどできるわけもないからだ。

 それでは、これらの点を踏まえて、1970年までの①②③の関係は現在の地点において、どのような関係に変化しているのだろうか。それを示したのが以下の④⑤⑥に描かれる関係に他ならない。ここでは、先の①②③の図式と呼応させる形で示しておく。


*{[B]→(×)[C]→×[A]}ーーー④

(*{[A]→(×)[B]→×[C]}ーーー①)

*{[Bの経済発展]→(×[Cの経済発展]→×[Aの経済発展]}-ーー⑤

(*{[Aの経済発展]→(×[Bの経済発展]→×[Cの経済発展]}-ーー②)

*{[Bの民主主義の発展]→(×)[Cの民主主義の発展]→×[Aの民主主義の発展]}ーーー⑥

(*{[Aの民主主義の発展]→(×)[Bの民主主義の発展]→×[Cの民主主義の発展]}ーーー③)


 これらの図式で描く関係を知ることがどうして重要であるかについては、これまでのブログ記事でも何度も述べてきたように、たとえば、護憲論者が憲法を守ることの重要性を語る際、憲法がその中に内包している普遍的価値が、一体どのような「システム」の関係を前提としてつくられてきたかを、もし仮に理解していれば、そう簡単には護憲護憲と叫べなくなるはずなのだ。

 と言うのも、憲法それ自体が差別と排除の関係を前提とした「システム」の中でつくられてきたこと、そして今やその関係が、以前のそれとは異なり④⑤⑥の関係を前提としていることから、憲法を守るということはそれらの関係を守るということを意味し、そのために、私たちは民主主義の発展の低度化を当然のこととしてしまう。それは、私たちの命と暮らしを守れないということを意味する。

 これもおかしな話なのだ。①②③の関係を前提として、私たちはAのグループに戦後しばらくして上昇することによって、高度経済成長と平和な民主主義社会の恩恵にしばらく与ることができたのだが、そのこと自体、差別と排除の関係を基にして享受できた果実であったからだ。この時期において、護憲は、そうした果実を保障することを意味していたが、それは何も護憲の結果というよりは、私たちが戦後幸運にも、「システム」のAグループにおいて、①②③の関係の上位に位置していたからに他ならないということである。


 いずれにせよ、私たちはほとんど¥「システム」とその下でつくられてきたこれらの関係を十分に理解できるまでには至ってはいないのだ。それを如実に示していたのが先の田中明彦氏の著作であったと言えよう。私が残念に思うのは、護憲派は元より、改憲派と称される人たちも、これらの関係を理解できているとは思えない。もしそれがわかっていれば、対中国包囲網などとは決して叫ぶことはない。私たちは、私が提起してきた「システム」とその関係の歩みを考察・究明することに背を向けたままで、未だに市民革命発の知的状況にとどまっているのだ。これほど恐ろしいことはあるまい。

 たとえば、民主主義と帝国主義とは水と油だと説く論者は、私たちが覇権システムの中で生きているという初歩的な問題さえ理解できない。また「民主」と「愛国」の関係をことさら強調して、戦後日本の思想史の中で両者がバランスをとって共存していた時期もあったと説く論者は、これまた、私たちが覇権システムの中で生存競争を繰り返してきたという現実をまったく理解できていないのだ。

 それが証拠に、民主と愛国と覇権システムがどのような関係を構成しているかについて、語れないのである。この点をかつて司馬遼太郎は、さらには竹山道雄もそうであったが、後世の研究者に託したのである。すなわち、司馬は。民族主義と民主主義と帝国主義との「渾然たる関係」を解き明かすことが、私たち日本人にとって大切なことだと述べていたのである。

 それを踏まえてさらに言及すれば、民主と愛国についてのこの手の議論は、丸山真男の民主主義とナショナリズムの「幸福な結婚」論の焼き直しであると同時に、その丸山の論も市民革命の、とくにフランスの歴史を金科玉条とするものでしかなく、そもそも、私が述べているように、民主と言い、愛国と言い、それは「システム」の①②③の関係と、それらの関係の中の、どのグループに属しているのかの確認さえしないのだから、これまた本当にオメデタイ論でしかない。

 フランスやアメリカ、イギリスのいわゆる市民革命は、そもそもいかなる世界の関係(国際関係)の中でおこったのかを確認する必要がある。私はそれに関して、それは「システム」とその関係の歩み(①②③)の中で導かれた「革命?」であったとみている。当然ながら①の覇権システムを前提とした②③から構成される「システム」の中で引き起こされている。これらの確認は、最低限の話ではあるまいか。もっとも、竹山道雄が「ハイド氏の裁判」で指摘したように、もしこの最低限の仕事に着手したならば、普遍的価値や普遍主義を擁護する論者には不都合な真実となって、自らの論に跳ね返ってくるのは必至となる。つまり、③の民主主義の発展における差別と排除の関係が浮き彫りとなるからだ。

 それにしても、どうしてこんな次元の論とその論者が持ち上げられてきたのか、私には不思議と言うしかないのだ。左翼というか左派・リベラル派も然り、右翼というか右派・保守派も然りなのだ。こんなことでは、私たちの命と暮らしはさらさら守られるはずもない。もっとも、私から見ると、国民の多くはそれほどソフトな面での安全保障には関心はないようだ。


(最後に一言)

 今回記事もまたややこしい話となったかもしれない。馬淵氏の話から、途中で話が「飛躍」したように読者に思われても仕方あるまい。ただ、私が今回記事で強調したかったのは、因果関係について、なるべく詳しく探る必要があるということであった。記事でもこだわっていたように、たとえば、DSという影の支配機構があるとしても、そのDSと私たちがどのような関係の下に置かれているかを、私たちは探求する必要があるだろう。その意味においては、記事でもふれたように、私の「システム」とその関係の歩みを〈たたき台〉として、具体的に考察するのも一つの手かもしれない。

 それとの関連から言えば、私は民主主義なるものにもっと目を向けてほしいと言わざるを得ない。民主主義を語る際、一般には、思想・価値のそれ、運動のそれ、そして体制のそれがあるのだが、私がとくに読者にこだわってほしいのは、この思想・価値の次元から体制の次元に至る流れを、因果関係を重視して考えてほしいということである。

 もし、民主主義という普遍的価値を現実の体制として実現するのであれば、当然ながらその担い手が何かを見なければならない。それを考えていくとき、何某かの集団なり共同体、そして国家に行き着くに違いない。そこから、国民が―ーーとなるに違いない。ここまでの因果関係を調べるのも、相当に時間がかかるはずだ。

 さらに、それではそうした国家はどのようにして、また何のために必要なのかを問うていくとき、おそらく1648年のウェストファリア条約・体制にかかわる話まで行きつくに違いない。私は、そこからギリシャ帝国、ローマ帝国にまで行きついた。本当ならば、さらに人類の誕生にまで行く必要があるのだが、それらは頭の中での想像で何回か考えた。

 ここまでのくだりで、私が言わんとしているのは、先の民主主義の実現を考える作業は、そこに数多くの因果関係とその連鎖の流れを押さえておく必要のある論の展開とならざるを得ないということだ。たとえば、日本の開国から明治維新の歴史の中で日本という国家と国民がつくり出されたということを踏まえれば、欧米列強の国家と国民との関係を前提として、日本の国家と国民が創造されたということに気が付くに違いない。

 それは、たとえば、欧米列強の中のイギリスの国家と国民との関係の中で、日本の国家と国民がうみ出されたことを意味している。そこから日本のナショナリズムとイギリスのナショナリズムとの関係の中で、日本のナショナリズムがつくられてきたという話になるに違いない。そのイギリスと開国期の日本、とくに薩摩藩や長州藩、さらには坂本龍馬等の関係を語る際に、あのロスチャイルド財閥が介在してくることから、当然ながら、先の日本のナショナリズムを前提とした日本の民主主義の実現の話には、その財閥も含まれてくる。その関連から、馬淵氏の説くDS(論)も含まれてくるのは間違いない。

 さらに、イギリスは当時の覇権国として、大英帝国として覇権システムの頂点に君臨していた。市民革命の母国とされるイギリスが、同時にこうした帝国、覇権国、覇権システムの維持と発展に手を貸しながら、イギリスのナショナリズムの下でイギリス国家と国民をその担い手とするイギリスの民主主義の発展に与ってきたということになり、そうしたイギリスのナショナリズム、民主主義の発展との関係の中で、日本のナショナリズムと日本の民主主義の発展の歩みは位置づけ理解される。

 さらに、さらに、そのイギリスと中国との関係、とくにアヘン戦争以降の両国の歴史を見るとき、中国のナショナリズムと民主主義の発展の歩みは、イギリスとの関係の中で位置づけ理解する必要があることに気が付くはずである。そして、そこから日本の開国以降のナショナリズムと民主主義の発展の歩みは、このイギリスを介在させる形で、中国のナショナリズムと民主主義の発展の歩みとも結び付けて語らなければならないということに、気が付くに違いない。戦争の歴史、とくに民主主義を全体主義から守るといった論や「侵略」の歴史、従軍慰安婦や強制連行、そして戦争犯罪に対する謝罪、さらにはそれらを含む歴史認識問題は、こうした「システム」とその関係の歩みと結び付けて語られない限りは、ほとんど何も語っていないことを意味する、と私はみている。

 それではこうした因果関係の連鎖を踏まえた上で、日本と日本人の歴史はどのような枠組みの下で語り直されなければならないかという問題が、浮上してくるに違いない。それは、当のイギリスにおいても、中国においてもそうである。ここで読者にはもうお分かりのことだと思うのだが、私の「システム」とその関係の歩みが、私の提唱する枠組みである。既に、このブログにおいても、〈中国のナショナリズムに関する一考察〉として、取り上げ、それについて解説している。

 今回は、ここまでにしておきたい。民主主義と簡単に言うことはできるのだが、それがどのようにして実現するかについて語るのは、相当に難しいということが、少しでもお判りいただければ、ありがたい。

 


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私の語る「システム」論から、改めて「システム」について考えるとき―DS論、ナショナリズム対グローバリズム、民主主義、戦争‐‐‐ー

2022-10-01 | 日記

私の語る「システム」論から、改めて「システム」について考えるとき―DS論、ナショナリズム対グローバリズム、民主主義、戦争‐‐‐ー


(最初に一言)

未だ「充電」はできていない。正確には「放電」だが。それでも少しだけ、もやもやしたものがわかりかけたので書いてみたくなった次第。いつものように、錯覚かもしれないが。


私が強調したいのは、「システム」から容易に逃げることができないということなのだ。それはロシアから、またウクライナから戦禍を逃れるために出国したとしても、変わりはないということだ。逆に、すべての出来事は「システム」を支え合うようにつくられているということである。それは、たとえ自給自足経済であれ、ナショナル・エコノミーであれ、アメリカ第一主義であれ、日本第一主義であれ、結局は「システム」の「枠」の中でああだ、こうだと叫んでいるだけの話ということに過ぎない。

たとえば、もはや私たちは「システム」の自己完結運動を、私たちの理性だとか合理主義的判断の下に「制御」することなどできない。覇権システムの中で、絶えず何らかのミスや暴走が導かれる可能性を否定するのは難しく、それゆえ突如としてミサイルの軌道がそれてしまい、その結果として、予想もできない惨事が導かれることになるかもしれない。この「かもしれない」はずっと「かもしれない」ことだが、それはまったく起こらないということではなく、絶えず起こりうるということである。

こうした事態に対しては、ナショナリズムもグローバリズムも、お手上げだ。逆に言えば、両者ともども、お手上げ状態の下で「システム」の、覇権システムの「かもしれない・暴走」に手を貸し合っている。その意味で、両者は、たとえ対立・敵対した関係であると位置づけ理解されたとしても、こうした「システム」の自己完結運動から導かれる「システム」の予想もできない、それこそ想定外の惨状が引き起こされる可能性と危険性に対して、両者はなす術もないという具合から支え合う関係にある、と私はみている。

それゆえ、私から見れば、ナショナリズムを鼓舞する論者であれ、グローバリズムを推進する論者であれ、「システム」の、とくに覇権システムの予想もできない「かもしれない」危険性に向き合う論の展開を、自らの論なり主張野中に、ほとんど含んでいないという点で、結局は「システム」に利用される、あるいは奉仕する議論である、と私は言わざるを得ない。

こうした観点から、今一度、いわゆるDS論を見直すとき、戦争を含む世界の出来事を、仮にDSの仕業だとして位置づけ理解したとしても、そのDSでさえ、先の「かもしれない」危険性と可能性を制御できないという点だけは、抑えておいた方がいいのではあるまいか。それはDS論だけでは語りえない重要な問題が存在しているということを意味している。

ここで、もう少しわかりやすくするために、馬淵睦夫氏のDS論についての私の印象を述べておきたい。馬淵氏は世界のいろいろな出来事の背後にはDSがいつも存在していて、「悪さ」を働いてきた云々の論を展開する。たとえば、最近のグローバリズムに関して、それではそうした悪行に対して誰がその防波堤と成り得るかについて、米国ではトランプ前大統領が、日本では安倍元首相を挙げている。彼らのナショナリズムが、グローバリズムに対抗できるとみているのだ。なお。ここでは、安倍氏と統一教会の密接な関係については横においておく。

私の「システム」論と、馬淵氏のDS論との一番の違いは、私が「システム」の自己完結運動を止めるのはほとんど不可能だとみているのに対して、馬淵氏はDSの「陰謀」に対して、対抗策がまったくないわけではないとみている点である。多くの国民がグローバリズムの抱える問題点に「気づき」始めていることから、DSの暴走に歯止めをかけられる可能性も否定できない、と馬淵氏はみているように、私には思われる。

私からすれば、果たしてグローバリズムはDSの仕掛けたものなのかと反論したくなるのだ。ナショナリズムを鼓舞することで、その流れを杭(い)止めることができるのか。私にはそうは思えない。その関連から言えば、馬淵氏はロシアのプーチンをことさら持ち上げて、彼こそがロシアを喰い物にしているDS・グローバリストのユダヤ人が目論む世界の共産主義化と戦っている、と力説する。

もし、馬淵氏の言に従って日本を喰い物にしている先の連中と戦うことになれば、今のロシアとウクライナの戦争・戦闘を見てもわかるように、今の日本の現状よりもさらに悪化した、取り返しのつかない事態に追い込まれてしまうに違いない。そうした中で、戦争を金儲けの手段としている先の連中は痛くもかゆくもないとすれば、馬淵氏のナショナリズム推奨論は、日本と日本人を滅亡の淵へと導く論になってしまいかねないのではあるまいか。それは米国のトランプにも該当する。

私は、ナショナリズムではグローバリズムに対抗することなどできないと考える。結局は、私の語る「システム」を支えるだけで終わってしまうのだ。それは、DS論を信奉して、DSの推進するグローバリズムに逆らったとしても、「システム」に奉仕するだけだということを意味する。

ここから理解できることは、「システム」(論)の中にDS(論)を含むことは可能だが、DSの中に「システム」を含むことはできないということである。「システム」はもっと多くの物語を、DSは勿論のこと、その中に含んでいる。それゆえ、私たちの直面する問題は、どうやってこの「システム」から私たちの命と暮らしを守ればいいかということなのだ。残念ながら、ロシアとウクライナの戦争は、それができないということを、明らかにしたということである。


(最後に一言)

なお、まだまだ意を尽くせない文章であり、その意味では読者に申し訳ないし、馬淵氏に対しても失礼であるに違いない。だが、以前のブログ記事でも馬淵氏については論及しているので、それらを参照されたい。少しずつ、放電しながら、記事を投稿したいと思っている。今回記事との関連から、また記事を公開することにしたので、今回記事のタイトルに関連する記事を参照されたい。


(付記)

今回記事の関連から付言しておくと、寺島実郎氏や遠藤乾氏らの「民主主義」論は、前者が米国の「民主主義」の黄金時代を見習って、それに依拠した民主主義を取り戻すことでグローバリズムの暴走に歯止めをかけなければならない云々の話をしているのに対して、後者はイギリスのホブソンの提唱したケインズに先立つ経済論に倣って今一度、国民経済の再生を目指す必要を、「ホブソン・ムーブメント」論の形で提唱している。

私からすれば、いずれもできるはずのない論なのだ。今の「システム」は、もはや昔のように{[A]→(×)[B]→×[C]}の世界・セカイではなく、{[B]→(×)[C]→×[A]}(モデルは、いずれも、省略形・共時態型)の世界・セカイなのだ。私たちのかつての先進国のAグループは、「システム」の低度化の深化に向けてひたすら歩んでいることを理解しておく必要がある。

このモデルの一番端の記号({ })は、覇権システムを示している。この覇権システムを前提として、その枠の中で、私たちの自己決定権の獲得とその実現を巡る力(暴力)と力(暴力)のぶつかり合いを介した争奪戦の歴史としての「親分ー子分」の関係を前提とした覇権システムがつくられてきた。そうした関係を支える「衣食足りて(足りず)」の営為の関係を世界資本主義システムとして、また「礼節を知る(知らず)」の営為の関係を世界民主主義システムとして、私たちはそれぞれ呼んできた。私は、こうした三つの下位システムから構成される一つの「システム」を、私の語る「システム」論として語ってきたのである。

これらを踏まえて付言すれば、当時の米国と言い、イギリスと言い、ともに覇権国として覇権システムを率先して担った帝国であったということを、見事に看過している。彼らの推奨する「民主主義」論は、覇権システムを前提としてつくり出されたという歴史を、私たちは今こそしっかりと頭に叩き込んでおく必要があるだろう。その意味では、彼らは私の語る「システム」に奉仕する御用論者でしかないのだ。なお、以前のブログ記事で、彼らの主張を取り上げ批判的に論評しているので、参照されたい。

なお、私もそんなエラソーな批判のできる立場にないことは、重々承知している。何しろ「システム」を支えてきた「システム人」の一人であるから。だが、それにもかかわらず、私はそうした「システム」の抱える問題をこれまで徹頭徹尾、批判的に考察してきた。そして、その「システム」から、たとえ逃げ出すことができないとしても、どうすれば、その災厄から、私たちが少しでも免れることができるかに関して、これまでその〈可能性〉と〈方向性〉について、自問自答を繰り返してきたのである。それだけは、間違いない。とは言え、これまたそれがどうした、でしかないのだが。

 


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