私は馬渕睦夫さんから多くのことを学んでいます。馬渕さんが、世界の動向を語る際の馬渕さんの軸はいつも「グローバリズム」対「ナショナリズム」の構図です。馬渕さんはそれを「市場」対「国家」に言い換えて話すときもあります。(馬渕さんの著書『[新装版]国難の正体』ビジネス社 2014年や「和の国の明日を造る」シリーズの動画、最近では15回目の話の中でもそう話されています。また宮崎正弘さんとの共著『世界戦争を仕掛ける市場の正体』ビジネス社 2016年も参照してください。)
ところで、私は元外交官の馬渕さんから、世界情勢に関していろいろなことを教えられると同時に、世界を捉える、理解する際の馬渕さんとの違いにも気づかされます。学ぶということは、こうした違いに気づくことでもあるのではと、最近とくに感じるのです。馬渕さんとの違いにおいて、私が気になるのは、馬渕さんは世界の動きを「グローバリズム」対「ナショナリズム」、あるいは「市場」対「国家」という観点から話されます。、またその際、「グローバリズム」、「市場」の「脅威」について強調しながら、そうした流れに対抗するうえで「ナショナリズム」あるいは「国家」の「側」に味方しながら、論を展開されます。私はそうした二項対立的な図式で世界を語るのは、正直なところ疑問なのです。
私の話はいつも結論にたどり着くまでが長いので、ここで最初に私の結論といいますか、主張を述べておきます。私からみれば、「グローバリズム」と「ナショナリズム」は、あるいは{市場}と「国家」とは相対立するものではなく、むしろ相互補完的な関係の形をとりながら、私のモデルで描く「システム」とその「自己完結運動」を支えている、支えてきたと云うことです。より簡潔に言えば、システムが、その自己完結運動が、その両者をつくり出したということです。
昨日のブログ記事と結び付けて言えば、「加害者」としての「存在」と「被害者」としての「存在」は、相対立しているように見えながらも、実はシステムとその自己完結運動を支えてきた、支えているのです。なぜなら、そのシステムが、その自己完結運動が、歴史のある時点で、ある空間において、加害者としての存在や被害者としての存在をつくり出してきたからにほかなりません。しかしこの加害者、被害者としての存在は、いつもシステムとその自己完結運動が提供する「衣・食・住のネットワーク」の中で、「共存」「和解」しながら生き続けているのです。
昨日のブログ記事でも紹介した、「大航海時代」から今日に続く「奴隷」的存在が提供する様々な生活必需品を、加害者、被害者の立場の違いはあれ、共有(消費、生産)しながら、システムとその自己完結運動に必要不可欠な奴隷的存在を、彼らの体内に呑み込みながら、同時にそのシステムとその自己完結運動の「担い手」となることにおいて、「和解」し、「共存」しているのです。その点では、グローバリズムの担い手(推進者)も、ナショナリズムの担い手(推進者)も等しく和解し、共存しているのではありませんか。
本題に入る前に、今日はここでやめておきますが、拙著『21世紀の「日本」と「日本人」と「普遍主義」-「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウ』晃洋書房 2014年において、既に詳細については述べています。そこでクリストファ―・ソーン著『米英にとっての太平洋戦争』にある福田和也さんによる「あとがき」の中の「馬上のナポレオン」と「頑迷なフィヒテ」を対比して述べたくだりを紹介しています。このナポレオンが「当時の」グローバリズムの推進者であり、フィヒテがナショナリズムの推進者です。両者は、相対立するように福田さんも描いていましたが、
私はそこでも、両者の相互補完性的存在を、強調していました。まさにシステムが、その自己完結運動がこの両者をつくり出したのです。
私のモデルのセカイで描くシステム、{[A]→(×)[B]→×[C]}(共時態型、省略モデル)のAをナポレオンが、Bをフィヒテがそれぞれ担っています。ここでのCが「奴隷」的存在としての植民地、従属地とそこに暮らす人々です。A、B、ともにCを差別、排除しながら、システムとその自己完結運動を支持しているという点では、和解し共存している、同じ側に位置しています。今日はこの辺で。
ところで、私は元外交官の馬渕さんから、世界情勢に関していろいろなことを教えられると同時に、世界を捉える、理解する際の馬渕さんとの違いにも気づかされます。学ぶということは、こうした違いに気づくことでもあるのではと、最近とくに感じるのです。馬渕さんとの違いにおいて、私が気になるのは、馬渕さんは世界の動きを「グローバリズム」対「ナショナリズム」、あるいは「市場」対「国家」という観点から話されます。、またその際、「グローバリズム」、「市場」の「脅威」について強調しながら、そうした流れに対抗するうえで「ナショナリズム」あるいは「国家」の「側」に味方しながら、論を展開されます。私はそうした二項対立的な図式で世界を語るのは、正直なところ疑問なのです。
私の話はいつも結論にたどり着くまでが長いので、ここで最初に私の結論といいますか、主張を述べておきます。私からみれば、「グローバリズム」と「ナショナリズム」は、あるいは{市場}と「国家」とは相対立するものではなく、むしろ相互補完的な関係の形をとりながら、私のモデルで描く「システム」とその「自己完結運動」を支えている、支えてきたと云うことです。より簡潔に言えば、システムが、その自己完結運動が、その両者をつくり出したということです。
昨日のブログ記事と結び付けて言えば、「加害者」としての「存在」と「被害者」としての「存在」は、相対立しているように見えながらも、実はシステムとその自己完結運動を支えてきた、支えているのです。なぜなら、そのシステムが、その自己完結運動が、歴史のある時点で、ある空間において、加害者としての存在や被害者としての存在をつくり出してきたからにほかなりません。しかしこの加害者、被害者としての存在は、いつもシステムとその自己完結運動が提供する「衣・食・住のネットワーク」の中で、「共存」「和解」しながら生き続けているのです。
昨日のブログ記事でも紹介した、「大航海時代」から今日に続く「奴隷」的存在が提供する様々な生活必需品を、加害者、被害者の立場の違いはあれ、共有(消費、生産)しながら、システムとその自己完結運動に必要不可欠な奴隷的存在を、彼らの体内に呑み込みながら、同時にそのシステムとその自己完結運動の「担い手」となることにおいて、「和解」し、「共存」しているのです。その点では、グローバリズムの担い手(推進者)も、ナショナリズムの担い手(推進者)も等しく和解し、共存しているのではありませんか。
本題に入る前に、今日はここでやめておきますが、拙著『21世紀の「日本」と「日本人」と「普遍主義」-「平和な民主主義」社会の実現のために「勝ち続けなきゃならない」世界・セカイとそこでの戦争・センソウ』晃洋書房 2014年において、既に詳細については述べています。そこでクリストファ―・ソーン著『米英にとっての太平洋戦争』にある福田和也さんによる「あとがき」の中の「馬上のナポレオン」と「頑迷なフィヒテ」を対比して述べたくだりを紹介しています。このナポレオンが「当時の」グローバリズムの推進者であり、フィヒテがナショナリズムの推進者です。両者は、相対立するように福田さんも描いていましたが、
私はそこでも、両者の相互補完性的存在を、強調していました。まさにシステムが、その自己完結運動がこの両者をつくり出したのです。
私のモデルのセカイで描くシステム、{[A]→(×)[B]→×[C]}(共時態型、省略モデル)のAをナポレオンが、Bをフィヒテがそれぞれ担っています。ここでのCが「奴隷」的存在としての植民地、従属地とそこに暮らす人々です。A、B、ともにCを差別、排除しながら、システムとその自己完結運動を支持しているという点では、和解し共存している、同じ側に位置しています。今日はこの辺で。