№36私の語る「システム」論から、日本が親分の米国の植民地であったとしても、またこれから親分となる中国の植民地になろうとも、日本に暮らす人たちが少しでも生き甲斐を感じられる社会の実現に取り組むことこそ
2023-05-30 | 日記
№36私の語る「システム」論から、日本が親分の米国の植民地であったとしても、またこれから親分となる中国の植民地になろうとも、日本に暮らす人たちが少しでも生き甲斐を感じられる社会の実現に取り組むことこそが、「政治」の課題ではなかろうか
(最初に一言)
戦後から続く日本政治を振り返るとき、日本は一貫して覇権国の米国の子分として、植民地の状態に甘んじてきた、と私はみている。確かにそんな日本を素晴らしいとは言えないものの、覇権システムの下で、親分には逆らえない以上、それも致し方なかろう。だが、たとえそうだとしても、その日本に暮らす人たちが生き甲斐を感じられる生き方が全くできないということにはならないのではあるまいか。
そうした悲しくも厳しい「親分ー子分」関係の支配する現実下にあったとしても、その子分間の人間関係まですべてが台無しにされるわけではなかろう。子分の中に、より弱い子分に対する優しさや思いやりを示すことを進んで引き受ける集団が存在していれば、植民地であろうとも、まんざら捨てたものではない空間が醸成できる可能性を否定できない、と私はみている。
残念ながら、これまでの政治においては、それが果たせないままに、今日に至っている。私の語る「システム」に生きている限りは、そうした空間づくりは確かに難しいと、これまでの記事において繰り返し、私も言及してきたのだが、同時にまた、それにもかかわらず、そうした「システム」の中で生きざるを得ないとしても、人間らしく生きられる空間形成の可能性を説いてきたのも事実である。
ところで、ここまでのくだりで何が言いたいのかを、簡単に整理しておきたい。今日もまた(正確には、昨日のことになってしまったが)、私の楽しみである令和新撰組の山本共同代表のユーチューブでの質疑応答を聞いていた際に、代表が日本は米国の植民地状態に置かれている云々の話が、聴衆との間のやり取りで出てきた。
年配の方だと思われたが、彼は植民地の定義を、辞書に従って何度も述べていた。推察する限り、彼は日本が植民地ではないと言いたかったのだろう。それに対して、代表は、日本が植民地である事例を丁寧に語っていた。私もそう見ているし、事実米国の植民地だ。少なくとも、私も代表と同じである。
それはそれでいいのだが、私はそこからいくつかのことを危惧したのだ。すなわち、そこからまた、疑問というか次の問いかけが出てくるに違いない。すなわち、そんな日本の植民地状態を一刻も早く打破して、名実ともに主権を独立を取り戻そう、そうしよう、そうすべきではないかとの声が出てくる。そのためには、自民党ではダメだから、親分の、宗主国である米国に対して、毅然とした態度で向き合える政党が政権の座につかなければならない云々の話が見え隠れしてくる。
こうした問題に対して、代表がどう考えているのかは、私にはわからないものの、私はそうした方向性を、有権者に焚き付けようとするのであれば、私はは反対である。できないのは歴然とした現実だろう。だが、もし仮に独立を目指すのならば、それこそまた戦争は必至となるだろう。さらに、焚き付けるだけ焚き付けて、結局は何もできないで終わってしまうとすれば、それは国民の中にモヤモヤ感を生み出し、令和に対する真面目さというか真っ当さという魅力をなくしてしまうかもしれない。
勿論、有権者や国民が植民地状態に甘んじている日本の現実を知ることは大切である。同時に、そうした状態をこれまで作ってきた張本人が自民党であり、その背後にCIAと米国が存在していたのも今では明らかな事実だ。それゆえ、自民党は批判・非難されても致し方ない。いわゆる「売国奴」政党であったのだから。そこに統一教会との歴史も重なってくる。
だが、それでは他の政党であれば、売国奴と堕すことはなかったろうか。私は覇権システムの存在を鑑みれば、それはもうどうにもならないことであったと言わざるを得ない。親分には逆らえないのだ。「例外」もないとは言えないものの、その顛末を知れば、おいそれとは反抗できなくなるのが、普通の人であろう。たとえば、ベトナム戦争で、自由と独立を米国から勝ち取ったとされるベトナムが、あっという間にその米国の指導の下でドイモイ政策の実現に向けて、まっしぐらとなったのだから、相当にカネの臭いがプンプンとするのは、果たして私だけだろうか。
自民党が本来的に批判・非難されなければならないのは、子分の国である日本に暮らす人たちの暮らしに目を向けなかったことである。たとえ、覇権システムの親分の米国に逆らえなかったとしても、自分たちの取り巻きの利権と彼らの生活保障にもっぱら専念して、その他大勢の人たちにまで、親分から与えられた子分としての日本の取り分である果実を、正当・公平に分配しないままに、痛みと犠牲だけを押し付けてきたということに尽きる。
私が言いたいのは、おそらくはこれから先の世界の親分となるのは中国であることを念頭に置くとき、植民地として日本がアジアでの子分としての役回りを引き受けざるを得なくなるのは必至であろうことから、それを踏まえて、たとえば令和新撰組は、日本が米国の植民地であり、その責任が自民党にあったとしても、その事実だけをことさら取り上げるだけならば、この先の日本と中国の関係を構築する際に、何某かの支障となる、と私はみているからである。
これまで何度も言及してきたように、覇権システムを前提とした「システム」の中で生きるということは、それが善悪の問題を超えて、各国、各国民が引き受けざるを得なくなる「システム」のそれぞれの「段階」に応じた「役割」があるということである。それゆえ、それを体現する政治指導者が登場して、彼らに割り振りされた「システム」の維持と発展に関わる仕事に従事するのだ。
何度も言うのだが、裁かれるのは私たち普通の庶民がその担い手となって支え続けている差別と排除の関係から構成される覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムの三つの下位システムから成る一つの「システム」であるということを、銘記しておいてほしいのだ。それを踏まえて、各国、各国民と、政治指導者の引き受ける役割を批判的に検討・検証していくことが大切である、と私はみている。
(最後に一言)
私は、日本がこれまで米国の「ポチ」であったことを前提としたとき、これからは中国の「チポ」となるとみている。それでも致し方ない。日本と日本人には「システム」によって割与えられた役割があるのだ。残念ながら、「歴史」の、すなわち〈「システム」とその関係の歩み〉の主役とはなりえない。脇役にはわき役としての果たすべき役割がある。それでいいのではあるまいか。
以下に、今回記事との関連から、読者に再読してほしいブログ記事を引用貼り付けておきたい。是非ともご一読お願いしたい。
―ーー引用貼り付け始め)
(2022,6,3)のブログ記事より
今の日本に必要なのは、親米派の「ポチ」として生きるだけでなく、親中派の「チポ」としての生き方も共に必要だとの自覚ではなかろうか。令和・大石議員の岸田首相への「鬼、資本家の犬、財務省の犬」発言から連想される「公」とは?ー私の語る「システム」論から、改めて「歴史叙述の〈神話〉」について考えるときーたとえば、自由主義、民主主義、民族主義、「公」と「私」等々に関する〈神話〉を事例として見た場合(2)
(最初に一言)
つい最近の国会での「鬼、資本家の犬、財務省の犬、ーーー飼い主は国民」云々発言に、私は閉口するばかり。と言うのも、ここまで言うのならば、この先もあるだろうからなのだ。それを言わない。言えば、逆におかしくなるのがわかるから。だが、それをしないから、国民は白けてしまうのだ。
岸田首相は日本の総理。財務省は日本の官庁。日本は米国の植民地(属国)。日本の総理は、財務省は、日本の国会議員は、日本の国民は、すべて米国の犬の「存在」として、。私もその一人というか1匹の「ポチ」として存在している。勿論、令和の議員もその例外ではない。
このなんともみじめな私から抜け出して、胸を張って日本国家を構成する日本国民だと言いたいのはやまやまなのだが、それができないからつらいのだ。どうすればこの万年ポチ状態から脱却できるのか。大石氏のように、鬼、資本家の犬、財務省の犬、飼い主は国民云々と、ののしるだけではもとより駄目だろう。
嘘はダメなのだ。日本という国家の主人は、日本国民ではない。それは前回記事での私が言及していた①と②を踏まえるとき、①での頭の中では、日本は米国の植民地や属国などではないと思ってみても、②の現実世界においては、どんなに足掻いたとしても、親分の米国には抗うことができないまま。
岸田首相も財務省も米国の従順なポチであり、飼い主はこれまで覇権システムの頂点に君臨していた覇権国の地位を降りようとしている最中の米国。正確には次期覇権国の中国との間で目下発展中の「米・中覇権連合」である。いずれにしても、飼い主は日本国民ではないのだ。*さらに正確に言えば、私たちは、私の語る「システム」に支配され飼いならされている犬=システム人として存在しているのである。
もし大石氏が正確にというか、この種のあたりまえの状況認識で国会での発言をしていれば、まだしも、こんなあやふやな発言でごまかすから、私は残念至極なのだ。②の国民からすれば、大石氏も米国のポチ状態であり、その意味では偉そうに首相を批判などできないはずだ。
このような認識を持つならば、日本の消費税問題は、ただ日本の法人税との関係だけではなく、宗主国である米国との関係からも吟味検討されてしかるべき問題であるはずなのだが、そんなややこしい話をすれば、令和がイメージしている飼い主の日本国民の頭がしんどくなると斟酌したのかどうか。
それにしても、わざわざ国会で、私たちが日常生活でしゃべったり考えていることを語る必要があるのだろうか。つまり、日本の総理は鬼だから、資本家の医務、財務省の犬だから、国民は選挙で飼い主は国民であると自覚している令和のような政党を選択すべきだと言いたいのだろうが、その国民は、日本の飼い主が日本国民ではなく、米国とその米国を動かしている巨大な私的利権勢力だということをよく知っているので、こんなあやふやな発言しかできない野党には、一票を入れたくはなくなるのだ。
それにしても、令和の大石氏は、自分たちが政権につけば、今の自公政権とは違った政治ができるとの思いというか思い込みで、頭の中はいっぱいなのかもしれない。それはそれでもいいのだが、同時に、私の語る「システム」の中で生きている限り、ほとんど何も変えられないという現実も知っておいたほうがいい。
私が言いたいのは、何か国民に甘い期待を持たせるような地点に立って、そこからものを語るのではなく、どん詰まりの地点から、発言すべきということだ。換言すれば、今の野党がどんなに足掻いたとしても、政権に就けるはずもないという地点から世の中を見渡すべきだということである。
そうしてみれば、日本の国民は米国のポチ状態にも至極ご満悦しており、岸田政権に対しても満足していることがわかるに違いない。簡単に言えば、打つ手なしと言ったところなのだ。この閉塞した空間を打開するのは消費税率を下げるとか廃止の公約ではない。もっと大胆な政策の提言・提示であろう。
日本を米国のポチだけに甘んじさせるのではなく、次期親分の中国のポチならぬ「チポ」へと導いていく積極的外交方針の提唱でしかない。野党ならば、これくらいの方向性を打ち出すべきなのだ。いずれ、遠からず中国による日本包囲網の強まる中で、米国追随一辺倒の日本の与野党とその政治経験ばかりでしかないとすれば、日本の国民は右往左往してしまい、混乱は避けられないかもしれない。
それを踏まえた上で、もうそろそろ、それを見越した(与)野党勢力が結集されてもいい時期ではなかろうか。令和がその中心を担うのであれば、それは大歓迎だ。そのためにも、これまでの親米派に染まった与党対野党の対抗軸に加えて、親中派の政党結成は急いだ方がいいと考える。
(最後に一言)
私たち国民・有権者にとっても選択肢が多いのに越したことはない。ところが今の国会を見れば、政党数は確かに多いとしても、それらが体現する政策とその幅において、国民・有権者の選択肢はごく限られたものとしか言いようがない。中でも外交政策は、ロシアのウクライナ侵攻を受けて、これまで以上に米国一辺倒に傾いてしまい、私たちの命と暮らしを守る安全保障の実現上、極めて問題なのだ。
米国という「保険」だけで、中国の保険に入れないというか、入ろうとしないのだ。それを考えることさえしない・許そうとしない社会の雰囲気である。これでは危ないだろう。せっかく長らくポチ感覚を磨いてきたのだから、今こそその感覚を研ぎ澄ますべきではないか。これからは、「ポチもチポも共に大事だ」とのバランス感覚を涵養すべき時ではないか。
前回記事でも指摘したように、「宗教倫理」に近い①で物事を考え語ることは言うまでもなく大事ではあるが、「責任倫理」と重なる②の観点を重視して、私たちはやはり生きざるを得ないから、なるべく早い段階で日本における親中派の政党が結成されるのを、私は声を大にして訴えたい。
ーーー(引用貼り付け、終わり)
(付記)
すぐ上に引用貼り付けた以前の記事を読みながら、2,3日前の記事でも同様な趣旨の内容を述べていたことを思い出して、令和の大石議員を槍玉にあげて批判しているように、読者に思われても仕方はないのだが、そんな気はさらさらない。これから頑張ってほしいと願う政党だから。とは言え、注文というか期待をするのは難しい。私にもわかるから。そんなにエラソーな物言いをするのなら、「お前がやればいいだろうが」の声が聞こえるので。
しかも、お前の言うことは、注文とか期待云々と言いながら、実際は、令和に対する無理強いではないのか、と。そのとおりだろう。それゆえ、結局は何も言わないのがましだとなる。ただ、それも寂しいので、あえて「独り言」となるのだろう。普通に考えるとき、今の令和の小規模所帯で、中国との友好云々など語れるわけもないだろうとの声もするのは間違いない。中国と言えば、すぐさま新疆ウイグルやチベットを始めとするの人権問題から、香港問題等々、いろいろな「悪い情報」で事欠かない。
だが、いずれにしても中国と向き合うことを避けられないのだから、もう少し覇権システムという問題を、たとえそれに対する明快・明確な答えが出せないとしても、有権者に対して、「親分ー子分」関係の抱える善悪を超えた私たちの抱える宿痾について、令和新撰組は自らの思うところを、少しずつ、早口にならないで、ゆっくりと語ることがあってもいいのではあるまいか。誰もこの問題には触れたくはないし、うまく語れないのが当然だから。
とにかく、正直に。政治の現実と理想が乖離することがあるのも当然のことだということを、正直に。生身の人間が前提であるから、裏も表もある。割り切れることは少なく、割り切れないことばかりがほとんどの世界。それにもかかわらず、何か割り切れたかのように嘘をばらまき、その結果として、都合の悪い責任を、弱い者に押し付けるように、いつも強い者は振舞うーーー。何かユーチューブで似たような話を聞いたような。山本代表も言っていたことではないか。思わず笑ってしまった。
それにしても、令和の言うとおりだ。与野党なれ合いの茶番劇を毎度私たちは見せられているのに、それを身体を張って、私たちに教えてくれた令和の櫛渕議員を懲罰動議にかけるなんて、それはとんでもないことだ。そこに野党も加わる。その理由はいたって簡単だろう。令和がこのまま党勢を拡大する限り、「偽物」は消えていくしかないからだ。
(最初に一言)
戦後から続く日本政治を振り返るとき、日本は一貫して覇権国の米国の子分として、植民地の状態に甘んじてきた、と私はみている。確かにそんな日本を素晴らしいとは言えないものの、覇権システムの下で、親分には逆らえない以上、それも致し方なかろう。だが、たとえそうだとしても、その日本に暮らす人たちが生き甲斐を感じられる生き方が全くできないということにはならないのではあるまいか。
そうした悲しくも厳しい「親分ー子分」関係の支配する現実下にあったとしても、その子分間の人間関係まですべてが台無しにされるわけではなかろう。子分の中に、より弱い子分に対する優しさや思いやりを示すことを進んで引き受ける集団が存在していれば、植民地であろうとも、まんざら捨てたものではない空間が醸成できる可能性を否定できない、と私はみている。
残念ながら、これまでの政治においては、それが果たせないままに、今日に至っている。私の語る「システム」に生きている限りは、そうした空間づくりは確かに難しいと、これまでの記事において繰り返し、私も言及してきたのだが、同時にまた、それにもかかわらず、そうした「システム」の中で生きざるを得ないとしても、人間らしく生きられる空間形成の可能性を説いてきたのも事実である。
ところで、ここまでのくだりで何が言いたいのかを、簡単に整理しておきたい。今日もまた(正確には、昨日のことになってしまったが)、私の楽しみである令和新撰組の山本共同代表のユーチューブでの質疑応答を聞いていた際に、代表が日本は米国の植民地状態に置かれている云々の話が、聴衆との間のやり取りで出てきた。
年配の方だと思われたが、彼は植民地の定義を、辞書に従って何度も述べていた。推察する限り、彼は日本が植民地ではないと言いたかったのだろう。それに対して、代表は、日本が植民地である事例を丁寧に語っていた。私もそう見ているし、事実米国の植民地だ。少なくとも、私も代表と同じである。
それはそれでいいのだが、私はそこからいくつかのことを危惧したのだ。すなわち、そこからまた、疑問というか次の問いかけが出てくるに違いない。すなわち、そんな日本の植民地状態を一刻も早く打破して、名実ともに主権を独立を取り戻そう、そうしよう、そうすべきではないかとの声が出てくる。そのためには、自民党ではダメだから、親分の、宗主国である米国に対して、毅然とした態度で向き合える政党が政権の座につかなければならない云々の話が見え隠れしてくる。
こうした問題に対して、代表がどう考えているのかは、私にはわからないものの、私はそうした方向性を、有権者に焚き付けようとするのであれば、私はは反対である。できないのは歴然とした現実だろう。だが、もし仮に独立を目指すのならば、それこそまた戦争は必至となるだろう。さらに、焚き付けるだけ焚き付けて、結局は何もできないで終わってしまうとすれば、それは国民の中にモヤモヤ感を生み出し、令和に対する真面目さというか真っ当さという魅力をなくしてしまうかもしれない。
勿論、有権者や国民が植民地状態に甘んじている日本の現実を知ることは大切である。同時に、そうした状態をこれまで作ってきた張本人が自民党であり、その背後にCIAと米国が存在していたのも今では明らかな事実だ。それゆえ、自民党は批判・非難されても致し方ない。いわゆる「売国奴」政党であったのだから。そこに統一教会との歴史も重なってくる。
だが、それでは他の政党であれば、売国奴と堕すことはなかったろうか。私は覇権システムの存在を鑑みれば、それはもうどうにもならないことであったと言わざるを得ない。親分には逆らえないのだ。「例外」もないとは言えないものの、その顛末を知れば、おいそれとは反抗できなくなるのが、普通の人であろう。たとえば、ベトナム戦争で、自由と独立を米国から勝ち取ったとされるベトナムが、あっという間にその米国の指導の下でドイモイ政策の実現に向けて、まっしぐらとなったのだから、相当にカネの臭いがプンプンとするのは、果たして私だけだろうか。
自民党が本来的に批判・非難されなければならないのは、子分の国である日本に暮らす人たちの暮らしに目を向けなかったことである。たとえ、覇権システムの親分の米国に逆らえなかったとしても、自分たちの取り巻きの利権と彼らの生活保障にもっぱら専念して、その他大勢の人たちにまで、親分から与えられた子分としての日本の取り分である果実を、正当・公平に分配しないままに、痛みと犠牲だけを押し付けてきたということに尽きる。
私が言いたいのは、おそらくはこれから先の世界の親分となるのは中国であることを念頭に置くとき、植民地として日本がアジアでの子分としての役回りを引き受けざるを得なくなるのは必至であろうことから、それを踏まえて、たとえば令和新撰組は、日本が米国の植民地であり、その責任が自民党にあったとしても、その事実だけをことさら取り上げるだけならば、この先の日本と中国の関係を構築する際に、何某かの支障となる、と私はみているからである。
これまで何度も言及してきたように、覇権システムを前提とした「システム」の中で生きるということは、それが善悪の問題を超えて、各国、各国民が引き受けざるを得なくなる「システム」のそれぞれの「段階」に応じた「役割」があるということである。それゆえ、それを体現する政治指導者が登場して、彼らに割り振りされた「システム」の維持と発展に関わる仕事に従事するのだ。
何度も言うのだが、裁かれるのは私たち普通の庶民がその担い手となって支え続けている差別と排除の関係から構成される覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムの三つの下位システムから成る一つの「システム」であるということを、銘記しておいてほしいのだ。それを踏まえて、各国、各国民と、政治指導者の引き受ける役割を批判的に検討・検証していくことが大切である、と私はみている。
(最後に一言)
私は、日本がこれまで米国の「ポチ」であったことを前提としたとき、これからは中国の「チポ」となるとみている。それでも致し方ない。日本と日本人には「システム」によって割与えられた役割があるのだ。残念ながら、「歴史」の、すなわち〈「システム」とその関係の歩み〉の主役とはなりえない。脇役にはわき役としての果たすべき役割がある。それでいいのではあるまいか。
以下に、今回記事との関連から、読者に再読してほしいブログ記事を引用貼り付けておきたい。是非ともご一読お願いしたい。
―ーー引用貼り付け始め)
(2022,6,3)のブログ記事より
今の日本に必要なのは、親米派の「ポチ」として生きるだけでなく、親中派の「チポ」としての生き方も共に必要だとの自覚ではなかろうか。令和・大石議員の岸田首相への「鬼、資本家の犬、財務省の犬」発言から連想される「公」とは?ー私の語る「システム」論から、改めて「歴史叙述の〈神話〉」について考えるときーたとえば、自由主義、民主主義、民族主義、「公」と「私」等々に関する〈神話〉を事例として見た場合(2)
(最初に一言)
つい最近の国会での「鬼、資本家の犬、財務省の犬、ーーー飼い主は国民」云々発言に、私は閉口するばかり。と言うのも、ここまで言うのならば、この先もあるだろうからなのだ。それを言わない。言えば、逆におかしくなるのがわかるから。だが、それをしないから、国民は白けてしまうのだ。
岸田首相は日本の総理。財務省は日本の官庁。日本は米国の植民地(属国)。日本の総理は、財務省は、日本の国会議員は、日本の国民は、すべて米国の犬の「存在」として、。私もその一人というか1匹の「ポチ」として存在している。勿論、令和の議員もその例外ではない。
このなんともみじめな私から抜け出して、胸を張って日本国家を構成する日本国民だと言いたいのはやまやまなのだが、それができないからつらいのだ。どうすればこの万年ポチ状態から脱却できるのか。大石氏のように、鬼、資本家の犬、財務省の犬、飼い主は国民云々と、ののしるだけではもとより駄目だろう。
嘘はダメなのだ。日本という国家の主人は、日本国民ではない。それは前回記事での私が言及していた①と②を踏まえるとき、①での頭の中では、日本は米国の植民地や属国などではないと思ってみても、②の現実世界においては、どんなに足掻いたとしても、親分の米国には抗うことができないまま。
岸田首相も財務省も米国の従順なポチであり、飼い主はこれまで覇権システムの頂点に君臨していた覇権国の地位を降りようとしている最中の米国。正確には次期覇権国の中国との間で目下発展中の「米・中覇権連合」である。いずれにしても、飼い主は日本国民ではないのだ。*さらに正確に言えば、私たちは、私の語る「システム」に支配され飼いならされている犬=システム人として存在しているのである。
もし大石氏が正確にというか、この種のあたりまえの状況認識で国会での発言をしていれば、まだしも、こんなあやふやな発言でごまかすから、私は残念至極なのだ。②の国民からすれば、大石氏も米国のポチ状態であり、その意味では偉そうに首相を批判などできないはずだ。
このような認識を持つならば、日本の消費税問題は、ただ日本の法人税との関係だけではなく、宗主国である米国との関係からも吟味検討されてしかるべき問題であるはずなのだが、そんなややこしい話をすれば、令和がイメージしている飼い主の日本国民の頭がしんどくなると斟酌したのかどうか。
それにしても、わざわざ国会で、私たちが日常生活でしゃべったり考えていることを語る必要があるのだろうか。つまり、日本の総理は鬼だから、資本家の医務、財務省の犬だから、国民は選挙で飼い主は国民であると自覚している令和のような政党を選択すべきだと言いたいのだろうが、その国民は、日本の飼い主が日本国民ではなく、米国とその米国を動かしている巨大な私的利権勢力だということをよく知っているので、こんなあやふやな発言しかできない野党には、一票を入れたくはなくなるのだ。
それにしても、令和の大石氏は、自分たちが政権につけば、今の自公政権とは違った政治ができるとの思いというか思い込みで、頭の中はいっぱいなのかもしれない。それはそれでもいいのだが、同時に、私の語る「システム」の中で生きている限り、ほとんど何も変えられないという現実も知っておいたほうがいい。
私が言いたいのは、何か国民に甘い期待を持たせるような地点に立って、そこからものを語るのではなく、どん詰まりの地点から、発言すべきということだ。換言すれば、今の野党がどんなに足掻いたとしても、政権に就けるはずもないという地点から世の中を見渡すべきだということである。
そうしてみれば、日本の国民は米国のポチ状態にも至極ご満悦しており、岸田政権に対しても満足していることがわかるに違いない。簡単に言えば、打つ手なしと言ったところなのだ。この閉塞した空間を打開するのは消費税率を下げるとか廃止の公約ではない。もっと大胆な政策の提言・提示であろう。
日本を米国のポチだけに甘んじさせるのではなく、次期親分の中国のポチならぬ「チポ」へと導いていく積極的外交方針の提唱でしかない。野党ならば、これくらいの方向性を打ち出すべきなのだ。いずれ、遠からず中国による日本包囲網の強まる中で、米国追随一辺倒の日本の与野党とその政治経験ばかりでしかないとすれば、日本の国民は右往左往してしまい、混乱は避けられないかもしれない。
それを踏まえた上で、もうそろそろ、それを見越した(与)野党勢力が結集されてもいい時期ではなかろうか。令和がその中心を担うのであれば、それは大歓迎だ。そのためにも、これまでの親米派に染まった与党対野党の対抗軸に加えて、親中派の政党結成は急いだ方がいいと考える。
(最後に一言)
私たち国民・有権者にとっても選択肢が多いのに越したことはない。ところが今の国会を見れば、政党数は確かに多いとしても、それらが体現する政策とその幅において、国民・有権者の選択肢はごく限られたものとしか言いようがない。中でも外交政策は、ロシアのウクライナ侵攻を受けて、これまで以上に米国一辺倒に傾いてしまい、私たちの命と暮らしを守る安全保障の実現上、極めて問題なのだ。
米国という「保険」だけで、中国の保険に入れないというか、入ろうとしないのだ。それを考えることさえしない・許そうとしない社会の雰囲気である。これでは危ないだろう。せっかく長らくポチ感覚を磨いてきたのだから、今こそその感覚を研ぎ澄ますべきではないか。これからは、「ポチもチポも共に大事だ」とのバランス感覚を涵養すべき時ではないか。
前回記事でも指摘したように、「宗教倫理」に近い①で物事を考え語ることは言うまでもなく大事ではあるが、「責任倫理」と重なる②の観点を重視して、私たちはやはり生きざるを得ないから、なるべく早い段階で日本における親中派の政党が結成されるのを、私は声を大にして訴えたい。
ーーー(引用貼り付け、終わり)
(付記)
すぐ上に引用貼り付けた以前の記事を読みながら、2,3日前の記事でも同様な趣旨の内容を述べていたことを思い出して、令和の大石議員を槍玉にあげて批判しているように、読者に思われても仕方はないのだが、そんな気はさらさらない。これから頑張ってほしいと願う政党だから。とは言え、注文というか期待をするのは難しい。私にもわかるから。そんなにエラソーな物言いをするのなら、「お前がやればいいだろうが」の声が聞こえるので。
しかも、お前の言うことは、注文とか期待云々と言いながら、実際は、令和に対する無理強いではないのか、と。そのとおりだろう。それゆえ、結局は何も言わないのがましだとなる。ただ、それも寂しいので、あえて「独り言」となるのだろう。普通に考えるとき、今の令和の小規模所帯で、中国との友好云々など語れるわけもないだろうとの声もするのは間違いない。中国と言えば、すぐさま新疆ウイグルやチベットを始めとするの人権問題から、香港問題等々、いろいろな「悪い情報」で事欠かない。
だが、いずれにしても中国と向き合うことを避けられないのだから、もう少し覇権システムという問題を、たとえそれに対する明快・明確な答えが出せないとしても、有権者に対して、「親分ー子分」関係の抱える善悪を超えた私たちの抱える宿痾について、令和新撰組は自らの思うところを、少しずつ、早口にならないで、ゆっくりと語ることがあってもいいのではあるまいか。誰もこの問題には触れたくはないし、うまく語れないのが当然だから。
とにかく、正直に。政治の現実と理想が乖離することがあるのも当然のことだということを、正直に。生身の人間が前提であるから、裏も表もある。割り切れることは少なく、割り切れないことばかりがほとんどの世界。それにもかかわらず、何か割り切れたかのように嘘をばらまき、その結果として、都合の悪い責任を、弱い者に押し付けるように、いつも強い者は振舞うーーー。何かユーチューブで似たような話を聞いたような。山本代表も言っていたことではないか。思わず笑ってしまった。
それにしても、令和の言うとおりだ。与野党なれ合いの茶番劇を毎度私たちは見せられているのに、それを身体を張って、私たちに教えてくれた令和の櫛渕議員を懲罰動議にかけるなんて、それはとんでもないことだ。そこに野党も加わる。その理由はいたって簡単だろう。令和がこのまま党勢を拡大する限り、「偽物」は消えていくしかないからだ。