日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

「システム」(論)から昨今の中東情勢を振り返るとき

2019-09-19 | 社会 政治

「システム」(論)から昨今の中東情勢を振り返るとき

前々回、前回の記事を踏まえて、さらに論を展開してみよう。最初に断っておかなければならないが、確信の持てるニュース資料の選択ができているか、自信が持てない。いつものことなのだが、とにかく中国に関するニュース資料を私自身があまり収集できていないので、その辺の事情を鑑みながらお付き合いお願いしたい。別にそれは今回の記事だけではないが。

はっきりとイメージできるのは、中東諸国での米国の軍事的プレゼンスの後退であろう。その原因の一つに、やはり中国のこれら地域における軍事的プレゼンスの増大がある、と私は見ている。その中国とロシアの何らかの提携があるとみていいが、何よりまずは中国だろう。これら地域における中国の経済的影響力を背景としながら、軍事的影響力も大きくなってきたとみていい。もはや米国は中国の軍事力を、経済力は米中貿易戦争でも証明済みだが、うかつには扱えない段階に来たのだろう。「世界の警察官」を辞めるというよりは、辞めざるを得なくなったということなのだ。

こうした出来事は、私のモデルで描くシステムとその関係の歩みが、さら着々と発展、強固となっているのを示している、と私は考える。{[B]→(×)[C]→×[A]}(省略形、共時態モデル)のセカイとその関係の歩みが、現実の世界の秩序となっているのである。このセカイとその関係の歩みに示される秩序は、米国でも、日本でも、中国やアジアの他の諸国でも、EU諸国でも、中東でも、アフリカ諸国でも浸透、貫徹していく。問題は、それら諸国がその秩序の中で、少しでも相手国よりも優位に立てるようにと、対立と敵対そして協調を繰り返すことだ。そしてそれがエスカレートするとき、地域戦争や戦争となるのだ。システムにとっては願ったりかなったりの話となるが、システムとその関係の歩みは、それ自体が差別と排除の関係を前提としていることから、システム内における相手よりも自らを少しでも有利な優位となる地位を獲得しようとする願いとその実現を目指す動きは不可避とならざるを得ないのである。

もっとも、システムとその関係の歩みが、それら諸国にB、C、Aグループの果たすべき役割を担わせているから、何度も言うように、秩序の安定のために戦争がそして平和が必要となる。そうした中で、先のセカイとその関係の歩みを担うそれぞれのグループ間における諸国の力関係が決められていくのである。少なくとも、中国が覇権国として君臨するまでの2040、50年代までは、システムとその関係の中で、少しでもより有利な優位となる地位を占めるための最終レース(紛争・戦争)が続くことは避けられないのではあるまいか。

米国を動かす「勢力」(この勢力は米国(一国)内に限られない。あのモデルで描く関係から生み出される勢力である。その勢力は一枚岩ではないし、絶えず対立敵対してはいるが、それにもかかわらず、「金の成る木」としてのシステムとその関係の歩みを擁護し発展させるように行動している。)にとっては、ネオコンや軍産複合体の影響力の有無にかかわらず、絶えず戦争を引き起こすために、システムとその関係の歩みの指示に従いながら動いているのである。システムとその関係の歩みにおいては、たとえ戦争が何度繰り返されようが、システムの秩序が維持される限りでは、「平和」だということなのだ。「平和」を守るための「戦争」とよく言われるが、それは、取りも直さず、「戦争」してでも守らなければならない「平和」が、「秩序」があるということではないか。そう、「金の成る木」としてのシステムとその関係の歩みだ。私たちはシステム人として、その「金の成る木」に群がりそのおこぼれにすがって生きている。たとえ、その木の上の方に、ボルトンやネオコンや戦争屋の有力者達がいるのに対して、私たちは下の(下、さらにその下の)方で「平和」を愛しながら生きているから、またそのおこぼれは少ないといくら強弁したとしても、「目糞鼻糞を笑う」という事実は変わらない。

中東諸国から米国が引き上げたとしても、代わりの勢力がそこに登場するだけの話である。米国からネオコンや戦争屋がたとえいなくなったとしても、代わりの勢力がつくられていくし、システムはそれをいつも準備している。私が不思議に思うのは、米国の強硬派とかネオコンをことさら「平和」に対する脅威としてやり玉に挙げて、ネオコンと戦争屋が、あたかも湾岸戦争、アフガニスタン、イラク、そしてシリアから今日の中東の紛争の「元凶」であるかのように糾弾しながら、その一方で中国やロシアを持ち上げるような論じ方をしていることだ。

元より「程度差」と言うか、「よりましな」云々の見方はそれなりに大切だが、私たちが歴史のどの段階で生きているかを、換言すれば、システムとその関係の歩み(歴史)を確認することこそが何よりも大事だ、と私は強調しておきたい。と言うのも、それが理解できたならば、ネオコンや軍産複合体(戦争屋)を使いながら、自らに都合のいいような秩序をつくり出してきたのは、他でもない、システムとその関係の歩みだということに気が付くに違いない。

システムとその関係の歩みは、1970年代以前は、スペイン、オランダ、イギリス、アメリカを使いながら、そして70年代以降は最初は中国を使いながら、セカイとその関係の歩みを実現させてきたし、今実現させようとしているのだ。その途上で、いかに多くの人々が、その歩みの渦の中に巻き込まれて、命を落としていっただろうか。そして今も世界の至る所で繰り返されているではないか。

また以前と同じような、どうにもならないことを書いてしまったが、少し補足しておきたかったのだ。以前のブログ記事で、70年代以降のセカイとその関係の歩みとして描かれる{[B]→(×)[C]→×[A]}の「中身」が、1970年代から80年代、90年代、そして21世紀に入ってから現在までの間で、大きく変容していることに触れたが、この点を踏まえながら、次の記事をまとめてみたい。

この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「システム」(論)から改め... | トップ | (追加)「システム(論)か... »
最新の画像もっと見る

社会 政治」カテゴリの最新記事