日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

オニクタラムの「感じる心」は何故、ーー(3)「天下三分の計」?

2014-02-20 | 社会 政治

〈オニクタラムの「感じる心」は何故、ーー(3)「天下三分の計」?〉


みなさん、おはようございます。今日もお互い、しっかり生き抜きましょう。息抜きですよ。
前回のモデルの紹介。呆れましたか。ごめんなさいね。まだ頑張ってますよ。でもやっとあの頃よりは、もう少し、わかりやすく説明できるようになったんじゃないですか。とにかくごめん。

私も「感じる心」を持たないといけませんね。

それで、今日はおそらく、まだモデルについての話をすべて読んでないと思うので、ごくごく簡単に何をこれから話したいのか、また何のために、に注意して今日は以下の概要のみで終了。ごめん、同じ話の繰り返しですが、辛抱してください。みなさんの後輩がまた新しく4月から加わりますので、そのための準備もあります。


「マルクス主義」の「感じる心」は
 (ヨーロッパ、欧米=中心を単位) 

「従属論」の「感じる心」は
 (「中心ー周辺」を単位)

「世界システム論」の「感じる心」
 (「中心ー半周辺ー周辺」を単位)

「構造的暴力」論の「感じる心」は

護憲論者の「感じる心」は

広瀬隆さんの「感じる心」は

革新政党の「感じる心」は


こうした点を頭に置いて、これからの話を聞いてください。
その際、留意して欲しいのは、従来の議論は、資本主義を「一国(地域)」枠、「二国(地域)」枠、「三国(地域)」枠の違いはあれ、そうした資本主義が抱える格差というか、差別と排除の関係とそこから導かれる問題の解決に、「感じる心」を包み込んでいる、含み込んでいるはずの自由、民主主義、人権、平和といった「普遍的価値」を手にしながら、簡単に言えば、日本国憲法とその第9条を掲げて、資本主義の生み出す問題を、例えば今日の格差問題とかを解決しよう、是正しようと考えてきたし、またそれは可能だとしてきたんですね。

それがなおできないのは、普遍的価値とその実現の歩み(普遍主義)が現実に十分に適応・展開できていない、換言すれば、憲法が十分に守られていないと考えて、その実現運動というか、護憲運動に邁進してきたんですね。
私はこれ自体、また問題だったとみていますが、それでも1970年代までは、なんとか存(ながら)えることに成功した、しかしながらその反面、原発問題や基地問題に背を向け続けてきた、あるいはそうならざるを得なかったんじゃないかと。

こうした見方に対して、私は、その「感じる心」というか、それを内包した普遍的価値、これまで私は特にその民主主義を取り出して論及してきましたが、それ自体が、資本主義と関係しながらも、つまり簡単に言えば「存在が意識を規定する」というような見方ですが、その意識というか普遍的価値が、そうした資本主義との関係から独立して、普遍的価値それ自体の関係を、歴史的に形成し、発展させてきたんじゃないかと考えたんですね。意識というか思想やイデオロギーの次元だけではなく、「史的システム」の次元においても、つまり「感じる心」を含む普遍的価値自体も、「史的システムとしての資本主義」と同じように、格差というか差別と排除の関係をつくり出して来た、あるいは創り出されていると。(平仮名と漢字の違いの意味はありません)

それゆえ、いくら「犠牲のシステム」(高橋哲哉)が存在しているとしても、例えば高橋が指摘している東京と福島、日本本土と沖縄の関係ですね、そのシステムが抱える問題を解決するために、普遍的価値を思想的武器として掲げて、例えば、アメリカがそれをかつての日本や、イラクやアフガニスタンに「押し付け」たように、介入しても、それ自体が差別と排除の関係とそこから導かれる問題を抱えている以上、もはやどうにもならない、と私は主張してきたんですよ。これに対して、高橋自身もこの点は深く追求しなかった。

それゆえ、護憲派には都合のいい著作となった。ごめん、名前が出てこないが、他の著者の『民主と愛国』の本も護憲派を勇気づけた。私はその枠組み自体に何か違和感を抱いたし、それについて拙論で言及したことがある。

つまり、資本主義というか、「衣食足りて(足りず)」の営為の関係が「犠牲のシステム」であると同じように、民主主義というか、「礼節を知る(知らず)」の営為の関係も、「犠牲のシステム」なんだということが言いたかったんだ。二重の「犠牲のシステム」で、その二重のシステムが相互に「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の「一つ」の営為の関係を構成するシステムになっていると。さらに、ここに「覇権国・親分-周辺国・子分」の関係から成る覇権システムという犠牲のシステムが加わるから、正確には「三重の〈犠牲の〉システム」ということになるのだが。
ごめん、みんなに話を聞いてもらっているようで、つい丁寧な言葉遣いができなくなって。

それじゃどうする、ということなんだが、就職して働いたら嫌というほどわかるだろうけど、ホンマどうしようもないことだらけ。どうにもならない。
それを踏まえて、都知事選を例に挙げてみたい。

簡単に言うと、立場は二つある。第1は、これまで同様に、「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係史を前提としながら、先の話に従えば「一つの」「犠牲のシステム」に留まりながら、護憲を推進する、あるいは改憲を主張する従来型の生き方。革新政党はずっとここにいた。21世紀もおそらくずっと、ここ。

第2は、もう第1をやめて、第1とは違う生き方を選択する。つまり、第1の「衣食足りて(足りず)」の営為の関係と第1の「礼節を知る(知らず)」の営為の関係とは異なる、第2の「衣食足りて礼節を知る」営為の関係を創る、つくっていくこと。

ただしここが肝心。この第2の生き方は、日本の「三分の一」でいい、それ以上は目指さない。また偉そうに、一人もいないのに、まだ。「天下三分の計」ではないが、それを目標とする。政党も当然必要だが、最初から、政権政党の道は放棄する。また偉そうに、政党もないのに。これもまたゆっくり聞いて。

しかし、第1は、じゃぁー、ダメなんだという時に、その人たちが第2の〈可能性〉と〈方向性〉を直ちに理解して、そうした路線を目指しているかといえば、そうではない。

ほとんど第1の立場をウロウロしているだけじゃないか。これは仕方がないこと。現実を生きている人間は臆病になるし保身に走る。責められない。それはまたいつか書きたいけど。

話を戻すと、第1に立ちながらも、脱原発や、基地問題やその他の日常の問題に「感じる心」を人一倍、保持している人たちは、やはり諦められないんだ。それで、第1の枠の中で精一杯に抗うんだ。
それじゃぁー、どんな「衣食足りて(足りず)」の営為の関係を選択するか、それが問題となる。

「脱」原発運動のややこしいのは、その立場を支持する、またそこ周りを行ったり来たりしている人たちが、第1の護憲の立場に立ちながら、第1の立場の「衣食足りて(足りず)」の営為の関係から、「原発」あるいは基地問題だけを取り出して、しかも勝手に引き抜くことが出来ると信じきって、あとはほとんど従来と変わらない営為の関係を守ろうとしていることに気がつかないこと。気が付いたとしても、そこから離れられないこと。簡単には、次の「食い扶持」なんか見つからないから、これも仕方がない。

さらに、第1の「衣食足りて(足りず)」の営為の関係をやめて、別の第2の「衣食足りて」の営為の関係を創ることを目指そうとするにも関わらず、相変わらず従来の第1の「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係を前提とした「礼節を知る(知らず)」の営為の「礼節」を、つまり憲法を守ろうとする立場に固執しているという矛盾に気がつかないこと。

これではとても「一本化」はできない。細川か、宇都宮かの問題ではなかった。

私は、第2の立場をずっと構想してきました。頭の中だけですが。しかしながら、もうなにか、このままじゃ終われないと。いや、ケンシロウなら私に言うかもしれませんね、「もう、お前は死んでいる」と。冗談じゃなくてね。

実際に、日本でも第2の立場に近い人たちがいます。自給自足的生き方を実践している人たちです。ただし、それはなお、まだ、第2の生き方の実践とは言えませんし、実現には遠く及ばない段階です。
ごめん、ホント、お前ヤッテミロ、すぐそんな声が聞こえてきます。お許しを。

例えば、そうした人たちの周りに、彼らの子供が集う学校があり、当然、先生がいて、また当然ながら、公務員も必要ですし、病院も、また製造業や流通業も必要でしょう。銀行も保険会社も当然大事ですね。こうした仲間と集団の関係をもとにした共同体を、私は創ってみたいんです。これは私の夢ですが、その夢の実現のために私ができるのは、じゃぁー、第2の生き方を支える第1次産業、第2次産業、第3次産業のあり方はどんなものなのか。また「礼節を知る」営為はどうあるべきなのか。それを考えることでした。

東京で働いていたら、もう私のこと笑うだろう、「お前、まだそんなこと言っているのか」、と。ただ、私の田舎の限界集落に近づいている空間にいると、君の素晴らしい、そのIT技術が必要なんだ、あなたの卓越した流通業のノウハウ、それでここで収穫した、ここでしかできない夢の「商品」を世界各地に売り込みたいんだ、ぁーあ、思い出した、確か商社で働いているのいたなあ、彼もぜひスカウトせんと。みんなの語学力も相当にアップしてると聞いたよ。いつかこの共同体を世界各地の人達が見学しに訪れるだろうから、そのためにもいろいろな準備が必要だ。

共同体の「モットー」、それは「勝ち続けない、負け続けない、とにかく息抜く、だらしなく、しぶとく生き続ける」、まぁー、そういうこと。

この共同体は資金がたくさん必要、しかも第2の生き方しながら、どうやって金稼ぐ。誤解しないで、天下三分の計だ。残りの世界と、商売せんといかん。それでいて、自分たちの世界を守るためには、やはり、息子が必要だ。あいつには勘当されている状態だから、なんとか許しを請いたい。

また聞いてください、今日はこのへんで。ホンマに、恥ずかしい話の連続、しかしオニクタラムの〈可能性〉と〈方向性〉を考えるには避けては通れないんだ。

 

 

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1 コメント

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Unknown (キセウソメツナ)
2014-03-06 12:42:27
いつも読んでいます。先生の声が間近に聞こえてくるようです。これからもだらしなく、しぶとく書き続けてくださいね。
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