日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

オニクタラムの新し「クニ」造りについて考える、看護士の娘の「生命」と「安全」を保障できない父親ー3)

2014-03-17 | 社会 政治
いや、ごめんなさい。だいぶまた漢字の変換ができてなくて。少し直したんですが、まだあれば、すいませんね。

 前回もまた大風呂敷を広げてしまいましたね。ホント、恥ずかしいだけですよ。先ずは、ヤマギシ会に似た活動体をつくるんだそうです、と。お前にそんなことができるのかい、いつもながら私の分身が笑っています。もう最近は相手にもしてくれません。馬鹿に付ける薬はない、まぁ、そんな感じですかね。とにかく恥ずかしいというか、やめたいんですが、バカは死んでも治らない、ようです。付言しておきますが、ヤマギシ会に似た組織というよりは、似て非なると同時に、どこかそれに似た空気というか匂いですかね、が漂ってくる、そうした「集落」を構想しています。

 それでは娘の話をしますね。あの頃の娘の状態を思い出すと、私もまた悲しくなりますが、ゆっくりとお話しますね。学校を卒業した年の4月から看護士として働き始めたんですが、その勤務実態の凄まじさといいますか、しんどさですかね、私には相当ショックでした。それだけ私が世間知らずだったというか、他人事として世の中の「働く人」を見ていたんでしょうね、娘が当事者となるまでは。

 断っておきますが、以下の私の話は、あくまでも私の主観でありまして、すべての看護士がそうだ、と言うつもりもありません。同じ病院内の部署(局)といいますか、例えば外科、内科、眼科、ーーーとやはり勤務状態は同じように見えても違いますしね。また病院もいろいろですし、一概に決め付けることはできませんからね。

 また、ここで私が話したいというか、お伝えしたいのは、病院の誰かを責める為のものではありませんし、県の担当者がどうだということでもありません。その逆なんですよ。誰かを特定して、そこに責任を押し付けることができればいいのですが、もはやそんなことができる時代状況ではないということなんです。だから苦しむのです。私も、娘もね。確かにあるんですよ。娘が抱えた、娘自身では到底ながら引き受けられない問題が。その娘のそばにいてその苦しみをほんの少しばかり感じた父親としての私が、胸を掻(か)き毟(むし)られるように、無性に腹が立って、この怒りを誰かに叩きつけたいのだが、どうしようもない無力感。

 そりゃ-ね、最初は攻撃の対象を見つけ出し、娘を守るために抗議しに行くことだけを考えていたんですよ。それこそ、県庁の関係部局から始まって、病院内の云々とね。みなさんはどうか分かりませんが、「組織」の中で私も生きているでしょう。そこで生きるということは、これはまた単に論理とか「正論」だけではどうしようもないことばかりが実際山ほどあるんですね。例えば、娘の上司に私がもし仮に、娘の問題の「解決」のために相談に行くとしますよ。「何とかしてください」と、頼みに行くとしますよ。もちろん腹の中では、(お前、なに考えているんじゃい、娘を殺すつもりか)、と煮えくり返っているんですよ。

 そうこう思いめぐらしているうちに、もし私がその上司の父親だとしたら、この抗議に来る親に対してどんな思いで自分の子供を守ろうとするのか、とね。そこでもまたいろいろと理屈があるでしょう。例えば、「あなたの娘さんのしんどさはわかりますよ。これまでも自分の子供(上司)は看護士の労働時間の問題を真剣に考え、出来る範囲で取り組んできたんですよ。何度も県の担当部局に改革、改善を求めて上申していたんですよ。でも、まったくのところ埓が明かないんです。県の財政状況を考えると、簡単には答(応)えられないと〈上〉から言われ続けてますからね。」こんなやり取りが想像できるんじゃないですか。

 まぁ、こんな調子で次から次にならざるを得ない。誤解の無いようにね。いくら財政状況が悪いから、財源が限られているからといってもね、それでも「融通」されるところはあるし、そんな言い訳というか理屈もおかしいというのは、私にだって分かっていますよ。いくらでも「無駄」なところに大盤振る舞い?しているしね。しかし、このムダの定義が違うんでっすね。娘が当事者となって、私の定義も変わるんですから、偉そうには言えませんよ。じゃ、何もできないのか。そうこうするうちに、また腹が立ってくる。そのうちまた同じことの繰り返し。

 こんな私はいつしか魯迅の『阿Q正伝』の阿Qのように、自分の心の葛藤といいますか、憤懣やる方ないといいますか、とにかく自分を納得させるというよりも、自分の心をごまかしてでも落ち着かせる理屈を考えるしか、どうしようもなかったんですね。こんな私ができることといったら、娘が通勤で使う原付バイクを磨いてやること、その際私の呪文というか魔法の言葉をバイクに伝える(「どうか今日も無事に往き帰りができるように守っておくれ」と念じる)こと、朝方の2時から3時に帰るときは湯を沸して待ちながら、玄関の鍵を開けて「お疲れさん」と言ってから寝ること、こんなことでお茶を濁すしかありませんでした。

 娘もそうですが、作業療法士の長女からも、また看護士をしている次女からも多くのことを学びました。同時に私と同じ、それ以上の悩みを抱えている親たちの苦悩にも、これまで以上に思いを馳せるようになりました。娘は、みなさんね、県の公務員ですからね、たとえ勤務状態がどうのと言いましても、まだ恵まれているのは確かですよ。誤解の無いようにね。「恵まれている」かどうかを、私は問題にしているのじゃありませんよ。今の時代の可笑しさというか、愚かしさは、「仕事があるだけでもいいじゃないか」とそんな風に考える者たちが多いんですよ。そのくせ彼らは、原発作業員になりたがりません。当然でしょう。私もそうですよ。それなら、仕事があればいいという次元の話ではないでしょう。

 ただ残念というか、そこからさらに落ち込んだのは、こうした働く現場の個々人の抱える問題が、同じ職場の仲間同士の問題として共有するのが難しい時代環境にあるということも、痛感した次第です。それなのに不思議でしょう、「同じ日本人なんだから」、「今こそ一つになって」の大合唱ですよ。原発労働者の労働環境の問題を、「同じ日本人として」、「ガンバロー・日本」の輪の中に含めて大事に考えようとはしないんですよ。多分、そんな日本人が「強い日本を取り戻す」と叫ぶんじゃないですか。

 いずれにしても、どうしても個人の、自己責任の問題として済まされてしまうんですね。唐突ですが、私のモデルを思い出してくださいね。こうした傾向は、私は昔もあまり変わらなかったと思いますが、それでも「1億総中流」と呼ばれた時代には、たとえそれがオーバーな見方であっても、生活するのが可能な仕事はたくさんあったんですよ。ところがもうそれは期待できませんから、自己責任なんて言われても、どうすればいいんだとなりますよ、普通に働こうと意欲と能力のある者でもね。

 結局のところ、娘や同世代の若者が背負わなければならない問題は、誰かが真剣に考える、引き受けてやらなければならないはずの問題なのに、誰もその責任を引き受けようとはしません。上でもお話しましたように、私は誰かを責めるつもりは毛頭ありません。誰も責められないということなんですね、実際は。誰にも責任を背負わせることは本当はできないんだということですね。

 ところがですよ。例えば娘が何か勤務中に「ミス」をしたとして、しかもその理由の一つに長時間労働とそれに伴う肉体的、精神的過労というかストレスや不安定が容易に考えられるとしても、また、それゆえそれは組織上の責任として考えられるとしても、いつもその多くの責任を現場の者が取らされてしまうんじゃありませんか。本来ならば、その責任は別の誰かが当然引き受けてもおかしくないはずなのに、いつもそれはスルリとすり抜けられる、すり替えられてしまうということですね。全くその後の事態の改善は見られないままですよ。長距離バスの運転手による事故がよく話題になりますが、この場合も、家族の抱える悩みは尽きないでしょう。どれだけの人が運転手たちの抱え続ける問題を我が事の問題として、思いを寄せられるか。

 まさに現在は私たちの生きる環境は「戦場」なんですね。イジメが原因で自殺する学生にとっては、学校は戦場なんですよ。その意味ではいじめという言葉は不適切ですね。例えて言えば実弾が飛び交っているんですからね。流れ弾に当たることだってあるでしょう。こう考えれば、私たちも似たような戦場にいるのかもしれませんね。この私の話がオーバーに聞こえたら、その人は幸せな人だというしかありませんし、どうぞ末永くお幸せに、ただそれだけですよ。戦場もまさに千差万別ですね。一度も弾の飛んでこないところもあれば、常に放射性物質を扱い続けて死の危険に直面し続けている戦場だってある。

 もし、私たちの社会が「戦場」であるとして、またそこで生き続けなきゃならないとしたら、誰しも考えるのは、少しでも傷つかないところ、死なないところでしょうね。リーダーたる資格がある者は、本来は、自ら率先していちばん死ぬ確立の高い最前線に位置しなければならないはずでしょう。だからそうしたリーダーになるのは誰しも敬遠するでしょう。いくら命があっても足らないですからね。プラトンの『ソクラテスの弁明』の中でソクラテスがそれに関する事柄について語っていますが、まさにその通りだと思うんですよ。もちろん、いつも現実はこの逆なんですけどね。(続)



 







コメント (1)
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オニクタラムの新しい「クニ」造り、もし「ヤマギシ会」が医療・介護施設の運営に携わるならー(3)

2014-03-16 | 社会 政治
 私が考える新しい「クニ」造りの構想に、農業組合法人「幸福会ヤマギシ会」の実践活動の歴史を学ぶのは必要不可欠なものです。それだけではありませんよ。武者小路実篤が提唱した「新しき村」もそうですし、また以前の記事で言及したNAMもそうです。その中でも私が一番気になっているのが先の「幸福会ヤマギシ会」の存在なのです。

 「ウィキペディア」で検索しますといろいろそれに関する情報がありますから、興味のある方は参照して下さい。それによりますと、ヤマギシ会は、「農業・牧畜業を基盤とするユートピアをめざす活動体(農業組合法人)」とあります。私も以前は何度もヤマギシ会が販売するパンやクッキーなどを買って食べたものです。ヤマギシ会に関する著作も読んだことがありますよ。しかし、自分がそこで一度も暮らしたことがありませんから、分からないですね、やっぱり。

 私がここで言いたいのは、〈所有の概念を全否定し、「無所有一体」の生活を信条(先述の「ウィキペディア」から引用)〉とするユートピア社会を目指すヤマギシ会の運動が今日も継続しているということを踏まえて、そこに何かを加えることを考えているんですね。ヤマギシ会のそうしたユートピアの実践を重視しながらも、同時にそれを第二の生き方と仮に認めた上で、そこに第一の生き方を捨てられない人たちも、受け入れるそうした実践の仕方も考えられるんじゃないかということですね。

 具体的に言えば、もし私がそうしたヤマギシ会の実践をしていたとして、さらにヤマギシ会が直接的間接的に関わる医療・介護施設が存在していると仮定して、その施設に第一の生き方を否定しない、あるいは引きずったままの人たちも受け入れることにしたらどうかと言いたいんですね。、換言すれば、彼らとその家族がたとえその私的財産を放棄しないとしても、それはそれで構わないということなんですね。

 もちろん、これはヤマギシ会の先の理念(無所有一体)に反しますから、ヤマギシ会は認められないし、許さないでしょうね。それゆえ、私はどうしても、先ずはヤマギシ会に似た組織というか活動体を造る必要があるのですね。確かにヤマギシ会は私からしますと、模範となるものですが、私が考えている「集落」において、農業だけではやっていけないんじゃないかと見ています。誤解の無いように、確かにそれが新しいクニの生き方というか、生きていく上での基本ですよ。しかし看護士である私の娘や介護士の若者の存在も貴重です。さらに、「無所有一体」の理念に共鳴する者たちの職業も多岐にわたるでしょうし、「共鳴」するけど、それを本当にやるのかと思うと躊躇する、私のような「口先だけの者」だっているでしょうから、そこはもう少しゆっくり、柔らかくと考えます。

 ここで一番重要なことは、この集落というか、保養所というか、新しいクニがどうやって、活動体として存続できるかということでしょう。そのためには、第一の生き方を基本とする人たちのお金と信頼というか安心感を獲得することが何よりも重要でしょうね。私は確かに、今のところは、口先だけの人間ですが、それでも、私にだって変身できる可能性はあるんじゃないかと思いますよ。私にそうした変身といいますか、「感じる心」を持てる人間に導いてくれたのは、私の娘だったんですね。いかに看護士という職業が厳しい労働条件の下にあるのか、地方公共団体の医療機関が置かれた財政状態を考えると、ますますその厳しさは強まるのではないか、公務員の身分だってそうなんだから、民間の別の異なる職業の仕事場では、押して知るべき状況、状態ではないか。

 私は娘や先の若者たちの労働現場を、少しだけですが、垣間見ることができたおかげで、これまで凍っていた「感じる心」が動き出す気配を、何かしら察知したのですね。誰だって「感じる心」は持っていますが、それは逆に、その心を持っている者たちをひどく傷つけますから、次第に嫌なものから自分を遠ざけてしまいますよね。それはダメだと分かっていてもどうしようもありませんね。

 さらに厄介なことは、この「感じる心」が研ぎ澄まされるに従って、またどうしようもない閉塞感というか無力感に襲われてしまうんですよ。私は看護士としての娘が抱えた苦しみを、「父親」として、共に抱えてやることができませんでしたし、「研究者」としても、まったくといっても言いほどに、役に立ちませんでした。その話を次回喋りますね。聞いてください。





























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オニクタラムの新しい「クニ」造りについてー(2)

2014-03-15 | 社会 政治
オニクタラムの新しい「クニ」造りについて考える-(2)

 今日は前回の続きなんですが、行論の都合上、まずは愛媛県の看護科のある高校(5年制)に進学して卒業と同時に、20歳で県病院の看護士となった娘と、私の母がお世話になっていた介護士の若者の話から始めたい。

 またいつものように、長い前口上から。私の母はもう亡くなっていますが、それこそ「千の風」の歌詞じゃありませんが、今も私や家族を見守り続けています。ありがたいものです。そういえば、母は看護師でした。母は大正13年(1924年)の生まれで、母の少女時代は家も裕福でなく、小学校を卒業すると、いわゆる「おしん」のように、女中というか、下女というか、いろいろな仕事につきながら生きてきた、と私は母から聞いたものです。

 口癖はいつも、「若い頃もっと勉強したかった」、「遊ぶこともできないままに、青春時代は、(石川啄木の「一握の砂」を彷彿とさせるかのように、)働いて、働いての日々だった」と。しかしこの話は、といいますか、この話も少しばかり、あるいは大きく中身が違うんですね。

 確かに「おしん」のように、おしんさながらに働いていたようですが、別に女学校に進学できないほど、それほど貧乏でもなかった、とは母の弟の、私のおじさんの話です。それより、勉強が嫌いだった、それでできなかった。それで上に進学する意欲というか気持ちもなかったんじゃないか。もちろん、母親の世代は進学する者はごく少数で、ましてや女性は。しかも育った環境がそこに加わりますね。愛媛県の長浜という小さな町から、船で約45分の青島という小さな島でした、私の母が生まれてから小学校時代を過ごしたのは。

 付言しますと、この長浜に石原慎太郎のお父さんは一時いたんですよ。そこの船会社?で働いていたそうです。青島の話は私の保養所に密接につながるんで、後日ゆっくりと話しますので、聞いてください。さらに付言しますと、大江健三郎はこの長浜からも近い内子という町からさらに山に入った大瀬町というところで生まれたんですよ。私の高校の先輩です。と言っても、何の関係もありませんが。このくらいにしておきます。

 前口上の続きに戻りますね。私が今でも覚えているのは、中学1年生の頃、夕食の最中に父が思い出したようにポケットから茶色の小封筒を取り出して、「おい、これ」と片手で母に突き出した途端、ちどり(千鳥)さん(私の母の名前です)が急に怒り出したんですよ。まさに今から思えば、上野千鶴子さんのように、父に説教していたんです。「男ばかりが働いているんじゃありませんよ、私だってこうやって毎日のおさんどんから子育て、その他いろいろ家事仕事しているんですよ。ちゃんとそれを認めて欲しいんですよ。私もあなたの稼ぐ給料の半分はもらえる資格があると思いますがねえ。偉そうにそうやって突き出すんじゃありません、両手で感謝の気持ちを込めて、渡してくださいよ」、とね。この時の食事は気まずい雰囲気でしたよ。ジャガイモとニンジンとごぼうが、それこそ一つの鍋に一杯なんですね。あと僅かな鶏肉ですね。毎日同じような食事でしたね。私はいつも食べ物に文句を言うのですね。「美味しいものが食べたい」とね。その時は、父もそんな状況で相当に腹たっていましたから、私に八つ当たりでしたよ。何も言ってないのにねえ。「文句言いたいのか」と、ね。

, 話を戻します、また私の母については聞いてください。それと、特攻志願で硫黄島に行き訓練中に負傷して、千葉県の館山での治療後に小笠原諸島の父島で終(敗)戦を迎えたという父の話もぜひ聞いて欲しい。正直なところ、私はこの話の前半部についてはまだ信用できていない。疑い深い、悪い息子だけど。それは別にして、父の世代(父は大正14年生まれ)も本当に不幸だ、と今もつくづく思うよ。毎年8月15日が来るその前後は特にひどくなるんだが、戦争で亡くなった戦友のことが未だに脳裏から離れないんだね。

 父は自分が死んだら、地元の愛媛大学医学部に献体するとのこと。(畳の上で死ぬのも申し訳ない、とこれまで嫌というほど聞いたものですよ。父自身もそう言いつつ、そうした思いと現実に生きてきた自分の存在との甚だしい乖離に悩み続けてきたんですよ。丁度それは、第一の生き方しか出来ないくせに、偉そうに第二の生き方を説いてきた私自身とも重なって、その腹いせに父に辛くあたってきた私自身にも、それは当てはまるんですね。)これは本当で私もその手続きに立ち会った。寂しいけど、父はずっと何かを背負い続けながら、私をここまで育てて、見守ってくれている。父は今も戦っているんだ、自分の仲間たちを戦争で殺しながら、何の責任も引き受けなかった者たちと、ね。もちろん、それは相当に複雑で厄介だよ。父自身にも跳ね返ってくるからね。何れにしても、未だ戦争は終わっていないいんですよ、父にとっては。

 私はこの親父との長い長い親子間のセンソウを繰り返し、50の半ばを過ぎて、心底やっと尊敬できるようになったんだ。理由はわからないけど、いま分かるのは、私がずっと子供だったからだね。乳離れ、イヤ父離れができなかったんだね。マザコンのくせしてさぁ、始末に負えないんだよ。その父には相当にひどいことや傷付くことばかり言ってきたけど、一番ダメだったと反省したのは、栗林中将の手記『硫黄島からの手紙』を原作にした日本側から見た硫黄島の映画と、あと忘れたけど「荒野の用心棒」、「ぺール・ライダー」(この映画を見たとき、主演で監督をしたイーストウッドはアラン・ラッド主演の「シェーン」をかなり意識していたと感じたんですね)、「ダーティ・ハリー」のクリント・イ-ストウッドが監督した「父親たちの星条旗?」の映画を見に行かないかと誘った時に、私に寂しそうに小さな声で、「ばか言うなよ、あそこには一緒に戦った仲間の骨がまだたくさんあるんだ。だいたい映画を撮ること自体がーーー。」

 さすがにたくさんの戦争ものは読んでいたから、映画の元になった日米の著作も読みあさっていたけど、とにかく愚かなことを言ってしまった。半藤一利さんの硫黄島に関する著作についても、この人は硫黄島について知らないなぁ、穴の深さはそんなもんじゃなかった、もっともっと深いし入り組んで、まるで迷路みたいだった云々と、それこそ私に語ってくれたものだ。
 ごめん、今日はもうやめとくよ、ちなみに、2005年に御茶の水書房から出してもらった拙著『覇権システム下の「民主主義」論』なんだが、本当は『「英霊」に捧げる「民主主義」論』にしたかったんだけど、出来なかったんだね。それで副題に、「英霊」をうみ出したのは何か、と付けたんだ。社長に「御茶の水は左翼の出版社ですよ」と言われてね。結局、これは確か三章のタイトルに使った、と記憶している。
 しかし私も「左翼」なんだけど、一応は。これからも一生私は、左翼でしょう。だって、ずっと日本は「右傾化」が続くと思うからね。右傾化とは、私の定義によれば、「富や権力を持った一部の者が彼らの思うがままに社会を導き、それに反対する者をあの手この手で排除、排斥していく流れであり、またそうした状況を目の当たりにした賢い者たちが、こぞってその少数の集団に取り入ろうとして、力のない貧しい者たちに背を向けて見殺しにしていく流れであり、さらにそうした力のない者たちは、これまたそうした趨勢をどうしようもないものとして傍観ないし仕方ないものとして受容する流れが形成されいく、そうした社会一般の傾向」、と見ている。
 天邪鬼の私は、どういうわけか力もないくせに、みんなとは違う方向にいたいんだ。私の左翼とは、マルクスがどうのとか社会主義や共産主義ではこうだとか、そんなことに依拠しないんだよ。憲法がどうとかも関係ないね。私の感覚というしか言いようがない。つまり、左翼の定義も私には、先の右傾化の定義で示したような、そうした社会一般の傾向に自分の出来る範囲で抗う者達となる。い一番の悲劇は、従来左翼と言われた者の多くが、社会一般の傾向を免れていないことかもしれない。
 本当に前口上が長いんだけど、許してね。こうしながら、第一と第二の「保養所」の違いを考えているんですよ、無い知恵絞ってね。ホンマに辛いですけど、正直楽しいですよ、ごめんなさいね、「不謹慎な物言い」ばっかりで。
 今日は、というか今日も本当に楽しい一日を送ることができました、神様に感謝致します。


















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オニクタラムの新しい「クニ」、第1と第2の「保養所」の違いについてー(1)

2014-03-13 | 社会 政治
何と言えばいいのかわかりませんが、前回は、と言っても今日のことですけど、まだ独り言を続けようとしてたのに、突然の投稿となってしまいました。若い頃ならいざ知らず、「おじいちゃん」になるのも悪くありません。都合のいいように解釈します。誰かが私の記事を読みたくて、それで神様が勝手に投稿したんだと。

まぁ、それはさておき、前回の「天下四分の計」の話に関連した続きをしたいんですね。つまり、この新しい「クニ」でしか提供できない「サービス」についての話です。魏、蜀、呉でも当然ながらそれに似たサービスを提供していますが、このクニのサービスとは違うんですね。それは何故か。生き方が異なるからなんですよ。何回か記事でもお話しましたが、前者のサービスは第一の生き方に、後者のそれは第二の生き方に依拠していますからね。

私たちはいやがおうでも、尾崎豊の歌の歌詞にあるように、「僕が僕であるために勝ち(負け)続けなきゃならない」世界とそこでの戦争に直面しています。その世界とそこでの戦争には、相互に密接な関係があるにせよ、それぞれ異なる性質と性格を持つ二種類の世界と戦争なんですよ。最初の世界とそこでの戦争は、「僕」自身の生命と安全の確保に関わるものです。次の異なる世界と戦争は、「僕」の生命と安全が保障された上で、それを前提として、その「僕」が生き続けていく世界とそこでの戦争です。

これについては少し以前の記事でも話していました。そこで例え話を紹介していましたが、覚えていますか。みなさんが学校に行ってそこで勉強するときに、そこで「いじめ」の被害者と加害者の関係がつくり出される仕組みが存在しているとき、教室で授業を受けたり、勉強することは簡単なことではありません。先ずは自分自身の生命と安全を確保しなければなりませんね。加害者だっていつなんどき被害者になる恐れも十分に予想されるでしょう。そうした生命と安全が確保された後で、授業が受けられて勉強できるんじゃないですか。こうしたことを踏まえますと、いわゆる「受験戦争」はこの前者については、つまり受験する者の生命や安全の確保が当然のこととされた話になっていますが、それはやはり違う、と私は思うんですよ。つまり、受験戦争の前に、別の異なる戦争とそれが展開される世界が存在しているんだということです。この違いを区別し理解した者が話す日米経済貿易戦争の話は、それを理解できない者が語るそれとはやはり違うんじゃありませんか。「じゃ、それは何ですか」、と私に聞く前に、考えてくださいね。

これについてもう少しだけ言及しますね。今日の若者は、この「僕」の生命と安全の確保がままならないんですよ。この最初の世界とそこでの戦争において、「僕」の生命と安全の確保が難しいのに、どうして次の世界とそこでの戦争に向き合うことができますか。もちろん若者の中でも上手く立ちまわれる者はいますよ。しかし私のモデルでも描いたように、もはや団塊の世代が享受できた、そんな幸せは来ないんですよ。つまり、Ⅱ期、Ⅲ期の「段階」ですね。もう今は、Ⅰ’期を経て、Ⅱ’期そしてⅢ’期の前期の段階に、あるいは既に中期にさしかかろうとしている、そのような段階かも知れない。それでは一体どうするんだ、ということになりますね。

これに関して付言すれば、すぐ後でも話しますが、ここで私が識別して語っている最初の世界とそこでの戦争に関しては、国際政治の研究者は普通のこととして理解できるのに対して、後者の世界とそこでの戦争については、あまり理解が及ばないんですね。逆に、政治学者や経済学者は後者の世界とそこでの戦争に関しては、少なくとも理論よりも歴史を勉強しているものならば、それに関して理解できるのですが、前者に関する世界とそこでの戦争については、全くと言って良いほどに素人なんですね。なにか偉そうに言ってますが、みなさんも自分で確かめてくださいよ。何が言いたいのか。これは当然ですよ。分業で研究していますからね。研究はもう凄まじいほどに分業というか個別化が進んでいますので、仕方がありません。問題となるのは、それでは、当然ながら、的確な診断なんて無理だということなんですね。

そうなんですよ。無理だということ、それを前提に知識人の言うことは聞かなければなりませんね。私も隅で研究している者ですが、私の言うことも、甚だ危ない、怪しい話だと警戒しながら聞いてくださいよ。ただし、幸いなことに、いや違いますよ、これは悲しいことですけど、私には多くの信者がいませんからまだしも、いわゆる売れっ子の物書きやテレビのコメンテーターの話には警戒が必要ですよ。それを断った上で、私はお伝えしたいのは、みなさん自身が、みなさんの頭で考えながら、いろいろな情報を関係付けて物事を判断するしかないんだということです。

「原子力ムラ」の研究者やそれに群がる人たちが都合のいい嘘を言っているだけではないんですよ。それを批判、非難したりする者だって、かなり怪しいんですよ。だから私がみなさんに偉そうに何かを教えられるとしたら、あのモデルで描いた世界とそれに関する図式なんですよ。これは何度も見て考えて、わからないところは遠慮なく聞いてくださいよ。

話を戻しますね。「丸山真男の頬を引っ叩きたい」云々の論考が一時話題となりましたが、そこで論じられていた格差社会の中で呻吟している若者たちですが、こうした仕事のない、あっても不安定で給料の安い若年層の抱える深刻な問題に、それこそ「日本」と「日本人」はどう関わるのか、関われるのか。しかも、もはや若者だけじゃない、日本の勤労者全体にまで関係している。当然それは世界においても然りですね。私がこれまで書いてきたものは、もはや平和憲法を武器として掲げても、日本国憲法をいくら守っても、こうした問題の解決にはならないんだということを、先ずは確認することが大切だということでした。

皮肉な言い方をすれば、仕事のない者や非正規労働に従事する者が平和憲法を守れと主張しているというよりは、革新政党の幹部やその支持母体の組合幹部や国会議員や弁護士やジャーナリスト、大学の先生たちといった自分たちの雇用を確保した者たちが、雇用を確保できない、あるいは不安定な者たちに向かって、説いているような構図じゃないんだろうか。

問題はもはやそんなところにあるんじゃない、全く構造が転換してきているんだと。覇権システムとその秩序に関する構造と、それを前提とした上で織り成される「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係史の構造が、変容しているんだということです。前者は、覇権国の米国から、その覇権のバトンが中国に手渡されている真っ最中であること、そのための米・中覇権連合の動きが活発化していること、それに呼応して世界的な政治的経済的な変動が導かれていること、ですね。

そうした覇権システムとその秩序の構造転換の動きを受けてというか、それと連動しながら、「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係史の構造転換が進んでいること、それは「ニクソン訪中」を合図とするかのように、そしてS・ハンチントンの「文明の衝突」論やA・フランクの『リ・オリエント』が端的に物語るように、これまでのヨーロッパ優位からアジアへ、そしてアフリカへとその優位の関係が移動して行く流れにも垣間見られるということ、そう私は見ています。

ですから、もう何度も言うのは控えたいのですが、憲法や共産党が主張していた「内部留保」云々の話ではないんですね。誤解の無いように付言しておきますね。もちろん、何もしないよりはそうした提言をするのは悪くないし、他人様がこうしたい、こうすべきだと言うのに、横からケチをつける筋もありませんから、それはそれでいいんです?。しかし、少し前の私のモデルですね、〈21世紀の「普遍主義」に関するモデル(図式)の紹介〉をご覧になればお分かりのように、もちろんこれも何度も話してきましたように、私の「仮説」ですし、そうならないことだってありますが、もし私の描いたように今後の世界が進むと仮定すれば、今の世界のリーダーや有識者が語っている、例えば雇用に関する解決策云々の話は全て無理だということなんですね。

しかしいくら私がここでそれは無理だ、おかしいんだと話しても、みんな第一の生き方を当然として、前提としていますから、最初から相手にされませんね。ノーベル賞をもらったアメリカの経済学者が、もう一度ニューディール以降の米国の社会に戻せ(この主張は「強い日本を取り戻せ」と同じなんですね。ここには左翼も右翼も同じ発想というか見方が出ていますね。どちらも上述した私のモデルで描いている、二つの種類の世界とそこでの戦争に関して理解が足りないんですよ。)、そのために「政策」を変更すべき云々と論じていましたが、私は唖然としましたよ。また北欧の福祉国家を見習えと未だにそんな事を話す研究者にも驚きますよ。なぜ私が唖然としたり、驚くのか。それは私がこれまで考えてきたこと、その凝縮されたのが例のモデルなんですが、それを前提としているからですね。

換言すれば、私が呆れたり驚く学者や知識人の側からすれば、彼らも私の見方に驚くんでしょうから、オアイコなんですが、ね。それでみなさんに伝えたいのは、今後の世界がどう動いていくのか、よく考えて欲しいのですね。と同時に、私がこれまでの話を踏まえて更に言いたいのは、別に安倍さんやオバマさんや世界の指導者やその御用学者や御用マスコミが話す嘘は、最初から分かりきったことですから、私はあまり気にしていません。むしろ、そうした嘘を見抜いて、それに対抗する側のいわゆる「善良なる知識人」が、全く平気で嘘をついてしまっている、そのために結局は権力者に迎合してしまい、むしろ私にとっては、権力者以上に有害無益な存在となっていることなんですよ。ああー、また私の友達が減ってしまった、寂しいですね、こんな物言いしかできなくて、ね。

誤解の無いようにね。もうそんなこと(つまり、私と彼らとの見解の相違に関する議論)はいいんですよ。いくら話しても聞いてくれないし、伝わらない。これもお互い様。たとえ聞いてくれても、どうにもならない。お互いに生活が掛かっていますからね。「見解の相違」としかならないんですね。

だから、私はイヤ違いますね、それは見解じゃなくて、生き方の違いですよ、と静かに言うだけですね。これからの私の仕事は、第二の生き方を目指そうとする者を結集して、「集落」をお互いに構成しながら、保養所というか、クニを造ることなんですから。そのための先ずは新しい「クニ」造りに関する「情報」というか「知恵」の集落を構成しなければいけませんね。

それゆえ、当分は第一の生き方に依拠しながらあの「衣食ーーー」の営為の関係史の世界の中で給料をもらって、そこで提供される衣・食・住のネットワークにすがって生きていくんですから、あまりというか、そんなに偉そうなことは言えませんが、ね。

なかなか先に行けませんね、ごめんなさい。





























































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オニクタラムの新しい「クニ」造りにおける柔らかい「掟」ついて考えるー2

2014-03-13 | 社会 政治
本当は、今から、少しまた昨日の続きをこれから、と思っていたんですよ。それでね、すぐ下のくだりの、何日の何の前にカーソルを合わせてクリックしたら、なんとそれで投稿となったんで、もう一度、記事一覧をクリックして、この言い訳を書いているんです。もう雇用は、これでやめておけということでしょうから、今日はさらに漢字や文字や文章の間違いが多いかも。それでは、今日も目を休めます。心配しないで。これも言い訳で、別のを書いたり、読んでいますからね。


何日かにかけて少しずつ書いていますが、また今日12日の話です。記事は下にいくほど前の日の記事となっています。話も結びつかないかもしれませんが、お許しください。

昨日も「天下三分の計」を考えていました。元の話は、あの「三国志」にある魏・蜀・呉
を念頭に置いているんですが、そこでの三国は、「勝ち(負け)続けなきゃならない」世界とそこでの戦争を前提としています。これに対して、私はそうした世界とそこでの戦争から絶対に切り離されることの能うような「空間」を確保できるなどとは思いもしていませんが、それでもなんとかそうした空間を少しずつでもいいから創造してみたいと考えているんですよ。

つまり、従来の三分の計が、またそこでの蜀が、巍と呉と対峙する世界の中で新たに第三番目の国家を創造していく、そのために「勝ち(負け)続けなきゃならない」世界とそこでの戦争を自明のものとしていく生き方(つまりは第一の生き方)を前提としている、という話であるのに対して、私のそれは、勝ち続けることもなく、また負け続けることもないそうした世界とそこでの戦争を前提とする第2の生き方を想定しています。

もう少し厳密に言いますと、「天下四分の計」ですね。私の考える「ク二」は魏や蜀や呉と戦わない、権力闘争をしないんです。既存の、既成の政治には参加しない、関わらないんですよ。イヤ、そんな力なんかありませんから、それらの諸国の間をひたすら漂い続けなきゃならないんです。しかし、このクニは、それらの諸国ではどうしても提供することのできない「サービス」を提供します。そうすることで、存在することを許される、そうした存在意義というか資格を「かちとる」んですね。

ここで私が言わんとするのは、社会党や共産党といった革新政党も第一の生き方を前提としていますから、彼らが政権を取っても、保守政党と同様に、同じことを繰り返すだけなんですね。それを批判しても仕方がないことですよ。天に唾することでしょう。だって、そうした生き方しかしてこなかったんですから、政権に就いたとたんに変われるはずがありません。ましてや世界の仕組みはさらに熾烈な親分ー子分関係のセカイですから。誤解の無いように、この仕組みからは抜け出せませんよ。「脱」することはできませんよ、いくら第2の生き方がどうのこうのといってもね。

それはそうなんですが、だからこそ、その可能性の低さというか制約を早く確認しなければいけませんと語ってきたんですよ。「犠牲のシステム」に「平和憲法」をいくら武器として戦いを挑んでも、そんなことはもう無駄だということを知りましょうよ、と言ってきたんですね。しかし何故そうした物言いをしてきたかといえば、既存の、既成の政治に騙されないで、そうした制約の中でもやれることだけはしましょうよ、ということなんですね。誤解の無いように、騙される人たちはそれでいいんですよ。与党や野党とその圧力団体のリーダーたちは、彼らは、決して騙されてはいませんから。彼らは確信犯ですよ。問題は、彼らに従う人たちと従わない人たちなんですね。私は前者に対しては少し小さい声で、後者には大きい声で、騙されないようにと言いたいんですね。誤解の無いようにね。騙すのが、騙されるのが悪いなんて私はサラサラ言うつもりはありませんよ。みんな生きるためなんですからね。お互いの立場は尊重しますよ、私もね。だって、弱い者が強いものと交際するときは、強いもののルールに従わなければなりませんからね。そのルールというかその制約を理解した上で、やれることをすればいいじゃないですか。

私がここまでの記事でお伝えしてきたことは、選挙(投票)に行かない、支持政党なしの層の人たちならば、既に「気分」としてはお分かりのはずだし、革新政党の幹部だって、とっくに現実は変わらないことを、変えられないことを、分かっていることでしょう。
しかも、そうした状況に胡座をかきつつ、自分の都合に合わせてこしらえた現実の壁というかそうしたものの前で足踏みしてしまう。換言すれば、せっかくここまで築いてきた「セコイ人格」をもう別のそれに変身はできないんですよ。これは少し前までの私のことですよ。唯一それを免れられる可能性の高い人たちがいるとすれば、やはり若い人たちですね。もちろん、ただ若ければいいというもんじゃあありませんよ。私がなんでこうした記事を書いているかといえば、その若い人たちに希望を託すためですね。と同時に、私自身こうした記事を書く事で、これから墓場までの私自身の人生に、私しか背負うことのできない重荷を引き受けることなんですよ。

この言い方は別に偉そうでも何でもありませんよ。誰にもそうした引き受けるべき重荷があるんですよ。私の「神様」はどなたか分かりませんがね、神様は確かに、私のような下品で卑しい者の心にも、確かにいてはるんですよ。神様はホンマに素敵なイタズラをなさるんですよ。私がさっき「重荷」と言ったでしょう、これって「主(しゅ)に(おもに)」ということじゃありませんか。

つまり、今の私にはそれはもう重荷などではありませんよ、希望の灯りなんです。たくさんの希望の灯りがこの世界にはあるんですね、みなさんが早くみなさん自身に一番ふさわしい、その灯りをともすことを、神様はきっと見守っていはるのじゃありませんか。
私がこれまで書いてきた覇権システム云々のナンジャラカンジャラというかヘンジョウコンゴウの関係史のセカイとそこで生きることの苦しさは、その暗闇の中でひたすら自分が引き受けるべき天命を知るための、私の魂の修行だったと、今は私は悟ることができるのですね。

オットー、かなりの読者が引いてしまったかもしれない。といっても、引く読者もそういないんだが。話を無理に戻しますね。

私のこれからの役割は、新しい「クニ」造りのために、それに関わるためにこの世に遣わされてきた人たちが集える空間を見出すことです。と同時にそうした間に、多くの情報をお互いに交換して、各人の希望の灯りをそれぞれが確認する、そうした「場」をつくることですね。もちろん、それは集落であり、保養所であり、クニです。

ここで一番重要なのは、手に職がある、それで食や衣食があるということですね。口に職がある人はあまり役には立ちません。いくら弁が立っても、田植えや畑仕事には繋がりませんし、医療や介護の現場では邪魔になるだけですが、そういう人たちは、つまりは私のような者たちは、できる人に従って、学べばいいんです。とにかくしなければならないことはたくさんありますから。

前回の記事

少し、目の調子が良くないので、休もうとしてたけど、コメントがあってそれ見たら嬉しくなってしまった。それで誰かは分からないけど、コメントを書いてくれた人にまずありがとうと、それが言いたくて記事を書いている。

「おじいちゃんは嬉しいよ」、これがこれからの私の喜びを示す表現。こちらでもいつもそう言っている。もちろん、日本語で。日本語しかできないと思っていたけど、こちらの先生はもとより、院生の中にも私より日本語ができる中国人がいる。日本語も正直なところ、私のレベルではできるとは言えないが、まぁそんなことメーシャー、メーシャーだよ。おじいちゃんなんだから、もう気にしない。もちろん嘘だけど、気になるけど、それでも仕方がない。

もうすぐ、3月末には日本に戻るけど、今回の約1年間は有意義なものだった。私のようなセコイ、小さな卑屈な人間でも、何か出来ることがあればお手伝いしようという気持ちがまた芽生えてきたのは、これからの生きる糧だ。多くの「中国人」に助けられてここまでやって来られた。私にとって、彼らは中国人の前に、私の友達だ。たまたま、中国人だったということ。
「日本人」とか、「中国人」とかにこだわる時代ではもうないはずだ。10年前に、内モンゴルに行った時、そこの人たちに、お前はモンゴル人じゃないかと言われたんだが、まぁ当たり前だろう。日本人と言ったって、元をたどれば、モンゴル人、中国人、朝鮮人その他いろいろな人間の混血じゃないか。それが「大和民族」と称し、「日本人」を名乗っただけのこと。
中国人の「漢民族」だって、同じような歴史を有している。

私が日本にいた時もそうだが、こちらに来てからはそれ以上に痛感したことの一つに、いわゆる「在日」云々の発言や中傷記事に見られる「シャオ・イーベンレン」の存在である。本当に情けない連中である。あいつは「在日」だと、なにか自分たちとは異なる存在であるかのように、軽蔑した物言いをする人たちは、それじゃ自分たちは何人だと思っているのだろうか。もし「日本人」だと言うならば、それをどうやって証明するのだろうか。DNN鑑定ならば、証明できない。アジア地域のいろいろなところに日本人がいるからだ。それが国家権力によって「日本人」という存在に「創造」されるだけの話なのだが、それが「だけの話」にならないから厄介なんだ。
その権力によって、同じ「日本人」であるはずなのに、不当に差別され排除される「日本人」が生み出されている。これは中国でも韓国でも、また北朝鮮でも同じこと。アメリカだろうと、ヨーロッパ諸国だろうと、同じこと。そうした「同じ日本人」が抱えている「苦しみ」には目を向けないくせに、あいつは「在日」だと罵る連中は、一体どんな「日本」と「日本人」を構成している者たちなのだろうか。















ごめん、また寄り道してしまった。さて新しい「クニ」造りにおける柔らかい「掟」を考えるの2回目だが、このクニというか保養所というか集落は、決して社会主義とか共産主義を目指すものではないことを、最初に断っておきたい。生産手段の国(公)有化とか、私的財産(所有)権の廃止とか、営業・通商の自由の制限とか,公正貿易の推奨だとか、私は一切求めないし、そんなことが覇権システムとその秩序が支配するこの世界において実現できるなど思いもしない。残念ながら、これまでの私の研究はそれを皮膚感覚にまで染み込ませるものであった、体に覚えさせるものだった、と言っても良いだろう。
オニクタラムの「夢」だなんて掲げているくせに、一切きれいごとは考えていない。無理なことは無理なんだから。ただしそれを断った上で、じゃその制約の中でできることをすればいい、それだけだ。誰がそれをする。それはそのことに気がついたものたちが、仲間がすればいい。だって、いくら政府に頼んでも、日本国家や日本社会に訴えても、いわゆる「日本人」と僭称する人々に頼んでも、誰も聞いてくれないし動かないんだから。それでうだうだと、俺のように、ブログの記事を書いたり、読んだりして、それでまぁ、仕方ないかで終わってしまうとすれば、これって、たいへん怖いことだよね、いや、実にもったいないことだよ。君の私のいろんな才能が結局何も磨かれないで、そのままウンともスンとも言わないというか、とにかく止まったままなんだから。
ここで少し例え話をするよ。
いくら「ナース・コールが響いっても」動けないものは動けないんだよ。これを世間様に私がいくら伝えても、世間様はわかってくれないから、わたしがからだをはってでもじぶんのむすめ

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