読者と共に考えたい『21世紀の〈孫子の兵法〉ー「システム」とその関係の歩みから読み解く「民主主義」論の〈可能性〉とその〈方向性〉について』
〈恐(怖)ろしいほど老化は進行中〉
前回記事の続きをと考えて、これまでのブログ記事をいろいろと検索していたところ、びっくりというか唖然といった感じになった。なんと、前回記事は、もう既にこのブログで掲載されていたではないか。勿論、私が投稿したのだが。それに、「陰謀論」についても何回かの記事で述べていたのを確認した。そんなこんなで、記事の検索をしているうちに、とてもじゃないが、これでは先に進めないことに気が付いた次第。
〈私自身が少し前にしておきたかったことに、今さらながらであるも、気が付いた〉
本当は、2014年に上梓した拙著の次の著作をまとめたかったのだ。その気持ちは2016年の拙論「歴史叙述の神話ーーー」を発表した後に、さらに強くなっていったのだが、私の目の状態を、と思うと、なかなか踏ん切りがつかないままで、その間、盲学校の生徒としての勉強もあり、なんだかんだで先送りしていたのだ。
そこに、コロナ禍が重なり、なんともし難く、ブログの記事を書いて心身を持ち直そうとしたかと思えば、その記事を読み返しては逆に落ち込んだりで、少し中断したり、また書いたりと、なかなか厳しい状態が続いていた。そこに安倍・菅内閣における森友加計問題から今日に至る度重なるスキャンダルの連続とマスコミ報道のソンタク姿勢に嫌気がして、(付言すれば、こんなもの言いしかできない私自身に吐き気を感じて、)どうにもならない気分の中で、諦めというか厭世観に少し浸り始めていた。
思えば、私自身の研究が進むにつれて、「どうすれば私たちの社会はもっと良くなるのだろうか」の問いかけに代えて、「どうして社会はまったく良くならないのか〉を問い続ける中で、私自身が絶望の淵に、自分自身を導くような内容の著作を著すに至り、そこから抜け出せないままにあった。
それは今も同じか、さらに憂鬱な気分はつのるだけなのだが、同時に、そこからそうした私の気分をやはり文章として残しておくことは大事かもしれないと思うようになったのである。とくに、コロナ禍の社会の中で、何でもかんでもコロナのせいにすることで、私たちが隠そうとしている「不都合な真実?」を、私はきちんと整理して、子供や孫たちに書き残しておいた方がいいかもしれないと感じるようになったのである。
もっともそうは言っても、何か特別なことをこれからするというわけではない。これまでのブログ記事を、上で紹介した次回作のタイトルに合わせる形で章立てして、そこに入れていくというように編集するだけであるから。ただ、これが相当に厄介だし、時間を要するのは確かだろうが、あせることはない。ゆっくり、ぼつぼつとすればいいだろう。まぁ、そんなわけで、当分はこのブログはお休みとする。今までお付き合いくださり、「ありがとうございました」、と申しておきたい。
(最後に一言)
読者の中で、私の編集作業に付き合ってもかまわないという奇特なお方がいれば、是非とも、ご協力お願いしたいものだ。私のメール・アドレスは、muratakunio@yahoo.co.jp
厚かましい話だが、協力しようとされる方々は、各人の考える章立てと、その(こ)見出し、そこに配置すべきブログ記事に関する素案を準備しておいてほしい。本当に厚かましい限りだが、お願いしたいことである。なお、メールはパソコンでお願いしたい。スマホは音声で聞けないので、できればパソコンでお願いしたい。本当に厚かましい。
何か最初から弱腰というか弱音?。しかし、これも正直な気持ちの表れ。毎日毎日がたんたんとして過ぎていき、それこそあっという間に一年が終わってしまう。今はそれでもいいじゃないか、とやっと思えるようになったものの、さすがに、そうは言っても、それも、やはりなぁ、という感じ。