日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

私は一体どのような社会の実現を目指しているのか

2024-02-27 | 日記
私は一体どのような社会の実現を目指しているのかー私の語る「システム」の前では「バリアフリーの会」や「バリアフリー党」云々の話など「戯言」に過ぎないのは初めからわかっていることではないのか


(最初に一言)


 それにしてもなのだが、長渕剛の歌にある「ろくなもんじゃねえ」の毎日に、さすがの私も参った、参ったである。それでも、子供や孫に少しはええ格好をしておかなければとの思いから、私にしては相当に無理をして生きている。それでもそうしなければ終活は、もっと惨めになるだけだから。




 私の語る「システム」に何とか一矢報いたいものだと、ダメ元ながら「バリアフリーの会」や「バリアフリー党」のアドバルーンを打ち上げてはみたものの、なんとも言い難い、し難い現実を前にして絶句するのみ。もっとも、そんなことは最初から分かりきったことであるから、何度落ち込んだとしても、嘘を言い続けるしかないと、私自身はさばさばなのだが、それにしても私自身の甘さというかバカさ加減にはあきれてものが言えない。。


 別に美しい空間を目指しているのではない。ただただ今よりは少しでもましな空間をの思いからあれこれと思案しているのだが、現実は厳しい。障碍者であれ健常者であれ、「勝ち続けなきゃならない」世界・セカイの中で繰り広げられる戦争・センソウに四六時中動員というか組み込まれて生きていかざるを得ないことから、そうそうきれいごとばかりを言っているわけにもいかないのは、当然なことだと割り切ることしかあるまい。


 だが、だからと言って、あらゆることが許されてしまったら、それはいくらなんでもダメだろうとなるはずなのだが、現実はそうでないから、どうにもならないのである。例を挙げればこれまた切りがない。世界の最富裕層の1%が背後に控えているイスラエルの傍若無人なる蛮行を前にして、誰も歯が立たない現実の中で、私は生きている、生きていかざるを得ないことを悟るとき、人権がどうの、いじめがどうの、平和がどうの、自由がどうの、民主主義がどうのなんて語ること自体が薄っぺらく思えて、どうにもならないのだ。


 だが、それでもよく分かったのは私たちの従来の普遍的価値や普遍主義に関する議論は、すぐ上で指摘した世界の1%を占めるに過ぎない最富裕層が、彼らの御用学者や御用メディア、御用国際機関等々を介して垂れ流してきた〈神話〉に過ぎないということではあるまいか。それゆえ、私たちはそれとは異なる別の新たな「ふへんてきかち」と「ふへんしゅぎ」を探求しなければならない、と私はみている。




(最後に一言)


 今回記事のタイトルは、私自身を慰めるために書いたものだが、私は私自身が生きていると実感するのは、誰かに騙されて情けなくなった時に、ホンマに馬鹿だよ、何度騙されたら気がつくのかと、そんな情けなくも悲しくなった時なのだ。そんな時こそ、「ろくなもんじゃねえ」を聞きながら、元気を出そうと。



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(仮称)「バリアフリーの会」と(仮称)「バリアフリー党」をなぜ私たちは必要としているのか(4)

2024-02-05 | 日記
(仮称)「バリアフリーの会」と(仮称)「バリアフリー党」をなぜ私たちは必要としているのか(4)




 今回記事を書く前に、前回記事投稿後に〈(阿修羅)総合アクセスランキング・瞬間〉に掲載されていた記事「ガザにより、ヨーロッパ哲学の倫理的破綻が露呈された(寺島メソッド翻訳NEWS)http://www.asyura2.com/23/warb25/msg/328.html 投稿者 HIMAZIN 日時 2024 年 2 月 04 日 10:57:34: OVGN3lMPHO62U SElNQVpJTg http://tmmethod.blog.fc2.com/blog-entry-2248.html ガザにより、ヨーロッパ哲学の倫理的破綻が露呈された<記事原文 寺島先生推薦>」に気がついた。〈阿修羅〉の記事の中でも私がいつも注目している中の一つ[(寺島メソッド翻訳NEWS)http://www.asyura2.com/23/warb25/msg/328.html 投稿者 HIMAZIN ]の投稿記事である。


 そこに紹介されている記事内容は、私がこれまで批判的に論及してきた「システム」の下で提供され続けてきた欧米産出自の「普遍的価値」と「普遍主義」に対して厳しく論難している。私もその内容には納得している。こうした見方というか考え方が、もっと従来の左翼運動を支えてきた人々にも共有されることを期待するのだが、おそらくそうした私の願いは容易には叶わないだろう。


 そのためには、これまでの民主主義論のコペルニクス的転回を必要とするのは勿論のことであると同時に、大塚久雄氏が『社会科学における人間』(岩波新書 黄色版)で推奨していた「ロビンソンクルーソー的人間」存在と、彼(彼女)が一人の独立した権利・義務関係の責任主体としての個人を担い手としてつくられてきた、「近代」以降から面々として続く私たちの社会構造の根本的見直しを迫られるに違いない、と私はみている。


 それは同時に、日本国憲法に対しても向けられることになる。従来の「護憲」対「改憲」といった次元とは異なる憲法上の論議を必要とするのだが、おそらくこうした方向性へ、私たちが導かれる公算ははるかに引くと言わざるを得ない。それほどまでに私たちは、これまでどっぷりと近代的「知」のヘゲモニーによって洗脳され続けてきた、と私は言わざるを得ないのだ。それに関連して言えば、あの戦争での敗北後のGHQの占領統治とその後の米国による日本支配における由々しき問題は、近代憲法の流れを汲む日本国憲法体制の下で、こうした近代的「知」の抱える不条理を直視しその宿痾を告発できないままにあったことである、と私は思うのだ。


 その一番の問題は、前回記事でも述べたように、私たちの共同体として位置する国家を構成する人間関係の基本的単位は、一人の独立した諸個人が前提とされているのだが、それは〈[A’]→[B’]→×[C’]〉のモデルで描かれる差別と排除の人間関係を前提としてつくり出される人間存在であるということなのだ。もう少し直截に言えば、〈[A’]>[B’]>[C]〉の図式で示される差別と排除の関係を前提としているのだ。こうした人間関係を日本国憲法体制はその裡に組み込んでいると同時に、近代的「知」の営みは、そうした人間関係を当然の前提として展開されてきたということなのだ。


 こうした観点から、前回記事で紹介した〈?世界不平等研究所が発表した報告書「World Inequality Report 2022」が興味深いデーターーー〉を見直すとき、あるいはトマ・ピケティ著『21世紀の資本』で描かれているフランス革命前夜から続くおよそ230年間にもわたる構造的格差の存在を確認するとき、私は先のモデルで示した差別と排除の人間関係の存在とそれを支え続けてきた近代市民革命以降の近代の憲法体制に目を向けざるを得ないのである。


 さらにそこから私が強調しておきたいのは以下の点である。すなわち、近代以降の世界各国の憲法体制は、私の語る「システム」論で言及してきた{[A]→(×)[B]→×[C]}のモデルに示されるように、差別と排除の「親分ー子分」関係を前提としてつくり出されてきた「システム」の下で、つまり市民革命以降の「システム」においてはA(文明)、B(半開)、C(野蛮)の関係を前提としながら、それぞれのグループにおいてその出現を見たということである。


*ここで行論の都合上、Aの文明を西洋文明に、Bの半開とCの野蛮を非西洋文明として位置づけておく。なお、文明、半開、野蛮の区分は福沢諭吉の著書『文明論之概略』に従って使用していることを断っておきたいい。


 私の語る「システム」論で示される「システム」から見れば、いわゆるAの「西洋文明」はB(半開)、C(野蛮)から成る「非西洋文明」との差別と排除の関係からつくり出されてきたということである。そこではAが差別し排除する側に位置し、それに対してBとCはAによって差別され排除される関係に位置している。さらにここでの関係に付言すれば、BはAとともに、Cを差別し排除する関係にも位置しているということである。


 ところが、そうした関係は1970年代を分水嶺とするかのように構造転換・変容していく。すなわち、1970年代以降から今日にかけてB、CAの関係から成る新たな差別と排除の関係をつくり出す「システム」の形成と発展の歩みが見られることとなる。そこでは、これまで差別され排除されてきた非西洋文明諸国が、差別し排除してきた西洋文明に位置するAを排除し差別する側に、その立場を逆転し始めることになる。そうした現実を踏まえるとき、冒頭で紹介した〈阿修羅〉の投稿記事の論者であるハミド・ダバシが「道徳的堕落」の中で強調している「くだり」は、再考されるべきではないか、と私は言わざるを得ないのだ。


 ここにそのくだりを引用貼り付けておきたい。そのくだりは、ーーー私に言わせれば、パレスチナに関するハバーマスの道徳的破綻は、ヨーロッパ哲学とそれ以外の国々との植民地的関係における転換点を示している。世界はヨーロッパ民族哲学の誤った眠りから目覚めたのである。今日、私たちがこの解放を得たのは、パレスチナ人のような民族の世界的な苦難のおかげである。彼らの長期にわたる歴史的な英雄崇拝主義と犠牲によって、「西欧文明」の基盤にあるむき出しの蛮行がついに解体されたのだ。ーーーとして述べられている。


 私はここに描かれている今後の世界が向かう方向性に関するダバシ氏の見方があまりにも楽観的に過ぎるのではないかとの危惧を抱いている。西洋哲学や社会科学に対する氏の評価は、私も大いに頷けるのだが、私の語る「システム」の中で西洋文明は勿論のこと、非西洋文明も形作られてきたことを鑑みれば、今後もBやCグループ内における、またAに対する差別や排除の関係を前提とした新たな植民地支配が引き起こされることを、私は危惧すると同時に、今この瞬間にもおきていると言わざるを得ないのだ。


 その意味では、これまで常識とされながらも西側諸国の知識人によって無視あるいは看過され続けてきた〈「西欧文明」の基盤にあるむき出しの蛮行〉を非西洋文明が継承する可能性を否定することはできないのではあるまいか。それゆえ、蛮行は解体されるどころか、「システム」の今後ますますの発展とその強化(高度化)のために、継続されるのは必至である、と私はみている。


 すなわち、金の成る木としての「戦争」を組み込んだ「システム」それ自体の歩みを前提とするとき、第2、第3の「パレスチナ人」が世界の此処彼処で生み出されるに違いない、と私は考えている。と同時に、第1の犠牲者であるパレスチナ人は、イスラエル建国の前後から続くA、B、Cから構成される「システム」の形成と発展の中で「システム」の人身御供とされたホロコースト・ジェノサイドの犠牲者としての存在でもある。


 そこで問題とされるべき「システム」は、確かにAの文明に位置した諸国とそこに暮らす人々がB、C諸国とそこに暮らす人々を差別し排除しながら、彼らを巻き込みながらつくり出されたと位置づけ理解するのは当然なことではあるものの、だからと言って、BとCの諸国とそこに暮らす人々がすべてそうした差別と排除の一方的関係に甘んじてきたわけではなかったのである。彼らもAとそこに暮らす人々を利用しながら、なんとかしてこの「システム」の階梯の上方へと這い上がろうとしていたのだ。


 そうした「システム」内での「僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない」過酷な生存競争から弾き飛ばされた存在がこの第1のパレスチナ人であり、さらにその後に続くであろう第2、第3のパレスチナ人とその予備軍ではなかろうか。いずれにしても、私の語る「システム」は、西洋文明と非西洋文明とが合体されてできた混成の「システム」であることを銘記しておかなければならない。


 それは一体何を意味しているのだろうか。これまで差別され排除されてきたとされる非西洋のB、Cグループを構成する諸国とその国民は、否が応でも、これまで西洋の専売特許とされてきたジェノサイドを、今後は自ら引き受けたり、それに手を貸すことを余儀なくされるということである。それゆえ、私はダバシ氏の指摘するように、それほど楽観的には今の情勢を捉えることはできないのも、私の正直な見方である。


 それを断った上でさらに言えば、ダバシ氏によるこの記事は、これまで私たちが看過してきた西洋哲学や社会科学によって紡ぎだされてきた近代的「知」の抱える病根を、私たちに垣間見せてくれたという意味において、私は率直に感謝を申し上げたい。私自身も、この記事に接することで大いに勇気づけられた次第である。と同時にまた、私たちの社会の隅々に至るまで、今なお圧倒的とも思われる近代的「知」の影響力を前にして、なんともし難い思いを禁じを得ないのだ。


 そんな私だが、それでも今はダメモトの精神で、(仮称)「バリアフリーの会」と(仮称)「バリアフリー党」の結成に向けてあれこれと思案し模索する悶々とした日々の中で、何とか前を向きながら、これまたダメモトの精神でもってカラ元気ながらも生きている次第だ。



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(仮称)「バリアフリーの会」と(仮称)「バリアフリー党」をなぜ私たちは必要としているのか(3)

2024-02-04 | 日記
(仮称)「バリアフリーの会」と(仮称)「バリアフリー党」をなぜ私たちは必要としているのか(3)




 昨日(2024,2,2、金曜日)の参議院本会議での岸田首相の施政演説に対する代表質問に臨んだ令和新撰組の木村英子議員の質疑を聞いていたのだが、私は自然と拍手喝さいを送っていた。木村氏は能登地震で被災して避難所生活を送っている障碍者や高齢者、婦女子の立場から見えてきた避難所生活における彼らが直面する生活上の差別や排除の問題とその改善策や解決策について、首相とその他の議員に、そしてテレビの視聴者である国民に、障碍者としての自らの立場を踏まえながら声を発していた。


 私は前々回記事で引用貼り付けた年金記事を思い出しながら、木村氏に対する首相の答弁内容を聞いていた。行論の都合上、そのくだりを再度引用貼り付けておく。(引用貼り付け、始め)ーーー上位10%の富裕層が資産の76%を独占している?どうして独占できる?世界不平等研究所が発表した報告書「World Inequality Report 2022」が興味深いデータを公開しました。報告書によると、世界の富は以下のように分布していました。


・上位10%の富裕層が資産の76%を所有している


・中間40%の中級層が資産の22%を所有している


・下位50%の貧困層が資産の2%を所有している


この報告書によると、上位10%の富裕層が、世界の富の76%を所有していることが分かりました。つまり、資産の大部分は、ごく一部の富裕層によって独占されていたのです。
なぜ、一部の富裕層が資産を独占できるのでしょうか?―ーー(引用貼り付け、終わり)




 これらの数字で描かれる富裕層と貧困層との関係から構成される社会に対して、そもそも国会に集合する政治家の議員と彼らが所属する政党は、この社会の格差をつまりバリアを、少しでもなだらかにしようとする「政治」を行ってきたのだろうか、と自問自答したとき、その答えはすぐさまNOであるのだ。自公政権は言うまでもない。それでは日本維新は日本保守党は、立憲民主党は、国民民主党は、日本共産党は、令和新撰組はと思いを巡らせていくとき、すべての政党は、こうした不平等な社会をほとんど手つかずにしてきたというしかあるまい。


 令和新撰組や日本共産党は、それでも何とかしてこうした格差社会とその抱える問題に対して向き合おうとしているのは私も理解はしているのだが、現状はびくとも動こうとはしないのも確かであろう。そこにはいろいろな原因がある。私はその中でも、「一人の独立した権利・義務主体としての個人」を位置づけ理解してきたこれまでの人間観と、それを前提とした人間関係から構成される社会を何ら疑問視することなく生き続けてきた、私たちの生き方が何よりも問題であったとみている。


 これについてもう少し補足すれば、私の語る「システム」論でも繰り返して述べてきたように、私たちの諸共同体(国家)関係は、{[A]→(×)[B]→×[C]}のモデルに示されるように、差別と排除の「親分ー子分」関係を前提としてつくり出されてきた。そうした諸共同体間における人間関係の基本的単位は、一人の独立した諸個人によって構成される〈[A’]→[B’]→×[C’]〉のモデルで描かれる差別と排除の人間関係である、と私はみている。もう少しわかりやすく図式すれば、〈[A’]>[B’]>[C]〉の関係である。


 これまで私たちが常識としてきた社会とそこでの政治は、こうした差別と排除の人間関係を前提としてきた。その際、私たちの政治は、その人間関係を疑問視することなく、それを所与の現実としながら、そこで生み出される不条理に対して向き合い続けてきたと言っても過言ではない。私からすれば、私たちの基本的人間関係それ自体が不条理であるにもかかわらず、それに向き合いッその関係を別の関係に置き換える試みをしないままにあるのだから、これでは最初からどうしようもないはずなのだ。


 私たちの国家間関係や私たちの諸集団間関係、諸個人間関係は、一人の独立した個人を単位とした差別と排除の関係を前提としてつくられてきた。そうした関係を、他ならぬ私たちの近代憲法とその基本的理念である基本的人権が正当化し合法化しているのだから、これではいろいろなところでほころびが出てくるのは菱ではあるまいか。近代市民革命以降の私たちの社会は、こうした差別と排除の関係を前提としてつくり出されてきたという事実を、本来ならば直視し直す必要があるのだ。


 ところが、そうした諸個人間、諸集団間、諸共同体間における差別と排除の人間関係を前提としてつくり出されてきた社会の中で私たちは暮らしながら、私たちは差別は許されないとか、お互いの存在を相互に尊重し理解することが大切であり、障碍者も健常者と同じように人間の尊厳を保障される共生社会の実現を目指すべき云々と述べてきたのではあるまいか。付言すれば、最近よく聞かれる「インクルーシブ」社会の実現等々の話は、私から見れば、こうした差別と排除の関係を前提とした社会の中に、これまで差別され排除されてきた人たちを囲い込むかのように思われて、彼らを二度以上、バカにするように思えて仕方がないのだ。


 これでは最初からどうしようもない。たとえ日本共産党や令和新撰組があるべき社会とそのための具体案を訴えたとしても、最初から間違っているのだ。私たちがまず取り組むべき問題は、私たちのこれまでの社会を構成してきた基本的人間関係を、〈「関係としての「個人」‐(絆)‐「個人」‐(絆)‐「個人」〉の関係で描かれる、従来の差別と排除の関係とは異なる互譲・互敬の関係へと置き換えられるようにすることが何よりも重要であると私は考える。そのためには、前々回、前回記事で述べていたように、(仮称(「バリアフリーの会」と(仮称)「バリアフリー党」の結成が急がれるのだ。




 それにしてもなのだが、どうして、私は拱手傍観してきたのだろうか。どうして、この構造的格差に、つまり良好な人間関係の流れを阻害するバリアに向き合うことを拒否してきたのだろうか。このままでは、さらに下層の手にする資産は少なくなるに違いない。もしそれが少しでも増えるとすれば、それは中間の中流層の下位に位置した人々が下層に落ちてきたときであろう。それゆえ、何も喜ぶべきことではあるまい。むしろ、格差が果てしなく広がり、圧倒的少数者の富裕層と圧倒的大多数から成る貧困層に分解した超格差社会の誕生でしかない。




 さて、話を金曜日の国会中継に戻すとき、首相は・〈上位10%の富裕層が資産の76%を所有している〉の利害代弁者であると私は推察している。そしてその下の中位40%の・〈中間40%の中級層が資産の22%を所有している〉の利害にもある程度は目を向けている。 それに対して、〈下位50%の貧困層が資産の2%を所有している〉の利害に対しては、あまり関心は持たないというか冷淡な態度を示している、と私は勝手に考えている。それゆえ、新NISAもこの層にはあまり恩恵はないと、私はみている。むしろ国家。政府の責任を棚上げにするばかりか、貧困層のなけなしのお金を巻き上げるための施策にしか私には思えない。


 こうした社会の中で障碍者や高齢者は生きている。勿論、障碍者の中にも高齢者の中にも上位や中位に位置する者がいることは言うまでもない。それはそうだとしても、やはり障碍者や高齢者の置かれた生活環境は今後ますます深刻さを増していくことが予想される。だが、そうした事態に対して既成政党が首尾よくこたえられるかは不明というか、むしろ期待できないとしか言いようがない。


 ただし、そこには私たち国民の責任転嫁と責任放棄の態度が大きく与っていることも確かなことではあるまいか。頼るべき政党がないのであれば、そう感じている人たちが自ら汗と知恵を出し合いながら、自ら政治に参加するための政党を結成することから始めるべきではあるまいか。誰も助けてはくれないのであれば、そう感じている者同士が、たとえどんなに力もなくどうしようもないとしても、先ずは自ら前に向かって動き出すことから始めるべきではあるまいか。


 今一度、下位50%の貧困層が2%の資産しか保有していない、できないという現実とその理由を考えてみるとき、私の語る「システム」論で論述している「システム」が、すなわちそれは、貧困層の良好な人間関係の流れを阻止・阻害する巨大なバリアとして位置づけ理解できると私はみているのだが、その「システム」がこれまで存続してきた理由も垣間見ることができるのではあるまいか。


 それを踏まえて言うとき、私たちは今回記事でも何度も強調して述べていたように、これまでのような一人の独立した権利・義務主体としての諸個人によって構成される〈[A’]→(×)[B’]→×[C’]〉の、換言すれば、〈[A’]>[B’]>[C]〉の関係モデルで描かれる差別と排除の人間関係から、〈「関係としての「個人」‐(絆)‐「個人」‐(絆)‐「個人」〉の関係で描かれる、互譲・互敬の人間関係へと置き換えていく動きを当然とする社会の実現を、先ずは目指すことが何よりも急がれることである、と私はみている。



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(仮称)「バリアフリーの会」と(仮称)「バリアフリー党」をなぜ私たちは必要としているのか(2)

2024-02-01 | 日記
(仮称)「バリアフリーの会」と(仮称)「バリアフリー党」をなぜ私たちは必要としているのか(2)




 私にはもうあまり寄り道する時間は残されてはいないので、要点のみを以下に書いておきたい。


 前回記事でも指摘したように、私たちの社会は中途視覚障碍者の私に対して、健常者の人間と同じように、「一人の独立した行為主体としての個人」であることを暗黙の前提として求めているのだ。そこから「自己責任」の主体としての「自己=個人」が導かれるのだ。健常者の時もそうであったが、中途視覚障碍者となった今の私には、そうした環境で生きることは、さらに難しいことなのだ。


 中途視覚障碍者の私が一人の独立した個人として存在できるためには、同行援護の従事者や支援相談員、社会協議会の構成員、その他の障害福祉に関係・関連した従事者の人たちの協力があって初めて可能となるのである。換言すれば、最初から〈関係としての「個人‐(絆)‐個人」〉を前提として実現される一人の独立した個人としての存在であるということになる。


 そうであるのならば、そんなややこしい話はやめて最初から、私は〈関係としての「個人‐(絆)‐個人」〉の中の「私=個人」としての存在でありたいし、その存在を認めてほしいということである。それゆえ、私は当然ながら、彼らとの共生関係を前提とした私を念頭において、自らの命と暮らしを守るための「政治」を求めなければならなくなる。付言すれば、私はこれまで「命と暮らしを守る」云々の掛け声を聞くことはあっても、残念なことに、その実現を保障できる社会の中で未だ生きてはいないということだけは確かである。


 その際、私の最重要課題は、中途視覚障碍者の私と関係しながら私を守ってくれる福祉関係・関連従事者と彼らの家族生活を防衛することが何よりも大事となってくる。たとえば、彼らの中にベビーシッターや託児所あるいは老人ホーム等々を探している人がいるとき、その問題は、彼らの支援と協力を必要とする障碍者の私にとっても、他人事として済まされないはずだ。私の抱える悩みと彼らのそれらをお互いに話し合いそこから何かの具体策を求めていくことは、私のような障碍者にとっては、本来ならば避けては通れないものではあるまいか。


 ところが、それがまったく何もなされないままに、今日に至ってきたと言っても過言ではあるまい。私たち障碍者とその家族が自ら声を上げないのならば、誰も私たちの抱える悩みや苦しみには気づかないであろう。私たちは少数者であり、私たちだけの力ではどうにもならないのは確かなのだが、それでも私たちを日常生活において支えてくれている健常者の人たちと手を合わせることができれば、政治における発言権は少しは増すはずだ。そのためにも、先ずは障碍者と彼らの支援者・協力者との連帯が必要となる。


 それを何も試みもしないで、あきらめたままでいるのは、モッタイナイことではあるまいか。それゆえ、私は私のこうした思いを実現できるかもわからない実行力のある人たちに呼びかけたい。障碍者とその家族、そして彼らの生活を支援し協力する福祉関係・関連の従事者と「絆」を介した連帯に賛同する人たちを、一堂に会した集会のセッティングを、是非ともお願いしたいのである。厚かましいお願いだが、私にはとてもできそうにはないことだから。


 その集会で、私は(仮称)「バリアフリーの会」と(仮称)「バリアフリー党」の結成を呼び掛けたいのだ。私にとっては、それが何よりも先決だ。最初は十人にも満たない集まりかもしれないが、先ずはやってみることが大切であると私は思う。何しろやるべきことは山ほど多い。この松山から、愛媛全体へ、そして四国へ、さらに46都道府県へ、そこからさらに世界へ、とつながっていく歩みであるから、私の生きている限りは、一先ずこの松山でそれが実現できれば本望である。その後の歩みに関しては、若い世代に託したい。少しでも私ができることは、可能な限りはしておきたい。


 ところで、前回記事でも述べたことだが、今回記事において私が少し補足しておきたいことがある。それは前回記事において、「心身の障碍者」と私が言うとき、現代社会においては、私たちは生活上の対人関係に伴う過度のストレスや緊張状態から、心身のバランスを崩して次第に心も身体も病んでしまうこともしばしばではなかろうか。それが原因で過労死や引きこもりや不登校が常態となった子供や若者、そして職場に働きに行けなくなった大人たち。


 それは心身にある種の障碍を抱えてしまったことを意味しているのではあるまいか。そういう意味において、私たちは従来の〈「障碍者」対「健常者」といった見方とは次元の異なる「障碍」を抱える社会の中で生きているのではあるまいか。私が障碍者というとき、そこにはこのような意味での人々が含まれていることを、とくに強調しておきたい。卑近な例を挙げれば、私自身も、中途視覚障碍者としての障害を持つと同時に、心身にも障害を抱えていると自覚している。


 それゆえ、私は従来のように、「一人の独立した個人」としての人間存在と人間関係を前提としながら、心身の障害を抱えている人たちの生活上の問題解決にあたるのは、もう限界が来ているのではないかと考える。それに代わって、〈関係としての「個人‐(絆)‐個人」〉を単位とした人間関係を前提とする社会を、すなわちバリアフリーの会を、そしてバリアフリー・ソサイアティの実現を目指すことによって、はじめて私たち現代人の抱える心身の障碍とそれを構成するバリアを解消・緩和できるのではないか、と私は感じている。



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