日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

〈「システム」とその関係の歩み〉を理解することによって、少しわかってきたこと(4)ー米・中の二人の「(大)親分」に対して、私たちはどう接していけばいいのか

2021-03-23 | 日記

〈「システム」とその関係の歩み〉を理解することによって、少しわかってきたこと(4)ー米・中の二人の「(大)親分」に対して、私たちはどう接していけばいいのか

(最初に一言)

①私たちが日常において何気なく語る「民主主義」に関する「嘘」の中に、「価値観」としての「民主主義」を共有しているとか、その価値観を大事にするとかの話で、隠していることは、ごまかしていることは何なのか。たとえば、前回記事の中で述べていたことと結び付けて話すならば、次のようなことになる。

すなわち、〈「システム」とその関係の歩み〉を、(たとえば、1970年までの{[A]→(×)[B]→×[C]}を前提として語るならば、)A、B、Cのそれぞれのグループが担うということでは、三つのグループにおける普遍的価値の実現の「段階」の違い、つまり現実社会でのその実現性の程度差はあれ、すべてがこの〈「システム」とその関係の歩み〉を「価値観」を共有することで支えていることではみな同じだということを示している。

だが、それは逆から言えば、そうした価値観の共有にもかかわらず。現実にはその「民主主義」が実現しているAとそれが実現していないCとその中間に位置しているBとの各々の「関係」の問題を隠してしまうことに与る話となっているのではあるまいか。つまり、「価値観」としての「民主主義」を共有しながら、何故そのような現実の社会において、普遍的価値とされる民主主義の実現にみるそうした程度差が導かれてしまうのかという問題から、私たちの目をそらせてしまうことになるという意味では、、結局は、私たちを騙す「嘘」となっている。付言すれば、「価値観」としての「民主主義」を、押し付けられているのかもしれない。

②ここで述べた「価値観」としての「民主主義」は、自由、人権、平和、法の支配といったその他の普遍的価値の実現の話においても該当・妥当するのだが、どうして私たちはこれほどまでに騙されやすいのだろうか。なぜ嘘を嘘として捉え直すことができないのだろうか。そこには、いわゆる「ヘゲモニー」の問題が根深くかかわってくるのは間違いない。

③連日のように、コロナ禍におけるマスコミの「コロナ」報道を見聞きする中で、私たちは無意識のうちに、ある「特定の情報」を刷り込まれていることに気づかされるのだが、こうした特定の情報の刷り込みは、何もコロナに限らない。政治や経済、社会、文化の各方面においても、画一的情報が常に権力集団の手によって提供されている、押し付けられている。

④上で紹介した「価値観」としての「民主主義」の話もそうであったが、最近では、米国のバイデン政権の誕生の下で、中国・ロシアを敵視して、その包囲網を米国主導でつくろうと、各種の言論戦が展開されているが、そこで提供される情報も、特定のそれである。いわゆる普遍的価値を共有している諸国が、それに反する動きを示している中国やロシアに対抗しなければならない云々の話である。

⑤こうしてみてくるとき、これまでの親分とこれからの親分足らんとする米中両国が主導するモメゴトに巻き込まれていくのは必至であるとしても、というか、ずっと巻き込まれてきたというのが正確ではあろうが、そうした現実の
「親分ー子分」の暴力関係の中で、「日本」と「日本人」の命と暮らしを、それではどのようにして防衛することができるのだろうか。

今回は、ここまで述べた①から⑤までの話を基に、以下に話をしてみたい。

とは言うものの、本当に苦しくなる。正直に言えば、日本と日本人が主体的に、自らの意思と判断の下に、何か事をなすことができるなどは到底、考えられないし、できないのだが、それを正直に国際社会に向かって言うこともできそうにないために、結局は「嘘」をつくこととなる。両親分の力の前では、忖度して生きていくしかない。

それで、ずっとお決まりの嘘をついてきた。これまでの嘘は、敗戦直後から親分の米国の力でもって首根っこを押さえられながら、米国が言うように、押し付けてくるように、発言・行動してきた。世界の平和と安定のために、米国と一緒になって行動することが何よりも大事であり、西側の他の同盟国と一緒に、自由、民主主義、人権、法の支配といった普遍的価値の世界的拡大・浸透といった普遍主義の実現を目指すという具合に、である。

翻って見れば、開国以降の日本と日本人は、戦後の歩みとは異なる形には見えても、実は普遍的価値とその実現を目指してきた、あるいは、そうする以外ほかに道はなかったし、それ以外の道を選することも許されなかった、という意味では、{[A]→(×)[B]→×[C]}のモデルで描かれる〈「システム」とその関係の歩み〉を、当時の先進諸国グループがAの役割を担うことを受けて、半中心諸国グループの一員であった日本がBの役割を担うといった形で、「システム」を維持し、その発展に組み込まれていることが垣間見られるのである。

その意味では、たとえて言うならば、戦前も、戦後も、この〈「システム」とその関係の歩み〉の下に、「日本」と「日本人」はその首根っこを押さえられているということになる。同じように、その日本の首根っこを、戦後一貫して押さえ続けてきた覇権国の米国でさえ、また付言すれば、ウォール・ストリートの世界的金融勢力も、この〈「システム」とその関係の歩み〉によって、首根っこを押さえられてきたということなのだ。

またまた話がややこしくなったが、私がお伝えしたかったのは、〈「システム」とその関係の歩み〉によって、A、B、C諸国とそこに暮らす人々は、普遍的価値と普遍主義の実現を迫られてきたということなのだ。Aグループに位置する諸国や諸国民はともかく、普遍的価値の実現の可能性が低いか、まったくと言ってよいほどにかけ離れた状況、状態に置かれているBやCグループとその構成員を念頭におけば、おかしな話に聞こえるかもしれないが、そうなのである。

勿論、それはおかしくはない。実際に、1970年代以降、今日に続く今の〈「システム」とその関係の歩み〉である{[B]→(×)[C]→×[A]}のモデルで描かれる〈「システム」とその関係の歩み〉の下で、かつての先進諸国グループに位置したAの構成員は、格差社会の深化と貧困社会の中で日々の生活に呻吟しながら、それにもかかわらず、かつてのBやCグループの構成員がそうであったと同じように、普遍的価値と普遍主義の実現を嬉々として叫ばされ続けているのである。誠に憐れと言わんか情けない生き方ではあるまいか。

それにしても、なかなか本丸というか前に進まない。米国に従うことで、自分たちの命と暮らしを守る生き方しか知らなかった私・たちが、つまり「日本」と「日本人」が、昔とは異なり力が次第になくなっていく中で、今さら、どのような生き方が可能だと言えるのだろうか。米国だけでなく中国という親分にも、自分たちの命と暮らしを守ってくれるように、頼むことが果たして可能なのか。

そう考えるとき、日本と日本人の「小・親分」がどのように私たち子分の命と暮らしを守ろうとしているのかという問題を俎上に載せなければならなくなる。これは簡単に答えが出てしまう。それは戦前・戦後の日本の親分たちは、平気で子分の命を奪い、暮らしを破壊することに手を貸してきたのではあるまいか。

それはそうなのだとしても、1970年代までは、〈「システム」とその関係の歩み〉によって、幸運にも多くの国民は守られてきたと言うことができるかもしれない。ところが、中曽根あたりから少し状況が変わってきた。小泉や麻生、安倍、そして菅といった親分たちは、〈「システム」とその関係の歩み〉が従来とは異なるように転換・変容する中で、なすすべもなく、そのために多くの子分の命と暮らしはますます危うい状況・状態に置かれている。

ここで考えなければならないことは、おそらくこれが一番大事だと思うのだが、米中の大親分に従う日本の小親分の下で呻吟している子分の国民の生き方というか在り方が問われてくるということであろう。とくに、その中でも、いわゆる「上級国民」ではなくて、「中・下級国民」がカギとなるということである。

たとえば、その彼らが、トランプのやることは良くて、オバマやクリントンのやることは悪いとか、ナショナリズムは良くて、グローバリズムは駄目だとか、あるいは、この逆も然りだが、また、自民党・公明党の与党政権の言うこと・やることは駄目であるが、立憲民主党や共産党等の野党の言うこと・やろうとしていることは良いとか、あるいはこの逆も然りだが、こうした権力との向き合い方というか虚、距離の取り方をする限り、彼らというか、私たち中・下級国民は決して、〈「システム」とその関係の歩み〉を理解するまでには至らないだろう。それゆえ、当然のことながら、米国や中国が国際社会の中でモメゴトをつくり、それを利用しながら、どのように動いていくかを、予想する術など持てそうもない。

残念ながら、私たち中・下級国民も一枚岩ではないし、いわんや積極的に何か行動する中で、権力に対して異議申し立てをする存在でもない。ただ、それでもわかるのは、大親分たちの傲慢さ、小親分たちの愚かしさ・無責任さは理解している。と同時に、私たち自身の無力さ・非力さも痛感しているのも確かなことである。


(最後に一言)

ここまでの話を踏まえるとき、今回も、前回以上に、何かさらに「自滅の刃」状況というか、さらに絶望的な状況に自ら追い込んでしまった感が強いものの、それでもなお、まだ甘い描き方をしているのかもしれない。と言うのも、私自身は自分自身に期待もしていないくせに、私もその中の一員である中・下級国民に対して、なお淡い期待をしているからだろう。いずれにせよ、まるで「八方塞がり」的状態に、相変わらず留まっていることだけは確認できた。裏返して言えば、私自身の無能さだけは何も変わっていないということなのだが。それでも、なんとかもがいて何かを、という心意気だけはなお健在である。

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