私の語る「システム」論から、「〈開かずの間〉としての政治領域」の黙認によって、「日本」と「日本人」の自滅へと至る歩みは加速する-私の語る「システム」論から、都知事選関連報道を介して垣間見られる「自滅」へと至る身近な問題を考えるとき(続・続・続)
(最初に一言)
それでは早速、前回記事の続きといこう。
正直、昨日の記事投稿とそれに至るまでの二・三日間の悶々とした時間はきつかった。会田氏の論説からいろいろと考えることが多くあり、そこからまた私の「システム」論を念頭に都知事選での問題を介した日本政治の在り様をあれこれと愚考していたことから、それは相当に神経の参ることであった。だが、それ以上に有意義な思索のひと時でもあった。それにしても、私たちは相当に困難な時代の中で、先の見通しもつかないままに、それこそ暗中模索といったところか。否、そんな話では済まされないような、どうしようもない絶望の淵にいるのかもしれない。私はそう自覚しているのだが、自公政権に取って代わろうとする野党とその支持者たちは、相も変わらずに、失われた30年がどうしたとか、アベノミックスの経済対策が日本をダメにしたとかの話ばかりで、何か大事な問題には目を向けようとしないのだから、まさにこうした野党とその支持者たちにも、私たちの抱える深刻な問題が見えていないのかもしれない、と私はみている。
それは、前回記事でも私たちが抱えている問題の本源?を論述したように、私たちの自由主義をその内に含む自由主義的民主主義でもっては、もはや貧富の格差に見られる社会の上下の対立・分断関係に対して有効な対策ないし対応はほとんど絶望的であるということである。それを踏まえて誤解を恐れずにさらに言及すれば、小池氏対蓮舫氏がどうのではの問題ではないし、自公対立憲・共産党の選挙戦云々の話などではないのだ。本当は、そんな類の話ではとても収まり切れないはずの難問に私たちは直面しているのだが、私たちはそれに気が付いていないのか。勿論、たとえ気が付いたとしても、おそらくは「打つ手なし」であるのは間違いない、と私は言わざるを得ないのだが。
そうした事態に対して、私たちの対応は既に欧米諸国ではおなじみの極右の政治勢力の台頭と移民・難民に対する差別と排除の大合唱とそれに後押しされた「力」(暴力)の行使、さらにはトランプの登場を熱狂し続けるある種の権威主義的な政治の復活を求めるポピュリズムの動きが顕在化している。こうした点を踏まえて、前回記事での「フランス革命」と「トランプ現象」を、私の語る「システム」論から改めて位置づけなおすとき、次のようにまとめることができるだろう。
すなわち、「歴史叙述の神話」の代表的な一例として語られ続けてきた「フランス革命」は、私の語る「システム」({[A]→(×)[B]→×[C]})の高度化に貢献するフランスの金融寡頭勢力による政治的対応として、私は位置づけ理解している。これに対して、昨今の欧米の政治は、1970年代以降から今日に続く{[B]→(×)[C]→×[A]}のモデルで描かれる「システム」のB、Cにおける高度化を促進すると同時に、Aにおいてのさらなる低度化を促進する、そうした政治的な動きである、と私はみている。それはトランプ現象においても、また日本の小泉政権から安部そして岸田政権へと続く政治の流れにも垣間見られる。
その意味では、Aのかつての先進国を構成した諸国の国民の生活改善と向上には、ほとんど何も寄与しないばかりか、ますます格差社会の進展・深化を放置し続けるのみなのである。それは一言でいえば、虚しい政治でしかあるまい。だが、たとえそうであったとしても、そうした現実・現状をただただ隠蔽し糊塗するために、ひたすらできもしない政治的言説を拡散するだけのパフォーマンスに対して自ら酔いしれるのは、さらに虚しさと白けを増すだけの政治となってしまうのではあるまいか。私はこのように思い悩んでいるのだが、誤解を恐れずにさらに付言すると、さりとて誰も攻めることなどできないのも、偽らざる心境なのだ。何度も言うように、責められるのは、先ずは「システム」を担い支えるシステム人として存在する私ということに変わりはない。
(最後に一言)
こんな話をしても、所詮は詮無いことでしかない。それは、私もよくわかっているのだが、それでも日本と日本人が戦争へと巻き込まれる最悪の事態だけは、何とかして避けたいからとの思いで、書き続けてはいるものの、こうした私の思いそれ自体が、これまたどれほど身勝手なものであるかということも、よくわかっているのだが、これもどうしようもない話である。
それにしても、スッキリしない論の展開とその内容である。読者にはどれほど伝えることができたのか心もとないのだが、今回記事はこの辺で。(続)
(最初に一言)
それでは早速、前回記事の続きといこう。
正直、昨日の記事投稿とそれに至るまでの二・三日間の悶々とした時間はきつかった。会田氏の論説からいろいろと考えることが多くあり、そこからまた私の「システム」論を念頭に都知事選での問題を介した日本政治の在り様をあれこれと愚考していたことから、それは相当に神経の参ることであった。だが、それ以上に有意義な思索のひと時でもあった。それにしても、私たちは相当に困難な時代の中で、先の見通しもつかないままに、それこそ暗中模索といったところか。否、そんな話では済まされないような、どうしようもない絶望の淵にいるのかもしれない。私はそう自覚しているのだが、自公政権に取って代わろうとする野党とその支持者たちは、相も変わらずに、失われた30年がどうしたとか、アベノミックスの経済対策が日本をダメにしたとかの話ばかりで、何か大事な問題には目を向けようとしないのだから、まさにこうした野党とその支持者たちにも、私たちの抱える深刻な問題が見えていないのかもしれない、と私はみている。
それは、前回記事でも私たちが抱えている問題の本源?を論述したように、私たちの自由主義をその内に含む自由主義的民主主義でもっては、もはや貧富の格差に見られる社会の上下の対立・分断関係に対して有効な対策ないし対応はほとんど絶望的であるということである。それを踏まえて誤解を恐れずにさらに言及すれば、小池氏対蓮舫氏がどうのではの問題ではないし、自公対立憲・共産党の選挙戦云々の話などではないのだ。本当は、そんな類の話ではとても収まり切れないはずの難問に私たちは直面しているのだが、私たちはそれに気が付いていないのか。勿論、たとえ気が付いたとしても、おそらくは「打つ手なし」であるのは間違いない、と私は言わざるを得ないのだが。
そうした事態に対して、私たちの対応は既に欧米諸国ではおなじみの極右の政治勢力の台頭と移民・難民に対する差別と排除の大合唱とそれに後押しされた「力」(暴力)の行使、さらにはトランプの登場を熱狂し続けるある種の権威主義的な政治の復活を求めるポピュリズムの動きが顕在化している。こうした点を踏まえて、前回記事での「フランス革命」と「トランプ現象」を、私の語る「システム」論から改めて位置づけなおすとき、次のようにまとめることができるだろう。
すなわち、「歴史叙述の神話」の代表的な一例として語られ続けてきた「フランス革命」は、私の語る「システム」({[A]→(×)[B]→×[C]})の高度化に貢献するフランスの金融寡頭勢力による政治的対応として、私は位置づけ理解している。これに対して、昨今の欧米の政治は、1970年代以降から今日に続く{[B]→(×)[C]→×[A]}のモデルで描かれる「システム」のB、Cにおける高度化を促進すると同時に、Aにおいてのさらなる低度化を促進する、そうした政治的な動きである、と私はみている。それはトランプ現象においても、また日本の小泉政権から安部そして岸田政権へと続く政治の流れにも垣間見られる。
その意味では、Aのかつての先進国を構成した諸国の国民の生活改善と向上には、ほとんど何も寄与しないばかりか、ますます格差社会の進展・深化を放置し続けるのみなのである。それは一言でいえば、虚しい政治でしかあるまい。だが、たとえそうであったとしても、そうした現実・現状をただただ隠蔽し糊塗するために、ひたすらできもしない政治的言説を拡散するだけのパフォーマンスに対して自ら酔いしれるのは、さらに虚しさと白けを増すだけの政治となってしまうのではあるまいか。私はこのように思い悩んでいるのだが、誤解を恐れずにさらに付言すると、さりとて誰も攻めることなどできないのも、偽らざる心境なのだ。何度も言うように、責められるのは、先ずは「システム」を担い支えるシステム人として存在する私ということに変わりはない。
(最後に一言)
こんな話をしても、所詮は詮無いことでしかない。それは、私もよくわかっているのだが、それでも日本と日本人が戦争へと巻き込まれる最悪の事態だけは、何とかして避けたいからとの思いで、書き続けてはいるものの、こうした私の思いそれ自体が、これまたどれほど身勝手なものであるかということも、よくわかっているのだが、これもどうしようもない話である。
それにしても、スッキリしない論の展開とその内容である。読者にはどれほど伝えることができたのか心もとないのだが、今回記事はこの辺で。(続)