№46私の語る「システム」論から、改めて「僕(私)が僕(私)であるために、勝ち続けなきゃならない」世界・セカイの中で生きることの意味を問い直すときー恋愛も家庭を持つことも子育ても、学校で学ぶことも
2023-07-31 | 日記
№46私の語る「システム」論から、改めて「僕(私)が僕(私)であるために、勝ち続けなきゃならない」世界・セカイの中で生きることの意味を問い直すときー恋愛も家庭を持つことも子育ても、学校で学ぶことも会社で働くことも、終の棲家で余生を送ることも、大変であるのは間違いない!
(最初に一言)
今回は、私を含む「システム人」として生きる者のどうしようもない暴力・暴力性について、問い直してみたい。結論から先に述べるならば、その根源的な由来は、「システム」の差別と排除の関係における自己決定権の獲得とその実現に際しての各人の手にする能力というか力の「序列」に従って、私たちの金銭・情・愛の表現方法、そこには正直さとか臆病・卑怯・卑劣さも含まれる、も決められるのではなかろうか、ということである。
「システム」の差別と排除の関係は、「システム」の中で生きている者たちの金銭と情と愛の関係に影響を与えると同時に、逆に後者も前者に影響を与えるのである。ただし、誤解のないように付言しておくと、私の語る「システム」の差別と排除の基本的な関係は、これまで何度も述べてきたように、A、B、C、あるいはB、C、Aの三つのグループの関係から構成されている。それをを前提としながら、らの三つのグループ内においても、またそれら三つのグループ間においても、数えきれないほどの無数の両者の関係が見いだされるのである。
これらの両者の関係についてのメカニズムに関して、私は十分に分析はできないのだが、それでも、「システム」における差別と排除の関係と、金銭・情・愛との関係を推察するとき、それらの関係は、各々が数えきれないほどの関係から構成されていると同時に、それら両者の関係もまた、無数の数えきれないほどの交錯し合う関係から構成されている、と私はみている。
それを踏まえて述べるとき、つまるところ、余裕のある者の愛し方と、それがない者の愛し方には当然ながら顕著な違いがみられる。まさに「衣食足りて礼節を知る」ということになるのかもしれないが、その営為の在り様が、差別と排除の関係を前提とした「私が私であるために勝ち続けなきゃならない」世界・セカイの下での「衣食足りて礼節を知る」営為の関係であることから、そのまま額面通りとはならないのは、至極残念なことである。
私自身の場合、とくに自分の研究の成果をあげることに必死で、退職するまでそんな余裕などできもしなかった。精神的にいつも何かに追い立てられる・駆り立てられるかのように、それこそ「僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない」との思いで精一杯であった。そして、そんな大変な状況・状態の中でも、少し余裕ができたと感じられた時には、
優しくもなれたのだが、その逆に、これではダメだというときには、私のストレスを回りにあたり散らかすように発散させていたから、私の犠牲となった家族はかわいそうとしか言いようがないのだ。
ところで、ここ数回のブログ記事は、いわゆる権力に特徴的な暴力というか暴力性について、ごくごく簡単に述べていたのだが、それを語るのであれば、私やあなたや私たち自身の抱え続けてきた、人間関係における身体的・精神的暴力・暴力性を問わないとすれば、すべてがウソ話となるのは必至であろう。
ここ最近というか、十年近く前から特に思われるのだが、親が子供を殺したとか、その逆に、子どもが親を殺したとか、さらには夫が妻を、また妻が夫を殺したとか、誰かが誰かを殺傷した云々の話で溢れかえり、今では人を殺すこと、殺されることは日常茶飯事であるかのように、私は受け止めるようになってきたから、これはやはりまともなことではあるまい。
どうしてこんな世の中になってしまったのか。おそらくそこには、以下のようなことが深く関係していると、私はみている。すなわち、人類愛と言われる愛の表現の仕方は、「システム」の差別と排除の関係と何ら矛盾することはない。その関係を別の差別や排除のない関係に替えられる愛などでは決してないのだ。だからこそ、平気で親であっても、子供であっても、また何の関係もない他人であっても、彼らの心身を傷つけることができるのだ。このように、私は考えるのだ。
これについて論じていくための、その前提作業として、私の語る「システム」における、すなわち覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムにおける自己決定権の獲得と実現に際しての差別と排除の関係に注目しなければならない。それは、差別し排除する側と差別され排除される側に見いだされる強者と弱者の存在を常につくり出す関係の下で、私たちの自己決定権の獲得とその実現が初めて可能となるということである。
これに関して少し付言すれば、〈構造的暴力〉という概念で語られる私たちの存在それ自体がつくり出す暴力・暴力性の問題が提起されている。それは、もっぱら、資本主義世界における豊かな地域と貧しい地域との格差の関係が作り出す暴力が構造化されているとの告発であった、と私は理解している。
それを踏まえながら、私は私の語る「システム」においても、つまり覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムにおいても、自己決定権の獲得とその実現が可能な者と、そうではない者との格差の関係は、いわば暴力的存在として構造化されている、と私はこれまで論じてきた。その際、J・ガルッングの提唱した構造的暴力との違いを踏まえて、構造的圧力として位置づけ直した。「システム」の中ではこうした構造的圧力を行使する側と、その圧力を甘受しなければならない者とのし烈な闘争が繰り返されているのだ。
こうしたことから、「システム」の中で生きている者にとっては、すべてこの関係を心身ともに受容していくこととなると同時に、この関係から逃れることは、おおよそ不可能であると言わざるを得ない、と私はみている。換言すれば、私たちは、母親の胎内にいるときから、そしてオギャーと産声を上げながら、生まれ落ちた瞬間から死ぬまで、「システム」の差別と排除の関係を、それこそ常に空気のように吸い込みながら生きているということなのだ。
私たちは日常の生活において、何気なく平穏そうに生きているように見えたとしても、一皮むけば、ほとんどの者は必至の思いで生きている、生きていかざるを得ないのが現実の姿ではあるまいか。こんな人々が恋愛して、家庭や家族を持つというのは、それこそ大変なことなのだ。「僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない」世界・セカイの中で、少し余裕ができた時におそらくそうしたことが可能となるのだろうが、それゆえ、もしその余裕が奪われていくとすれば、ひと時の幸せもどこかに吹き飛ばされてしまう蓋然性が高いのではあるまいか。
これらの話を踏まえて、さらに言及すれば、私たちは今ではこれまでのA、B、CからB、C、Aへと構造転換・変容してしまった「システム」の中で生きざるを得なくなってしまったことから、Aに位置していた私たちは、「システム」の低度化の段階の深化に伴い、生活破綻や困窮化に直面する人々が増大していることから、ますます余裕のない者たちが増え続ける中で、犯罪も多発するのは疑いないことだろう。
これに対して、私たちはどんな有効な手立てを講ずることができるのだろうか。その期待はできないというのが正直なところではあるまいか。今ほど「政治」の出番が求められているときはないのだが、その政治がそれこそ嘘つき・ごろつき集団に牛耳られている始末なのだ。もっとも、これは今に始まったことではない。
いわゆるフランス革命に代表される市民革命は、それ以前の絶対王政が支配してきた権力の私的空間にくさびを打ち込み、そこに新たな権力の公的空間をつくり出したと、これまで喧伝されてきたのだが、私から見れば、それは「歴史叙述の大いなる神話」にほかならず、フランス革命以降、今日にかけて、権力はすべて数少ない支配的な有力な私的利害関係者がその担い手となっている私的空間から構成されてきた、と私はみている。
その一つの有力な権力の私的空間が体現してきたのが、いわゆる自由や民主主義を防衛するという空間であり、それに対して対立・敵対する権力の私的空間は、全体主義や権威主義、独裁体制を標榜しているとして、自由や民主主義を掲げる私的空間によって批判され続けてきたのである。
既に、このブログにおいても、幾度か論述してきたように、私の語る「システム」は、それ自体がすべて私的な権力空間で構成されていて、一見したところは、対立し敵対しているように見えるこれら二つの支配的私的な権力空間は、実は裏側では「システム」を担い支えるという観点からは、同じ穴の狢であるのだ。それゆえ、私たちは、いずれの側の空間に位置していたとしても、これら私的権力の暴力・暴力性を担い支持していることにおいて、私の語る「システム」を担い支えるシステム人としては同類なのだ。
プーチンの体現するロシアの権威主義の暴力・暴力性に勝るとも劣らない、私たち西側と称される自由な民主主義が体現する暴力・暴力性を、私たちは自覚し自戒しなければならないのは言うまでもないことだ。残念ながら、ロシアのウクライナ侵攻から今日に至る私たちを取り巻く環境は、まさに先の自由と民主主義を旗印とする私的権力空間の中に、私たちの全人格が埋没してしまっていると言っても過言ではない、と私はみている。
(最後に一言)
こんな状況・状態に置かれている私たちに、私たち自身の姿を的確にとらえたり判断するのは難しいのではあるまいか。なぜなら、私たちの生きる様を映し出す「公」的な鏡は未だ私たちの手にするところとなっていないからである。私たちは、今もフランス革命以来の普遍的価値や普遍主義を信奉して疑わない。そんな人たちからすれば、今回の私のブログ記事も、一笑に付されるのは間違いなかろう。残念なことだが、これも致し方ない。
(付記)
ユーチューブを見ていて、今相当にヤバイ事件が問題とされていることに気が付く。木原官房副長官に関係する事件だ。だが、メディアはほとんど報道していないのだ。これなど、「ウクライナ報道」のやり方と酷似している。とにかくすごい暴力・暴力性を日本の大新聞社とかテレビ局は、自由や民主主義を説く自らの暴力・暴力性を、自覚も自戒もしていないようだから、もう何をか言わんやなのだ。誤解のないように一言述べておくと、これもまた、私的な権力空間の出来事であるから、それは当然のことと言えばそれまでだが、そこまで逆に開き直られると、こちらの方が恥ずかしくなってくるのである。
(最初に一言)
今回は、私を含む「システム人」として生きる者のどうしようもない暴力・暴力性について、問い直してみたい。結論から先に述べるならば、その根源的な由来は、「システム」の差別と排除の関係における自己決定権の獲得とその実現に際しての各人の手にする能力というか力の「序列」に従って、私たちの金銭・情・愛の表現方法、そこには正直さとか臆病・卑怯・卑劣さも含まれる、も決められるのではなかろうか、ということである。
「システム」の差別と排除の関係は、「システム」の中で生きている者たちの金銭と情と愛の関係に影響を与えると同時に、逆に後者も前者に影響を与えるのである。ただし、誤解のないように付言しておくと、私の語る「システム」の差別と排除の基本的な関係は、これまで何度も述べてきたように、A、B、C、あるいはB、C、Aの三つのグループの関係から構成されている。それをを前提としながら、らの三つのグループ内においても、またそれら三つのグループ間においても、数えきれないほどの無数の両者の関係が見いだされるのである。
これらの両者の関係についてのメカニズムに関して、私は十分に分析はできないのだが、それでも、「システム」における差別と排除の関係と、金銭・情・愛との関係を推察するとき、それらの関係は、各々が数えきれないほどの関係から構成されていると同時に、それら両者の関係もまた、無数の数えきれないほどの交錯し合う関係から構成されている、と私はみている。
それを踏まえて述べるとき、つまるところ、余裕のある者の愛し方と、それがない者の愛し方には当然ながら顕著な違いがみられる。まさに「衣食足りて礼節を知る」ということになるのかもしれないが、その営為の在り様が、差別と排除の関係を前提とした「私が私であるために勝ち続けなきゃならない」世界・セカイの下での「衣食足りて礼節を知る」営為の関係であることから、そのまま額面通りとはならないのは、至極残念なことである。
私自身の場合、とくに自分の研究の成果をあげることに必死で、退職するまでそんな余裕などできもしなかった。精神的にいつも何かに追い立てられる・駆り立てられるかのように、それこそ「僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない」との思いで精一杯であった。そして、そんな大変な状況・状態の中でも、少し余裕ができたと感じられた時には、
優しくもなれたのだが、その逆に、これではダメだというときには、私のストレスを回りにあたり散らかすように発散させていたから、私の犠牲となった家族はかわいそうとしか言いようがないのだ。
ところで、ここ数回のブログ記事は、いわゆる権力に特徴的な暴力というか暴力性について、ごくごく簡単に述べていたのだが、それを語るのであれば、私やあなたや私たち自身の抱え続けてきた、人間関係における身体的・精神的暴力・暴力性を問わないとすれば、すべてがウソ話となるのは必至であろう。
ここ最近というか、十年近く前から特に思われるのだが、親が子供を殺したとか、その逆に、子どもが親を殺したとか、さらには夫が妻を、また妻が夫を殺したとか、誰かが誰かを殺傷した云々の話で溢れかえり、今では人を殺すこと、殺されることは日常茶飯事であるかのように、私は受け止めるようになってきたから、これはやはりまともなことではあるまい。
どうしてこんな世の中になってしまったのか。おそらくそこには、以下のようなことが深く関係していると、私はみている。すなわち、人類愛と言われる愛の表現の仕方は、「システム」の差別と排除の関係と何ら矛盾することはない。その関係を別の差別や排除のない関係に替えられる愛などでは決してないのだ。だからこそ、平気で親であっても、子供であっても、また何の関係もない他人であっても、彼らの心身を傷つけることができるのだ。このように、私は考えるのだ。
これについて論じていくための、その前提作業として、私の語る「システム」における、すなわち覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムにおける自己決定権の獲得と実現に際しての差別と排除の関係に注目しなければならない。それは、差別し排除する側と差別され排除される側に見いだされる強者と弱者の存在を常につくり出す関係の下で、私たちの自己決定権の獲得とその実現が初めて可能となるということである。
これに関して少し付言すれば、〈構造的暴力〉という概念で語られる私たちの存在それ自体がつくり出す暴力・暴力性の問題が提起されている。それは、もっぱら、資本主義世界における豊かな地域と貧しい地域との格差の関係が作り出す暴力が構造化されているとの告発であった、と私は理解している。
それを踏まえながら、私は私の語る「システム」においても、つまり覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムにおいても、自己決定権の獲得とその実現が可能な者と、そうではない者との格差の関係は、いわば暴力的存在として構造化されている、と私はこれまで論じてきた。その際、J・ガルッングの提唱した構造的暴力との違いを踏まえて、構造的圧力として位置づけ直した。「システム」の中ではこうした構造的圧力を行使する側と、その圧力を甘受しなければならない者とのし烈な闘争が繰り返されているのだ。
こうしたことから、「システム」の中で生きている者にとっては、すべてこの関係を心身ともに受容していくこととなると同時に、この関係から逃れることは、おおよそ不可能であると言わざるを得ない、と私はみている。換言すれば、私たちは、母親の胎内にいるときから、そしてオギャーと産声を上げながら、生まれ落ちた瞬間から死ぬまで、「システム」の差別と排除の関係を、それこそ常に空気のように吸い込みながら生きているということなのだ。
私たちは日常の生活において、何気なく平穏そうに生きているように見えたとしても、一皮むけば、ほとんどの者は必至の思いで生きている、生きていかざるを得ないのが現実の姿ではあるまいか。こんな人々が恋愛して、家庭や家族を持つというのは、それこそ大変なことなのだ。「僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない」世界・セカイの中で、少し余裕ができた時におそらくそうしたことが可能となるのだろうが、それゆえ、もしその余裕が奪われていくとすれば、ひと時の幸せもどこかに吹き飛ばされてしまう蓋然性が高いのではあるまいか。
これらの話を踏まえて、さらに言及すれば、私たちは今ではこれまでのA、B、CからB、C、Aへと構造転換・変容してしまった「システム」の中で生きざるを得なくなってしまったことから、Aに位置していた私たちは、「システム」の低度化の段階の深化に伴い、生活破綻や困窮化に直面する人々が増大していることから、ますます余裕のない者たちが増え続ける中で、犯罪も多発するのは疑いないことだろう。
これに対して、私たちはどんな有効な手立てを講ずることができるのだろうか。その期待はできないというのが正直なところではあるまいか。今ほど「政治」の出番が求められているときはないのだが、その政治がそれこそ嘘つき・ごろつき集団に牛耳られている始末なのだ。もっとも、これは今に始まったことではない。
いわゆるフランス革命に代表される市民革命は、それ以前の絶対王政が支配してきた権力の私的空間にくさびを打ち込み、そこに新たな権力の公的空間をつくり出したと、これまで喧伝されてきたのだが、私から見れば、それは「歴史叙述の大いなる神話」にほかならず、フランス革命以降、今日にかけて、権力はすべて数少ない支配的な有力な私的利害関係者がその担い手となっている私的空間から構成されてきた、と私はみている。
その一つの有力な権力の私的空間が体現してきたのが、いわゆる自由や民主主義を防衛するという空間であり、それに対して対立・敵対する権力の私的空間は、全体主義や権威主義、独裁体制を標榜しているとして、自由や民主主義を掲げる私的空間によって批判され続けてきたのである。
既に、このブログにおいても、幾度か論述してきたように、私の語る「システム」は、それ自体がすべて私的な権力空間で構成されていて、一見したところは、対立し敵対しているように見えるこれら二つの支配的私的な権力空間は、実は裏側では「システム」を担い支えるという観点からは、同じ穴の狢であるのだ。それゆえ、私たちは、いずれの側の空間に位置していたとしても、これら私的権力の暴力・暴力性を担い支持していることにおいて、私の語る「システム」を担い支えるシステム人としては同類なのだ。
プーチンの体現するロシアの権威主義の暴力・暴力性に勝るとも劣らない、私たち西側と称される自由な民主主義が体現する暴力・暴力性を、私たちは自覚し自戒しなければならないのは言うまでもないことだ。残念ながら、ロシアのウクライナ侵攻から今日に至る私たちを取り巻く環境は、まさに先の自由と民主主義を旗印とする私的権力空間の中に、私たちの全人格が埋没してしまっていると言っても過言ではない、と私はみている。
(最後に一言)
こんな状況・状態に置かれている私たちに、私たち自身の姿を的確にとらえたり判断するのは難しいのではあるまいか。なぜなら、私たちの生きる様を映し出す「公」的な鏡は未だ私たちの手にするところとなっていないからである。私たちは、今もフランス革命以来の普遍的価値や普遍主義を信奉して疑わない。そんな人たちからすれば、今回の私のブログ記事も、一笑に付されるのは間違いなかろう。残念なことだが、これも致し方ない。
(付記)
ユーチューブを見ていて、今相当にヤバイ事件が問題とされていることに気が付く。木原官房副長官に関係する事件だ。だが、メディアはほとんど報道していないのだ。これなど、「ウクライナ報道」のやり方と酷似している。とにかくすごい暴力・暴力性を日本の大新聞社とかテレビ局は、自由や民主主義を説く自らの暴力・暴力性を、自覚も自戒もしていないようだから、もう何をか言わんやなのだ。誤解のないように一言述べておくと、これもまた、私的な権力空間の出来事であるから、それは当然のことと言えばそれまでだが、そこまで逆に開き直られると、こちらの方が恥ずかしくなってくるのである。