日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

「移民」の大量流入というよりは、むしろ「リベラリズム」に、すなわち「普遍的価値」と「普遍主義」そしてそれらをつくり出し、支えてきた「システム」の歩みとその「関係」こそが俎上に載せられるべき問題なのだ。

2018-12-18 | 社会 政治

「移民」の大量流入というよりは、むしろ「リベラリズム」に、すなわち「普遍的価値」と「普遍主義」そしてそれらをつくり出し、支えてきた「システム」の歩みとその「関係」こそが俎上に載せられるべき問題なのだ。付言すれば、竹山道雄が「ハイド氏の裁判において、後世の日本人にその確認作業を託した「近代文明」の正体こそが、〈西欧的出自〉の「普遍的価値」それ自体であったのだ。

前回の記事をまとめた後で、私が強調しておきたかった論点をいかに箇条書きの形で示しておいた。ブログの記事は拙著や拙稿ですでに何度も論及してきた内容である。残念ながら、ほとんどこれまで理解されることなく、どちらかと言えば、敬遠されるか無視されてきた話である。勿論、その理由はよくわかる。まあ、そんなつまらない話はここでは予想。そんなことよりも、このブログ記事の読者の誰かに、さらなる作業を託しておきたいとの一念から、書き続けてきたのだ。

むなしい、辛い作業の連続だが、同時にそれ以上に生きがいを、生きてて良かった、自分はこの一行を紡ぎ出すために今まで苦しんできたのだと、はっきりと感じる瞬間があるのだ。もとよりそれは自己満足であると同時に、そこからさらにこれまで見えなかった世界の関係を知ることからさらに自分の存在を嫌悪・懐疑させるのだが。それゆえ、私のような立場の議論も必要ではないかと思うのだ。それでは以下の話にお付き合いいただきたい。

①そもそも「普遍的価値」を礼賛する「保守」とは、「右翼」とは何なのか。

②「普遍的価値」の実現は常に「加害者の人権を擁護してきた歴史ではなかったか。世界大戦での「デモクラシーを全体主義から守る」との掛け声で、AのBやCに対する植民地化や従属化とそれに伴う人権弾圧や抑圧によるAの加害者としての人権が擁護されてきたのではなかったか。

③自由や民主主義、人権、平和、法の支配といった普遍的価値を公的空間(現実は私的空間である)で声高に非難し、批判することに対して、多くの人たちはすぐさま、「あいつは極右だとか、少しおかしいとかの物言いで嫌悪したり、無視、反対するのだが、彼らはそもそも普遍的価値を世に喧伝させた社会的関係が何であり、またその関係はどのように形成され発展してきたかについて、どれほど理解しているのだろうか。

④もしその理解ができていれば、私たちAに位置するかつての先進国諸国に住む者は、システムの歩みとその関係において、[分厚い中間層の解体→民主主義の発展(低度化)]に示されるⅢ’期の中期そして後期の「段階」において引き起こされる格差社会の深化に伴う雇用・健康問題といった「命と暮らし」が守られなくなることに対して、何をしてはならないかに気が付くはずである。

⑤ここでいう「民主主義」とは、「リベラリズム」、つまり「自由主義」と結びついた「自由主義的民主主義」を指している。重要なのは、近代民主主義はアテネのそれと異なり、自由主義を前提として形成、発展されたという点である。

⑥民主主義が批判される際に、忘れてはならないことは、その批判者たちが意図的に、あるいは理解できないままに、自由主義を切り離して語っていることが多いのである。「大衆民主主義」が批判される際に銘記しなければならないのは、その大衆と結びついた民主主義が俎上に載せられる際に、そこからさらに問われるべきは民主主義の問題なのではなく、むしろ自由主義の、その歴史にこそ大きな問題が含まれているのであり、そこに目を向けるべきなのだ、という論点である。

⑦障碍者を差別し、排除する者を、私たちの多くはそれは駄目だとか、消しからないというが、差別し、排除することの何が悪いのかについて、十分に答えられる人が果たしてどのくらいいるのだろうか。

⑧私たちが「人権」の名の下に、差別や排除を批判、非難するとき、私たちの手にしているその人権が、またそれと関連した自由、民主主義、法の支配、平和といった普遍的価値が、そうした差別と排除の関係を前提としてつくり出されてきた「歴史」をどの程度、理解できているのであろうか。

⑨上で述べた「加害者の人権を擁護する」歴史は、1970年代までは、AのBやCに対する、またBのCに対する関係として示されるのに対して、1970年代以降は、BのCやAに対する、またCのAに対する関係として示される。(前回の記事のモデルを思い浮かべてほしい。)

⑩こうした点を踏まえるとき、障碍者であれ健常者であれ、加害者であれ被害者であれ、マイノリティーであれマジョリティーであれ、すべて私たちはシステムの担い手としてのシステム人に他ならず、そのことから、常にだれかが誰かを差別し排除する関係の中に置かれている。「あなた(たち)」は、人種差別主義者とか障碍者を差別しているとかの名の下に、批判、非難することのできる「私(たち)」はこのシステムの中ではだれ一人、存在していないのだ。安易に、差別という言葉を使って、レッテル貼りをして、安全地帯に逃げ込むことは許されないのである。

⑪もっとも、現実には、ここに列挙した論点に従って私たち有権者が行動するのは絶望的だが、逆に言えば、それだけ私たちは政治に無関心となり、また政治に参加する余裕もないような、泥沼の状態に陥っているのではあるまいか。残念ながら、ますますこの状態は恒常化、構造化していくだろう。

⑫こうした状態を打開するために、指導者たちは相変わらず普遍的価値を守れとしか叫ばないから、システムとその関係は強固となり、そのシステムの中で人々はますます絶望的になるだけである。

⑬そして、「極右」とされる政治グループが最後に登場する。彼らは普遍的価値を糾弾して、自由や民主主義、人権、平和の価値を批判、否定するのだが、その普遍的価値を構成する世界的システム、すなわち覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムから構成されているのだが、1970年代以降の{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係からつくり出されるシステム全体から構成される普遍的価値、特に営業の自由、私的財産権の自由にまでは踏み込めないのである。

⑭このシステム内でのAの位置は誤解を恐れないで言えば、B(その中心には中国、インド、ロシア、ブラジルのいわゆるブリックスが占める)と、C(そこには中東やアフリカの新興勢力が位置している)を中心として今後もますます発展、強固になっていく今のシステムにとっては、システムはAの「富」を生み出す多国籍企業や国際銀行家等の富裕層、すなわちすぐ下でも述べているように、A’の上位層以外にはほとんど無用の、不要な付属物と化しているのである。

⑮それに関連して付言すれば、かつての先進諸国のAで起こっている移民騒動や、反グローバリズム運動や極右勢力の台頭の動きは、B、C、Aの関係からなるシステムの歩みには、痛くもかゆくもないということである。B、とCがしっかりとその役割を果たしてくれれば、それで十分なのである。

⑯BとCは、特にBの中国やインドはますます普遍的価値を推進し擁護していく大勢力となると同時に、B、C、Aの関係からつくられるシステムの歩みとその関係はさらに強化されると同時に、普遍的価値や普遍主義のヘゲモニーは世界中にその支配力を浸透させていくだろう。それゆえ、勇ましく移民や外国人排斥とか、国内労働者の雇用を守れと叫んだとしても、結局は極右グループはシステムの歩みとその関係を強化するに手を貸すだけである。

⑰それにもかかわらず、右翼勢力や極右勢力が今後もその力を増大させていくだろう。その力をシステムの歩みとその関係は必要としているからだ。なお、まだB、CAの関係からなる1970年代以降のシステムは「金の成る木」としての働きを十分に示していない。そのために、システム全体の力を増強させなければならないことから、戦争や内戦につながる暴力は、その暴力の手段を提供する軍産複合体は力を得て、それこそ安倍首相の言う「トリクルダウン」よろしく、他の企業や産業を豊かにしていく。

⑱ただし、その豊かさの果実は、あくまでB、C、Aの関係を発展、強化する方向にトリクルダウンするように使われていくから、Aにおいてはあまり効果の期待できない、豊かさとそれを導く経済発展となるのだ。(もっとも、そうは言っても、Aを構成する人々をさらに、A’、A”、A’”グルぷぷから成る、上位、中位、下位の三つの層に分類した時、上位にだけ恩恵がいきわたるように、それに対して注意、特に階にはそうでないように働くのである。このことが、例えば、日本における経済的好景気が長期間続いているにもかかわらず、庶民にその実感が感じられないという状況を表している。)この経済発展を「衣食足りて」に置き換えてモデルを見るとき、{[B]の衣食足りて→[C]の衣食足りて・足りず→[A]の衣食足りず}のように描かれる。

⑲念のために前回記事で示したA、A’、A”の関係はAにおいても、もちろんそれはBやCにおいてもなのだが、「人権」の格差が存在していて、より有利な地点に位置するものと、より劣位に置かれたものとの関係を示している。ここではモデルのわかりやすさのために、三国、地域間の、また三者間の関係を基に述べているが、それはあくまでも基本計である。

⑳ここで上記の点に関連して、大事だと思われる点を指摘しておきたい。A、B、C、またB、C、Aの関係から成るシステムの歩みとその関係において、A、B、CのまたB、C、A、の上位に位置する有利な地点に位置するA’、B’、C’の人々は、共通の利害関係者として、「ウィン・ウィン」の関係にあるのに対して、A、B、C、の、またB、C、Aの下位に、劣位に置かれた、先の利害関係に加わることのできないA”,A’”、B”B’”、C”、C’”の者たちは、相互に対立敵対する関係の中で「ゼロ・サム」の関係の下に相対峙するのである。

すなわち、{[A]→(×)[B]→×[C]}においては、A、B、CにおけるA’、B’、C’の共通する利害関係者のウィン・ウィンの関係と、A”A’”、、B”、B’”、C”、C’”の相互において「ゼロ・サム」的関係が形成されやすいのである。同様に、{[B]→(×)[C]→×[A]}においても同じような関係がつくられるのだ。「移民による欧州の自死」「リベラリズムによる全体主義」(「リベラリズムの自死」)で語られているのは、システムの歩みとその関係における上位の、有利な位置にある者たちの共通した利害関係を維持、擁護することから占め出された、すなわち差別排除された劣位に、下位に位置した人々がお互いに激しく対立、敵対する関係に追いやられていく様を示しているのである。

ここでいう「共通の利害関係」を共有できた、諸国と諸国民における上位の有利な地点に位置した集団が、特に覇権国や中心国の上位と、その関係者が担う企業集団が中心となって「普遍的価値」を、普遍主義をつくり出してきたのである。

何度も語ってきたように、私たちの経済発展と民主主義の発展は、つまり衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)の関係は何十何層の関係から織りなされている。それを丹念に描いていくことがどうしても必要となる。この作業こそが最も重要であり、大切なのだが、それはとても一人や数十名でできるものではない。多くの協力者が必要である。今後、もし私がこれまで提示してきたシステム論やそのモデルを使って、個々具体的な事例研究を読者の中でやってみたいと思われる人たちを念頭に置いた、そのための羅針盤として、モデルが使われることを願うばかりである。


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移民という「自死を選んだ」欧州ー「リベラリズムによる全体主義」-を「システム」の歩みとその「関係」から見るとき

2018-12-16 | 社会 政治

移民という「自死を選んだ」欧州ー「リベラリズムによる全体主義」-を「システム」の歩みとその「関係」から見るとき

最初に断っておくが、まだ私はこの記事〈移民という「自死」を選んだ欧州から学ぶこと「リベラリズムによる全体主義」がやってくる(2018年12月15日 土曜日、『東洋経済』オンライン)〉で中野 剛氏が紹介、解説しているダグラス・マレーの著作を目にしてはいない。幸いにこの記事にある中野氏の著書の要約説明があるので、今のところはそれで十分だろう。

この記事を読みながら、私が危惧する、懸念した点は、著者のマレーやおそらく中野氏もそうだが、「リベラリズム」を神棚に上げていることだ。結論を先取りして言えば、欧州の、あるいは欧米先進国の、そして日本の「自死」を招いた「真犯人」は、まさに私たちが、それこそ「保守」も「革新」もまた「中道」もこぞって理想化し、礼賛し続けてきた当の「リベラリズム」であったのだ。すなわち、自由、民主主義、人権、平和、法の支配といった普遍的価値とその価値を世界中に広めようとした普遍主義だったのだ。

同時に、リベラリズムが現実にどのような関係からつくられてきたかを問う視点が最初から欠落している点だ。たとえば、福沢諭吉の『文明論之概略』にある「文明」、「半開」、「野蛮」の関係から「寛容」なあるいは「健全」とされてきた「リベラリズム」を位置付けた時、どのように理解できるかという問題である。

また「リベラリズムによる全体主義」がやってくる、という見方はある点で、シェルドン・ウォーリンによる「逆さまの全体主義」という論稿に類似している。そこでもやはり、「寛容」な、もう少しはっきり言うと「健全」な「リベラリズム」という見方が想定、前提されているのだ。付言すれば、ウォーリンとは思想的立ち位置は異なっているが、こうした寛容な健全なリベラリズムの文脈に照らすとき、私たちはアラン・ブルームの著作『アメリカン・マインドの終焉』を忘れてはならないだろう。いずれまた別の機会に取り上げて論じてみたい。

さて議論の最初から抜け落ちている問題がある。それはそもそも誰にとっての「寛容」な「健全」な「リベラリズム」だったか、という視点である。また「寛容」とか「健全」といった言い方からはどうしても印象的、感傷的な、つまり主観的な見方しか出てこない。

確かに、欧州世界においてそのリベラリズムの歴史が輝かしい時代があったことを私たちはこれまでの歴史で学んできたが、それも欧州を、また先進国を、非欧州世界から、後進国から切り離した「一国(地域)」からなる欧州、先進国におけるリベラリズムとして描いた結果としてではなかったか。

私のモデルに依拠して換言すると次のようになるだろう。すなわち、{[A]→(×)[B]→×[C]}(1970年代までの共時態・省略形モデル)のA、B、Cの関係からつくり出されてきた「寛容」な「健全」な「リベラリズム」であったにもかかわらず、そのシステムの関係から勝手にAだけを取り出してきて、あたかもAが独力で、独自の力で寛容な健全なリベラリズムをつくり出してきたかのように位置づけ解釈しているのである。

こうした自分勝手な「歴史」の見方は、「欧州の自死」や「リベラリズムの自死」という位置づけ方にも同様に投影されている。すなわち、1970年代以降の世界の歩みを示した私のシステムの歩みとその関係で示した{[B]→(×)[C]→×[A]}(共時態・省略形モデル)の関係からつくり出された「欧州の自死」や「リベラリズムの自死」状態であるはずなのに、これまた同様に、そのシステムの関係から勝手にAだけを取り出して、いわばAだけの閉ざされた空間でナルシスト的観点から、欧州の出来事を分析しているのだから、BやCにおいては、独りよがりな話としか映らない。ましてやシステム全体からとらえた「自死」でもないのだ。

(ここで少し付言しておくと、「欧州の自死」あるいは「リベラリズムの自死」(「リベラリズムの全体主義」)の「出来事」は、私のモデルで描く{[A]→(×)[B]→×[C]}から{[B]→(×)[C]→×[A]}へと、システムの歩みとその関係が変容・再編する動きと結び付けて論じられるだろう。)

当然の結果として、「欧州の自死」や「リベラリズムによる全体主義」云々の議論はシステムの全体を鳥瞰できないままに置かれてしまうのである。

そのために、Aのいわゆる「寛容」な「健全」なリベラリズムの形成と発展がAの植民地主義や帝国主義と、またBやCに対する「寛容」な「健全」な「リベラリズム」による暴力的支配や抑圧、衝撃とその苦悩の歴史、もっと直截に言えば、なぜaの「寛容」な「健全」なリベラリズムは、BやCにおいてその寛容な健全なリベラリズムの成長を許さなかったのか、それどころかなぜ植民地や抑圧地として従属させてきたのかという視点が、結び付けられないままで語られてきたからである。次元の異なるものとして私たちが両者を各々別個に語っていたからこそ、「寛容」であり、「健全」だったのではあるまいか。

また同時に、植民地主義や帝国主義時代に、欧州や欧米世界による「侵略」の下に、非西欧社会はそれこそ「自死」を迫られ続けていたのではあるまいか。開国以降の日本もそうであり、明治維新の時代にその自死を免れるために、国内では琉球民族やアイヌ民族に自死を迫り、また対外的には、朝鮮半島をはじめ中国東北部、台湾やアジア諸国や諸地域に対して自死を迫ったのではあるまいか。

ところで、そうした欧米先進国や日本による中東やアフリカ諸国、アジア諸国に対する自死を迫った原因の一つは、表層的には当時の欧米先進国や日本の「移民」であった。確かに表面的にはそうだ。しかしそうした移民の背後には彼らの政府、国家があり、彼らはそうした国家の後押しを受けて移民となった、あるいはならざるを得なかったのだ。

さらにそうした移民を送り出した国家の背後には、それをせざるを得ないような当時の、また当該時代の国家間の、国際間の、ヒト、モノ、カネの様々な「関係」が存在していたのだ。私はこれまでの拙論において、その関係を、システムによる「構造的圧力」として
論じた。

今日のAの欧州におけるBやCからの「移民」流入による欧州の自死を考える際も、どのような関係の下で、そうした移民としての存在が導かれたかの考察が必要であるのは論を待たないだろう。こうした観点から中野氏によって紹介される、先のマレーの論点を見直すとき、彼の分析はやはり表面的な域を出ていないようにしか思えないのだ。

勿論、そうは言っても、中野氏の解説にもあるように、保守派のジャーナリズトと目されている彼の欧州社会における移民流入にによる欧州文化の自死に関する分析や解釈、リベラリズムによる全体主義への道筋の説明は一読に値するだろう。

またその問題と関連した人種主義的難題、人種差別や排除に関する微妙な細心の注意を要する問題への対処に関して、欧州政治家の過去の帝国主義に対する贖罪意識とか、マスコミ関係者や知識人にみられる寛容なる態度とか人権意識、さらには欧州の思想や哲学上の問題と結びつけて、移民問題を取り上げているのは、中野氏の指摘するように、鋭い分析であるかもしれないが、それにもかかわらず、どうしても自分勝手な、独りよがりな議論に陥っているようにしか、私には思われないのである。

こうした点を踏まえた上で、もう少し論及していこう。たとえば、欧州の指導者が中東やアフリカ諸国からの大量の移民受け入れを「選択」したことにより、その結果として欧州の自死が導かれたとする見方に関して、私はやはり違和感を禁じを得ない。

ここで付言すれば、こうしたマレーによる見方はまた、新自由主義的政策を導入したことにより、これまで豊かであった私たち欧米先進諸国の豊かさが奪われったとする議論にも垣間見られるものだ。

例えば、ロバート・ライシュやポール・クルーグマンの著作で言及されていることを思い出すといい。彼らは、米国の富が70年代以降の一連の新自由主義者の政治家によって導入された新自由主義政策によって分厚い中間層の富が奪われたと述べていた。

ニューディール期以降の米国の黄金期のアメリカ資本主義と民主主義社会の果実が、新自由主義的政治家の政策によって奪われてしまった、と新自由主義者の政治家と政策をやり玉に挙げていた。

ここでも私は、こうしたライシュやクルーグマンによる新自由主義批判の問題点を、上述したように、A、B、CからB、C、Aの関係で示されるシステムの歩みとその関係における変容と再編の動きと結び付けて分析、考察すべきだと考えているが、これに関しては既に拙稿でも論じている。

ところで、先のマレーは「保守」とされていたが、ライシュやクルーグマンたちは、リベラル派とみなされていた。思想信条の違いはあれ、リベラリズムを神棚に上げていることでは、保守または「右派」もリベラル派も、また革新または「左派」も同じなのである。

付言すれば、こうした右派、リベラル派、左派による「リベラリズム」、「普遍的価値」や「普遍主義」を疑いもなく信奉、礼賛してきた問題こそが、俎上に載せられるべきなのだ。日本共産党の普遍主義に対する見方は、まさに安倍首相のそれと同じではないか。

勿論、彼らは安倍首相は言うだけで、普遍的価値の実現を目指すことはしないと反論するかもしれないが、私が拘泥し続けてきたのは、普遍的価値の完全なる実現は、別減すれば、日本国憲法を守り、その擁護の徹底化は、1970年代以降にあっては、{[B]→(×)[C]→×[A]}の世界を実現することであり、それこそAのかつての先進国の格差社会はますます深刻化していくことを意味するとの主張であった。

すなわち、普遍的価値や普遍主義を構成する関係は、私のモデルで描くシステムの歩みとその関係を前提にしているからだ。それはぞっとする内容ではあるまいか。この関係が見えないからこそ、米国の民主主義は1940,50,60年代は素晴らしかったとか、同時期は米国民とその中間層の生活は守られていたとか、それゆえニューディール期の米国に戻れとか、分厚い中間層を取り戻せばいいとか云々の議論を平気でできるのではあるまいか。

いずれにせよ、欧州の自死、米国をはじめ先進国の自死には、移民流入によるものと、新自由主義の導入によるものが関わっていると彼らはそれぞれ見ている。それゆえ、この両者の関連性を検討しなければならないだろう。そのためにも両者の関係、関連を問うことのできる分析視角と分析枠組みが求められるだろう。

こうした問題提起に関して、私のモデルは有益であると確信しているのだが、それは私たちの「存在」とその「歴史」を、「差別と排除の関係」からとらえ直しているからである。そうした関連から言えば、トランプによる移民排斥を批判するリベラル派や左派、そして右派の論者は、自分たちはトランプのような差別や排除を主張する者ではないとか、自分たちはもっと寛容であると思っているだろうが、果たしてそうだろうか。

リベラリズムとか、それと関連した多様性とか寛容は、私が何度も語ってきたように、AB、Cの関係やB、C、Aの関係から構成されるシステムの歩みとその関係を前提として実現されてきたのだから、それこそ、相当な差別と排除の関係の中で、右派もリベラル派も左派も、保守も革新も生きてきたのだから、目糞鼻糞を笑うではないが、同床異夢の関係にあるのである。

すなわち、私たちはいわゆる近代化の流れの中で、ただ一つの生き方」だけを「選択」するように迫られてきたのである。多様な生き方とか、言論や表現の自由をお互いに理想としながらも、ただ一つのシステム、すなわち「覇権システム」「世界資本主義システム」「世界民主主義システム」の「三つの下部システム」から構成される「一つのシステム」の歩みとその関係を担う「システム人」としては、同じ思想、考え方をしている、あるいはそのように飼い馴らされていくのだ。それが異なって見えるのは、システム人として担う役割がそれぞれの「段階」で異なっているからに他ならないのである。

つまり「リベラリズムによる自死」とか「リベラリズムによる全体主義」がやってくる云々以上に、私たちはこれまでずっとあのモデルで描く「ただ一つのシステムの歩みとその関係」に強制的に、あるいはそれを自由と呼ぼうが、連行、動員されてきたのだから、その意味ではすでに「全体主義」社会というか、この世界に暮らす人々を「ただ一つの生き方」しか選択できないような空間の中に、システムは吸い込み続けてきたのである。

ところが、こうした状況、状態の中に私たちは久しく甘んじざるを得ないでいるにもかかわらず、私たちの存在とその生き方を何ら疑うことのないままに、自由主義だとか、全体主義だとかの議論に終始するのだから、これでは先の展望はまったく開けないのではないか・私たちがこうした「ただ一つの生き方」しか許容されない、「ただ一つのシステム」の中で「システム人」としてしか生きられないという問題それこそが、最も恐れなければならない「自死」に関する問題であるはずなのだ。

こうした問題意識をもって世界を語り合うためにも、欧州や米国の黄金時代が、また寛容な、健全なリベラリズムの時代が、どのような世界の関係の中でつくり出されてきたかを、改めて問い直す必要があるのではなかろうか。私のシステム論はそうした問いかけに応えるものであった。

最後に、大事な問題がある。過去の帝国主義に対する、欧州知識人や政治家の罪悪感から、彼らが移民導入に反対できなかったとする見方である。もしこういう問題設定をするのならば、その前に、植民地主義や帝国主義の時代に、寛容やリベラリズムを大事にしてきた彼らやその親たちの世代はBやCに対する加害者としての自らの寛容なリベラリズムの歴史に対して、、良心の呵責を覚えなかったのか、と問わざるを得ないのである。

私はこの種の議論にも不満なのだ。そこには、結局のところ、彼らの寛容な健全なリベラリズムの抱えてきた問題を、便利な議論によりすり替えている、隠蔽しているようにしか思えないのだ。つまり、リベラリズムを神棚から引き下ろして、それを徹底的に検証する作業に背を向け続けてきたということである。

問われるべき問題は、その「寛容」な健全なリベラリズム」と見なされてきたものそれ自体であったにもかかわらず、マレーーの著作の内容は見事にそうした問題を隠ぺいしたかのように思える。もっともそうだからこそ、マレーの著作はベストセラーになったのではあるまいか。

つまり、欧州の政治家の移民導入の容認とか、過去に対する贖罪意識とか、人種差別云々の問題でもって、もっぱら語り尽くされないのだ。寛容な健全なリベラリズム、自由、民主主義、人権、平和、法の支配といった普遍的価値と、そうした価値を世界に拡大することを謳った普遍主義にあるのだ。

欧州の思想とか哲学が行き詰って、「疲れ」てしまった云々の中野氏によるマレーの指摘に関して、私が感じたのは、フランスの哲学者もそれこそ最近の著作ではトマ・ピケティ、彼は哲学者ではないのだが、彼の著作『21世紀の資本』もそうであったが、「存在」を語るにしても、「自由」を論じるにしても、その多くが「パン」と結び付けられない哲学であり、思想であり、またたとえ結び付けられていたとしても、A,B,Cの関係性を問えない議論がほとんどなのだ。

結局のところ、私たちはこのようなマレーの著作で提示されている内容を巡りまた論争を繰り返すのがせいぜいなところなのだろう。決して、普遍的価値や普遍主義を神棚から降ろして考察することはないのである。私が思うに、欧州の思想や哲学の問題は、それは欧州に限られないのだが、普遍的価値が抱える欺瞞性やうさん臭さに対して真っ向から切り込む作業に背を向けてきたことが、マレーの指摘した「疲れ」云々の話に結び付くのではあるまいか。

もっとも、現状では、思想や哲学上の問題を含めて、人文科学や社会科学の抱える問題を洗い直す、そんなことが許される余裕も時間もないだろう。と言うのも、移民による「犯罪」と「破壊」は確かに存在しているし、それがまさしく圧倒的に暴力的であるのも確かである。

それゆえ、そうした眼前の出来事を巡り、私たちはどう対応、対処すべきかに関して、今後ますます時間と労力を費やすのは必至であろう。

その際、移民の暴力を非難する論者が人種差別主義者として批判、非難される、同時にまたそのことから、移民の暴力を非難、批判する声が小さく、また消え去り、移民の暴力を許してしまい、なすすべもなくなってしまう、とのマレーの指摘はその通りだが、同時に、そうした人種差別に対する非難や批判の仕組みを利用して、移民の安い労働力を確保、利用することで、つまり彼らを差別し排除しながら搾取することで金儲けをする多国籍企業やその株主たちは、そうした移民の犯罪を告発しようとするジャーナリストや政治家や大学の研究者を解雇して、むしろ加害者の人権を擁護するように働くだろう。

そこには、営業の自由、通商の自由、私的財産権の自由といったリベラリズムを構成する重要な「自由権」が大いに与っていることを銘記する必要がある。すなわち、ここでも再確認できるのは、リベラリズムが深くかかわっていることである。

そのことは、私のモデルで示す{[B]の民主義発展→(×)[C]の民主主義の発展→×[A]の民主主義の発展]}の世界的な民主主義システムの関係の中における、もう少し丁寧に言えば、{[B]の民主主義の発展→×[A]の民主主義の発展}、また{[C]の民主主義の発展→×[A]の民主主義の発展}の関係における、{[A]の民主主義の発展→(×)[A]’の民主主義の発展→×[A]”の民主主義の発展]}の関係における{[A]の民主主義の発展}の段階に位置できる富裕層を描いていることを意味している。

ここで注意してほしいのは、私のモデルで描く「民主主義の発展」とは、「自由主義」と結び付けられた「自由民主主義」のそれである。それゆえ、このモデルで示される「民主主義の発展」を「自由主義の発展」と、すなわち「リベラリズムの発展」と置き換えてもらっても、何ら問題はないのである。

こうした点を踏まえれば、移民対策は、先進国における低所得層や貧しい中間層の生活を防衛することと密接に関係していることに気が付くだろう。そのためには普遍的価値の見直しが急務なのだ。営業の自由や私的財産権自由の修正や制限は不可欠な問題である。その関連で言えば、今こそ「改憲」が、あるいは「創憲」が急務なのだ。

富裕層から貧しい者への富の配分を許す、そうしたリベラリズムの見直しこそが、本来試みられるべき移民対策なのだが、AのA”に位置する人々は、B矢Cからの移民による直接的暴力や職を奪われたり、彼らのなけなしの貯金を移民対策の費用として取られる一方で、Aの富裕層からも生活困窮者へと押し下げられる圧力を受けるのだ。

それを図式して表したのが、先のB、C、A間における、またA、A’,A”間における「民主主義の発展」の、換言すれば「自由主義の発展」における関係に他ならないのである。

その意味では、マレーの考察に対して、これまでも述べてきたように、「欧州の自死」や「リベラリズムによる全体主義」の主たる要因は、移民受け入れから導かれたというよりも(勿論、移民流入が大きく影響していることを私も否定はしないが、それはあくまでも、システムの歩みとその関係における変容と再編から派生した結果としての出来事であるに過ぎないのであり)、何度も言及してきたように、自由や民主主義、人権といった普遍的価値の実現を導いてきた、自由主義的民主主義の、つまり自由主義の実現を導くA、B、C間における、またB、C、A間における「自由」と「人権」の実現に見る差別と排除のの関係であったと言わざるを得ないのである。

さらに、こうした論に関連して言うと、「加害者の人権が擁護される」というとき、忘れてならないのは、まさに1970年代までのAに位置していた欧米先進諸国の植民地主義や帝国主義の歴史の中でつくり出されてきた「寛容な健全なリベラリズム」の実現の下に享受してきた人権、市民的自由や市民的権利が、マレーが指摘している中東・アフリカからの移民=加害者の人権の擁護の歴史に関する前史を構成してきたということである。

私たちがこうした点を学習し理解しない限りは、システムは私たちを微笑みながら見ているだけではあるまいか。残念ながら、私のような者がいくらそう述べたとしても、私たちにはそうした学習や理解はおそらく到底受け入れられないだろうると言わざるを得ないのだ。それに対して、マレーのような議論がますます耳目を集めていくのは否定できないと思うのである。正直これまた悲しく寂しい限りである。


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いま世界で起きていることー「システム」の歩みとその「関係」から見るときー(2)

2018-12-13 | 社会 政治
いま世界で起きていることー「システム」の歩みとその「関係」から見るときー(2)

(記事の要約)
①システムは戦争を本格化させようとしている。
②今後何が起ころうと、何があっても、決して米国と中国に逆らってはならない。お金で済むのならば、そうすべきだ。これは外交の鉄則である。
③イメージとしては、第Ⅰ次世界大戦から第Ⅱ次世界大戦の両戦間期に、私たちは置かれているとみていい。
④日本と日本人の立ち位置が悪すぎる。
安倍内閣は最悪だが、その内閣を選択したのは私たちだから、私たちも再s区の存在だという自覚が必要。
⑤米国にも中国にも、ロシアにも振り回され続けるのは必至だが、戦争に巻き込まれることだけは避けなければならないのは当然。(もっとも、この言い方はおかしい。巻き込まれる云々以前に、既に巻き込まれている。なぜならシステム人として生きているからだ。)
⑥それを踏まえた上で、システムの誘いに乗らないためには何をしてはいけないかを、まず確認する必要がある。
⑦何をすべきかなど考えてはいけない。システムの中での日本と日本人の立ち位置を理解したなら、そもそもそんな偉そうなことはできないことに気が付くはずだ。
⑧私がこのブログに書く目的は、とにかく多くの人たちにシステムの歩みとその関係を知ってほしいからだ。
⑨それができればきっと何をしてはならないかが見えてくる。(例えば、覇権国となる中国のすぐ横で軍事大国化を目指すのは愚の骨頂だ。今の自衛隊は、災害対策に専念することで十分なのだ。と言うのも、福島原発事故後、日本と日本人は「核攻撃」の被害に直面し続けているのだ。災害対策と言っても、今の日本のそれは、ある面では相当な軍事対応・行動の意味を含んでいるのではないか。第9条の条項と矛盾しないで、自衛隊を強化させる方法は考えられる。このような物言いをすると、システムはその通りだと、おそらく頷(うなず)くかも知れないいうだろうが、今の日本はそうした核の被災国だという点だけは銘記しておかねばならない。それゆえ、自衛隊の出動は早急に、なのだ。集団的自衛権の行使云々の話などに首を突っ込む前に、本来ならやるべき問題だったと。



私のモデルは何度も言うように「仮説」である。しかし、私は必ずこの仮説が現実のものになるだろうとの思いを、1994年3月19日号の『週刊ダイヤモンド』に掲載された投稿論文「夏目漱石の苦悩に学ぶ日本経済の構造転換ー「民主化」の先進国が辿る経済衰退史」をまとめた際に強く抱いたことを、つい昨日のように覚えている。

勿論そうならないことを望んではいるが、残念至極だ。ただし、そんな世和事を言う時間はあまりない。

しかし、そうは言っても、現実には国会で多数を占めない限り何もできないし、それを考えただけでもどうにもならない話となりそうだが、それでも何とか打開策を考えたいし、最後までそうすることだけはあきらめたくないのだ。

私がこのブログで記事を書くのは、顔も分からない「読者」がもしかして、さらなる考察を深めることにより、従前とは違ったメッセージを世界に発信してくれるかもしれないと、記念するからだ。そちらの方が、国会で多数を占める云々の話よりもはるかに健全ではあるまいか。

昨日の記事でも述べたように、私はシステムの観点から世界を、また日本を考察することが大事だと考えてきた。とにかくその都度その都度の便利な物言いや味方を避けるためにも、どっしりと腰を据えた地点に自らを置きたいのだ。

例えば、私たちは領土問題に関してお互いに嘘ばかりを言い続けてきたのではないか。もともと「北方領土」問題は戦争の敗北した後には存在していなかったし、ポツダム会議でソ連の領土に含まれるものとされていたのではなかったか。

そウした「歴史」を確認した上で、1956年の日本とソ連間での領土に関する協議や外務省のホーム頁で発表されていた「北方領土は日本固有の領土」だとの見方を、私たちは冷静に斟酌しなければならない。国際関係における力関係が背後にあって、条約もその時々の力関係の中でその解釈も変更されるし、場合によれば、まったくその効力が失われることもある。

システムは領土問題をいつも利用してきた。そこで、システムはある時は米国を使い、またある時はソ連を使い、そして中国を、また北朝鮮を使い、私たちの頭を混乱させ、ナショナリズムの渦に放り込もうと画策するのだ。

システムはその自己完結運動の歩みとその関係をじっくりと検証され丸裸にされるのを恐れている。

それゆえ、私たちは、その都度、システムの歩みとその関係を冷静に再考しながら、眼前で展開される出来事から距離を置いて、判断することが求められる。

先の北方領土問題で私が懸念するのは、安倍外交の弱腰を批判して、野党やマスコミが、最初から本当ならば、本来は、ありもしなかった「四島」を返還しろとの大合唱をする危険性である。

また「二島」返還を先行して云々の話も、そもそもおかしいのだ。こんなおかしい話に私たちは今おかれているにもかかわらず、それをおかしいと批判する声が聞かれないのだ。

また、私のようにそれはおかしいという物言いをすれば、必ず「非国民」のレッテルが貼られてしまう。これもおかしい。

なぜなら、グローバル化の掛け声の下、移民法や水道事業の民営化の名のもとに、日本と日本人の安全と富を外国に、外国人に売り渡す行為こそが、本来ならば、正真正銘の非国民的行為だとして糾弾されるべきはずが、そうはならないのだ。

日本と日本人をバラバラにしている安倍内閣が、「日本を取り戻す」の掛け声の下で、北方領土問題や北朝鮮による拉致問題を解決しようとしているのだから、これこそ本末転倒の話ではあるまいか。

ところで、こうした話を熱くなって語る「私」を、システムはにんまりしながら眺めているのだ。これならまだ十分にうまくやれる、と。システムは、システムが提供するマスコミを使いながら、連日のように、私たちの命と暮らしにかすりもしない出来事を、面白おかしく、また肝心な話は注意深くそらしながら、私たちの思考を曇らせていくのだ。


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いま世界で起きていることー「システム」の歩みとその「関係」から見るときー

2018-12-12 | 社会 政治

いま世界で起きていることー「システム」の歩みとその「関係」から見るときー

ごく簡単に述べると、1970年代まではAとC,BとCの関係の深化から、「金の成る木」としてのシステム{[A]→(×)[B]→×[C]}(省略形、共時態モデル)の関係が発展、安定して強固になる歩みであった。

AとCと、BとCの関係はより強い「私」がより弱い「私」を差別、排除する関係を構築する過程であり、同様にまたBとCの関係もそうであった。それは現実には収奪する形として、植民地主義とか帝国主義として描かれてきた。

具体的には、英米仏の欧米自由民主主義体制グループによるCのアジア、中東・アフリカ、ラテンアメリカ諸国に対する「侵略」と、そこに暮らす人々の富の収奪であった。これらの関係は、国家と国家、また国民と国民の関係として描かれるが、同時に「公」と「私」の関係としても描くことは可能である。

「公」と「私」の関係は、つまり「国家」と「国民」、「公権力」と「私的権力」の関係として描ける。そこから、結局のところ、「私」と「私」の関係として描くことができるのである。その意味で、上述の「私」は位置づけられている。

またBとCの関係では、Bの全体主義体制グループとして教えられてきたドイツ、イタリア、(旧)ソ連、そして日本の諸国が先のCに対する侵略とそれに伴う富の収奪という関係である。

このAとBグループは19世紀末の帝国主義戦争、第1次世界大戦、第2次世界大戦、そして戦後の冷戦、そこには朝鮮戦争、ベトナム戦争が含まれるが、かなり長期に及ぶ戦争を介しながら、A、B、Cの「金の成る木」である一つのシステムの関係を維持、発展させながら、システムを強固にしてきたのだ。

それが何のためであったのかに関しては、拙論を参照されたい。またこれまでのブログの記事でも少しは述べてきたつもりである。せん無いことを言えば、勿論お金のためである。

さて、ここまでのくだりを踏まえた上で、1970年代以降から今日に至るシステムの歩みとその関係を考えるならば、おそらくおおよそのことに気が付くのではあるまいか。すなわち、かつてのAとCの関係がBとAの関係に、またBとCの関係がCとAの関係にそれぞれ置き換わっている。そして、AとBがCの富を収奪する関係が、今度はBとCがAの富を収奪する、別言すれば、これまでAが享受してきた、手にできていた豊かさがBとCの「侵略」によって収奪されているのだ。

それはまたBとCの「私」によるAの「私」の富の収奪を意味している。Aのヨーロッパ諸国へのCの中東・アフリカ諸国からの移民や難民の流入により、かつての福祉国家スウェーデンの無残な姿はそうした侵略の一つの例だ。

ここで急いで付言しておきたい。欧米先進国の豊かさは非欧米諸国からの難民や移民によって奪われたのではない。それはあくまでも表面的なことだ。あくまでもそれは進行中の動き、すなわちシステムの再編、転換から派生した結果に過ぎない。

欧米先進国の富や豊かさを収奪したのは、彼らの富や豊かさを手にしてきた方法や仕方それ自体に原因があるのだ。これについてはすでに拙論で詳しく述べている。ここではこれ以上述べない。

米国のトランプやヨーロッパ諸国での擬似トランプ政治家や「右翼勢力」の台頭は、こうした侵略に対する防衛として描かれよう。また米中貿易戦争として盛んに喧伝されている米中間の争いは、東シナ海や南シナ海の軍事的一触即発状態とともに、そうしたBとCのAに対する侵略に伴う形で生じたものと解釈できよう。

ここで重要なのは、それにもかかわらず、今日私たちの耳目を集めている様々な形で展開されている内紛や、内乱、衝突、あるいは戦争といった「出来事」は、ここにはまた直近の「ゴーン問題」や「ファーウェイ問題」も含まれるが、{[B]→(×)[C]→×[A]}(省略形、共時態モデル)のシステムの歩みとその関係を破壊し、崩壊させるのではなく、むしろ逆に、そうした関係とその歩みを維持、発展させ、さらに強化していくのに手を貸しているという点である。

正確に言えば、先のシステムの歩みがそうした出来事をつくり出すのである。1972年のニクソン訪中を導き出したシステムは、米中覇権連合の発展と維持、そしてその強化に動くのだ。ここには70年代までのシステムが「金の成る木」としての役割を終えたことが大きく与っていた。

誤解を恐れないで言えば、米中覇権連合の形成と発展、そしてその更なる展開は、{[B]→(×)[C]→×[A]}のそれと「表裏一体」の関係にあるのだ。

なぜシステムは70年代以降に米中覇権連合を必要としたのか。それはさきのB、C、Aの関係とその歩みを形成、発展させ、そして強固なものにするためであった。システムの発展と維持、そしてさらにそれが強固となるために、システムはいつもある種の争いを必要不可欠とするのだ。「金の成る木」としてのシステムの「しゅくあ」なのだ。

いわゆる「金の成る木」としてのシステムの高度化のために、換言すれば、「金の成る木」としてのシステムの働き(機能)を最高レベルに引き上げるために、覇権連合が必要となる。それゆえ、米中覇権連合が強固になることは、米中間の争いがなくなることを意味しないのだ。むしろ逆に見える時期というか「段階」があるのだ。

私たちが冷静に見定めなければならないのは、米中間の争いが、B、C、Aのシステムの歩みとその関係を弱体化、崩壊に導くものなのかどうかである。私が見るに、ますますシステムの歩みとその関係を強化させている。その意味ではシステムの歩みに私たちはいつも翻弄させられ、踊らされているのだ。

日本の防衛費の増大の理由を、システムが与えてやったのだ。それは中国に対しても、米国に対しても、そうなのだ。そうすることで、システムはお金を生み、またそのお金がシステムの栄養源となる。

システムは、たとえ米中間で戦争が起きても、そのために多数のシステム人が犠牲となっても、システムの歩みとその関係に危害を加えられない限り、まったく痛くもかゆくもないのだ。むしろシステムの存続のためには、システムに害のない戦争ならば米中戦争も大歓迎なのだ。

愚かな、愚かしいことを、システムは私たちにさせる。その私たちはと言えば、そんなシステムが提供するほとんどがすぐに忘れてしまうどうでもいいような「国際・国内情勢」の話に一喜一憂させられるままにおかれている。

それにしてもなのだ。ここ最近の連日のように見聞きする世界情勢や日本に関する報道には辟易するだけだ。


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「魔闘気」によって自分の立ち位置さえもつかめなくなった「私」から構成される「公的空間」ー「国家」それ自体が「私」から構成された「私的=民営化」機関であるー

2018-12-11 | 社会 政治
「魔闘気」によって自分の立ち位置さえもつかめなくなった「私」から構成される「公的空間」ー「国家」それ自体が「私」から構成された「私的=民営化」機関である。その国家が水道事業の「民営化」を推進するのは当然のことだ。問題は、こうした「公」と「私」の関係がこれまで見えにくくされていたことではないのか。最初から、「私」と「私」の関係であったのだ。

「マネー・ロンダリング(資金洗浄)」という言葉がある。いかがわしい出自のお金がその出元というか最初の構成物(お金)の「素性」が見分けられないほどに変貌してしまい、あたかも高家の品のいいお金として通用するほどに、私たちの目を眩ませるほどに、それこそ何十回、何百回、何千回も転がされるお金の状態を指している。

同じことは、「公」と「私」の関係にも該当する。水道の民営化問題が喧(かまび)すく論議されているが、その根本にあるのは、民営化が悪で公営化は善だとする先入観があるのだろう。もっとも、悪というか庶民の金をふんだくるという点では相当に悪である。

それでは庶民は悪ではないのか。あくどい庶民もたくさんいる。私も相当にあくどい。議論を「悪」対「善」で片付けてはならないだろう。もっと大切なことを見なければならない。

それは、公的存在とされるものも、私的なものをロンダリングしてできているということだ。私的な存在も公的な装いがなされるように、またロンダリングされているのだ。その最たる例が、米国のFRBではあるまいか。米国の中央銀行と呼ばれているので、簡単に中央=公的機関=中立=悪さをしないイメージと理解されそうだが、これも誤解である。

逆に、日本の中央銀行である日本銀行は一応は政府の株が過半数を超えているが、このように、日本銀行は株式会社である。その意味では、民間銀行である。さらに、日本銀行の株主には、米国のFRBの株主も含まれていることから、日本政府(日本国家)の株を、もしこのような表現が可能であればの話だが、米国の株主が所有していることになるのだ。

ということは、「日本」対「米国」といった二項対立的位置づけ方が許されないことを物語っているのではあるまいか。同じことは、「米国」対「中国」に関しても言えるのではあるまいか。同様に、「ゴーン問題」で世間を騒がせている「日産」と「ルノー」の対立問題も、「日本政府」対「フランス政府」の二項対立的図式で語ってはならないことを意味しているかもしれない。

日産もルノーも確かに最初の出自は日本であり、またフランスではあったが、それが今ではその最初の素性さえも確認できないほどに、多国籍の株主による所有形態により、ロンダリングされているのだ。もっとも、最初の日本とかフランスという物言いさえも本来ならば、おかしな言い方だ。それらも元々はロンダリングの、すなわち幾十、幾層の「ヒト・モノ・カネ」の関係から構成されていたのではあるまいか。

私が思うに、目の前で展開されている「公的空間」における二項対立的報道の在り方は、民営化問題の是非を巡る論議以上に、危なっかしい話なのだ。それこそ、NHK対民間(私的)放送の二項対立的図式の見方にも該当する話だ。

NHKの会長は民間会社の会長や社長ではないのか。そんな放送局がどうして「中立」的な報道を可能とさせるだろうか。そもそも「中立」とは何を意味しているのか。こんな当たり前のことさえも、もう理解できないくらいに、私たちの頭の中も、ロンダリングされてしまったのかもしれない。

「公おおやけ」対「私わたくし」の問題が昔は盛んに議論されていたが、これも今から思えばおかしな愚かなものでしかなかった。それこそ、論者に共通していたのは、公は善であり、私は悪だという見方であった。彼らは、その公の背後に控えている株主の話は決してしなかったのだ。

もしそれをしていたならば、「私」の中の力の強い者が「公」をつくり出していくことに気が付いたはずであるのに。なんでこんなだれにもわかる話を以前の論壇で行わなかったのか。彼らも御用学者であったのだ。その意味では原発推進学者だけが御用学者なのではない。原発反対論者の学者も、相当に御用学者であったのだ。私から見ると、彼らの存在の方が危険なのだ。

もっとも、世間というか世の中というか、公的空間においては、こうした危険性に気が付く私的存在としての「私」はその「公」によってつくられてこなかったのだ。というのも、「公」を構成したのが、そもそもそんなことに背を向けた「私」であったからなのだから。

ところが、そうした私的存在である者たちが、驚くことに、自由、民主主義、人権、法の支配といった普遍的価値を世界の済み済みに広めるという普遍主義を掲げたのだから、公的空間が「私」の欲望で充満されていくのも当然なのだ。

そうした普遍的価値を何ら疑うことなく支持し肯定する者たちが、郵政民営化、水道民営化はけしからん、新自由主義反対云々と叫ぶのだから、これこそまた本末転倒の議論の繰り返しとなるのだ。いやはや、すさまじい「公ー私関係」のロンダリングではあるまいか。

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