「移民」の大量流入というよりは、むしろ「リベラリズム」に、すなわち「普遍的価値」と「普遍主義」そしてそれらをつくり出し、支えてきた「システム」の歩みとその「関係」こそが俎上に載せられるべき問題なのだ。
「移民」の大量流入というよりは、むしろ「リベラリズム」に、すなわち「普遍的価値」と「普遍主義」そしてそれらをつくり出し、支えてきた「システム」の歩みとその「関係」こそが俎上に載せられるべき問題なのだ。付言すれば、竹山道雄が「ハイド氏の裁判において、後世の日本人にその確認作業を託した「近代文明」の正体こそが、〈西欧的出自〉の「普遍的価値」それ自体であったのだ。
前回の記事をまとめた後で、私が強調しておきたかった論点をいかに箇条書きの形で示しておいた。ブログの記事は拙著や拙稿ですでに何度も論及してきた内容である。残念ながら、ほとんどこれまで理解されることなく、どちらかと言えば、敬遠されるか無視されてきた話である。勿論、その理由はよくわかる。まあ、そんなつまらない話はここでは予想。そんなことよりも、このブログ記事の読者の誰かに、さらなる作業を託しておきたいとの一念から、書き続けてきたのだ。
むなしい、辛い作業の連続だが、同時にそれ以上に生きがいを、生きてて良かった、自分はこの一行を紡ぎ出すために今まで苦しんできたのだと、はっきりと感じる瞬間があるのだ。もとよりそれは自己満足であると同時に、そこからさらにこれまで見えなかった世界の関係を知ることからさらに自分の存在を嫌悪・懐疑させるのだが。それゆえ、私のような立場の議論も必要ではないかと思うのだ。それでは以下の話にお付き合いいただきたい。
①そもそも「普遍的価値」を礼賛する「保守」とは、「右翼」とは何なのか。
②「普遍的価値」の実現は常に「加害者の人権を擁護してきた歴史ではなかったか。世界大戦での「デモクラシーを全体主義から守る」との掛け声で、AのBやCに対する植民地化や従属化とそれに伴う人権弾圧や抑圧によるAの加害者としての人権が擁護されてきたのではなかったか。
③自由や民主主義、人権、平和、法の支配といった普遍的価値を公的空間(現実は私的空間である)で声高に非難し、批判することに対して、多くの人たちはすぐさま、「あいつは極右だとか、少しおかしいとかの物言いで嫌悪したり、無視、反対するのだが、彼らはそもそも普遍的価値を世に喧伝させた社会的関係が何であり、またその関係はどのように形成され発展してきたかについて、どれほど理解しているのだろうか。
④もしその理解ができていれば、私たちAに位置するかつての先進国諸国に住む者は、システムの歩みとその関係において、[分厚い中間層の解体→民主主義の発展(低度化)]に示されるⅢ’期の中期そして後期の「段階」において引き起こされる格差社会の深化に伴う雇用・健康問題といった「命と暮らし」が守られなくなることに対して、何をしてはならないかに気が付くはずである。
⑤ここでいう「民主主義」とは、「リベラリズム」、つまり「自由主義」と結びついた「自由主義的民主主義」を指している。重要なのは、近代民主主義はアテネのそれと異なり、自由主義を前提として形成、発展されたという点である。
⑥民主主義が批判される際に、忘れてはならないことは、その批判者たちが意図的に、あるいは理解できないままに、自由主義を切り離して語っていることが多いのである。「大衆民主主義」が批判される際に銘記しなければならないのは、その大衆と結びついた民主主義が俎上に載せられる際に、そこからさらに問われるべきは民主主義の問題なのではなく、むしろ自由主義の、その歴史にこそ大きな問題が含まれているのであり、そこに目を向けるべきなのだ、という論点である。
⑦障碍者を差別し、排除する者を、私たちの多くはそれは駄目だとか、消しからないというが、差別し、排除することの何が悪いのかについて、十分に答えられる人が果たしてどのくらいいるのだろうか。
⑧私たちが「人権」の名の下に、差別や排除を批判、非難するとき、私たちの手にしているその人権が、またそれと関連した自由、民主主義、法の支配、平和といった普遍的価値が、そうした差別と排除の関係を前提としてつくり出されてきた「歴史」をどの程度、理解できているのであろうか。
⑨上で述べた「加害者の人権を擁護する」歴史は、1970年代までは、AのBやCに対する、またBのCに対する関係として示されるのに対して、1970年代以降は、BのCやAに対する、またCのAに対する関係として示される。(前回の記事のモデルを思い浮かべてほしい。)
⑩こうした点を踏まえるとき、障碍者であれ健常者であれ、加害者であれ被害者であれ、マイノリティーであれマジョリティーであれ、すべて私たちはシステムの担い手としてのシステム人に他ならず、そのことから、常にだれかが誰かを差別し排除する関係の中に置かれている。「あなた(たち)」は、人種差別主義者とか障碍者を差別しているとかの名の下に、批判、非難することのできる「私(たち)」はこのシステムの中ではだれ一人、存在していないのだ。安易に、差別という言葉を使って、レッテル貼りをして、安全地帯に逃げ込むことは許されないのである。
⑪もっとも、現実には、ここに列挙した論点に従って私たち有権者が行動するのは絶望的だが、逆に言えば、それだけ私たちは政治に無関心となり、また政治に参加する余裕もないような、泥沼の状態に陥っているのではあるまいか。残念ながら、ますますこの状態は恒常化、構造化していくだろう。
⑫こうした状態を打開するために、指導者たちは相変わらず普遍的価値を守れとしか叫ばないから、システムとその関係は強固となり、そのシステムの中で人々はますます絶望的になるだけである。
⑬そして、「極右」とされる政治グループが最後に登場する。彼らは普遍的価値を糾弾して、自由や民主主義、人権、平和の価値を批判、否定するのだが、その普遍的価値を構成する世界的システム、すなわち覇権システム、世界資本主義システム、世界民主主義システムから構成されているのだが、1970年代以降の{[B]→(×)[C]→×[A]}の関係からつくり出されるシステム全体から構成される普遍的価値、特に営業の自由、私的財産権の自由にまでは踏み込めないのである。
⑭このシステム内でのAの位置は誤解を恐れないで言えば、B(その中心には中国、インド、ロシア、ブラジルのいわゆるブリックスが占める)と、C(そこには中東やアフリカの新興勢力が位置している)を中心として今後もますます発展、強固になっていく今のシステムにとっては、システムはAの「富」を生み出す多国籍企業や国際銀行家等の富裕層、すなわちすぐ下でも述べているように、A’の上位層以外にはほとんど無用の、不要な付属物と化しているのである。
⑮それに関連して付言すれば、かつての先進諸国のAで起こっている移民騒動や、反グローバリズム運動や極右勢力の台頭の動きは、B、C、Aの関係からなるシステムの歩みには、痛くもかゆくもないということである。B、とCがしっかりとその役割を果たしてくれれば、それで十分なのである。
⑯BとCは、特にBの中国やインドはますます普遍的価値を推進し擁護していく大勢力となると同時に、B、C、Aの関係からつくられるシステムの歩みとその関係はさらに強化されると同時に、普遍的価値や普遍主義のヘゲモニーは世界中にその支配力を浸透させていくだろう。それゆえ、勇ましく移民や外国人排斥とか、国内労働者の雇用を守れと叫んだとしても、結局は極右グループはシステムの歩みとその関係を強化するに手を貸すだけである。
⑰それにもかかわらず、右翼勢力や極右勢力が今後もその力を増大させていくだろう。その力をシステムの歩みとその関係は必要としているからだ。なお、まだB、CAの関係からなる1970年代以降のシステムは「金の成る木」としての働きを十分に示していない。そのために、システム全体の力を増強させなければならないことから、戦争や内戦につながる暴力は、その暴力の手段を提供する軍産複合体は力を得て、それこそ安倍首相の言う「トリクルダウン」よろしく、他の企業や産業を豊かにしていく。
⑱ただし、その豊かさの果実は、あくまでB、C、Aの関係を発展、強化する方向にトリクルダウンするように使われていくから、Aにおいてはあまり効果の期待できない、豊かさとそれを導く経済発展となるのだ。(もっとも、そうは言っても、Aを構成する人々をさらに、A’、A”、A’”グルぷぷから成る、上位、中位、下位の三つの層に分類した時、上位にだけ恩恵がいきわたるように、それに対して注意、特に階にはそうでないように働くのである。このことが、例えば、日本における経済的好景気が長期間続いているにもかかわらず、庶民にその実感が感じられないという状況を表している。)この経済発展を「衣食足りて」に置き換えてモデルを見るとき、{[B]の衣食足りて→[C]の衣食足りて・足りず→[A]の衣食足りず}のように描かれる。
⑲念のために前回記事で示したA、A’、A”の関係はAにおいても、もちろんそれはBやCにおいてもなのだが、「人権」の格差が存在していて、より有利な地点に位置するものと、より劣位に置かれたものとの関係を示している。ここではモデルのわかりやすさのために、三国、地域間の、また三者間の関係を基に述べているが、それはあくまでも基本計である。
⑳ここで上記の点に関連して、大事だと思われる点を指摘しておきたい。A、B、C、またB、C、Aの関係から成るシステムの歩みとその関係において、A、B、CのまたB、C、A、の上位に位置する有利な地点に位置するA’、B’、C’の人々は、共通の利害関係者として、「ウィン・ウィン」の関係にあるのに対して、A、B、C、の、またB、C、Aの下位に、劣位に置かれた、先の利害関係に加わることのできないA”,A’”、B”B’”、C”、C’”の者たちは、相互に対立敵対する関係の中で「ゼロ・サム」の関係の下に相対峙するのである。
すなわち、{[A]→(×)[B]→×[C]}においては、A、B、CにおけるA’、B’、C’の共通する利害関係者のウィン・ウィンの関係と、A”A’”、、B”、B’”、C”、C’”の相互において「ゼロ・サム」的関係が形成されやすいのである。同様に、{[B]→(×)[C]→×[A]}においても同じような関係がつくられるのだ。「移民による欧州の自死」「リベラリズムによる全体主義」(「リベラリズムの自死」)で語られているのは、システムの歩みとその関係における上位の、有利な位置にある者たちの共通した利害関係を維持、擁護することから占め出された、すなわち差別排除された劣位に、下位に位置した人々がお互いに激しく対立、敵対する関係に追いやられていく様を示しているのである。
ここでいう「共通の利害関係」を共有できた、諸国と諸国民における上位の有利な地点に位置した集団が、特に覇権国や中心国の上位と、その関係者が担う企業集団が中心となって「普遍的価値」を、普遍主義をつくり出してきたのである。
何度も語ってきたように、私たちの経済発展と民主主義の発展は、つまり衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)の関係は何十何層の関係から織りなされている。それを丹念に描いていくことがどうしても必要となる。この作業こそが最も重要であり、大切なのだが、それはとても一人や数十名でできるものではない。多くの協力者が必要である。今後、もし私がこれまで提示してきたシステム論やそのモデルを使って、個々具体的な事例研究を読者の中でやってみたいと思われる人たちを念頭に置いた、そのための羅針盤として、モデルが使われることを願うばかりである。