日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

私のモデルのセカイで描く「システム」論から世界の動きを見るとき

2017-02-12 | 社会 政治

私のモデルのセカイで描く「システム」論から世界の動きを見るとき

前回のブログ記事(私のモデルのセカイで描く「システム」論から「ポピュリズム」論を見直すとき)をまとめた後で強く感じたのは、あくまでもシステムの歩みが最初にあり、そこから語る民主主義論であり、ポピュリズム論なのだという自覚が重要であるということである。すなわち、ポピュリズム論が民主主義論と結び付けて語られたとしてもそこからさらにシステム論の枠の中で考察されない限りは、ほとんど何も語ってないに等しいのではないか、この点を強調したかったのである。

 たとえば日米関係、米中関係、日中関係を語るときも、システムの歩みの中で初めて語ることができる国家関係であり、システムの歩みと切り離した関係として描くことはできないということである。 

 1970年代以前の米中関係もそうであったように、1970年代以降の米中関係もシステムの歩みが両国の関係をつくり出す、導き出すのである。1972年の「ニクソン訪中」はそうした観点から位置づけ理解するとき、米中関係の流れが今後どうなるかについても読み解くことができる、と私はみている。重要なのはシステムの歩みと両国関係の歩みを切り離さないで結び付けながら絶えず注視していくことである。

 私がいつも残念に思うのは、私が提示してきたシステム論とそこで提唱しているシステムの歩みに関して多くの専門家が無知、無関心であることである。誤解しないでほしいのは、私のモデルを知らないとか、私と同じことを言わないからとの批判(愚痴)ではない。私のことを知らない人が大多数であるし、私の存在自体も歴史の中の塵にもならないだろう。そうではなく、私が論じてきたような枠組みと視角に関して、好き嫌いは別として、出来れば共有してほしかったという願いである。それを前提とした上で、そうした作業をくぐり抜けた上で、やはり私のような見方には立てないという議論があればとの思いである。

 たとえば、グローバリズムに関連して、ナショナリズムを体現する動きとしてトランプ大統領の登場を語る論者がいる。(英国のEU離脱に至る動きもナショナリズムと結びつけて論じている。)そうした論者は、いつも決まってグローバリズム対ナショナリズムという二項対立的な図式で語っている。

私が気になるのは、そうした対立が導かれている舞台である。たとえば、19世紀から20世紀転換期の舞台は、福沢諭吉に従えば、「文明―半開―野蛮」の関係から成る世界を舞台としていたとなるだろう。もちろん、20世紀から21世紀転換期の関係は、当時とは変わっているかもしれないから、それとは異なる関係であるとしたら、それではその関係は何か、どのような舞台かを示さなければならない。私はそこから今のモデルで描かれるセカイに示される「システム」を舞台とみなすようになったのだが。

 また、よくこうしたグローバリズム批判において、米国の外交方針を、E・H・カーの『危機の20年』に依拠して、米国の外交が1919年から39年において、理想主義外交に傾き、これまでの現実主義的な勢力均衡の原則を重視した外交姿勢に反した結果、また悲惨な第2次世界大戦へと突入した云々と論じられてきた。

 ここでも同じである。そうした外交が展開された舞台は何であったかが問われない。ましてや私の言うシステムで描くセカイなどは問われない。先の「文明―半開―野蛮」の関係を舞台とした世界の中で、理想主義的外交が、あるいは現実主義的外交が、展開されたという見方が必要ではないのだろうか。

さらに1990年代以降からオバマ政権に至るまでの歴代の米国政権の理想主義外交に対する批判に関しても、そこで語られる理想主義外交とは、いかなる「文明―半開―野蛮」の関係から成る世界の、20-21世紀バージョンの下で展開されたかの考察が必要であろう。

さらに、そこでの経済発展と民主主義の発展の関係の歩み、すなわち「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係史に関しても、究明すべきではあるまいか。19-20世紀転換期のそれとはやはり異なる関係にあるのではないかとの観点から考察することも大事である。ここから私が提示する「三重のシステム」から成る「一つのシステム」論へとつながるのである。
(今回の記事はここまで。続きはこの同じブログ記事でまた話します。)
 
 前回の続き。本論に入る前に、前回の記事で「舞台」について話した。私はこの舞台を自分の提示してきたモデルのセカイで描く「システム」の歩み(自己完結運動)として、ある時期から論じるようになった。それ以前は、それ(舞台)をよりわかりやすく簡潔に理解してもらいために、福沢の「文明―半開―野蛮」の関係から成る世界と、あるいはウォーラースティンの「中枢―半周辺―周辺」の世界資本主義システムの関係と、結び付けて解説してきた。

 これに加えて、私は長谷川三千子氏の<難病としての外国交際-『文明論之概略』考>も引用参照しながら舞台について述べてもいた。そうした著作を介しながら、私が読者に伝えたかったのは、私たちが見聞きする国際政治や関係の話の多くは、その肝心の舞台が語られていないということである。
 すなわち、私たちが歴史のどの段階に位置しているのかが理解できないままに、いま世界はこうなっている、こうなるのではないか云々の話に付き合わされているのである。前回のグローバリズムやナショナリズムの話も理想主義対現実主義の話もみな一番肝心の舞台が語られないままなのだ。

 最近特に話題となっている日米関係に関してもそうである。トランプ大統領と日本政府は、東アジアの平和と安定に関して―――と紹介されるのだが、その平和と安定は、いかなる舞台の下で実現できるのか、実現されるのか。それが語られないのである。1950年代の東アジアの平和と安定を実現させた舞台とは当然異なるであろう。それゆえ、その舞台に関しての、換言すれば、私たちが歴史のどの段階に今位置しているかが問われなければならないだろう。

 私はこの舞台、段階に関して、どのような覇権システムの(形成と発展と変容の段階の)中で、同時にまたいかなる経済発展と民主主義の発展の関係の歩み(段階)の中で、私たちが位置づけられるのかに留意し続けてきた。もしこの舞台、段階が確認されないのであれば、民主主義を守れ、平和を守れと訴えてみても、どうにもならなのではあるまいか。

 またこうした舞台、段階にこだわり続けたならば、東アジアの平和と安定の問題と資本主義の暴走と格差の問題と民主主義を取り戻せ云々の問題とが結び付けられて視野の中に入ってくるのである。当然ながら、民主主義を守れとか、取り戻せの主張がいかにずさんで無責任な論であるかもわかってくるであろう。

 さらに、いま多くの論者が語る世界の動向に関しても同様なことが言える、と私は考えている。たとえば、今日の世界は多極化の、あるいは無極化の状態にあるとか、米中は近いうちに衝突して戦争に突入するとか、北朝鮮が暴発するとか云々の話もそうだが、私は70年代以降のシステムの歩みを軸として考えることを銘記してほしいのである。

{[B]→(×)[C]→×[A]}(省略形の共時態モデル)をつくり上げることがシステムとその歩み(自己完結運動)における大目標であり主眼である。したがって、すぐ上で触れた米中戦争がたとえ起こったとしても、それはシステムの歩みを強固にするために、あるいはその歩みが、その途上においてはたとえ紆余曲折の過程を経たとしても、結果としては完結するように、システムとその歩みが導いた衝突であり、戦争だったと位置づけ理解することが必要である、と私は言いたいのである。

 付言すれば、英国のEU離脱や米国のトランプ大統領の誕生と内向き姿勢(アメリカ第1主義)も、システムの歩みを手助けする出来事として、私は理解しようとその関係に関して考察するのである。システムの中のAグループの先頭に位置する米国の内向き姿勢は、システムの先頭に位置するBグループの中国の経済発展と民主主義の発展の関係の歩みに、また覇権システムにおける中国の地位(位置)の上昇に役立つ、貢献するとの観点から理解することが、まずは何よりも大切だと私は考える。

 システムの歩みにとって、B、C、Aから構成される全体の関係が維持されることが何よりも重要であり、同時にそのためには、それぞれのグループにおいてもある程度のまとまりが求められてくる。Aの中でその先頭に位置する米国が弱体化してしまえば、全体としての関係の維持も難しくなるだろう。アメリカ第1主義は、そうした観点から見直すとき、システム全体の維持と安定には有益であるのではあるまいか。
(今回はここまで)



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1 コメント

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関係性ですね (だわおおしよつ)
2017-02-25 13:39:41
アメリカの影響力の変化がもたらす、世界への関わり方の変化ですよね、おそらく先生がおっしゃりたいのは?国家も人間と同じように「年齢」があるのでしょうか。
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