№58私の語る「システム」論から、改めて「処理済み原発汚染水の海洋放出」と「ブリックス加盟国の拡大」を考えるときー二つの出来事は、覇権システムの、それゆえ「システム」の暴力・暴力性を見事に示している
2023-08-29 | 日記
№58私の語る「システム」論から、改めて「処理済み原発汚染水の海洋放出」と「ブリックス加盟国の拡大」を考えるときー二つの出来事は、覇権システムの、それゆえ「システム」の暴力・暴力性を見事に示している(続)
(最初に一言)
今回記事は、前回記事でうまく伝えられなかったと思う記事の「補足」をしてみたい。とは言え、いつも私の考えていることを、的確に伝えられたと思う記事は、残念ながらほとんどない。毎回、記事投稿後に、「あそこのくだりは言い足りなかった」とか、「それはやはり、少し違っている」とか等々、きりがないのだが、私自身の能力を踏まえるならば、これまた仕方あるまい。それと、もう私は私の語る「システム」論を読者に提示してきたので、それを21世紀を読み解く羅針盤として、この先おこるであろう由々しき出来事とその災厄を、少しでも免れるための安全保障策を考えてもらえれば、それでいいのだ。その他のことは、私には枝葉末節なことに過ぎない。
前回記事で、私が最も読者に伝えたかったくだりは、〈*私の記事の読者であれば、ここでの「暴力・暴力性」に対して、私が何の感情も抱いていないことを、理解していると勝手に思うのだが、良い悪いの話をしているのではなく、また、どこかの国や人々(政治や経済や社会の指導者も含む)が良い悪いといった話でもないということを、あらかじめご理解してほしい。ちなみに、システム人として、私自身の担う暴力・暴力性を。私は当然ながら、自覚・自戒しているのだが、如何せん、それを制御できないままにある。〉であった。さらに、その中でも、〈ちなみに、システム人として、私自身の担う暴力・暴力性を。私は当然ながら、自覚・自戒しているのだが、如何せん、それを制御できないままにある。〉のくだりは、私がものを書く際に一番こだわっているというか、留意している点である。
いずれにしても、今回の東電・日本政府による処理済み汚染水の海洋放出という直接的暴力には、同じくそれを封じ込めるための直接的暴力の行使以外には、何ら有効かつ効果的対応策はないのだ。それは覇権システムにおける「常識」である、と私はみている。自己決定権の獲得とその実現に際して、暴力と暴力を介した争奪戦においては、力のない弱い者は、強い者に屈服せざるを得ないのだ。たとえ、言論・報道や集会・結社の自由権を行使して、海洋放出を封じ込めようとしても、無益であり無駄なことなのだ。
それは別の異なる直接的暴力の行使しかないことを意味しているが、力のないものにはそれができないのだ。ただそれだけである。私たちは対話とか討議に基づいて、情報の科学的分析であるとか、その結果の公開を繰り返しながら、できる限り多数の者が納得のいく結論に到達することを夢想しているが、私たちはその前に、私たちがまずは覇権システムという暴力的・私的空間の中で生きていることを銘記しておかなければならないのである。
何度も言うように、この覇権システムを前提としながら、私たちの「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係(空間)がつくり出されてきたのであるから、たとえどのような礼節を駆使したとしても、覇権システムの前では手も足も出ないのだ。それを示しているのが、プーチンのウクライナ侵攻であり、それに至る米ソの「冷戦」の「開始」とその「崩壊」、そこから続く米国とNATOのウクライナの切り崩し工作ではなかったろうか。
これらの出来事は、すべてが覇権システムの次元で引き起こされたものであり、それゆえ、その沈静化は、その始まりと同様に、これまた力というか暴力の行使でもってシカ、実現できないのである。それが存在することによって、はじめて停戦(休戦)や和平へのプロセスが見えてくるのだから、残念と言えばそうなのだが、これまた仕方のない現実ではあるまいか。
今回の海洋放出も、まさにこれらの流れと軌を一にしている。それゆえ、現状を封じ込めることのできる暴力が出現しない限りは、海洋放出は続くのは必至であろう。放出は30年間にわたり続くとのことだが、これまた何度も言うように、中国が2040,50年代までには次期覇権国として台頭するであろうことから、中国の力の下で、放出(計画とその実施)は、その変更を余儀なくされる公算が強い、と私はみている。
ところで、今回の放出の件で、日本政府は「汚染水」の「安全性」は科学的に立証されたものであるから、海洋放出も「安全」であると主張している。これに対して、放出に反対する側は、その科学性と安全性を真っ向から否定している。私自身も、政府の科学的云々や安全性の主張には、勿論のこと反対の立場なのだが、上述したように、覇権システムを維持・発展・強化させる側は、圧倒的な力でもって、後者の反対側の訴えを、容易に退けてしまうことから、勝敗は最初から見えている。
(最後に一言)
これに関連して言えば、私の語る「システム」論とそこで提示されている普遍的価値や普遍主義に関する私の主張も、これまた覇権システムの、そして「システム」の維持・擁護・推進派によって、見事に無視され続けている。その中に、今回海洋放出に反対する人々が多数、存在しているのも確かなことなのだ。彼らは未だに、憲法とそこに体現されている普遍的価値と覇権システムとが、車の両輪の如く相互に支え合っていることに気がつかないのである。換言すれば、以前の拙論でも指摘していたのだが、原発反対論者が憲法を熱烈に擁護するといった「矛盾」を、自覚できないままなのだ。
もっとも、「それがどうした」、でもある。圧倒的な覇権システムと「システム〉の力というか暴力を前にしたとき、「気がつこうが、つくまいが、自覚しようが、するまいが」、まったくそんなもん、屁の突っ張りにもならないのは、これまた確かなことだから。
(最初に一言)
今回記事は、前回記事でうまく伝えられなかったと思う記事の「補足」をしてみたい。とは言え、いつも私の考えていることを、的確に伝えられたと思う記事は、残念ながらほとんどない。毎回、記事投稿後に、「あそこのくだりは言い足りなかった」とか、「それはやはり、少し違っている」とか等々、きりがないのだが、私自身の能力を踏まえるならば、これまた仕方あるまい。それと、もう私は私の語る「システム」論を読者に提示してきたので、それを21世紀を読み解く羅針盤として、この先おこるであろう由々しき出来事とその災厄を、少しでも免れるための安全保障策を考えてもらえれば、それでいいのだ。その他のことは、私には枝葉末節なことに過ぎない。
前回記事で、私が最も読者に伝えたかったくだりは、〈*私の記事の読者であれば、ここでの「暴力・暴力性」に対して、私が何の感情も抱いていないことを、理解していると勝手に思うのだが、良い悪いの話をしているのではなく、また、どこかの国や人々(政治や経済や社会の指導者も含む)が良い悪いといった話でもないということを、あらかじめご理解してほしい。ちなみに、システム人として、私自身の担う暴力・暴力性を。私は当然ながら、自覚・自戒しているのだが、如何せん、それを制御できないままにある。〉であった。さらに、その中でも、〈ちなみに、システム人として、私自身の担う暴力・暴力性を。私は当然ながら、自覚・自戒しているのだが、如何せん、それを制御できないままにある。〉のくだりは、私がものを書く際に一番こだわっているというか、留意している点である。
いずれにしても、今回の東電・日本政府による処理済み汚染水の海洋放出という直接的暴力には、同じくそれを封じ込めるための直接的暴力の行使以外には、何ら有効かつ効果的対応策はないのだ。それは覇権システムにおける「常識」である、と私はみている。自己決定権の獲得とその実現に際して、暴力と暴力を介した争奪戦においては、力のない弱い者は、強い者に屈服せざるを得ないのだ。たとえ、言論・報道や集会・結社の自由権を行使して、海洋放出を封じ込めようとしても、無益であり無駄なことなのだ。
それは別の異なる直接的暴力の行使しかないことを意味しているが、力のないものにはそれができないのだ。ただそれだけである。私たちは対話とか討議に基づいて、情報の科学的分析であるとか、その結果の公開を繰り返しながら、できる限り多数の者が納得のいく結論に到達することを夢想しているが、私たちはその前に、私たちがまずは覇権システムという暴力的・私的空間の中で生きていることを銘記しておかなければならないのである。
何度も言うように、この覇権システムを前提としながら、私たちの「衣食足りて(足りず)礼節を知る(知らず)」の営為の関係(空間)がつくり出されてきたのであるから、たとえどのような礼節を駆使したとしても、覇権システムの前では手も足も出ないのだ。それを示しているのが、プーチンのウクライナ侵攻であり、それに至る米ソの「冷戦」の「開始」とその「崩壊」、そこから続く米国とNATOのウクライナの切り崩し工作ではなかったろうか。
これらの出来事は、すべてが覇権システムの次元で引き起こされたものであり、それゆえ、その沈静化は、その始まりと同様に、これまた力というか暴力の行使でもってシカ、実現できないのである。それが存在することによって、はじめて停戦(休戦)や和平へのプロセスが見えてくるのだから、残念と言えばそうなのだが、これまた仕方のない現実ではあるまいか。
今回の海洋放出も、まさにこれらの流れと軌を一にしている。それゆえ、現状を封じ込めることのできる暴力が出現しない限りは、海洋放出は続くのは必至であろう。放出は30年間にわたり続くとのことだが、これまた何度も言うように、中国が2040,50年代までには次期覇権国として台頭するであろうことから、中国の力の下で、放出(計画とその実施)は、その変更を余儀なくされる公算が強い、と私はみている。
ところで、今回の放出の件で、日本政府は「汚染水」の「安全性」は科学的に立証されたものであるから、海洋放出も「安全」であると主張している。これに対して、放出に反対する側は、その科学性と安全性を真っ向から否定している。私自身も、政府の科学的云々や安全性の主張には、勿論のこと反対の立場なのだが、上述したように、覇権システムを維持・発展・強化させる側は、圧倒的な力でもって、後者の反対側の訴えを、容易に退けてしまうことから、勝敗は最初から見えている。
(最後に一言)
これに関連して言えば、私の語る「システム」論とそこで提示されている普遍的価値や普遍主義に関する私の主張も、これまた覇権システムの、そして「システム」の維持・擁護・推進派によって、見事に無視され続けている。その中に、今回海洋放出に反対する人々が多数、存在しているのも確かなことなのだ。彼らは未だに、憲法とそこに体現されている普遍的価値と覇権システムとが、車の両輪の如く相互に支え合っていることに気がつかないのである。換言すれば、以前の拙論でも指摘していたのだが、原発反対論者が憲法を熱烈に擁護するといった「矛盾」を、自覚できないままなのだ。
もっとも、「それがどうした」、でもある。圧倒的な覇権システムと「システム〉の力というか暴力を前にしたとき、「気がつこうが、つくまいが、自覚しようが、するまいが」、まったくそんなもん、屁の突っ張りにもならないのは、これまた確かなことだから。