日本の「政治」の〈可能性〉と〈方向性〉について考える。

「政治」についての感想なり思いを語りながら、21世紀の〈地域政党〉の〈可能性〉と〈方向性〉について考えたい。

2019年第25回参議院議員選挙(の選挙戦)に思うこと

2019-07-26 | 社会 政治
2019年第25回参議院議員選挙(の選挙戦)に思うこと

最初に呟(つぶや)きたいのは、またしても水をさすような、しらけさせるようなことを書いてしまったなあ、との思いだ。しかしながら、私のような「システム」論者(正確には、可能ならば、システムの「外」に、または「横」になるべく身を置きたい、できるだけシステムに抗いながらなんとか別の生き方を模索し続けている存在としてシステムを考察する者という意味でのシステム論者である。もっとも何度も繰り返し自己批判しているように、そんなことは毛頭できないし、システム内で、おこぼれに与るばかりの情けない生き方しかできないのだが、それを断ったうえで、何度もシステム論者という物言いをしてきた。)から見れば、「右」であろうが「左」であろうが、また「中」であろうが、すべてシステムを当然の前提として政治活動に奔走する者たちに対しては、正直なところ同床異夢の存在にしか思えないし、その通りだと考えている。断っておくが、それは良いとか悪いという次元での物言いではない。仕方のないことだ。

問われるべきことは、私のモデルで描くセカイとその関係の歩みを前提として生きてきた、生きているということの痛みや醜さを、どこまで自分自身に対して問い続けてきたのか、今も問い続けられているかということなのだ。私には既存政党のいずれにもそうした自問自答の営みを、それこそ嘘でもいいから、振りでもいいからと願うのだが、まったくと言っていいほどに、感じることができないのである。

ただし、私のような見方は今後ますます大事になってくると、偉そうな言い方で申し訳ないが、心底そう思うのだ。私のようなシステム論者としての存在は今後より必要になると確信している。前回の最後のくだりで、〈私は「NHKから国民を守る党」に倣い、「国会・国会議員から〈私〉を守る党」を創設したい気分なのだ。〉と述べたが、そこには今回参議院議員に選出されたN国と令和の議員も含まれている。うさん臭く、何かすっきりしないのだ。私自身もうさん臭くわかりにくい人間なのに、誠に失礼な言い方であるが。山本氏の後ろにはおそらくと言うべきか、必ずかはさておいても、小沢氏が控えているだろうし、その後ろには中国が(次期覇権国としての中国が)控えている。今の安倍首相の背後にトランプ大統領、そしてその背後に米国が(現覇権国としての米国が)控えている。さらにそうした中国と米国の背後には、システムとその関係の歩みがあり、私たちが「システム人」として担い続けている「システム」が、私たちの歴史の歩みを「歴史的制約性」という意味の「制約」の下において、指導・監督しているのである。その意味では、両者はまったく同じような構図の下に置かれているのではあるまいか。あえて「敵」という言葉を使って分かりやすく言うならば、私の戦う、正確には何の力もない私がこんな言葉を使うのは笑止千万なのだから、それを自覚したなら闘うではなく遊んでもらっているという方が的確な表現かもしれない)相手は、「システム」とそれを支える「システム人」同士の関係である。もっと簡単に言えば、それは私自身ということである。少し丁寧に言えば、1970年代以降のシステムの歩みの中で生きながら、システムを担い、支えているシステム人としての私である。

私のようなシステム論者にはそう見えて仕方がないのだ。付言すれば、中国と米国は覇権連合を形成・発展させてきたパートナー的存在である。もうしらける以外に何もないと言いたいのだが、そんな後ろ向きな物言いで終わってしまったら、今度はそんな私に白けてしまうから、そんな物言いではなくて、そうした「現実」を前提とした時に、すなわち、たとえどのような言辞を弄したとしても、私たちはシステム人として、システムとその関係の歩みの中でしか生きられないのだという現実であるが、私は、「私」は、どう生きていけばいいのかを自問自答する以外に道はないだろう。私が、「私」が主体となって、システムの提供する「国家」や「国民」を基にした国会や国会議員を目指しているN国や新選組にいいように使われないためには、また彼らをうまく「利用」するためには、「何をしてはいけないのか」を考える以外に生きる術(すべ)はない。勿論、こんな偉そうな物言いをしたとしても、システムの歩みの中で翻弄されながら生きてきた私にはほとんどできることはないかもしれないが、「それにもかかわらず」ーーーと言うことしかない。

さて、ここで少し以前に書いた拙文を引用しておきたい。
以下、以前の拙文。

ーーー選挙戦もあと1週間となった。中途視覚障害者の有権者の一人として今私が感じていることをできるだけ率直に述べておきたい。これまで何度もブログ記事で紹介してきたように、私たちがシステムの歴史のどの「段階」に位置しているのかを理解できないままに国際関係や国内政治を語るのは、「現実主義」「理想主義」であれ、またいずれの立場であれ、極めて危険であり、またナンセンスであるかを述べてきた。

同時に、システムのいかなる段階で、今の私たちが生きているのかを理解できたならば、以下のようなことは決して語ることはできないし、もしそれを語るとしたならば、それは虚偽であり、嘘つきだということである。すなわち、日本国家が以前のように強力になるとか、取り戻すことができるとか、「国民国家」を前提とした、それに支えられた「日本」経済が復活するとか、分厚い中間層が再形成されるとか云々の話は世迷言と言わざるを得ない。もはや「ジリ貧状態」が続いていくということなのだ。それゆえ、私たちはそれを認めた上で、ジリ貧状態の中で何をしてはならないのかを考えていくしかないだろう。山本太郎氏やその支持者は、消費税を廃止したとしても、Aグループにおける歴史の段階の特徴である「低度化」の歩みを、もはや高度化へと導くことはできない現実をどの程度的確に理解しているのか、私たちはその点を見極めておく必要があるだろう。それを理解した上で、有権者が消費税廃止を支持するのであれば、それはそれで構わないのだが、有権者に誤解を与えないように、消費税廃止後の日本経済のその後の展望に関する、もっと正直な話をする責任があるのではなかろうか。もしこれができないのであれば、「安倍ノミックス」の話と同じように、嘘をついていることになる。有権者は安倍のウソと安倍を批判する野党のウソに、心底疲れ果てて、政治にしらけ、嫌気がさしていた時に登場した新選組に、よせばいいのに真面目になって、「この人だけは前の彼・彼女とは違う」と信じて投票した挙句に、捨てられてしまうことにでもなれば、今度は有権者はシステムが提供するさらに「より悪い商品」をつかまされることになってしまう。システム論者の私からすれば、そういうシナリオは避けたいところだが、もうすでに何度も付き合わされてきたではないのか。私のような冷めたシステム人から見れば、新選組の公約は何らシステムと向き合ってはいないし、向き合おうともしていないと、今は見ている。ただし、日本の政治ではこれまでそう多くない商品しか提供されてこなかったから、新たな商品がどう化(ば)けていくかを、長い目で、距離を持って見守るしかできないというのが正直な感想である。たとえ、これまでのシステムとその関係史の中で、「異常なし」との政治劇を嫌というほど見せられてきたとしても、「それにもかかわらず」---だからである。いずれにせよ、私たちはたとえどんな夢を政党が語ろうが、その実現がもうほとんど難しくなっている歴史の段階に私たちが生きていることを理解しておいた方がいいだろう。

その意味で言えば、今日の私たちが先ずは確認しなければならないのは、「国民国家」全盛期の時代と比較して、もはや「日本」とか「日本人」が再統合、再結集する、あるいは再生する時代は到来しないということである。システムが提供する憲法とそれが保障する「人権(市民的権利)」を守りながら、私たちの国家の安全保障や国民生活を防衛することはほとんど困難と言わざるを得ない、ということである。

私たちは、障碍者であれ健常者であれ、また強大国に暮らすものも弱小国に暮らすものも、ひとしくすべてがシステムを担い構成する「システム人」であり、システム人が手にする人権はシステムとその関係の歩みの中で創造されたものだということを理解しておかなければならない。それゆえ、いわゆる「市民革命」時に宣言された普遍的人権は、まさにシステムが提供した人権であることから、覇権国や強大国の側から、「強者」の側から、その他の力のない国やそこに住む人々に、誤解を恐れないで簡単に言ってしまえば、いわゆる「弱者」に対して、強要された人権だったということなのだ。その人権は覇権システムを支え強化する「差別と排除の関係」を前提とした中で実現されるものである。

付言すれば、トランプ米国大統領が最近も白人でない民主党議員を想定して、「米国が嫌(いや)なら米国から去れ」云々の発言をしたとして非難されているとのニュース報道があったが、私たちが手にしている人権はまさにトランプによって体現されているものであることを看過してはならない。トランプを批判する者の人権もまた、システムとその関係の歩みと矛盾しない、それを支持、強化する人権であるのだ。残念ながら、トランプの批判者はそれに気が付かないままである。それは安倍政権を批判する者の大半がそうであるのと類似しているのだ。「目糞鼻糞を笑う」次元の話でしかないのである。

視覚障碍者の私が白杖を手にして点字ブロックを確認しながら歩いているときに感じる社会の「優しさ」と、点字ブロックが突然消えてしまった時に感じる社会の「残酷さ」も同様に、システムが提供する人権をそのまま体現しているのだ。優しさと残酷さはコインの裏表の関係にあるものなのだ。誤解を恐れないでもう少し言及すれば、「システム人」として生きている障害者は、同じくシステム人として生きている健常者と一緒になって差別と排除の関係を支え、強化するのに手を貸しているということである。障碍者という存在は、システム人として見た場合、何も特別なものではない。彼らも、健常者と同様に、あるいはそれ以上に、他のシステム人を差別し排除しながら生きているということだ。ここをきちんと押さえておかなければならない。その関連で言えば、「弱者」が「強者」に向かって例えば、「人権を守れ」とか、「そのやり方は民主主義的でない」とか云々の言辞を弄した時に注意しなければならないのは、弱者も強者も同じシステムとその関係の歩みを支えてきたことを、すなわち、私のモデルで描くセカイとその関係の歩みの中で生きているということを忘れてはならないのである。システムが提供する「親分ー子分」関係から成る覇権システムを前提とした世界資本主義システムの「衣食足りて(足りず)」の営為の中で自らの「衣・食・住」の実現に一方において関わりながら、他方において、覇権システムを前提とした世界民主主義システムの「礼節を知る(知らず)」の営為には何ら責任を負わないままに、自分たちに都合のいいように、砂上の楼閣に過ぎないその場しのぎの「民主主義」や「人権」を勝手気ままに振り回しているだけなのだ。相当に質(たち)の悪い連中である。

選挙戦を見る限り、与党は別として、野党にはこの感覚が共有されているとは思われない。まるでどの時代においても野党の主張や政策の実現は可能であるかのような語り口である。「与党は別として」とすぐ上で述べたが、それは与党が今の段階を的確に認識できているということではない。むしろ野党と異なり、圧倒的に有利な立場にありながら、「無為無策」の状態で漂流していることを踏まえて、先の物言いとなったのである。誤解のないように言及すれば、仮に野党が政権に就いたとしても「無為無策」の状況に置かれることを銘記しなければならない。それは、日本新党や民主党の政権時代を思い出すとすぐわかることだ。「親分ー子分」関係を前提とした覇権システムの中で日本と日本人は生きていることを自覚したならば、同時に、世界資本主義システムと世界民主主義システムを含むシステムの歩みを理解するならば、私たちはできることよりも、できないことを正直に語らなければならないのである。これらの話を踏まえながら、ここまでの選挙戦を通して、私が感じたことを以下に補足して論じてみたい。(今回はここまで)

「弱者」とか「障碍者」あるいは「お金のない者」が常日頃から心がけておかなければならないことは、自分よりも優位にある者に対して、何か主張や要求をするときに、自分たちと力のある者との立ち位置が同じでないということを、すなわち彼らに対して、より劣位に置かれていることを自覚しておかねばならない。(今の時代の愚かしさと言うべきか、悲しむべきことと言うべきか、この私の語り方にすぐさま眉をひそめてしまい、この先を少しでも考えてみようとはしないものがあまりにも多すぎる、ということである。もしその「自覚」ができたならば、それはシステムとその関係の歩みの中で、私たちの手にしている自由、民主主義、人権といった普遍的価値がつくり出されてきたということを自覚するに違いないし、またそこから同時に、何とかして、こうした差別と排除の関係を前提とした自由や民主主義、人権を当然のことのように受容し、礼賛する今の社会から抜け出すことを、たとえそれが難しいとわかったとしても、それにもかかわらず、何かを模索したに違いない。勿論、こうした物言いは詮無いことを重々承知で述べているのだが。)

つまり、システム人としてシステムの中で生き続ける限りは、悲しく残念なことではあるのだが、力のない、弱い立場にあるものが力のある者に対して何か主張なり要求をするときに、それは「お願い(手を貸してください)」を意味していることを理解しておかなければならない。システムが提供する人権は、こうした人権の田津胃に他ならない。トランプが日米関係において、「日本」と「日本人」に対して伝えたいのは、「お前たち、私に助けてくださいと頭を下げてお願いすべきなのではないか」ということなのだ。私たち日本人の生存権を彼はそう考えているのだが、それは世界史を解雇しても何ら不思議なことではない。生存権と暴力は矛盾しないのだ。それは「平和」と「戦争」の関係においてもしかりである。システムとその関係の歩みにおいてはそれが「現実」なのである。

また「お金のない者」は「お金のある者」からその「富」を再分配して自分たちに還元することを、当然の権利だと錯覚してはならない。より直截に言えば、お金のない者は彼ら同士でお金のやりくりができるような社会を自らがつくり出す覚悟が必要なのだ。私たちが生きている今のシステムの歴史の段階においては、このことを十分にわきまえておかなければならない。もっとも、これも言うは易しの類であるが。

「1対99」という単純な構図で格差を語る風潮が一時期みられたが、そこで気になったのは、「99」が「1」から富を分配するというイメージが強すぎたということである。「99」の構成においても、「より富める者」と「より貧しき者」が存在しているし、今後この日本においてもますます厄介なことになってくるだろうが、日本と日本人を想定した「1」対「99」の構図の中に、海外からの移民や難民や外国人が大挙押し寄せてくるという現実なのだ。当然ながら、「99」の中でも「富」の再配分を巡る議論はさらに熾烈とならざるを得ない。

ところが、今回の選挙戦では不思議なことにそうした海外からの外国人を含む議論が、覇権システムに伴う問題に関連する形で、全くと言っていいほどに語られていないのは、それこそガチンコで真剣に日本のこの先を考えていないからではないのか。「パンとサーカス」云々の話ではないが、「パン」に関するおいしい話ばかりをして議席を獲得する前に、先ずは政党交付金の廃止とか、国会議員の歳費を三分の一にするとか、参議院を廃止するとかを、なぜN国や新選組は新たな追加公約として選挙戦で有権者に訴えなかったのだろうか。

システムは、覇権システムと世界資本主義システムと世界民主主義システムの三つの下位システムから構成されている。そのうち、覇権システムとは、「親分ー子分」関係を前提に作られる力(暴力)の優劣関係として体現される。たとえば、それは障碍者と健常者、障碍者間、健常者間において、中小企業(間)と大企業(間)の間において、弱小国と大国間において体現される関係である。その力の優劣関係を基に、私たちの人権や権利あるいは生活防衛に関する能力の優劣関係がつくられていく。これらの関係は相互に影響し合う関係である。

選挙戦をみながら、私たちの議論にかけているのは先の下位システムの関係を真剣に受け止めている野党が不在だということである。政権与党は、親分に逆らえないことを自覚して行動しているから、その「親分ー子分」関係を見ている有権者はしらけるのは当然であるが、忘れてならないのは、その有権者の大半は、彼らの日常生活の中で、その「親分ー子分」関係をわが身に置き換えてみているのも確かなことではあるまいか。。ロシアや中国、米国との関係を見ても痛いほどそうした惨めな関係が理解できる。と同時に、逆(さか)らわないでなるべく傍観していた方が賢いと学習していくのである。システム人である限りは、誰もこうした姿勢や態度を責めることはできない。もっともそうは言ってもここで問題なのは、親分から押し付けられた過重負担(犠牲)を子分間で等しく分担するのではなく、必ず子分の中で損を押し付けられる存在が求められることである。子分間においても、「親分ー子分」関係に類似した「(大)子分ー(小)子分関係がつくり出されていくからだ。こうした力の優劣関係を是正したり、壊すのではなく、逆にそれを当然とする形で私たちの社会の自由や民主主義や人権はつくられてきたのである。この関係を不問にしながら、いつも私たちは涼しい顔をして生きているのだ。私も例外ではない。

しかしここで注意しておかねばならないのは、野党は、その親分と交渉したり、親分と共に生きることの辛さや苦しさを十分に自覚できてはいないということなのだ。国際関係を語ることと、憲法改正(9条の改正や集団的自衛権の行使云々を含む)ことは、切り離して考えるべき問題であるのだが、どうも日本においては、それが同じ次元のレベルであるかのように受容されている向きがある。それが証拠に、野党においては、まったく国際問題が語られないのだ。すなわち、「親分ー子分」関係としての覇権システムにおける「子分」としての日本の役割、生き方が全くと言っていいほどに不問に付されているのだ。日本外交の「自立」とか、「対等」の日米関係といった瞬間、政権を目指す野党の資格はない。ここでも「子分」はひたすら「お願い」しかないのだ。それを自覚するのは、「奴隷根性」を払しょくする上で大切なことだ。ーーー、

(以上が以前の拙文からの引用である。

「お金のある所」から「おカネを回す」以外にない、とあたかも当然のことのようにかつての福祉国家の物語を述べる野党候補者の選挙戦での訴えを聞いて、私はしばし呆然となったのだ。彼らは必ず挫折する、と。と言うのも、そこには全く「理屈」(それは21世紀の世界の不公正・不条理を問いただすことのできるこれまでのそれとは異質の新たなる「哲学」である。間違えても、「消費税の廃止」云々の次元の話ではないのである。)がないのである。あまりにも乱暴なのだ。もしそんな言い方を当然のことのように言い続けていくならば、これから今以上に日本に入ってくる移民労働者や難民、その他の外国人(ここには日本の社会・医療保険の適用の恩恵に与るばかりで、短期で帰国してしまい、日本人の社会保障制度の財政的基盤を掘り崩してしまう者も含む)から、いま日本で非正規労働者や生活困難者の利害を代弁して力を急速に拡大しつつある新政党(令和新選組)の政治家やその支持者たちが、日本人の「弱者」よりも、さらに劣悪な環境に置かれた人々から、同じように「お前たちは私たちよりもよりましな環境に暮らしているよりましな弱者なんだから、俺たち以上にお金を持っているのだから、私たちにその持ち分を回してくれ、と当然のように要求されたときに、どう答えるのだろうか。

あなた方は日本人ではない、外国人だから云々で小手先の対応をしてしまったら、その瞬間に彼らの支持は急速にしぼんでしまうだろう。しかし同時に、外国人の要求にこたえ続けることもできなないだろう。今の段階でも日本の社会・医療保険の財源状態は相当に厳しくなっている。こうした局面を想定した時にも、やはり「理屈」がいるのだ。何度も論じてきたように、私たち先進国のこれまでの福祉の歴史は、私のモデルで描いた1970年代以前のセカイとその関係の歩みを前提として実現可能となったものなのだということを、理解しておかねばならない。

勿論そんな「世迷言」を述べたとしても、現実は今のヨーロッパの置かれた状況を少し垣間見ただけでも容易に分かるように、N国や新選組と並んで、強硬な排外主義を標榜する政党がこの日本でも急速に力を得ていくのではあるまいか。これもシステムの自己完結運動の歩みの中で、すなわち、1970年代以前のそれとは異なり、かつてのAグループであった先進国が、{[B]→(×)[C]→×[A]}のAに位置しながら、今度はB矢Cの福祉国家の実現に向かう相当に長い期間に及ぶ「民主主義の発展」における「高度化」の「段階」を支えていくような形で、差別され排除されていくAの生活困難者とその予備軍は、それこそ今度が最後の「恋人」であるかのように、システムが提供する新たな「商品」を求めて殺到していくのではあるまいか。

その意味でも、今回の参議院選挙において新たに2議席を得た新選組は日本の政治の方向性と可能性を考える場合に、重要な立ち位置を占めていると言わざるを得ない。これから各党の離合集散を繰り返しながら、今の与党に対抗できる一大勢力が形成される可能性が見えてきているが、令和新選組はその中心的役割を担うに違いない。システム論者の私には何も語れるものはないのだが、排外主義者・政党の台頭をなるべく抑えられるように、有権者のフラストレーションを高めることのないように、「してはならない」ことをしないように(政権に就くために、首相になるために、できないことをできるかのように嘘をつかないように)、「お願い」するばかりである。勿論、それでも排外主義政党は登場するだろうが、システムとその関係の歩みを支え、担い続ける限りはそれは仕方がないと言わざるを得ない。最後に、勿論、「それにもかかわらず」---、ということはあきらめてはいない、と呟いておきたい。


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「システム」の自己完結運動の歩みから2019年上半期の動きを概観するとき

2019-07-24 | 社会 政治
「システム」の自己完結運動の歩みから2019年上半期の動きを概観するとき

私の「モデル」、すなわち、覇権システムと世界資本主義システムと世界民主主義システムの「三位一体」的関係から成る「一つ」の「システム」とその関係史に関するモデルである、を理解した人ならば、私がもう語る気力も持ち合わせていないことをご理解いただけると思う。それはそうなのだが、最近また少し話をしてみたくなり、久しぶりの記事を書いてみた次第である。もし良ければ、お付き合いお願いしたい。

上半期のシステムの動きの中で注目したいのは、中国が着実に力をつけているということだ。1970年代以降のセカイを描いた私のモデル({[B]→(×)[C]→×[A]}、省略形、共時態モデル)がこれからさらに現実の世界になっていくだろう。中国は、米国との間で覇権連合を強固にしながら、2040,50年代に覇権国として世界に君臨する。私はこれまでも拙著や拙論、またこのブログの記事においても述べてきたように、表面的な出来事を針小棒大に喧伝するマスコミやその片棒を担いでいる「専門家」と称される話を、これから20,30年先に振り返ってみればさぞ面白いと思っている。(「米・中貿易戦争」とか、米・中間の不仲説、中国国家や中国経済の崩壊論等々、枚挙にいとまがないのだが、はたして今後の展望はーーーである。勿論、それでも私のモデルに関する研究を深めていく上で、それなりに参照・参考にさせてもらっているから「悪口」を言っているわけではない。

また英国におけるEU離脱問題に関しても、私は先のモデルのセカイが現実化していく流れの中で考察することが重要であると考えてきた。その関連では1970年代以前のセカイを描いたモデル({[A]→(×)[B]→×[C]}、省略形、共時態モデル)と、結びつけて論ずることが何よりも重要だと考えている。今日の中国の台頭を導くために、そのための改革・開放路線と中国経済の「世界の工場」へと導くために、原材料の調達や製品販路の確保・獲得のためにヨーロッパが一つに統一されてEU圏が創造される必要があったと考えられないか。マーストリヒト条約の発効した時期と、中国の改革開放政策の発展段階とが適合していることに注目すべきである。またその関連で言えば、ソ連のアフガン侵攻とソ連の解体の歩み、また「プラザ合意」以降の日本経済の今日に至る「デフレ」経済と「日本沈没」の歩みとが重なっていることにも注意すべきであろう。こうした動きを相互に関連付けて捉えられる分析視角や枠組みを用意するためにも、私のモデルは必要不可欠となる。これについては、拙論やこのブログ記事でも紹介してきたので、参照されたい。

(少し補足しておきたいのは、私たちが学んできた社会科学の「シーラカンス」げんしょうとでも揶揄できるほどに、「現実」分析に通用しなくなっているということだ。例えば、私のモデルで描く1970年以前のセカイと、70年代以降のセカイは、またそのセカイの関係を担う先進諸国のAの歴史の段階も、相当に異なっているにもかかわらず、相も変わらず、主権者、デモクラシー、政治参加、民主主義体制、反・民主主義体制、市場、生産者、消費者、インフレ、デフレ、これらのすべてがシステムとその関係史に見られる「段階」と各国家(グループ)間の関係を無視した、まったく理解できないままでつくられた専門用語なのだ。日本はデフレだ」という際、それは70年代以前のそれとは異なり、物価が上がりにくい状態に置かれてしまっているのに、さらに今後は中国だけでなく東南アジア、中央アジア、南アジア、中東やアフリカ諸国から安価な商品が流入してくるし、モノだけではない。安い賃金の労働者も入ってくるのは必至だ。ずっと「デフレ」が続くだろう。もうそうなれば、単なる「デフレ」ではない、インフレと対応した意味でのそれではない、と捉えた方がいいのではないか。素人なりにそう言わざるを得ない。それにもかかわらず、経済学も政治学同様に、現実の関係が見えていない。見ようとしないのだ。政治学研究者の「デモクラシー」研究はもう悲惨を通り越して喜劇なのである。政治の保守化とか自民党の一党独裁政権を批判する政治学研究者の目の方がもっと曇っているばかりか、仲間でお互いが縄張りをつくり、その思考の在り方を批判する者を、疎んじたり遠ざけているのだから、なんでこんな連中が「進歩的」だとか、「左翼」だなんて呼ばれるのか、まったくおかしくて笑うしかない。いや、笑う暇があったら「おまえ」も反骨たくましく、書き続けろ、と「お前」という表現を意識しながら、自分自身に言い聞かせた次第である。)

イギリスだけではない。もうEUは不要なのだ。唐突な物言いだが、行論の都合上、ここで付言すれば、このイギリスとEUの関係は、私と日本との関係においてもそうだ。スコットランドとイギリスの関係にも、埼玉と東京・日本の関係にも似ている。もっといろいろな例が提示できるが今回はここまで。正確に言えば、イギリス以上に、EUはイギリスを必要としているが。それに対して、「国民」の一人であり、主権者でもある「私」を、安倍政権下の日本国家はもはや必要とはしていない。ただ税金を納める存在としては、必要なのだ。「嘘でもいいから」国民としての主権者としての「私」が大切な存在であるかのように、扱うことはない。そうした中で、私自身の国家に対するほんのわずかながらも保持してきた「忠誠心」もますますなくなりつつある。そんな「私」を国家につなぎとめているのは、年金やその他の国家から提供される様々な形に還元された「お金」の給付であるのは、本当に情けない悲しい話だが、それに違いない。N国の立花代表の選挙戦での話で、「嘘をついてはいけない」と述べていたが、少しだけここで正直に語っておいた。次回以降の記事で、N国にも言及したいために。ここでの話は、「ナショナリズム」の形成と発展とその変容の物語が下敷きを構成している。勿論、そのナショナリズムの歩みも、1970年代以前のセカイとその関係の歩みの中で、また70年代以降のセカイとその関係の歩みの中で、捉え直されなければ何も語ることはできない。

誤解のないように言えば、それは安倍首相だから、そうした扱い方になるのであり、他の野党の政権下の首相であればそんなことにはならない、と言っているのではない。例えば、仮に「令和新選組」の代表の山本太郎氏の政権下であれば、「私」が「人間らしく、扱われる」と述べているのではない。(付言すれば、これも何度も拙論で語ってきたように、「差別と排除の関係」を前提としてつくり出されてきた「システム」を担い、支えてきた「システム人」としての「私」が「人間らしく扱う、扱われる」云々の言辞を弄していることは痛いほど理解しているから、このような表現は気恥ずかしくもあり、厚顔無知だと自覚しているのだが、次からの記事との関係からここで触れて起きた次第だ。)

その理由を考えるに際して、「私」や私たちは今システムとその関係史のいずれの「段階」に位置しているのかについて理解しておかねばならない。先のモデルで描いた{[B]→(×)[C]→×[A]}のセカイの中でAグループに位置するかつての先進諸国の一員であった「日本」と「日本人」は、B、CグループがⅠ期、Ⅱ期そしてⅢ期へと「民主主義の発展」の「高度化」へと向かう「段階」を、これからますます辿っていくのに対して、Ⅰ’期、Ⅱ’期そしてⅢ’期へと「民主主義の発展」における「低度化」の「段階」を下降していくということを、確認する必要がある。

この低度化の段階の特徴としては、従来の「重厚長大型」産業を主体とした経済構造から「金融・サービス」型産業を主体とした経済構造へと転換していく結果として、安心・安定した雇用の喪失、低賃金労働者の増加、正規と非正規労働者間の生活条件(生活上の安全保障力)における格差の増大、家族・生活崩壊云々といった事態が導かれ、そこからこれまで国民の中心的担い手であった「分厚い中間層」が解体されることとなる。その結果として、Aグループに位置する私たちの「政治」は断片化、分断化の様相を呈していく。

今回の参議院選挙は、遅ればせながらも、日本において、米国やヨーロッパ諸国のⅡ’期、Ⅲ’期の政治の「段階」に置かれていることが顕在化した形となったのである。今後は「面白くもおかしくもない」政治劇が繰り返されていくだけなのだ。少し前置きが長くなったが次回の記事でもっと詳しく話したい。

今回の記事で私が読者に一番伝えたかったのは、小泉・竹中の新自由主義路線により、今日の私たちが置かれている「惨状」が導かれたのではないということである。すなわち、Ⅰ’期、Ⅱ’期そしてⅢ’期における「デモクラシーの発展」にみる「低度化」の「段階」を導いた「システム」とその関係の歩みが小泉・竹中に代表される新自由主義路線を「日本」と「日本人」に受容させたのである。その意味で、彼らはあくまでもシステムの用意した「台本」に従って演じた大根役者に過ぎなかったのである。と同時に、この「惨状」を打開すべく登場してきた「令和新選組」も、システムとその関係の歩みの下で「用意」された「登場」してきたことを銘記しておかねばならない。彼らも、小泉・竹中路線と同様に、Ⅰ’期、Ⅱ’期、Ⅲ’期の「デモクラシーの発展」における「低度化」の「段階」を、換言すれば、{[B]→(×)[C]→×[A]}のセカイが現実の世界として実現する歩みを頓挫させたり、別の新たな形に変えることはできないのである。私がここで特に主張しておきたいのは、政治に何ができるか、何を期待するか」ではない。「何をしてはいけないか」ということである。山本太郎氏に過度な期待をしてはならないし、逆に彼がⅡ’期、Ⅲ’期の段階に私たちが置かれていることを理解できないままに、あまりにも無理な公約をすることのないように、けん制することも忘れてはならないのではあるまいか。

私は「NHKから国民を守る党」に倣い、「国会・国会議員から〈私〉を守る党」を創設したい気分なのだ。今日はこの辺で。

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